ピアノの顔

※『Evergreen』本編と設定の齟齬があります。パラレルとしてお楽しみください

 

 あった。椅子の座面からお気に入りのペンを拾い上げ、琉千花はほっと息をついた。
 振り返って授業後の音楽室を見回す。空っぽだ。これから昼休みだが、高葉ヶ丘の軽音部は時間外練習をするほど熱心ではないようだった。
 ピアノに歩み寄ってみる。さほど弾けもしないのに、誰もいないとなると触ってみたくなるのは何故だろうか。音楽室には幽霊が出るというお決まりの噂も、肖像画の不気味さだけでなく楽器の放つ妙な気配のせいかもしれない。
 白鍵のひとつを人差し指で押した。もっとも調律の精確さを確かめられるほど、琉千花の耳は優秀ではない。大体こうしてみるものだというイメージに従ったまでだ。
「ラの音」
 突然飛び込んできた声にはっと顔を上げる。井沢だ。道理で聞き覚えがあると思った。
「るっちピアノ弾けるの?」
 井沢は白い歯を見せて無邪気に尋ねてくる。足が向かう先からして、琉千花と同じく忘れ物をしたらしい。
 選択授業は二組合同だが、A組の男子とB組の女子では特に関わる機会もない。琉千花は野球部に入るまで、井沢と一緒に受けている授業があることも知らなかった。
「私は弾けるってほどじゃないよ。小さい頃習ってたけどすぐやめちゃった」
「そうなんだ。オレも習ってたよ」
 井沢はノートを持ってピアノのそばまで来た。身長の割に大きな手が、音をさせない弱さで鍵盤をそっとなぞる。
 なにかひけるの、と琉千花が問うと、すこしだけならと井沢は常に似合わず遠慮がちに呟き、椅子に浅く腰掛けた。
 最初はぎこちなく、やがて思い出すように指が運ばれていく。
 ショパンの『雨だれ』。目の前には教師が置きっぱなしにした合唱曲の楽譜しかない。暗譜しているのだ。
 美しいが泣いてしまいたくなるような旋律だった。とても繊細で、それでいて何かを押し殺しているように激しい弾き方だった。
 バカな理由でピアノをやめちゃったのかな、とふと思う。
 琉千花は幼い頃から手が小さくて、他の子よりも指が届く範囲が狭かった。それは仕方のないことだったし、あの若い女性講師もただ上手く弾かせてやりたかっただけなのだろう。けれど琉千花は、どうしてここに置けないのと繰り返し自分の指を引っ張った女の顔が、そのとき抱いた気持ちが今でも忘れられない。
 もしもっと幸福な出逢い方をしていたら、耐えて教室に通い続けていたら、自分もこんな風に何かを音に託すことができただろうか。そう考えるとひどく損をしたような気もする。
「やっぱ忘れるよな、触ってないと」
 井沢がかすかな声で自嘲する。ピアノだけのことだとは到底思えなかった。完璧かどうかはともかく、少なくとも琉千花が聴いていて間違えたとはっきり分かる箇所はひとつもなかった。
 忘れられないから触れたのだし弾いたからなおさら思い出す。理解したのはそこだけだ。
 優しくてもの悲しいピアノの音に、黙って耳を傾ける。一定のリズムが刻まれている。そして曲を中断させたのも、琉千花にとって心地いい音だった。
「いた、るっち。今弾いてんのもしかして井沢?」
 新田侑志が開いた扉から顔を覗かせている。琉千花が頷く前に井沢は手を止め、伸び上がって新田を見た。どうやらお互い死角だったらしい。
「なに、新田って書道だから本校舎じゃねぇの?」
「昼休み、緊急ミーテってにゃーさん言ってただろうが。音楽組の二人だけ来ねえから呼びにきたんだよ」
 むくれるているのをかわいいと思ってしまうのは、欲目というものだろうか。琉千花は目を伏せて、すぐ行くねと返事した。だが新田が入口を半分塞いでいるので、走っていくのも気が引ける。
「井沢、ピアノ弾けんだ。今のショパンだろ」
 当の新田の視線は琉千花の逡巡など意に介してもいなかった。どうせミーティングにいたところで何の役に立つわけでもない。『二人』とは言ったが、彼が呼びに来たのは結局のところ井沢なのだ。
 井沢も、口唇を噛む琉千花に注意を払う様子はなかった。
「詳しいじゃん。新田もやってんの?」
「楽器はやってねぇけど親がクラシック聴く。さっきのは作品28の15番、で合ってるよな」
「きっもちわる……前奏曲『雨だれ』でよくない?」
「16番も弾けんのか?」
「まさかぁ。あんな速さ、指動くわけねーよ」
 まただ。野球だけでなく、音楽の話まで琉千花はついていけない。
 ケースにしまい損ねたペンを握りしめ、体当たりするつもりで入口へ走った。新田なら、琉千花程度がぶつかってもびくともしないだろう。
「あぶないよ、るっち。怪我する」
 それなのに、衝突する前にやわらかく押し止めるなんてずるい。琉千花のことなんてほんの数秒前まで見えていなかったくせに。視界がにじみそうになって、ごめんねと通り一遍の台詞でごまかした。
「新田君、もう全員揃ってるの? お弁当取りに行く時間ある?」
 本当は食欲などなかった。一瞬でいいから気を惹きたかった。意識して笑顔を添えた上目遣いの醜さも全部知っていた。
 今の新田の微笑の意味も解る。最初の頃こそ浮ついた気持ちにさせられたけれど、本心では何とも思っていない顔だ。
「いいよ。飯取りに行くぐらいで誰も怒らないだろうし」
 ありがとう、と琉千花は心にもない礼を言った。
 ノートを持った井沢が脇を通り過ぎていく。
「オレは先行ってるよ。飯は後でにする。第二講義室?」
「おー。始まりそうだったら先輩たちに説明しといて」
「りょっかい」
 行こうかと新田に促されて琉千花も歩き出した。昼食もミーティングもどうでもいいが、他の部員――本音を言ってしまえば彼に――迷惑をかける訳にはいかない。
 それでもひとつだけ、芸術棟を出る前に、陽射が感傷を殺す前に、新田に問いを投げつけた。
「新田君、今のってどういう曲なの?」
「俺もそんなに詳しくないけど」
 新田が首だけで振り返る。何でもないようで、ついさっきの笑みより深く何かを考えている表情。
「確か、ショパンが恋人と島で静かに暮らしてたときの曲じゃなかったかな」
 そうなんだ、と琉千花は途方に暮れて呟いた。新田は曖昧に頷き歩を再開する。開け放したまま固定されたガラス戸の向こうは、無神経な熱と蝉時雨で頭の中をかき回す。
 きっと井沢がピアノの声で思い出す顔は、琉千花の記憶に刺さった女のものとは比較にならないほど綺麗なのだろう。そしてこの先の琉千花が思い出す少年の顔は、一秒ごとに色褪せていくのだろうと無力な指先を強く握り込んだ。