理屈屋クッキング

 エプロン姿の理奈(りな)は、雅伸(まさのぶ)の顔から視線を外そうとしなかった。雅伸は妹を直視できず、間を隔てるテーブルに目を落としている。
 理奈の好物である鶏の照り焼き……になる予定だった塊は、皿の白さを引き立てるほど真っ黒だ。
「見てやる、って言われて本当に見てるだけだとは思わないじゃない」
 返す言葉もない。やはり断っておくんだった、と雅伸は眉間を押さえる。
 理奈から電話がかかってきたのは今日の十五時すぎだった。何かと思えば、料理を習いたいから新居を教えてほしいと言う。一度は断ったが、兄さんの家に行くまで帰らない、とすごまれ渋々迎えにいった。
 二回分の材料を買って、とりあえず一人で作らせてみた。何が上手くできないのか知りたかったからだ。理奈には理奈のやり方があるだろうし無闇に口を挟まない方がいいと思ったのだが、気付いたときには手遅れ。何かの心臓を焼き固めたような黒い物質は、切ったら中が生だった。
「今からでも言いたいことがあったら言って」
 言いたいこと? 震え声の理奈を噴火させないよう、雅伸は恐る恐る言葉を探す。
「必要がないなら、無理に自炊しなくても……。今日日、一秒もキッチンに立たなくても健康に生きてはいけるだろう」
 コンビニもスーパーも健康志向の時代だ。料理ができないからといって日々の栄養バランスで困ることはない。
「必要はあるの」
 理奈は深く嘆息し、額に手を当てた。
「私、この前離婚したでしょう」
 雅伸は返答に迷ってひとつ頷くに留める。
 理奈は夫だった優男と別れ、一人暮らしを始めたばかりだ。笑顔の写真とプロフィールで推し量る分には理想的な相手に見えたけれど(雅伸は劣等感から頑なに会わなかったほどだ)実際に生活を共にしたらいろいろ問題も生じたのだろう。
「既成のお惣菜ばっかり食べてると、ご飯のことで言われた嫌味を思い出しちゃうの。でも自炊は上手くいかないし……未練とかは一ミリもないけどせめて頭の中だけでもあいつを見返して永遠に黙らせたい。私の人生から死滅してほしい」
 理奈は真顔で呪詛を吐く。こんなことを言う子ではなかったのにどこでこうなったのか。
 とはいえ、理奈が元夫と上手くいかず悩んでいるとき、さらに遡れば何年も学校に行かなかったときだって、雅伸は何ひとつ力になってやれなかった。この拙い腕前でも、自分を頼ってきた妹の力になれるなら――雅伸はボタンダウンシャツの袖をめくり立ち上がった。
「作ってみる。見てろ」
「ありがとう。兄さん」
 理奈は口早に呟いて頬を緩めた。雅伸は妻からもらったグレーのエプロンを無言で身に着ける。あまり恩着せがましいのは好かない。
 食器棚の脇のファイルボックスから、B5サイズのノートを取り出す。鶏の照り焼きのページを開き、理奈の持ってきたレシピと並べて置いた。
 ノートの左ページには、インターネットや料理本で調べたレシピが書き記してある。実際に作ってみて気付いた点は赤で、二度目以降に改良した点は青で書き込んで、書くところがなくなれば付箋を貼る。最適解と思える分量と手順が判明したら右ページに清書している。
 理奈はメモの量に気圧されている様子だった。
「兄さんのレシピ、細かすぎない?」
「慣れないうちは逐一指示されるぐらいがちょうどいいんだ」
「だってこれ」
 理奈の整った爪先がコピー用紙を神経質に叩く。
「手順がシンプルで一番わかりやすいって評判のブロガーのレシピなんだけど」
「お前はそれでわかったのか?」
 雅伸が皿の上の黒い物体を指差すと、理奈はぐっと黙り込んでしまった。説明が短いほど簡単と思いたがるのは初心者あるあるだ。
 雅伸は鶏肉と調味料一式をテーブルに並べた。理奈が眉をひそめて腰を浮かせる。
「待って。めんつゆは使いたくない」
「なんで」
「初心者なのに調味料ばかり増やしたくないの。使い切れなかったらもったいないでしょ?」
「初心者こそ調味料をケチるな。たかだか数百円だろ」
「シンプルイズベストって言葉もあるじゃない」
「ケースバイケースって言葉もある。ここにあるのはスーパーの特売の肉と工場産の調味料で、俺たちはズブの素人だ。最高級食材に囲まれた凄腕料理人じゃない」
 まだ何か言いたげな理奈を無視し、照り焼きのたれを作り始めた。
 理奈のレシピから醤油とみりんを五ccずつ減らして、代わりにめんつゆを小さじ二。
「だしで味を安定させる。塩や砂糖だけでバランスをとるのは難しいから、うま味を利用するといい」
「なんで塩と砂糖だけだと難しいの?」
「人間の舌は塩味と甘味の変化に敏感だからだ。ナトリウムやグルコースは生命活動の維持に直結する分、少しでも量が変わるとすぐ気付くようにできてる。美味しく感じる範囲まで繊細に調節していくのは、『正解』がぼんやりしてる俺たち初心者には難しい」
 はたと口を閉ざす。理屈に偏りすぎたか。妻が相手なら理解を放棄した顔で『へー!』と言ってくるところだが……理奈は熱心にメモを取っている。そういえば昔から、母の感情的な説教より雅伸の理詰めの注意で反省する方が多かったような。
 たれができたら調理台に移動し、鶏肉の厚くなっている部分に包丁を入れて開く。ついでに余計な脂や筋も切っていくが、いっぺんに言うと理奈も混乱するだろうから黙っておく。
「今は何をしてるの」
「均一に火が通るように厚みを揃えてる」
「皮に切り込みを入れてるのも?」
「そう。味の染み込みもよくなる」
「レシピには書いてなかったことばっかり。ちゃんと教えてくれないと困るのに」
 理奈は眉を寄せてコピー用紙とにらめっこしていた。雅伸は妹に気付かれないよう苦笑する。
 自分も作り始めの頃はよく、記載されていない情報や曖昧な表現に憤慨していた。さっと湯がく? ひと煮立ち? きつね色になるまで? 少々? 適量? ひとつまみ? 客観的な表現と具体的な数値で言ってくれ! 再現性が低すぎる!
 皮目を下にして鶏肉をフライパンに。これも理奈の持参したレシピにはなかったが、やっているうちに覚えた。こうしないと縮んでしまっておいしくないのだ。
「初めてのメニューは複数のレシピを比較した方がいい。どこが共通しているのか、どこが省かれているのか確認してから作ると失敗が少なくて済む」
「文章そのものだけじゃなくて行間まで読むの? 国語の試験問題みたい。作成者の意図を汲まないといけないなんて大変すぎ」
 理奈は首を振って冷蔵庫に寄りかかる。雅伸は肉の焼ける音を注意深く聞いている。
「そこまでレシピに拘泥しなくていい。目的は誰かの料理を完全に再現することじゃなくて、うまいものを食べることだろ。料理全般に通用する理屈を知っていれば、成功の確率が上がるってだけだ。あまり構えるなよ」
 先端にシリコンカバーのついた耐熱トングで肉をひっくり返す。いい色だ。
「『焼き色をつける』はこんな具合。理奈はこの段階で生焼けを気にして、長い時間やったのがよくなかった。中まで火を通すのは次の『二・三分蒸し焼きにする』のときでいい」
 火を弱めふたをしたら、キッチンタイマーを二分半にセット。理奈が腕組みをしてうなっている。
「『二・三分蒸し焼き』はともかく、『焼き色をつける』は具体的にどういう状態なのかはっきりしないのよ。レシピの写真は完成図だし、兄さんみたいに成功した体験があるわけでもないし」
「途中の画像があるレシピを探せばいい。今は動画もたくさんあるだろう。失敗しても、何度か作ればそのうち覚えるさ」
 理奈は変な顔で雅伸を見つめていた。
 なんだよ、と問うと、別に、と目を逸らす。
「兄さん、やっぱり変わったなと思って。昔は何が何でも書いてあるとおりにしかやらないし、求めてる結果にならなきゃダメだって感じだったのに」
「そうかもな」
 雅伸は時計を見遣る。そろそろ妻が帰ってくる頃か。給湯パネルで風呂の追い炊きをセット。
「こっちがいくら意地を張ったって、食材は融通を利かせてくれないからな。人間の方が歩み寄っていくしかないんだよ」
 テーブルの黒焦げの塊をそっと片付ける。妻に見られて『懐かしい』などと言われては兄としての沽券にかかわる。
「理奈も食っていくだろ」
「いいの?」
「手伝ってくれるならな」
 きっと妻も喜ぶだろう。雅伸よりよほど理奈と仲がいいから。
 鶏の照り焼きと合うように和風の副菜を用意。ほうれん草は、鉄分やカルシウムと結合してしまうシュウ酸を減らすために、たっぷりのお湯で茹でる。マンガン豊富なピンクの部分も捨てずに使う。多めの白味噌ときび砂糖は、成分云々というより妻の好み。
 理奈はペンとメモを置き、食材と調理道具を手に真剣な表情。雅伸も、今度は省かずにひとつひとつ説明をしていく。妹と一緒に何かをしたのはいつぶりだろう。
 愛情という不確かなものは教えられないけれど、はっきりとした理屈なら、どうやら理奈も自分も得意みたいだ。