習作――卒業間際

畢竟

 夕刻図書室を追い出されてから定期券のないことに気が付いて、徹平は3Aの教室に駆け戻った。
 窓から二列目の席に富島彩人が座っていた。こんなところに一人でいるということは、彼の幼なじみはもう帰ってしまったのだろうと徹平は思う。
「勉強してたの?」
「他に受験生が学校ですることなんてあるのか」
「電気ぐらい点けろよ」
「僕の勝手だ」
 徹平は電灯のスイッチに触れ、少し悩んで、結局押すのをやめた。富島が大事に閉じ込めておいた夕焼けを、突然やって来た自分が無断で奪い去るのはあまりに無粋だ。
 廊下から二列目の前から三番目にある机に近づく。せいぜい数十センチの奥行きしかない箱なのに、中まで見通すことが出来ない。手を突っ込んで指先で探る。
「もうすぐ卒業だな」
「だから?」
 富島は背もたれに体重を預けて、首の後ろに触れた。
 徹平が答えないので、彼なりに罪悪感を抱いたのか、富島は舌打ちして重心を前に移した。
「感傷的になるほどのことじゃない」
「感傷的っていうか」
 徹平は一度口を閉ざした。右手を机の中に残したまま、天井を見上げる。
「折角会えたのになって思って」
「まったくクソみたいな運命論者だな。たまたま同期になったぐらいで、薄っぺらな思想に他人を巻き込むなよ」
「運命でも、たまたまでも、いいけどさ」
 徹平はとうに見つけていた定期入れを握った。
「富島が嫌がっても、忘れても、オレ達が一緒に過ごしたのは事実だし。なくならねぇし。どうせ消せねぇなら、出来るだけいいカタチにしときたいから。もうちょっと、時間があってもいいのになって、思うだけ」
 手を引っ張り出す。定期入れを投げ上げ、受け止め、また投げ上げる。
「もったいないな。お前と別れるの」
 ぱしん、とまがい物の革を空中で取った。富島は横に薙いだ右腕をじっと見ていたが、やがて、ふんと鼻を鳴らした。
「清々する」
「照れんなよ」
「照れてない」
「はいはい」
 徹平は教室の奥へ歩いていって窓を閉めた。手荒くカーテンを引く。
「帰ろうぜ。そろそろ見廻りが来る」
「勝手に帰れ。逆方向だろう」
「校門までは同じルートじゃんか」
 徹平は振り返り、富島の顔を見た。今日は憎まれ口も表情も精彩を欠いている。自分達にもその程度の価値はあるのだと思ったら、笑いがこみ上げてきた。
「どっかで分かれ道は来るよ。だから出来るときぐらい一緒に歩いたっていいだろ」
 ――最初ッから短い間って分かり切ってんだからさ。
 徹平の呟きに、富島は苦々しげに口許を歪めた。
「根暗な奴だよ」

 


 

残照

 帰り際3年F組の前を通りがかったら、中に新田がいた。電気も点けず、風にあおられたカーテンを気にするでもなく、無機質な表情で窓際の席に座っていた。
 琉千花は足を止め、控えめに彼の名を呼んだ。
「新田君」
 新田はゆっくりと振り向き、琉千花の姿を認めると、黙って微笑んだ。
 だが二年半彼を見てきた琉千花には、本当は笑っているのではないとすぐに分かった。彼がああやって曖昧に口許を崩すのは、不快感を与えずに相手を遠ざけようとするときの癖なのだ。
「どうしたの。帰ろうよ。もう下校時刻だよ」
 琉千花はいかにも能天気な声を出した。新田ははっきりしないうめき声を上げただけで、動こうとはしない。
「新田君てば」
「うん」
 新田は頷くようにゆっくりと瞬きをして、けれど立ち上がろうとはせず、窓の外に視線を戻した。
「もうグラウンドも空っぽになっちゃったな」
 体格の割に高い声は、三年生になっても変わらないままだった。
 琉千花は眉をひそめて、彼の後ろ姿を見つめていた。
 自分ほどの背丈の生徒が座っていたら、こんな風には感じないかもしれない。けれど背の高い彼の姿は、空っぽの教室に残る大きな忘れ物のように見えた。
 誰かが引き取りに来るのをじっと待っているのだ。ひとりふたりと去っていく生徒を見送りながら、所在なさげに目を伏せて、迎えに来るはずのない人を。
 琉千花はスカートをぐっと握り締めた。
 帰って来ない。もう二度と帰っては来ない。
 それなのに、君はいつまであの人を思い出しているつもりなの。
「新田君――」
 琉千花が腹立ち紛れに叫ぼうとしたとき、下校放送が鳴った。切なげなメロディーが校内を満たしていく。新田はスピーカーを見上げながら、ぼんやりとした声で呟いた。
「ドヴォルザークだ」
 新田はこの曲を、『ドヴォルザーク交響曲第9番第2楽章』だと言うのだった。『遠き山に日は落ちて』という唱歌しか知らない琉千花とは、見る世界が違うのだった。
 琉千花は膝の力が抜けるのを感じた。立っていることが出来ずに座り込んだ。
 自分は彼が見ているものを見ることは永遠に出来ないのだと思った。
「どうしたの」
 いつの間にか新田が目の前に来ていた。差し伸べられた手が西陽で染まっている。
 彼はこうやって同情しか抱けないまま、彼女の残照の中で生きていくのだろうと琉千花は逆光で顔の分からない人を見上げた。

 


 

追放

 裏門の手前でふと校舎を見上げたら、教室の電気が点けっぱなしだった。見なかったことにして帰ろうかと思ったが、そのままにしておいては日直の自分が叱られるかもしれない。慶太郎は重い足取りで三階まで戻った。
 煌々と光る蛍光灯の下で、桜原皓汰が眠っていた。左腕は畳んで顔を載せてあり、右手は机を横切ってぶらんと垂れ下がっている。十年近く野球をやっても結局あまり厚くならなかった胸の下には、見慣れた教科書が敷かれている。
 慶太郎はため息をついて桜原に歩み寄り、足元に落ちているシャープペンシルを拾った。
「起きてよ。もう下校時刻なんだけど」
 ペンの尻で頬をつつくと、桜原は寂しがる仔犬のような細い声を漏らして首を振った。
「ながたー……?」
 額を押さえながらのっそりと身を起こす。桜原は眉間にしわを寄せてしばらく窓の外を見つめていたが、やがて、うぉっと呟いて肩を震わせた。
「夕方じゃん!」
「だからそう言ってんのに」
 慶太郎は持っていたペンを差し出した。桜原が受け取るとき、銀色の胴に西日が当たって弾けたのが眩しくて、少し目を細める。
「ここで勉強してたの?」
「そう」
 桜原はペンを持ったまま両手を上げて、伸びをした。
「俺、みんなみたいに予備校行ってないしさ。図書館は中学生ばっかだし。家以外ったら、ガッコぐらいしかないもんね」
「図書室は」
 慶太郎は言いかけて、口を押さえた。桜原は黙って微苦笑を浮かべ、ふっと首をめぐらせた。
 もうとっくにいない人、慶太郎がおぼろげにしか覚えていない人であっても、桜原はあの人をあの場所と結びつけずにはいられないのだろうと、慶太郎は俯いた。桜原は深い息を吐いた。
「俺、自分は先輩とかにはなれないだろうって思ってたんだ」
 話の流れからその先輩のことかと思ったが、どうやら桜原は一般的な『先輩』の話をしているらしかった。慶太郎は相槌を打たずに顔を上げた。桜原は頬杖をついて向こうを見ている。
「実際、中学のときは下からもナメられてたしさ。だけどみんながいてくれて、何とかやっていけて、空いてたからじゃなくて俺はちゃんと背番号6なんだ、って思えるようになって。やっと、俺でも大丈夫なんだって思って――そしたらもう、終わりだもんね」
 桜原は姿勢を崩し、机の上に伏せた。顔だけは前に向けていた。黒板の横には、もう半分以上意味を失くした年間予定表が貼ってある。
「やっと慣れたのに。ここにいてもいいと思えたのに。また、上手く思い描けない世界に、放り込まれなきゃいけないんだね」
 そのありふれた愁いがひどく腹立たしいと思った。
「しょうがないよ」
 慶太郎は手近な机に腰掛けた。桜原の視線を感じたが目を合わせるのが嫌だった。床を睨みながら早口に言った。
「出るしかないじゃないか、そんなの。代わりなんかいないんだから。打たれても何でも仕留めなきゃ終われないんだよ。降りられないんだよ。だったら、覚悟決めるしかないじゃないか」
「永田は、エースだもんね」
 桜原は無感情な声で言った。妬みでも嫉みでもないのは慶太郎にも分かっていた。
 ただ隔たれた、それだけだと思った。
 目を閉じて奥歯を噛み締める。
 思い描けるものか。覚悟を決めるしかないのだ。
 決められないなら、くずおれるしかないのだ。