やさしくしたい - 3/5

千夏

きらきらと
弾けて踊るこの気持ち
ころりころりと転がる鈴が
黙るだなんて夢の夢

 

 線路は血の海だった。脇に咲いた薄紫の紫陽花も赤い露をまとっている。
 折れた口紅、砕けたアイシャドウ、飛び散ったチーク、べたべたに汚れたカッターナイフ……たくさんのものが海を彩っている。
 運転手と乗客は、女が線路の中央に立ち尽くしていたと言う。
 一部始終を見守っていたのは血濡れの紫陽花だけだ。

 

「じゃあ、また木曜日にね」
「はい。おやすみなさい」
 千夏は改札越しに手を振った。彼は軽く片手を挙げ家への道を引き返していく。彼の背が消えるまで見送って、千夏は誰もいないホームを踊るように歩く。
 春子がいなくなってから、千夏の生活はすこぶる順調だ。
 第一発見者として疑われもしたけれど、春子は死んでからやっと千夏の役に立ってくれた。カメラには自らロープに首を突っ込んだ写真、ロープと釘に残っていたのは春子の指紋だけ。廃墟で違法な撮影を繰り返していたことも知れ渡っていて、やる気のない地方警察は事故死と断定して千夏を解放した。
 ――春子。馬鹿な女の子だった。純潔のまま死にたいと吹聴して、そのとおりに首を吊って。処女に価値があるだなんて本気で信じていた。
 千夏は星空を見上げ、彼の指先を思い出しながら自分の腕を抱く。
 人は愛されてこそ華だ。十五歳年上の恋人は、千夏に生きる意味を教えてくれた。他の女の子と比べて一喜一憂していた日々に終わりをくれた。自分は彼に選ばれるぐらい特別なのだと胸を張れた。
 それを『昭和専』とからかった春子のことは死んでも許さない。
 千夏はスマートフォンを取り出し、SNSのホームを開く。鍵付きのアカウントで、繋がっているのは口のかたい秋奈と情に篤い冬乃だけだ。
『はぁ。すき。。。来週が遠い~』
 夜空の写真を添付。きっといつものように冬乃がいいねをして秋奈がスルーする。そうやって千夏の世界は平穏に回っていく。
 恋する人の名を呟く夜が、幸福でなくて一体何だろう?
青鷺(あおさぎ)せんせ……」
 切ない。明日も学校で会えるのに、昼間は千夏だけの先生でないなんて。

 

 今日は向こうで食べましょう、とその日の秋奈は無感情に言った。面倒な話だと千夏はすぐ覚る。
 閉鎖された屋上の前、階段の一番上の踊り場で昼休みを過ごすことに、生徒会役員の秋奈はずっと反対していた。それを押してまで内密にしたい話が、面倒以外のはずがない。
「あの人とはまだ続いているの?」
 秋奈は神経質な手つきで煮豆をつまんでいた。肩につかないようまっすぐに切りそろえた髪は、秋奈がいちいち引きたがる善悪の線を思わせた。
 千夏の彼が数学の青鷺先生であると知ったとき、秋奈は烈火のごとく怒った。いつもは謝って済ませる千夏も、このときばかりは言い返した。
 ――青鷺先生には奥さんも恋人もいないし、不倫とかじゃない。避妊も毎回してくれるし、駅までの道も必ず送ってくれる。わたしは大切にされている。
 対して秋奈の言い分はこうだった。
 ――本当に大切にしているなら、在学中に手を出したりしない。周りに隠さなければいけない関係になったりしない。避妊は保身に過ぎないし、送るのが自宅ではなく駅までなのも配慮が足りない。
 どちらも譲らず一時期は険悪になったのだが、冬乃のとりなしで秋奈も『応援はしないが口出しもしない』という立場を取ってくれるようになった。それなのに。
「また最初の話に戻るの? 秋奈ちゃん、しつこいよ」
 千夏は箸を握ったまま秋奈を睨みつける。秋奈は億劫そうに眉をひそめただけで何も言わない。まぁまぁ、と冬乃が苦笑いで割って入った。
「秋奈は心配してるだけだよ。変な噂流れてるから」
「なに、それ。変てなに」
「ええと……」
 今度は冬乃が口ごもり、ちらちらと秋奈の顔を見た。冬乃は『四人組』、春子がいなくなってからは『三人組』であることを強調するくせに、結局秋奈とばかり秘密を共有している。千夏は学校にいる間だけの添え物。二人にとっては本当の友達ではない。
 秋奈は弁当箱の蓋を閉じ、冷たく言い放つ。
「青鷺先生、最近は水貝(みずがい)先生と仲がいいみたいね」
「は?」
 千夏の喉から、自分のものかと疑うぐらいかわいくない声が出た。
 水貝先生は、今年の四月に来た新任の英語教師だ。小柄でちょっと天然で、男子にも女子にも人気のある女性。
「空き教室に二人で入って行くのを見たという人がいるのよ。生徒会にも、美術部にもね」
「ほら、なんか大事な話があったとかだろうけど……ね」
 鬼の首を取ったかのような秋奈と、優柔不断な冬乃。
 大事な話? 空き教室で、数学教師と英語教師が何を話し合うって?
「直接訊いてみる。多分何かの間違いだもの」
 千夏は食べかけの弁当を片付けて、職員室に急いだ。授業のことで質問があると言えば先生を呼び出すのは難しくない。本当は、学校ではなるべく関わらない約束なのだけれど……秋奈の持ち込んだくだらない噂を放置するには、木曜日は遠すぎる。
 職員室から青鷺先生が出てきた。ナイスタイミング。やはり運命が二人を繋いでいるのだ。千夏が浮かれて声をかけようとしたら、水貝先生が姿を現す。
 まさか。
 千夏はとっさに隠れて二人の様子を観察した。青鷺先生と水貝先生はつかず離れずの距離で階段を上がっていき、昔は資料室だった空き部屋に時間差で入っていった。
 千夏は腰をかがめて近づき、ドアについた小窓からそっと中を覗き込む。
 男と女が抱き合っていた。激しく口唇を押し付け合っていた。千夏が彼としてきた夢見るような口づけではなく、肉を貪り合う大人のキス。
 千夏は震えて立ち尽くす。汚らわしくて見ていたくないのに、足が動かない。
 彼の背中越しに水貝先生と目が合った。女は慌てた様子もなく喉を逸らす。男は女の胸元を余裕なく食い荒らす。
 千夏はゆっくりと空き教室から離れ、用もない渡り廊下を真顔でずっと歩いていった。
 思い出していたのは春子のことだった。

 

『その口紅、素敵な色だねぇ』
 千夏の台詞に、女子トイレで化粧直しをしていた春子は、眉をひそめて振り返った。
『欲しいの?』
『えっ? なんで、そういうんじゃないよ』
 他意はなかった。ただ素直に褒めただけだ。どうして春子はすぐうがった見方をするのだろう。
 春子は歩み寄ってきて、口紅を千夏のブレザーの胸ポケットに滑り込ませた。
『あげる』
『だ、だからそういうつもりじゃ……』
『いいの。もらって』
 春子は目を伏せて、ぼそぼそと呟いた。
『あんたに褒められる程度のものなんて、いらないし』
 千夏はそのとき、自分がどう返したのか分からない。多分何も言えなかった。手のひらに爪が食い込むほど拳を握りしめたのは覚えている。
 それから千夏は、春子の持ち物をできる限り真似するようになった。化粧品、スマホケース、キーホルダー、文房具……メイクの仕方や髪型まで。
 他人と違うことをステータスにしている春子。千夏が同じものを手に入れるとすぐ別のものを探す。どうせそれも量産品なのに。
 春子のメッキを剥いでやるたび、千夏は笑みが止まらなかった。
 つまらないと思ってる女にどんどん底を見抜かれて、次々おもちゃを取り上げられて、どんな気持ち?
 ――今、千夏は春子の気持ちが解るかもしれない。
 ちょっと他の先生より若くて、背が低くて、脇が甘くて、生徒になめられているのを人気と勘違いしてへらへらしているあの女……あんな程度の女にたらしこまれて。
 他の男とは違うと、思慮深くて誠実だと思っていたのに。
 青鷺先生って、案外とつまらない男だ。

 

「水貝先生って、青鷺先生と付き合ってるんですか?」
 放課後、千夏は水貝先生を呼び出した。二人が絡み合っていたあの教室に。
 水貝先生はいつものドジっ子キャラが嘘みたいに、強気な顔で笑っていた。
「かわいいわね。抱き合うには付き合ってないといけない?」
「先生同士が学校で、恥ずかしいと思わないんですか?」
 肩から提げたスクールバッグが重い。
 千夏は正しいことを言っているはずだ。この女を破滅に追い込める立場にあるはずだ。
 なのに何故この女は、窓辺に寄りかかって悠然としている?
 ――春子みたいに。
「学校で、とかそんなことどうでもいいくせに。青鷺先生に手を出されるのが嫌なんでしょう?」
「は? 何言ってんのあんた。バカなんじゃないの?」
 千夏は鞄に右手を突っ込んで一歩前に出た。
 この女がわたしと彼のことを知っているはずがない。彼がこんな女にわたしとのことを話すはずがない。
 女は右手の指を緩慢に折り曲げる。
「どうして自分は木曜日しか呼んでもらえないのかって、考えたことなかった? 教師になるような男ってどこかしら生真面目なのかしらね。月から金まで規則正しく五人の生徒を食い散らかして、あなたの担当は木曜。木曜だけの女」
「……だまれ」
 千夏は鞄に入れた手を強く握りしめた。
 だまれ。だまれだまれだまれ。全部嘘だ。おまえが彼をたぶらかしたんだ。彼がわたしに囁いた愛が、あの丁寧であたたかな指先が間違いなんかであっちゃいけない。
 女は長い指で水色のブラウスをはだけさせた。黒い下着に不自然な白い汚れが付着している。
「こんなところに出しちゃって、いけない子よね?」
 千夏の視界が真っ赤に明滅する。あふれた感情は声のかたちを取らなかった。千夏は女に向けて無表情で右腕を振り下ろす。女の口唇が叫びに変わる。悲鳴は響かず、喉はごぶごぶと赤い泡を散らすだけだった。
「あはっ」
 千夏はあたたかい胸を左手で抱く。
 このぬくもりは彼がくれるものと似ている。千夏の胸に白く吐き出す気持ちと同じ温度。もっと浴びたい。もっと奪い取りたい。
 反対側からもう一度カッターで斬りつける。千夏の胸にまた液体と熱が届く。
 目の前の肉塊は最早、女でも人でもなくなった。千夏が彼の愛を思い出すための装置。
 ねえ、本当はこんな風にわたしを抱きたかったんでしょう? 木曜が遠くて、仕方がないからこの女で憂さを晴らしていたんでしょう? いけない人。
「いけない子ね……」
 使えなくなったおもちゃを見下ろし、千夏はうっとりと胸を撫でる。
 そうだ、あの人にもおしおきしなくっちゃ。でも、わたしはいい子だから学校でいたずらを責めたりしない。そう、あの人のお家で――ちゃんとご飯を作って、お風呂も沸かして、待っているのはわたしだけでいいって思い知らせてあげなくちゃ。
 千夏は真っ赤に染まった制服で裏門から出た。今なら何でもできそうな気がする。彼の家を目指し軽やかに駆ける。
 大回りしていく時間がもったいなくて、線路をたどって駅までショートカットすることにした。どうせ田舎だから平日の昼間に電車はほとんど通らない。
 脇に揺れる紫陽花を横目に鼻歌。
 そうだ。春子にもらったものも、春子を真似したものも全部捨てていこう。
 新しいあの人になってもらうなら、わたしも今日から新しい自分にならなくちゃ。
 千夏は鞄をひっくり返していく。ここなら電車がぐちゃぐちゃにしてくれるだろう。急に処分したら怪しまれるからと、持ち歩いていたあれもこれも捨ててやる。メイク道具も、キーホルダーも、文房具も全部!
 文字どおり肩の荷を下ろし浮かれていた千夏だが、スマホを見て動きを止めた。
 スマホは彼との思い出もあるから持っていよう。ケースはいらない、中身だけ……かたくてなかなか外れない。端に爪を引っかけて、こうやって、こうして、こう……もう少し……取れた!
 あ、と思ったときには電車が真横にいた。身体は宙へ。意識があったのは地面に落ちたところまで。
 轟音が響いていた。遠くで警報機が鳴いていた。すぐそこで紫陽花が泣いていた。
 最期は春子と似ても似つかぬ姿だった。