眠れぬ夜に

雅伸(まさのぶ)くんって、お薬ないと絶対眠れないんですか?」
 妻の質問は実に唐突だったから、雅伸はシートから押し出した錠剤を床に転がしてしまった。
「すみません、未紅(みく)さん。ただ寝るだけのことに金を使わせてしまって」
「そうじゃなくて。単純に疑問なんです、疲れてても眠れないっていうの」
 はい、と未紅は落ちた薬をにこやかに手渡してくる。雅伸は受け取りながら、飲むのか……と逡巡する。睡眠導入剤は次の診療までの日数分しかない。一錠でも飲み逃せば足りなくなってしまうが、いやしかし。
 悩んだ末、雅伸は小さな粒をティッシュペーパーの上に置いた。
「試してみます。もしかしたら、薬なしで寝つけるようになってるかもしれませんし」
「いいですね! わたしも明日はお休みですし、寝られなかったら夜通しおしゃべりしていましょうよ」
 いそいそと歯を磨きに行く未紅。雅伸は、今朝整えたのにまた乱れているベッド――夕食前に未紅が寝転がってスマホをいじっていたせい――を直し、彼女を待つ。
 そうして同じ寝床に入り、未紅の好きなゲームの新作がTPS? からFPS?(新種の精神疾患ではないらしい)に変わってしまったことがいまだに悲しい旨を聞かされているうち、愚痴は途切れて寝息になった。
 あまりにも予想通りすぎて呆れる気にもならない。
 手持ち無沙汰の雅伸は、眠る妻を観察する。肌つやのいい童顔は、とても四十近くには見えない。時折何か食べてでもいるように口唇が動き、にへへといきなり笑ってまたむにゅむにゅする。
 駄目だ。いつまででも見ていられるし余計眠れない。雅伸が仰向けに寝返りを打つと、未紅が追尾してきて腕を握る。動けなくなって無意味に天井を眺めた。
 自分の稼ぎがないのも、養ってもらっているのも、独身のときと変わりはない。だがかつてのように倒れるまであてどなく外を歩き回ったり、明日に怯えて一晩中えずき続けたりすることはなくなった。
 今日も何事も成せなかったと、自分への落胆は今でもあるけれど――眠れぬ夜に味わうものは、満たされた退屈だけだ。
 時間潰しに明日の献立を考える。玉ねぎしか残っていないから、早いうちに何か買い足さないといけない。特売品は……。
 枕元で充電しているスマホをつかんで、片手でロックを解除した。未紅との連絡以外にも、チラシアプリを開くぐらいのことはできる。なるべく胸に押し付けて見ていたが、光を感知したのか未紅があくびした。
「すみません、起こしましたか」
「いえ、ごめんなさいわたし寝ちゃって」
「仕事で疲れてるんでしょう。気にしないでください」
 未紅はもう一度謝った後、ところで~、とふらふら首を振った。
「思い出したんですけど、わたしにも眠れない日って結構あったんですよね。明日もわたしは存在していいのかなーとかぐるぐる考えて、三時四時までゲームしてたりとか」
「起こしてくれれば……」
「あ、雅伸くんと暮らし始めてからは全くないんですよ。毎日快眠快便で」
 便の話はしてくれなくてもいいのだが。
 未紅は両手を伸ばしてきて、困惑する雅伸の頭をめちゃくちゃに撫で回した。
「きっと雅伸くんがわたしのお薬なんでしょうね。いつもありがとうございます」
 雅伸は息を止め目を逸らす。未紅がぐりんと首を巡らせ顔を覗き込んでくる。
「どうかしました? 雅伸くん」
「俺は未紅さんがいてくれるのに眠れなくて、申し訳ないなと」
「もー。雅伸くんの『アクロバティックごめんなさい』、慣れてくるとクセになるな~」
 未紅は肘をついて身を起こし、雅伸の頭を両腕で抱え込む。パジャマのボタンが鼻を圧し潰して痛い。
「わたし、あなたが安心して眠れるためのお金ならいくらだって稼いで来ますよ。雅伸くんはお酒もタバコもパチンコもしないし、いっつもご飯作ってくれて光熱費とかも気をつけてくれてるから、今までになく超々余裕ありますから!」
 未紅は雅伸の論理の飛躍を『クセになる』と言ったが、雅伸は過去の男と比べられることには一生慣れる気がしない。未紅の身体をやんわり押しのけて起き上がった。
「やっぱり薬飲んできます。先に寝ててください」
「ついてってもいいですか」
「何も面白くないですよ」
「そんなことないです。だって薬飲むとき、顎を上に向けるでしょう? その姿勢でぐって喉仏動かす雅伸くんわたしすっごく」
 それ以上聞いていられない。雅伸は片手で未紅を制する。
「ダメです。寝ててください」
「えー。見てるだけなのに」
「ダメです」
 追ってこないように念押しし、小走りでキッチンに戻る。調理台には一度床に落ちた薬。意を決して口に含む。飲み下すとき、思わず左手で喉を隠した。