千々ノ一夜迄

「『しんど百物語』、やってみませんか?」
 またおかしなことを言い出した。雅伸(まさのぶ)は眉をひそめて、隣に寝転ぶ女を見る。紺野(こんの)未紅(みく)はベッドにうつ伏せになって、膝から下をぱたぱたと動かしている。
「『百物語』ってあるでしょう? で、その怪談の代わりに、心がしんどいなぁって思ったことを順番に語っていくんです」
 仕種も黒目がちな童顔も三十には見えない。年甲斐という言葉が似合わない人だ。雅伸は横から手を伸ばし、ずり落ちた布団を引き上げてやる。
「それ、何が楽しいんですか」
「誰かに話すとちょっと楽になる、的なことですよ。仕事の愚痴を言ったりとか。それをもっと明るい感じでやってみようっていう革新的な試みなんですけど、どうですか?」
 自慢げに反らされた背で長い黒髪が揺れる。雅伸は微塵も共感できず、仰向けになって天井を見つめる。自室の天井も未紅の家の天井もさして変わりはない。ただ突き放すように遠い。
 同意しかねるからといって、わざわざ拒否するのも意地が悪いだろう。こんな感じですか、と雅伸は上を向いたまま口を開いた。
「俺はまともな就労の経験がないので、仕事といっても職探し中の愚痴になります。職安で紹介された会社へ面接に行ったときでした」
 A社を訪れた雅伸は、青いネクタイの男に促され奥の部屋へと入っていった。五帖ほどの狭さで、ブラインドの類は全て下りている。中央にぽつりと置かれた古いデスクトップパソコン。男は『これを打ち込んでおいてください』とA4のコピー用紙を一枚置いていった。一面、全角半角混じりの英数字と意味の通らない日本語で埋め尽くされている。雅伸は暗号じみた塊を忠実に再現すべく、無人の部屋でキーボードを叩く。完了の報告をするためにドアを開けると、先の男は『次はこれを』とまた紙を差し出す。そこには、やはり意味を成しているとは思えない不気味な文字列がびっしりと――。
「俺、いつ作業が終わってどう帰ってきたのか全く記憶にないんですよね」
「普通に怪談じゃないですか!」
 未紅は耳をふさいで一層激しく足をばたつかせた。雅伸は彼女の背に軽く片手を置く。
「障害者枠の技能試験なんてどこもそんなものですよ」
 雅伸は『障害/健常』の区分が好きではないが、公的に定められた基準の『向こう側』の人間は雅伸たちを『そうだ』と断じる。人格や過去を掘り返す対話は消え失せ、試される能力は耐久力だけ。そのただひとつさえ適えられず、雅伸としても心苦しくはあるけれど。
「はい。未紅さんの番です」
 バトンを手渡そうとすれば、いーえ、と未紅はむくれた顔をした。
「このゲームは、しんどいことを言ったら欲しいものをひとつ言う決まりなんです」
 百物語をゲームと呼んでいいものか疑問は残るところだが、とにかく『しんど百物語』の発案者は未紅だ。雅伸は少し悩んで、マットレス、と呟いた。
「え、これ寝心地悪いですか?」
 ベッドをばんばん叩く未紅の手を、雅伸は可能な限りそっと止める。
「昼間シーツ外したときすごくカビていたので」
「じゃあこの二重に敷いてあるバスタオルって」
「まぁ、気休めですけど。で、未紅さんのしんどいことって?」
「今まさに、結構高かったマットレスがカビていたことが判明したうえに人様にそれを教えられたことです」
「欲しいものは?」
「マットレス」
 未紅はヘッドレストで充電していたスマートフォンを素早く手に取り、猛烈な勢いで操作し始めた。代わりの物を注文しているらしい。ついでに回収業者にも依頼を出しておくと言う。
「明日中、っていうかもう今日かな、次に寝るまでに何とかなりそうです。シーツも一緒に新しいの頼んどいたんで。雅伸くん対応してもらっていいですか?」
「ええ。ありがとうございます」
 まったく便利な世の中だ。誰かにしわ寄せが行くぐらいには迅速な世の中だ。