櫻にカナリヤ - 3/4

籠に白月

「久しぶり。桜原」
 仕事部屋の襖を勝手に開けた男を皓汰は咎めなかった。きっと三住が許可を下ろしたのだろうから。
 男――井沢(いざわ)徹平(てっぺい)はたくましい肩をすくめる。背はあまり高くないが、ことによると三住より体格がいいかもしれない。
「あんまり芳しくなさそうだな。センセー
「井沢までその呼び方しないでよ。気が滅入る」
 皓汰は文机から手を振った。井沢は苦笑して焼けた畳にあぐらをかく。脚の上にどっかと腕を載せて、時代劇の戦国武将みたいだ。着流しのこっちも人のことは言えないが。
「どうした? その着物」
「あまりにも書けないから、速筆の祖父にあやかろうかと思いまして」
「先代の櫻井先生か。オレも評判はよく聞くよ。立派な人だったらしいな」
「どうも。刑事さんに褒められるほどのものじゃないと思うけど」
 井沢は高校の同期で、三年間同じ軟式野球部に在籍していた。卒業後、警官になった彼の初めての配属先がこの高葉ヶ丘(たかばがおか)を含む高葉(たかば)警察署で、そのままここで所帯を持ち所轄の刑事になった。皓汰とは、時折互いの近況を尋ねる程度の付き合いを続けている。
「原稿の進捗訊きに来たわけじゃないでしょ。三住のこと?」
「まぁな。この前は忙しくて車しか回せなかったし」
「つーか家主の承諾得ないで越してくるのは違法じゃないわけ? 俺も家主じゃないけど」
「合法ではないかもしれない」
 実に公務員らしい曖昧な言い逃れをして、井沢は話を進める。
「本気でそうしたいなら退去させることもできる。でも桜原は椎弥を置いてる。ときどき、人間かどうか疑うぐらい情け容赦ないお前が」
「人非人なりに義理も打算もあるからね。一人じゃ着れない和服だってこうして世話してくれるし、飯も旨いし何より生活が人間らしくなった」
 無断で煙草に火を点ける。我ながら小さな腹いせだ。
「こっちよりそっちはどうなの。奥さん」
 井沢は黙って一度頷いた。お世辞にも明るくはない表情で。
茗香(めいか)は納得してるよ。椎弥に好きな人ができたことも、ずっと前から……本人より先に気付いてた。相手が誰かってことは別にして」
 井沢は三住椎弥の親友であり義弟だ。三住の双子の妹である三住茗香を嫁にもらった。皓汰も何度か会ったが、いかにも清楚なお嬢様という見た目の女だった。ストレートの黒髪に黒目がちな瞳、兄とはどこも似ていない。
「それで? 彼女の周りに問題は?」
「いや、概ねない。椎弥は他人の弱みを握る天才だ、茗香にだけは誰の手も及ばないように根回ししてある。警官(オレ)もいるし、三住製薬(じっか)の法務部にもマスコミ対策に特化した弁護士がいるからな。それより」
 井沢は視線を皓汰に据えた。刑事らしい、押し付けがましくて正しい顔だ。
「椎弥のそばにいるお前の方が心配だよ。桜原」
「ご配慮賜りどうも。刺されかねない恨みなら自前で持ってるから今更だよ」
「茶化すなよ。今は一億総マスコミ時代だ。スマホで撮影ネットで炎上、なんてことになったら、いくら印象操作の得意な椎弥でも後手になる」
「さっきから唐突に三住の黒い話が出てきてるのはなんなの?」
「それこそ今更だろ? あいつはお前の処女作だけでこの家と本名まで特定したんだぜ。ネット巧者(ギーク)なうえに心理操作手(マニピュレーター)、野球をやめても人に心が存在する限り椎弥は食いっぱぐれない」
「そんな恐ろしい兵器うちに置いてかないでくんない?」
「兵器はそれ自体がどうってもんじゃない。使い方次第だろ」
 井沢は言いたいことだけ言って立ち上がる。まるで保護者みたいな面をしている。
「本気で追い出したいなら早めに連絡くれ。大学の頃みたいに、姉さんに心配かける前にな」
「……余計なお世話」
 襖が閉まる。皓汰は見送りにも出ず安い紙煙草をふかす。万年筆を持った右手で耳朶に触れる。四つ爪のアメジストのピアス。左のアクアマリンと一緒に、二十歳の頃からついて回る呪いだ。
 三住はどう思うのだろう。皓汰の最初で唯一の恋人――という認識をしていたいだけの――男のことを。直接尋ねに行く代わりに二本目の煙草をくわえた。
 時刻は正午を回ったばかり。夜まではまだ遠い。

 

 皓汰が興味のない野球をやり始めたのは、ひとえに最愛の姉のためだ。
 姉は父に似て野球が好きで、地元のチームでも評判の左腕だった。皓汰は運動が大嫌いで、家にこもって本ばかり読んでいた。
 その状態に変化が生じたのは二次性徴にさしかかる頃だ。姉は野球をやめてしまった。とても単純でしかしどうしようもない、『男ではない』という理由によって。
 皓汰はずっと『男』を持て余していた。男のくせに、男の子だから、押し付けられる役割はいつも皓汰の性質とかけ離れていた。『女』になりたいとは思わなかったけれど、自分が『男』で姉が『女』なのは何かの間違いに違いないといつも世界を呪っていた。
 だから。
『泣かないで。ぼくが代わりに野球するから』
 姉にあげたかった。自分よりよほど『男』を欲している姉に。やりたくてもできなくなった姉の代わりに、野球を始めた。夢のない自身の代わりに、姉の夢を叶えてやりたかった。父の卒業した高校で野球をするという、『男』なら造作もなく実現できる夢を。
 椿(つばき)直也(なおや)と出逢ったのは、その過程の中学時代だ。
 当時の椿は野球部のエースで、ソフトボール部に在籍していた姉とは犬猿の仲だった。皓汰も入部時から苛烈な洗礼を受けた。いじめ、いびり、しごき、どの言葉を当てはめてもいい。罵詈雑言に平手に蹴り、雑用の押し付け、ひどい仕打ちだったことは否定しない。
 だが少なくとも野球の指導に関して、椿は明確に芯を通していた。身体の動かし方も知らない皓汰を、たった半年でベンチ入りさせ、たった一年でレギュラーに押し上げてくれた。
 皓汰が椿を恨まなかった理由はもうひとつある。彼は姉を口汚く罵ることはあっても、姉をだしにして皓汰を見下したことは一度もなかった。恫喝も、暴力も、忘れた頃にふと見せる笑顔も、姉を通さず皓汰だけに向けられたものだった。
『オメーはホントによくやってるよ。コータ』
 姉の身代わりである皓汰にとって、『桜原皓汰』本人を認めてもらう機会は貴重だったのだ。
 椿は皓汰と縁のない高校に進学していった。皓汰は姉と共に、父の母校での日々をそれなりに過ごし、椿の存在を思い出の片隅に置きっぱなしにしていた。
 再会したのは大学二年のときだ。
 一年次は文学部のキャンパスから出なかった皓汰だが、一般科目が終わって専修が決まると選べる授業の幅が増えた。坂を下りた先の本部キャンパスまで出向いて講義を受けた帰り、彼を見かけて凍り付いた。たっぷり十メートル前で立ち止まった人間を不審がって、椿が歩み寄ってくる。怪訝そうに細まっていた目が驚きに開く。
「コータ?」
 椿はすぐに事態を察したようだった。中学のとき散々にしごき上げた後輩が、今また後輩として同じ学校にいること。まだ自分に怯えて足がすくんでいること。
 椿は皓汰の髪に片手を差し入れ、頭皮をゆっくりと撫で下ろした。その動作が何を意味するのか皓汰には理解できなかったし、今もって十全に理解できてはいない。
 この頃の皓汰の記憶はほとんどが断片的だ。編集に失敗したフィルムのよう。
 部屋に連れ込まれてセックスをした。大学から徒歩十五分、家賃三万の安アパート。
 レイプとは呼べない。椿の指示は淡々としていたが断ることはできた。逃げもせず諾々と精を飲み肉塊を体内に受け入れたのは皓汰だ。望んでのことではなかったが合意はしていた。駅に向かう途中、道端で胃の中身を全部吐いた。
 そんなことも続けば苦痛ではなくなって、身体が覚え始めている快楽も認めれば楽になれた。怪我の理由を問い糾そうとする姉の方がよほど疎ましくて、次第に椿の部屋に泊まる回数が増えた。そうでもしないと椿と同じ行動をしてしまいそうだった。
 ――うるさいときは、横っ面を張って犯せば黙る。

 椿が住宅情報誌を投げて寄越したのは皓汰が三年の夏だった。
 皓汰は椿の部屋で足の爪を切っていた。行為の最中に伸びすぎていることに気付いて、ずっと気になっていたのだ。
「どうする。コータ」
 質問の意味が解らず口を開けて椿を見上げた。ひとつ年上の椿が金髪を黒に戻して就職活動をしているのは知っていたし、どうやら内定をもらえたことも察していたが、自分とは無関係だ。何の判断を求められているのか理解に苦しむ。
 椿は一重まぶたを訝しそうに歪めた。
「何か希望ねぇのかよ」
 希望? 何についての? 椿が住む予定の物件?
 皓汰は自分を支配し続けた男を、初めて会ったような心持ちで眺めた。
 まさか、大学を出てからも皓汰を連れ歩くつもりだろうか。自分はやりたいこともなりたいものもないから構わないが、それはさすがにあまりにも。
「もう、割り切って先に進んだ方がよくないですか」
 殴られる覚悟で口にした言葉だった。彼のために。
 椿はエイリアンでも見るような目で皓汰を見下ろした。
「何を?」
 言葉足らずはお互いだなと思った。いつも主語や目的語を省いて会話がずれていく。
「姉貴を」
「なんであのクソブスの名前が出てくんだよ」
「だって」
 かわりなんでしょう、と心から問いかけた。
 姉と衝突し続けた椿。その度に皓汰を呼び出しては腹いせをした。中学の頃は性的な暴力こそなかったが、皓汰の身体と精神を過激に痛めつけコントロールした。あれはきっと代替行為だったのだ。椿がどうあっても屈服させられない姉の。
 六十秒を二回分、ゆっくりと時間をかけて椿は皓汰の言葉を咀嚼した。そしてさらに六十秒かけて、皓汰が一度も見たことがないぐらいに蒼褪めていった。
「付き合ってたんじゃねぇのか」
「誰が?」
 訊いた一秒後に答えが分かった。自分と椿。二秒後に全てを察した。
 椿は最初から姉などどうでもよかったのだ。皓汰に見せた異常な執着の名は、もっとシンプルな二文字だった。
「直也さ――」
「出てけ」
 膝からくずおれた椿の下、すりきれた畳に水の粒が降る。
 どんな試合に負けた後も尊大な顔をしていた椿直也の、落涙。
「出ていけ」
 皓汰は何も言うことができなかった。最後に残した額へのキスもきっと不要なものだったのだと思う。
 鉄製の扉から外に出て、施錠してから鍵を新聞の受け口へ落とした。椿がくぐもった声を上げているのが聞こえて、しばらく立ち尽くしていたけれどそっと離れた。
 以来皓汰は椿の部屋に近寄っていないし、構内で偶然会うこともなかった。
 今頃、彼は希望した職種で働いているのだろう。それが何であったかも知らないけれど。

 

「センセー? てっぺー帰ったよ」
 三住が襖の向こうから声をかけてくる。
 どうぞと呼ぶと、三住はわざわざ三回に分けて襖を開け、座ったまま入ってきた。やはりお育ちがいい。皓汰は手が塞がっているときなど足で開ける。
「そういうのいいよ。立ったままさっさと入ってきて。時間の無駄」
「でもおれにとってセンセーって、櫻井(あきら)大先生だからなぁ」
 強引に住み着いておいて今更何をとは思うが、指摘するとまた長くなりそうだ。
 皓汰は窓枠に寄りかかり煙草を口唇で挟んで揺らした。普段は吸わないケント。祖父の仏壇から下ろしたものだ。
「で、何か話?」
「昼飯できたって言いに来ただけ」
「そ。ありがと」
 皓汰はほとんど残っている煙草をガラスの灰皿に押し付けた。実のところ、この銘柄の匂いはあまり好きではない。
 皓汰は立ち上がると、すりガラス越しに外を眺めた。雨が降る気配はない。
「ね。食べたら気晴らしにちょっと出かけようか」
 食器を片付けてから、二人で近所にある庭園を訪れた。
 わずかばかりの入場料で儒学趣味を楽しめるお得な施設だ。ふらりと歩いて行ける距離なので、皓汰はよく気分転換に使っている。
 大きな池を囲む順路。紅葉より彼岸花の赤さが目に付く。
「センセー、足下気をつけて」
 石橋の前で、三住は先に立って手を差しのべてくれた。皓汰は袂を押さえて彼の手を取る。三住が歩調を合わせて淡く微笑む。
「なんか『三四郎』思い出すな。池の散歩なんて」
「あっちの池も家から歩いていけるよ。――たいしたものじゃないがなにしろ東京のまん中にあるんだから
 何気なく引用する。三住が手に力を込め、よそ見する皓汰を諌める。
こういう所でないと学問をやるにはいけない?」
 三住の返事は呼吸みたいに自然で、かえって皓汰の方が立ち止まって彼を見つめたぐらいだった。三住は既に石橋の頂点を過ぎ、カナリヤ色の瞳は皓汰の目と同じ高さにある。
 皓汰は繋いでいる手を軽く持ち上げ、試しに首を傾げた。
これはなんでしょう
これは椎
 三住は皓汰の手の甲に口づけた。気障なやつだ。もっとも人のことは言えない。皓汰は石橋を渡りきる。不穏に流れる水の上を越える。
 矛盾だ、と呟いて三住の胸に倒れ込んだ。
 平日の昼間、利用者はまばら。咎める視線も憤る声もない。
 ただひぐらしが鳴いている。遠く遠く、何かを惜しみ懐かしんでいる。
「これ」
 三住が遠慮がちな手つきで皓汰の右耳に触れた。アメジストのピアス。皓汰の誕生石。
「あんまり似合ってないよ」
「和装にはね」
 皓汰は左耳のアクアマリンを一度だけ撫でる。椿直也の誕生石。
 衛生には細かい人だったから、無理やりピアッサーで開けた後もきちんとケアをしてくれた。首を絞めながら交わった後と同じように。あの人はどんな気持ちで、二対のピアスを片方ずつ分け合っていたのだろう。
 耳朶を掴む三住の指に力がこもる。
「違うよ。センセーにってこと」
「そこまで解ってて外せないの? よっぽど度胸のない方
 皓汰は目を閉じて笑った。度胸のないのは自分のくせに、どの面を下げて三住を嘲弄できる。
「ねえセンセー。そのまま目、閉じてて」
 三住の指が枷を外していくのを感じる。かすめるだけのキスを合図にもらい、皓汰は重いまぶたを持ち上げた。空が高い。秋の庭の鮮明な彩りは冬の予感を忘れようとする欺瞞に似ていた。
 三住椎弥を愛しているとは言えない。恋と呼ぶにもきっと違う。
 ただ、三住ならそばにいてくれる。皓汰の愚かな人生を誰より理解し、洛陽に染まった長い長い破滅に最期まで付き合ってくれる。他愛ないごっこ遊びの相手を衒いなくしてくれたように。
「椎弥」
「なに。こーた」
 ああ、長音で自分を呼ぶ癖。椿と同じ。けれどずっとやわらかく丸い響き。
「しいや」
 目の前の男の背に両腕を回す。洗いざらいのシャツの布地が指の形にひしゃげていく。自分の移した煙草の香りを肺いっぱいに吸い込む。
 ごめん。愛しているとは言えないけれど、どうか。
 俺が死ぬときはこんな風に、少しは俺自身が在ったのだと錯覚させてくれ。