秋奈
愛に正当性なんて 無粋は挟まず捨てるもの
恋の一等星なんて 人には話さず更けるもの
女は自らの重みに耐えかねて身を裂いた。
犬が鳴いている。吠えている。主のようで主でない女に。
黒いフェンスの剣先に女の一部が残っている。千切れた心の臓は二度と拍動しない。
金木犀が薫っている。誰待つでもなく芳醇に薫っている。
家が金持ちだから。成績がいいから。
理由など何でもよかったのだろう。きっと秋奈である必要もなかった。
中学一年のとき始まったいじめは、二年生になっても続いていた。持ち物がなくなる、机に花瓶を置かれる、こんな古典的なことをする連中がまだいるのかと思うばかりだ。愚かな子供たちに秋奈は憐れみすら覚える。
その日も秋奈は『ブス』と書かれた教科書を鞄にしまうところだった。
『かわいいのにね。きみ』
その子は最初から気負いなく秋奈に話しかけてきた。黒縁の眼鏡にポニーテール。クラスの中心で、冬乃冬乃と持ち上げられていた少女だった。
いじめを打ち明けたとき両親は言った。
――相手をするから面白がる。そんなものは無視すればいい。
秋奈はずっとそのとおりにしてきた。反応を引き出すために嫌がらせがエスカレートしても、ずっと黙って耐えてきた。
冬乃のリアクションは全く違った。今まで友達面していた連中に手のひらを返されても、臆さず立ち向かった。トイレの個室で水をかけられれば犯人たちに抱きついて制服を台無しにし、教科書に落書きされればそいつらの教科書に相田みつをの詩を太い黒マジックで書き、上履きを隠されたときはポリ袋を履いて歩いて先生に怒られた。
ゴールデンウィークが開ける頃、秋奈の周りで不審なことは一切起こらなくなった。
黒板に悪口を書かれることも、いきなり足をかけられることも、身に覚えのない噂で小突かれることも、大したことはないと思っていた。思っていたのに。
『ありがとう。私、どうお礼すればいいの』
何事もなく校舎を出られた日、秋奈は冬乃にしがみついて嗚咽した。冬乃は秋奈の肩をぎゅっと抱きながら、底抜けに明るい声で答えた。
『じゃあ、秋奈って呼ばせてよ。うちは冬乃ね』
『そんなことで、いいの?』
『うん。ふーゆーの。言ってみ? りぴーとあふたみー』
『……ふゆの』
この二年間が人生で一番美しかったと、秋奈は心から思う。
体育祭の障害物走、文化祭の劇、合唱コンクールの最優秀賞……全部冬乃がそばにいて一緒に頑張ってくれた。喜んでくれた。
第一志望の私立にわざと落ちて、滑り止めだった冬乃の志望校に通うことにしたのだって、なんの後悔もない。
後悔はひとつだけ。
春子と千夏を、高校入学前に殺しておけばよかった。
『ねえ秋奈、知ってる? このクラス春と夏の子がいるよ』
秋奈にはそんなことどうでもよかった。秋と冬で季節は完結していて、それ以上のものは世界に必要ない。
冬乃はその二人に声をかけ、ほどなく四人一塊になって動くようになった。
大してかわいくもないのに傲慢で、自己愛のためならルールも破る春子。
本当は人一倍プライドが高いくせに、自分の価値を誰に近しいかで決める千夏。
仲間扱いされたくなかったけれど、冬乃が二人にしてやっていることは秋奈がしてもらったことと同じだから……止めれば冬乃は秋奈から離れてしまいそうで、何も言えなかった。
どんな人でも死んだら悲しいというのが両親の教えで、秋奈も今年の春まではそう信じていた。だが違った。春子が亡くなったと聞いた瞬間こそショックだったが、葬儀が済んでからじわじわと秋奈の胸に兆したのは歓喜だ。
厄介な春子はもういない。千夏だけなら大した害ではない。くだらない恋に口出ししなければただの気弱で凡庸な少女だ。
これからは、もっと楽に過ごせる。
秋奈は、春子の死を受け止めきれずにいる冬乃にずっと寄り添った。冬乃の涙を拭う役目はこれ以上ないほど誇らしく、心を穏やかに満たした。冬乃が笑顔を取り戻すことも、その度に秋奈への依存を強めることもたまらなく甘美で、秋奈は初めて春子に感謝さえした。
そして夏、千夏が恋敵の女性教諭を殺害してそのまま線路に身を投げた。千夏を利用していた男性教諭も学校を去り、秋奈が冬乃と学校生活を送るのに邪魔な人間はついに一人もいなくなった。
千夏のとき、冬乃は春子のときほど落ち込んでいなかった。今度はうちが秋奈を支えるからねと抱きしめてくれた。
ああ、やっと。やっと二人きりで。
秋奈は喜びと安堵で号泣したが、夏の盛りは長く続かなかった。
『秋奈、今日は何してた?』
『何も。家庭教師が来て勉強するだけ。冬乃に会いたくて気が狂いそう』
フリック入力を終え、送信する前に秋奈は最後の一文を削除した。『冬乃と一緒に学校に行きたいな』と書き直して矢印をタップ。一分待っても既読がつかないので、胸にスマートフォンを伏せてベッドに横になる。
『友人』二人の身勝手な死、教師の不祥事などを受け、両親は秋奈を強制的に退学させた。新しい学校はこちらで選ぶと言い張って、宙ぶらりんの秋奈は入れ代わり立ち代わり現れる家庭教師に勉強を教わる日々だ。
秋になっても、冬乃を残してきた学校は落ち着かないようだった。秋奈は今すぐにでも駆け寄って冬乃を慰めたい。気丈なふりをして実は繊細な冬乃だから。秋奈のために明るく振る舞っているだけで、本当はぼろぼろのはずだから。
冬乃。優しい冬乃。かわいい冬乃。
あなたのためなら私だって、人ぐらい平気で殺せる。
千夏にできたのだからそれぐらい訳はないわ。
ねぇ、誰を殺せばあなたに会える?
その晩、秋奈は初めて親と言い争った。
入浴中にスマホをチェックされ、冬乃とやりとりしていることを咎められたのだ。
プライバシーだの権利だの、小難しくてどうでもいい言葉で秋奈は親を罵った。
冬乃が贈ってくれたのはみんな綺麗な気持ちだった。秋奈が冬乃に送ったメッセージも、友人を心配する美しいものだ。胸の奥の箱を解き放たない限り、秋奈を責められる者はこの社会に誰一人いない。
秋奈がいつもと違う反応をしても、両親はいつもどおり理不尽だった。
秋奈のスマホを壊し、部屋のデスクトップパソコンもすっかり没収していった。泣いても喚いても正論を振りかざしても何ひとつ変わらない。
深夜のベッドで、秋奈は赤く腫れあがったまぶたを閉じる。
このまま冬乃に一生会えないのだろうか。親に人生を支配されたまま?
嫌だ。けれど軽率に親を殺せば千夏の二の舞になる。もっと発覚に時間がかかって、ダメージも少ないもの……。
秋奈ははっと飛び起き机の引き出しを開けた。
通帳とカード。ばれないうちに全額下ろして、そのまま姿をくらませてしまえば。
秋奈は急いで着替えを始めた。まず冬乃に会わなければ。一度だけお邪魔したあの家に、記憶を頼りに行ってみよう。動きやすさを考慮して慣れないパンツを穿きつつ、久しぶりに冬乃に見せる姿だからと上はフリルのついたブラウスにした。
冬乃と合流した後は……考えない。ただ一度冬乃に会って、本当の気持ちを伝えよう。
愛してるとそう言って、それでも冬乃が秋奈を拒まないでくれたなら、二人で世界の果てへでも共に行こう。
秋奈は大嫌いな絨毯敷きの廊下を静かに駆け抜け、木の覆い茂った庭を低い姿勢で進み、敷地と外を隔てる鉄柵にたどり着いた。秋奈の身長より高いが、どうにかのぼれそうだ。意味があるか分からないけれど、映画で見たとおり手に唾を擦りつけて飛びつく。
自分の身体を向こう側に渡すというのは、思っていた以上の重労働だった。剥がれた塗料が手のひらに突き刺さって痛い。
秋奈は月を睨みつけて涙をこらえた。
冬乃に会うためだもの。誰を殺してもいいと決めた。私の手が犠牲になるぐらいなんだというの。やらなくちゃ。冬乃のために。
フェンスに直接上るのは難しそうだ。近くのごつごつした木に足をかける。子供の頃友達がやっていたのを思い出しながら、右手、右足、左手、左足……。二階ほどの高さまで来た。ここからフェンスを飛び越えれば、多少怪我をしたとしても外には出られる。
冬乃、今行くから!
秋奈は汗だくの顔を輝かせ、道路に向けて全力で身を投げ――。
――とてつもなく大きな音に背中を殴られた。
バランスを崩しながら直感した。ミエルだ。『蜂蜜』という名の不細工な犬。母にしか懐かず、父や秋奈が近くを通ると必ず吠える。
ざん、と胸に衝撃。ひどく熱い。せっかくのブラウスが別の色に染まっていく。大切な何かがどんどんこぼれ出ていく。
うそ。なに、これ。なにこれ。なにこれなにこれ。
秋奈は自分を引き留める鉄の棒から逃れようとする。背面に突き出た剣先はびくともしない。
両手で揺する。揺する。揺する。
ちがう、わたしは、あのこたちとは。
もっと、もっと、ちゃんと、きれいに。
ふゆのと。
「う、ぅ、ぉ」
せめて最後に呼びたかった名前は、獣の唸りと化して月夜に消えた。
犬が吠えている。主の娘という他人を排除してなお吠えている。
金木犀の香りは誰も待ち焦がれていないし、誰に待ち望まれてもいない。