2話 2nd Player - 2/5

セカンドですよね?

「きりーつ、きょーつけー、れーい」
 日直の間の抜けた号令が終わり、侑志は息を吐きながら椅子に崩れ落ちた。
 成長期の少年少女を前に、四時間目の授業を延長するなんて信じられない。これが人間の所業か、陰険数学教師め。
 さっそく傍らに誰かが立つ。桜原も数学が苦手らしいから、終わりを待ちわびていたのだろう。愚痴で盛り上がろうと横を向いたら全然知らない男子だった。他人の顔と名前をなかなか覚えない侑志だが、同じクラスの生徒でないことは確かだ。
「こんにちは。新田君、だよね?」
 百六〇センチよりはいくらか高いだろうか、成長を見越して買ったらしい学生服で手の甲が半分隠れている。長めの髪も幼い顔立ちを際立たせていて、今年中学に入りましたと言われたら、そうですかと答えてしまいそうだ。
「ええっと……?」
「僕、F組の永田(ながた)
慶太郎(けいたろう)です。今朝ちゃんと挨拶できなかったから」
 少年は濁りのないボーイソプラノで名乗る。
 今朝――野球部か。思い当たって頷いた。
「わざわざ来てもらっちゃってごめんな。俺は新田侑志、城羽北(しろばきた)中出身。よろしく」
「僕は岩茂学園(いわもがくえん)から。よろしくね」
 永田はにこやかに右手を差し出した。侑志は左手を上げそうになり、慌てて右手を上げ直す。握手のときはいつも混乱する。
 今にも永田の手を握ろうかというとき、唐突に高い音がした。侑志は払われた右手を持て余して言葉を失う。拒んだのは永田ではなく、彼の隣に黙って立っていた別の少年だった。
「僕は認めない」
 抑えた低い声。深く寄せた眉に、癖のない黒髪が落ちかかってきている。
「エースは慶ちゃんだ。お前に背番号1は渡さない」
「やめてよ、あっちゃん。初対面だよ」
 永田は困惑した顔で、傍らの少年の左袖を引いた。少年はゆっくりと永田を振り返り、侑志から離れる。
 永田と並ぶと随分背が高く見えるが、実際は百七十二、三センチだろう。顔も体格も並。敵意の大きさだけが尋常でない。
 少年は小さく鼻を鳴らしてB組を出て行った。
「ごめんね新田君、ほんとごめん。……あっちゃん! あっちゃん、待ってよ!」
 永田も忙しない謝罪を残して駆け去っていく。侑志は口を開けて、二人のくぐっていったドアを見つめていた。
 つーか、何、今の。
「F組の富島(とみじま)彩人(あやと)だよ。あの人、朔夜以上の暴君だから気をつけな」
 すぐ横で桜原が肩をすくめる。いつから見ていたのか、弁当箱を持って侑志の前の席に腰を下ろす。
 侑志は側頭部を押さえて目を閉じた。指先でこめかみを叩いてみる。
 富島、富島。どこかで。
「永田、岩茂学園っつってたよなぁ。あいつも?」
「富島? そうじゃないかな。小学校からバッテリー組んでるって言ってたし」
 桜原が弁当の包みをほどく音がする。侑志もひとまず弁当箱を取り出し机に置いたが、蓋を開ける前に手が止まる。
「思い出した。俺、あいつ知ってる」
 馬淵学院(まぶちがくいん)と並び称される野球の名門、私立・岩茂学園中学校。一度だけ試合をしたことがある。目も当てられない大敗北だった。
 そのとき、的確なリードで城羽北を手玉に取ってくれたのが富島という捕手。それに応える精確なピッチングで、完全試合をやすやすと達成したのが岩茂学園のエースだ。
「そんなすごいバッテリーなら、何でこんなとこ来ちゃったんだろうね。岩茂学園の高等部って、甲子園常連の強豪校でしょ? 俺でも聞いたことあるよ」
 桜原は弁当をかき込んでいる。侑志は、うん、と呟き、開いていない包みを見下ろした。
「違うんだよ」
 侑志自身は盲腸の手術明けで試合には出ていなかったが、ベンチでずっと見ていたので覚えている。あのときマウンドに立っていたのは。一人のランナーも背負うことなく、悠々と投げていたあのエースは。
「違うんだ。俺たちの代に岩茂学園の1番を背負ってたのは、中村(なかむら)ってやつなんだよ。永田じゃない」
 永田なんて投手の噂は、ただの一度も聞いたことがない。
 桜原が箸を止め眉をひそめた。
「じゃあ永田って、何者?」
「さぁな。岩茂の元・正捕手にあそこまで言わせるんだから、何かあるんだろうけど」
 侑志は肩をすくめ、やっと弁当箱を手に取った。
 次は教室移動だ。早めに食べてしまわなければ。

「岩茂学園ってさぁ、中学も強いんだよね?」
「アホみたいに強ェよ。ウチなんか全然、眼中にも入れてもらえないって感じで。何度も頼み込んでやっと練習試合さしてもらって……挙句があの醜態だもんな。もう後輩たち、相手にしてもらえねーだろうなぁ。可哀想に」
 侑志は化学の教科書で首を叩いた。数学に続いて、侑志も桜原も苦手科目だ。三階の実験室に降りる足取りは重い。
「去年の夏ってどこまでだったの? 俺、他校のことあんまよく知らない」
「確か、中村がチャリで事故った? とかで投げてなくて。三人ぐらいで継投したんだけど、マブガク打線抑えきれなくてーみたいな感じだった気がする。東京八強止まりかな?」
 岩茂学園は序盤一点を先制したが、中盤に三点を奪われ、最後まで追いつけなかった。あの代の馬淵学院中学は打撃不振と言われていたが、腐っても強豪校。同じ野球の名門と謳われる岩茂学園には、負けるわけにいかなかったのだろう。
「じゃあもしかしたら、新田と同じクチかもね。あの二人」
 桜原は涼しい顔で言ってのけた。侑志は耳を押さえて頭を振る。傷口をえぐってくれるなと言うのに。
「それより、こないだ内野足りねェとかって言ってたじゃん。あれってセカンドの話?」
 侑志が話題を捻じ曲げると、ああうん、と桜原もついてきた。
「全ポジション足りてないけどね。深刻なのはセカンド。このままノブさんが引退しちゃうと大分困る」
「それなんだけど」
 踊り場で、侑志は桜原を振り返った。上の段にいる桜原が首を傾げている。
「正直に言えよ? お前、俺のときみたいに目星つけてるけど声かけてねェんだろ」
 桜原は乾いた笑い声を上げて視線を逸らした。慣れてくると分かりやすいやつだ。
 侑志は聞こえよがしにため息をつく。
「で、誰?」
「A組の人。名前分かんないな。体育のときに見かけるだけだから」
 桜原によると、その少年は身長一六十五センチ前後、黒い短髪で愛嬌のある垂れ目をしている。高い瞬発力と運動センスを持っており、テニスの試合では負けなしらしい。
「でもこの時季だし、もう決めちゃってるんだろうなぁ。部活」
「一応聞いてみりゃいいじゃん」
「そうだけど」
 桜原は頬をかく。はっきりしないやつだ。
 外で遊んでいたらしい生徒たちが、がやがやと階段を駆け上がってくる。侑志と桜原は話を中断して端に寄った。
 すれ違いざま、一人の生徒が侑志の顔を見て微笑み、小さく会釈した。侑志は反射で頭を下げ返してから硬直した。
 二人の脇を一団が通り過ぎる。
「新田! 今の人なんだけど」
 桜原が学ランの裾を引いてくる。侑志は礼をした状態のまま、震える声で言った。
「桜原さん」
「はい?」
「俺、マブガクに負けてすげーショックだったって話しましたよねぇ」
「はぁ。聞きました」
「で、今はセカンドが足りないって話をしてたんですよねぇ」
「はい。そうですが」
 侑志は右手で手すりをつかみ、頭を壁に押し付けた。
 どっかで見たようなって薄々思ってたんだ。今、俺見て頭下げたもん。間違いねェよ。
「あいつ、馬淵学院のセカンドだ……!」
 なにそれぇ、という桜原の素っ頓狂な声が、予鈴と重なって三階の廊下に響いた。

「ちわっ!」
 放課後。A組を覗き込んだ瞬間に叫ばれて、侑志は身を震わせた。近距離に満面の笑みがある。例の少年の席は廊下側の一番前だった。
「誰かに用? オレ、呼んで来よーか?」
「や、その……」
 善意の塊としか見えない少年の様子に、侑志は口ごもる。ひとつ深呼吸をしてから、恐る恐る訊いてみた。
「あのさ。いきなりだけど、馬淵学院中の野球部の人……だよな?」
「あー、やっぱシロキタの四番だぁ!」
 少年は思いきり侑志を指差した。まるで遊園地で特撮ヒーローを目撃した幼稚園児。
「だよな! ずっとスルーされてっから、違ェのかなーって不安だったんだけど、やっぱそうだ。やっべ、話しかけとけばよかった! あ、そうだオレの名前って覚えてる?」
 ごめん、と首を振り侑志は半歩後ずさった。少年は気にした風もなく、侑志に向けていた指で自分の心臓を指差す。
「オレ、井沢(いざわ)徹平(てっぺい)。馬淵学院中出身、一月二十一日生まれのみずがめ座O型。よろしくな」
 詳細な自己紹介がおかしくて、侑志は笑ってしまいながら前に出た。
「俺は新田侑志。それでこっちが、高葉(たかば)二中の桜原皓汰。よろしく」
 まだ廊下にいた桜原を引きずり込んで、井沢の前に突き出す。桜原は無言で頭を下げる。井沢はにこやかに口を開く。
「桜原だっけ。高葉第二って、坂の上にあるとこ?」
「そうだけど」
「タカコーの見学来ようとしたとき、間違えてあそこに行っちゃってさぁ。校舎すっげ工事してたよな、耐震? ここの受験生うっさくて可哀想だなーって思ったんだよ。だいじょぶだった? まぁ受かってんだから大丈夫か」
「ああ、うん。まぁ」
 桜原は対処しきれないらしく侑志を振り返った。自分で相手しろよ、と視線で返す。
「桜原は中学、何部?」
 ほら、向こうから振ってきてくれたぞ。侑志が無言で急かすと、桜原は井沢に隠れてひとつ嘆息した。
「一応三年間、野球部を」
「へぇ。じゃあ新田とはそんときからの友達?」
「いや、高校入ってから。同じクラスで」
「そうなんだ。すっごかったんだぜー、シロキタは!」
 井沢は大きな垂れ目を輝かせ、殊更に声を大きくした。
「まず先発のピッチャーがさ、すげーの! ウチのチーム、二ケタぐらい取っちゃおうかーとか冗談で言ってたのにさ、結局そいつから一点しか取れねーでやんの。新田は打つ方もすごかったんだぜ。一打席だけで二十球ぐらい投げさせられてさ、公立であんなに粘ったヤツ他にいねーよってウチのエースが呆れてたんだ。そんでもって最終打席だよ、初球ツーランホームラン! 中学大会で本塁打なんて、そうそう出るもんじゃねーじゃん? それが何だよ、文句なしの柵越えだぜ。アレで同点にされて目ェ覚めなかったら敗けてたかもしんねーもん。やっばかったよ」
 ベタ褒めじゃん、と桜原が肘で突いてくる。侑志も小突き返す。バカ、誇張されてるっつーの。二十球もカットしてねぇよ。
 井沢はまだしゃべり足りないらしく、そうだ、と侑志を見上げた。
「新田、今は何やってんの? リクジョーとか?」
 侑志は言葉を詰まらせた。
 いまさら傷ついたのではない。解らないのだ。井沢があまりにあっけらかんとしていることが。
 弱小と呼ばれ続けた公立校の主将でさえ、野球をやめるのには相当の覚悟が要った。決めた後もあれだけ葛藤した。名門私立でレギュラーを務めるほど、そこまで努力できるほど野球を愛していた少年が、野球のない日常をこんなにあっさりと割り切れるものなのだろうか。
 答えない侑志の代わりに、桜原が話を継いでくれた。
「新田はやめてないよ。今も野球部でやってる」
「え、タカコーって野球部あるんだ?」
「あるよ。一応」
 桜原は侑志の事情を伏せて、高葉ヶ丘野球部の窮状を説明した。話の終わり頃になって急に舌の動きを鈍らせ、侑志を見る。侑志が顎をしゃくると、観念したように井沢に向き直り、できれば井沢にも入ってほしいんだけど、と控えめに付け足した。
 井沢はずっと真剣な顔で相槌を打っていた。最後に、うん、と呟いたきり、黙って侑志と桜原の顔を見つめている。
 しばしして、ちょっと長ェけどと言い置いて、井沢は淡々と話し始めた。
「オレの事情ね。去年の五月に親父が死んでさ。そんときは、親父に恥ずかしい姿見せらんねーって、必死こいて部活やってた。でも夏終わって練習行かなくてよくなったとき、ふーっと、あ、野球やめよ、って思ったんだ。お袋の稼ぎ少ねェし、妹は身体弱いし、何があるか分かんねーからさ。高校も外部受けるし、もういいかなって」
 ――やめちゃったんだ、野球。
 最後に言い添えた台詞は惰性のように響いた。井沢はゆっくりと瞬きを繰り返している。手放すことに納得しきった落ち着き。未練があればもっと感情的になるはずだ。侑志がそうだったように。
 桜原は途方に暮れた顔をしていた。代わりに侑志が頭を下げ、桜原の言いそうな台詞を口にした。
「気にしないでくれ。今の話は忘れてくれていいから」
「忘れられるわけねーだろ!」
 井沢は急に声を荒らげた。机を叩いて立ち上がり、そのまま前に乗り出してくる。
「困ってるっつったじゃん。聞かなかったことになんかできっかよ。オレがしたかったのは、即答はできねぇけどって話。今日帰ったらお袋に相談してみる。明日――いいや! メアド教えて。分かったらすぐメールする」
「いや、別にそんな一日を争うわけじゃねぇから」
 勢いがよすぎて侑志の方が引き気味になる。情に篤いタイプなのだろうか。
「ていうかさ」
 井沢は笑って頬をかく。
「オレ、ホントはまた野球やりたいなって思ってたから。声かけてくれて嬉しかった。ありがとな、二人とも」
 一緒に帰ろうと言われたが、侑志たちは今から部活だ。三人で一階に降りるまでの間、井沢は一人でしゃべりどおしだった。
「じゃーな、がんばって!」
 手を振って軽やかに駆け出す背中を、桜原と二人ぼうと見送る。
「嵐みたいなやつだな」
「前向きに検討してくれるみたいでよかったけど。中学のときからああだったの?」
 桜原は困惑顔だ。運動部の傾向からすると桜原の方こそ異色な気もするが、しかし。
「同じチームじゃねぇしな。エースに一番声かけてたな、ってぐらいしか印象にねぇわ」
「面倒見いいのかな」
 さぁ、と侑志は言葉を濁した。
 逆かもしれない。エースの三住(みすみ)椎弥(しいや)が、一番話しかけていたのがセカンドの井沢だった。捕手よりも頻繁だったから記憶に残っていたのだ。家族を亡くしたばかりのチームメイトを気にかけていたのだろうか。
 侑志はため息をついて足を速めた。
「つーか俺も入部一日目だし。他人の心配してる余裕ねぇわ」
「あ、そういえば月一で公園じゃなくて、ちゃんとした球場借りてるんだよね。今日はそこ」
「何でそれ朝のうちに言ってくれねーんだよ、誰も!」
 ごめんー、とのんきな声を出す桜原を急かして、侑志はどうにか部室にたどり着いた。
 
 街灯が野球場から駅へ続く道を青白く照らしている。縦に並んで歩く高葉ヶ丘野球部の影が、別の生き物のように植え込みに黒くうごめいている。
「慶太郎、ゴキゲンだなぁ。やっぱり球場で投げると気持ちいいか?」
「はい! 僕、マウンドで投げるの一番好きです」
 森貞の問いに、永田が興奮冷めやらぬ様子で答えた。侑志は後方を歩きながら慣れない景色を見ている。
 侑志にとっては八ヶ月ぶりのマウンドだった。久々に登る山は記憶よりも高くて、少し足がすくんだ。それだけ背が伸びていたらしい。
 永田は侑志ほどの久しさではないだろうが、それでも懐かしそうにマウンドを踏みしめ、森貞のミットに投げ込んでいた。オーバースローとサイドスローの間のフォームだった。
「永田って、スリークォーターなんだなぁ」
「新鮮?」
 侑志の誰に対してともない呟きを拾ったのは、隣にいる桜原だった。侑志は頷いて桜原を向く。
「初めて見たかも。上手投げのやつが、疲れて下がり気味になってるのは見たことあるけど」
「慶ちゃんだって、最初からああだったわけじゃない」
 返したのは桜原ではない。一番後ろにいた富島が、わざわざ侑志と桜原の間を通り抜けていく。侑志には鞄までぶつけていった。
 桜原は自分の右肩を軽く叩いた。
「永田って中学ンとき肩やったんだって。投げられるけど完治してなくて、負担かけすぎると今度こそヤバいらしい」
 そういえば先日もそんなことを聞いた。肩をかばううちに腕が下がってきて、あの位置で投げるようになったということか。
「つーかさ、富島って何であんなに俺のこと目の敵にすんの?」
 侑志は割と深刻に尋ねたつもりなのだが、桜原はあくびを噛み殺している。
「まぁ彼は基本、誰にでもあんなだけど。特に投手には厳しいね。永田をエースにすることに命懸けてるみたいなとこあるから。新田をー、っていうか、投手だから気に入らないだけだと思う」
「俺、朔夜さんのときも似たようなこと言われなかったっけ」
「言ったかも。新田ってお人好しだから八つ当たりしやすいんじゃないの?」
 今度こそ本当にあくびする桜原。侑志は嘆息してよそに目をやった。
 鮮やかな明かりが増えている。そろそろ駅が近いようだ。
「中村はさぁ、どうだったのかな」
 侑志の独り言に、え、と桜原が顔を上げる。侑志は補足して言い直す。
「あいつは、富島は、中村にもこんな風だったのかな」
 名門岩茂学園中の背番号1――中学球児たちの羨望の対象。それを背負っていながら、一番の相棒であるはずの正捕手が、別の投手のことをエースと呼んでいたとしたら。自分がエースなのに、投げているのは自分なのに。正面に座っている相手が、マウンドに立つ自分に『幻のエース』を重ねていたとしたら。
「しんどすぎるよ。あんまりじゃねぇか、そんなの……お互いに」
 侑志は首を振って俯いた。桜原は黙っていた。黙って侑志の顔を、未知の生命体でも見るような目で見つめていた。
「何だよ、その顔」
「新田ってお人好しすぎて意味わかんない」
 表情を変えずに言うと、早足で歩いていってしまった。
 何だよそれ、と侑志は口の中でぼやく。
 お人好しっていうのは俺なんかじゃなくて、井沢みたいなやつを言うんだろう。
 井沢。そうだ、井沢。さすがにまだ連絡はないと思うが、万一ということもある。
 侑志は鞄の外ポケットに手を突っ込んだ。着信を知らせるランプが緑色に光っている。慌ててディスプレイを跳ね上げてメールを読む。
 侑志は開いたままの携帯を握り締めて、桜原に駆け寄っていく。
「おーはらぁ!」
「新田さん、その体格でタックルされると痛いんですが」
「ごめん。つーか見ろって、これっ」
「新田さん、近すぎて読めないんですが」
「ごめんって」
 侑志は慌てて携帯を動かした。今度は遠すぎたたらしく、桜原は面倒くさそうに侑志の腕をつかんで引き寄せる。

『From・井沢徹平
 件名・やったぜ v(^ ^)v
 本文・野球部入ってもいいって!(> <)     いまさらな新入部員だけどよろしくな~(^ ^ゞ』 「顔文字がくどい」 「そこは別にいいだろ」  侑志は携帯を閉じ、桜原の髪をかき回して、やったなと言ってやった。やったね、と桜原もついに相好を崩す。なんだなんだと先輩たちが振り返って、二人は苦笑しながら対応に追われた。  ふと侑志は、永田たちが足を止めて自分を見ていることに気付いた。富島は鋭い視線を送ってきていたが、永田は侑志と目が合う前に向き直ってしまって、表情を見ることはできなかった。  風が吹く。光の下では爽やかな葉擦れの音が、今は不穏に響いている。昼は夏を感じさせる陽気でも、夜はまだ肌を震わせるように寒々しかった。