1話 No.[10+1] - 3/5

もう一度

「朔夜とモメたの?」
 翌朝教室に入ると、桜原弟が開口一番そう言った。
 侑志の肩から鞄の紐がずり落ちる。公園に野球部がいなくて安心していたところだったのに。
「何で知ってんだよ」
 ぼやきつつ自分の席に向かう。桜原がついてくる。
「うちで八つ当たられた。あいつ怒ると普段の三倍横暴だから」
「すみませんねぇ」
 侑志は鞄を下ろし、ファスナーを開けて中身を机の中に移す。
「で、どうしたいわけ? お前も姉ちゃんみたいに、俺のこと罵りに来たの?」
「おれは」
 何を言いかけたのか、桜原はぽつりと呟いたきり口をつぐんだ。侑志は訝しんで顔を上げる。
 桜原はまっさらな表情をしていた。感情をどこかに置いてきてしまったかのような、何もない表情。泣いていたのでもない。怒っていたのでもない。だが確かに、傷つけたと思った。
 桜原はずっと気を遣ってくれていたのに。
 新田と友達になりたいと言ってくれたのに。
 侑志は机に手を置いて、桜原と正面から向き合った。
「ごめん。俺までお前に八つ当たりすることないよな」
「いいよ。そうやって謝れるだけ新田の方が大人」
 桜原の顔に温度が戻る。微笑みにつられて頬を緩め、侑志は前の席の椅子を引いた。桜原は礼を言って横向きに腰掛ける。
「ねぇ。少し朔夜の弁護をさせてもらってもいいかな。新田が構わなければ」
 侑志は頷いて自分の席に座った。桜原も頷き返して話を先に進める。
「朔夜って、ずっと野球やってたように見える?」
「やってなきゃ、あんなバッティングできねェだろ」
 間隙なく答えた台詞に嘘はなかった。
 安定した軸。綺麗に手首を返した気持ちよさそうなスイング。鋭く速い打球。ファールとはいえ、否、目前まで迫ったファールだったからこそ、あの衝撃は忘れられない。
「朔夜は物心つく前にボールに触り始めたんだ。地域のクラブでめいっぱい活躍して、小五のとき突然野球をやめた。本当に何の前触れもなく唐突に」
「何で?」
 侑志は深い意味があって尋ねたのではない。ただ先を促そうとしただけだ。しかし桜原は棘のある早口で答えた。
「知らない。初潮でもきたんじゃないの。とにかく朔夜は野球をやめた」
 こんな風に、桜原があからさまに不機嫌になったのは初めてだ。戸惑う侑志に気付いたらしく、ごめんと首を横に振って続ける。
 桜原朔夜は小学校五年生に上がったばかりで野球をやめ、一年ほどはボールに触ろうとすらしなかった。六年生になってからは、チームには戻らなかったものの、弟を相手にキャッチボールをするなど自主練習――発揮する場のないものを、そう呼んでいいのなら――をするようになった。
 中学生になってソフトボール部に入部。しかし他の部員と反りが合わず、さらには野球部ともめ事を起こしてしまい、ソフト部も二年の夏を最後に退部した。その後は例のグラウンドで高葉ヶ丘高校の練習に参加するようになり、去年からは主にマネージャーとして選手の世話をしている。
「ちょっと待って。何であの人、中学ン時から高校の部活出てんの?」
「あれ、言ってなかったっけ。ここの監督、六年前からウチの親父がやってんだ」
「初耳だよ。ここの先生か何か?」
「ボランティア。OBだって話はしたよね、顧問の先生が直接の後輩なんだって。野球はそのツテでやらしてもらってる。いつも仕事が終わってから来るんだ、近所だから」
 ああそう、と侑志はげんなりして呟いた。道理でこいつも、入学したばかりの割に野球部の内情に詳しいと思った。
 桜原は苦笑して侑志の机に頬杖をつく。
「そのせいもあるんだろうね、野球やめたのは。朔夜にとって『野球』ってのは、親父とここに来ることに繋がってたから。結局、親父は希望どおり母校の監督になれたけど。朔夜は、さ」
 二〇〇二年現在、硬式でも軟式でも、女子だけの野球部を持つ高校は存在する。そこまでではないにしろ、女子部員を受け入れる野球部も増えている。しかし高野連――日本高等学校野球連盟は、未だ公式戦の出場資格に『男子』の記述を残している。女子部員は記録員としてのベンチ入りしか認められていない。
 いくら練習をして技術が向上しても、朔夜は公式戦のグラウンドでプレーすることはできないのだ。彼女が、高葉ヶ丘高校の野球部員であることを望む限り。
「吹っ切ったつもりでも、朔夜はどっかでまだ引きずってるんだ。新田は似てるんだよ。野球が好きなのに、好きだから、やらないって言い張るしかなかった朔夜に。だから見ていられなかったんだと思う。朔夜は新田を傷つけたかったわけじゃない、鏡に向かって怒鳴ってたのと同じなんだ」
 窓から突風が吹き込む。また桜原が開けたのだろうか。侑志は五階からの空に視線を遣る。桜原が横でむくれる気配がする。
「だからさ、朔夜は自分本位なんだよ。新田には新田の都合があるし、傷の深さなんか本人にしか分からない。簡単に非難するのは勝手すぎる」
「お前、姉ちゃんのフォローしたかったんじゃねェの? 俺をかばってどうすんだよ」
 侑志は再び桜原を向く。今度は桜原が曇り空に目を向けている。
「でも、新田悪くないし」
 朔夜が我侭なだけだし、と桜原は小さく付け足した。
 横から見ると案外童顔だ。鼻はあまり高くないし、睫毛も長い。口唇を尖らせているせいで余計に幼く見える。姉と間違われるというのも無理からぬことかもしれない。この歳ですらそうなのだ、幼い頃の彼らは今よりもずっとよく似通っていたのだろう。
 侑志は深くため息をついた。
「俺も興奮して怒鳴っちまったからさ。こっちは悪くないとは言えねェよ」
「ありがと」
 桜原は泣きそうな顔で笑った。侑志は曖昧に答えて、右の頬を机の天板にくっつける。ひやりとした。
 小さい頃から野球をやっていた、よくある話。
 親の夢を引き継ぎたかった、よくある話。
 女である現実に打ちのめされた、よくある話。
 ――自分のミスで敗けてから好きだったものが怖くなった、よくある話。
 よくある話。どんなに傷ついていても、その一言で片付けられていく。どこにでもあるからといって、それで痛みが和らぐとは限らない。彼女はそのことを、侑志よりずっとよく知っているはずだった。
『悲愴ぶるなよ』
 突き刺さるような言葉は、彼女自身にも向けられていたのだ。その言葉であの場所に立ち続けているのだ、あの人は。
 ひでえ、と侑志は口の中で呟いた。何がひどいのかは分からない。とにかく、ひどいと思った。ひどいものの中で生きている、と。
 それ以上は何も言うことができなくて話題を変えた。
「そういえば桜原は、どこなん」
「高葉第二中学校」
「いや出身中の話じゃ……つか近ェなタカニって。そこじゃん」
 確かあの公園を抜けて左手の道、坂を上がってしばらく行ったところにある区立中学校だ。災害時の避難場所に指定されていたのでチェックしていた。
 侑志は身体を起こして尋ね直す。
「守備位置の話。どこ?」
「ああ、ショート」
「へぇ。上手いんだ」
「内野が足りないだけだよ」
 桜原は上着のポケットから派手なパッケージの袋を取り出した。菓子のようだ。一粒つまんで口に放り込む。
「新田が自分から野球の話すると思わなかった」
「ただの世間話だろ」
 侑志は鼻から入る息を軽く制限する。桜原の持っている袋から、暴力的なまでにくどいイチゴの香りが漂ってくるのだ。桜原はチャックを閉めて、グミの袋をポケットに戻した。
「新田は投手?」
「一応ファースト。エースは別にいた」
「中学は城羽北(しろばきた)だよね」
「そうだけど……って」
 当たり前に答えてしまってから、侑志は違和感に眉をひそめる。
「そこに話戻んの? っていうか俺、お前に中学の話したっけ」
「あっ、と。だって自己紹介の時に、言ってた、じゃん?」
「そんなん覚えてねェだろ。絶対」
 桜原はあらぬ方を見つめて黙った。焦れた侑志は机を叩く。
「調べたのか!」
 教室に入ってきた女子の一団が、怯えたように侑志を見た。桜原も腕で頭をかばって身を縮ませている。
「だって朔夜がすごい剣幕で去年の夏の記録探せって言うから! ネットでちょっと検索して見つかんなきゃ諦めるだろって思ってたのに、たまたま城羽北のOBかなんかの日記が引っかかって、展開が新田の話とぴったり同じだったから、多分この試合だろうって……」
 検索ワードは『中学野球 東京ベスト16』。ヒットした日記に書かれていたのは、全国中学校軟式野球大会地方予選・東京都大会、区立・城羽北中学校、対、私立・馬淵学院(まぶちがくいん)学院中学校について。
 間違いない。侑志に野球をやめる決意をさせた試合だ。
「なんて?」
 なんて書いてあった、と侑志は擦れた声で尋ねた。桜原は腕の隙間から恐る恐る侑志を見ている。
 何をしているんだろうと思った。こんな風に、友達――を、脅かしたりして。
 侑志は背もたれに体重を預けて息を吐いた。
「いいよもう全部教えてやる。あの試合、シロキタは一度もスコアリングポジションに行ってない。出塁は死球だけ。途中から投げた俺の失点で敗けた。それだけだよ」
「でも、ツーラン打ったの新田だろ」
 桜原が手を下ろし呟く。侑志に向けられているのは、姉に似た深い黒の瞳だった。
「主将で、四番で、継投して、全部新田が背負ってたんだろ。強豪のマブガク相手に二失点で抑えて、ホームラン打って、それで充分責任は果たしたと思うけど」
「でも敗けた。ホームランだってまぐれだ」
「解ってるんじゃないの。軟球の飛距離はまぐれじゃ出せないよ」
 あの日、目の前で鳴ったフェンスを思い出した。
 昨日侑志を見上げていた朔夜の瞳も、その奥に流れていたマグマのような熱も。
 そして清流のように涼しい桜原の瞳を、見ている。
「新田のせいじゃないよ」
 桜原ははっきりと繰り返した。
 少なくとも、新田だけのせいじゃ、ないよ。
「なんで」
 侑志がようやく口にできた言葉は、お世辞にも答えやすいものとは言えなかった。侑志自身、どう返してほしいのか分からない。
 桜原はまず笑った。
「分かんない。俺は実際に見てたわけじゃないから、新田を納得させるだけの説明はできない」
 でもね、と再び菓子の袋を取り出す。
「ブログの人が書いてた。試合の後、シロキタの選手はみんな泣きながら主将を囲んでたって。みんな主将に向かって泣いてたって。人望あったんだね」
「みんな気ィ遣ってたんだろ。ホントのことなんか言えねェよ」
 侑志が頬杖で拗ねたら口にグミをぶち込まれた。吐き出すわけにもいかず噛む。恐ろしく甘い。香料が口の中から鼻まで強烈に殴り抜いていく。
 桜原はさらっと二つ目を食べていた。
「俺は新田のチームメイトのこと、全然知らないけどさ。試合直後で気が昂ぶってるときに出るのって、やっぱ本音だと思うよ」
 侑志は黙っていちごグミを飲み下す。舌の奥にわずかな酸っぱさが残った。
『ごめんなゆうし、ごめんな。オレたち何にもできなかった』
 いくつもの鼻声を、しゃくり上げる音を侑志は今もはっきりと覚えている。謝ることしかできない侑志に、チームメイトもまた謝っていた。侑志の名を呼びながら、日に焼けた腕で汚れた顔を何度もこすりながら。
『おまえのせいなんかじゃないよ』
 蒸し暑い、薄曇りの夏の日だった。今日と同じような色の空。
 教室は半分近く人で埋まって、桜原も他人の席を立つ。
「公園での練習は月・木なんだ。今日、水曜でしょ。明日、朔夜に会いたくなかったら時間か道ずらしなよ」
「あ、そ?」
「残念そうだね?」
 そう言われると疑問だが、否定するのも違う気がする。
 何というか、そう。
「謝りてェんだよ。あの人に」
「新田、悪くないのに?」
 桜原は眉をひそめた。侑志は首を横に振る。
「俺、逆ギレしちまったもん。正論だったのにさ」
 正論だったと思う。それが彼女の都合で発せられた言葉だったとしても。
 誰のためでもない、自分がこれ以上傷つきたくないために野球をやめてしまった侑志を、彼女だけが真正面から両断した。彼女が今まで自分自身にそうしてきたように。
 挫折して、また挫折して、それでもあの場所に立つことを選び取った彼女だから。
 桜原は何故か頬を膨らませていた。
「新田って、いい人通り越してお人好し」
「桜原に感化されたんじゃねーの」
 侑志が言うと、桜原は突然目を丸くした。無遠慮に侑志を指差してくる。
「やっと笑った」
 今度は侑志がきょとんとした。
 言われてみれば、高校に入ってからこんな風に笑うのは初めてかもしれない。だが認めてしまうのも何だか癪だ。
「いや、そら笑うことだってあるよ。お前、俺のことどんな生き物だと思ってんの?」
 侑志はわざと不機嫌な顔をしてみせた。にったがわらったー、と桜原は自分の席に戻っていく。俺はクララか、と侑志は口の中で言って腕を組む。桜原の後ろ姿を見ていたら、無性におかしくなって一人で噴き出してしまった。
 不意に、最後のグラウンドで聞いた言葉を思い出す。笑ってくれたのだと、思い出した。
『ありがとう。侑志と野球できて本当によかった』
 ありがとう。みんなが泣いてくれたこと、信じなくてごめんな。俺も本当に、本当に楽しかった。
 侑志は俯き、右手の甲を目許に押し付けた。
 もう一度、あの青い空の下で白球を追いかけたい。信じ合える誰かと一緒に、もう一度泥まみれになりながら。もう一度、野球がしたい。
 桜原が振り返ってこちらを見ていた。侑志は片目だけでその顔を盗み見る。 
 桜原のやわらかい微笑みは、あの道に落ちる木漏れ陽にどこか似ていた。
 そういえば今は、あたたかい春なのだった。