パンクした重い自転車

 雅伸は必ず制服でそこに行く。時間に余裕があっても着替えては行かない。私服で行ったらその服にケチがつきそうな気がしている。気分的な問題だ。
 水曜隔週、真面目に通院しているのも気分的な問題だ。
 待合室に通される度、雅伸はひどくうんざりした気持ちになる。この近所だけでこんなにも精神を病んだ人がいるのか。これだけいれば、もはや自分は正常なのではないか? という気がしてくる。
 そして思い直す。正常な人間はカッターで枕を引き裂かないか。もっともやったのは一度だけだが。

 何故そんなことをしたのかは思い出せない。母親の猫なで声だけはよく覚えている。心配するような言葉を並べて、しかしその根底にあるのはただの恐怖だということは一見して分かった。雅伸は黙って枕の羽毛を刃先でほじくり出していた。
 離しなさい、危ないから、ね。
 雅伸に人を傷つける気持ちなどなかった。危ないからというのは全く保身から来る発言で母は自分のことを疑い怯えているのだ、と感じた。怒りはなかった。ただ哀れだと思った。息子がこんな風に育ってしまって気の毒だ、と。
 出ていけよと言ったのか、勝手に出ていったのかは定かではない。とにかく一人になった雅伸は刃を引っ込めたカッターをベッドサイドに置いて、剥き出しの羽毛にうずもれて少し眠った。

「相模さん」
 そんなことを思い出しているうちに名前を呼ばれた。診察室に入るとお馴染みの初老の女性が座っている。
「最近はどう? 受験で疲れてるかしら」
「はぁ、まぁ」
「でもそれは時期が過ぎないと解決しない問題ですからね。あんまり気にしすぎないようにね。具体的な努力をすることで不安が和らぐこともありますよ」
 そんなことは言われずともとうに分かっているのだから、今更したり顔で言い聞かされたくはない。
 とは、口にしない。はい、と頷くだけだ。
 雅伸は心理学の本を手当たり次第読み漁ったことがある。そして精神科医の狙いを読んでしまうようになった。その質問で何を読み取ろうとしているのか、これはあの療法ではないのか、と深読みしてしまう。当たっているかどうかは問題ではない。探ってしまうこと自体がストレスなのだ。
 何を訊かれても雅伸の心境は同じだ。仕事だから俺の言うこと何も否定しないんだよな、目を合わせないのも、首の後ろに手をやる癖も、全部メモして解釈してるんだろう。いいよ、やれよ。だからってどうなるもんでもないだろうがな。
 こんな心構えで快方には向かうまい。
 この女医との付き合いはもう二年程にもなるが、雅伸は彼女を一向好きになれない。いつもどこかずれた答えを返してくるのが母親と似ていて気に食わない。使い古されたご高説も聞きたくない。一般論も発言者によっては言葉にならぬほど胸を衝つものだが、それに必要な信頼があまりに足りない。
 かといって今更替えてもらう気もしない。曜日の問題もあるし、新しい医者に改めて状況を説明するのが面倒なのだ。どうせ替えたところで大差はあるまい。
「じゃあまた二週間後に」
 この後、薬局にも行かなくてはならない。そこでもまた待つ。実のない二十分の為に今日も四十五分を浪費する。移動時間を含めるともっと長い。
 自転車を出そうとしてタイヤがパンクしていることに気が付いた。金属片が刺さっている。工事現場脇で踏んだものが、置いてある間に空気を抜いてしまったのだろう。
 雅伸は自転車を押し始めた。小さい頃にもこんなことがあったような、と思ったが、一瞬よぎった映像が痛いほどもの寂しかったので深く思い出すのは止めにした。
 信号待ちでハンドルに額を押し付ける。
(センター試験もうすぐだ……。そうだ、願書、本屋に売ってなかったやつ取り寄せないと。郵便局で受験料払い込んで……)
 落ち込んで動けない間に出遅れて、医者にかかる時間に離されて、それがストレスになって抜け出す道が探せない。
 弱いからいけないのだ、と言われればそれまでだ。雅伸にも分かっている。だがそこで終わってしまうなら自分はこの先どうしたらいいのか。
(期末テストいつからだっけ……? ああ今週末の模試会場、道順調べなきゃ。とりあえず今日帰ってあの問題集終わらせて……)
「……頭いてェ」
 雅伸は小さく呟いた。
 みんなやってることだ。みんな出来てることだ。それについていけないのは俺が弱いからだ。だから俺は正常の枠から外される。
 渡らなければいけないのだ。俯いているうちに青信号を見逃して、吹きすさぶ北風の中もう一度待つ羽目になろうとも。
 渡らなければいけないのだ。
 二度目の青信号で雅伸は歩き出した。パンクした重い自転車を引きずって。