ロスト・アクトレス - 4/11

3.楠探偵事務所

「ここ、だよ、な?」
 神成はその建物を見上げ、首を傾げた。楠にもらった名刺の住所によると、確かに事務所はここのはずなのだが。
 東京都板橋区高島平。電車は都営三田線ぐらいしか通っていない。ここに来るまで、バス停からも大分歩かされた。かつて判ではない方の先輩が、『あそこは独立国だから出入りにパスポートが要る』とつまらないジョークを飛ばしていたが、確かに非常にアクセスがしづらい。定時になると、仕事が残っていても『邪魔だ』とほっぽり出される今の部署にいなければ、とてもこんな時間――一九時台になど訪れることが出来なかっただろう。
 しかし、それにしても。
「団地じゃないのか、これ……」
 どう見ても集合住宅にしか見えないものの前で、化かされたかと神成はちらりと疑う。だが、自分はまた『先輩』を追ってしまった。ならば、もう踏み込むより他にあるまい。意を決して歩いていく。名刺には『2F』とあるので上がり方を探す。三メートルほどの幅がある階段を見つけ、二階に行くと、小さな看板がぱらぱらと立っていた。下層をテナントに貸し出しているタイプの団地らしい。英会話教室や百円ショップのガラス戸を通り過ぎ、一番奥に『楠探偵事務所』を発見した。
 そこだけ場違いに木製の扉。可愛らしいプレートは、手前の手芸屋で材料でも買って作ったのだろうか。優しげな空気がかえって薄気味悪い。神成はやはり何かの妄想でも見せられている気分で、呼び出しボタンを押した。何の反応もなかった。ブザー音はしたのだから、壊れているのではないと思うのだが、中からは何の物音もしない。もう一度押してみる。反応なし。眉をひそめながら、名刺に記された〇三から始まる電話番号にかけてみる。ドアの向こうで鳴っている。が、留守番電話に切り替わってしまう。
「いない……?」
 これから行くと連絡したら、分かりましたと言ったのに。神成がもう一つ記された番号、固定電話ではなく、楠の携帯電話にかけようとしたときだった。
「だ、誰……」
 扉が数センチだけ開いた。チェーンをしっかりかけてこちらを窺っているのは、パーカーのフードを目深に被った青年だった。いつでも閉められるようにドアノブを強く握っている。神成は努めて愛想よく微笑んだ。
「夜分遅く申し訳ありません。昨日楠所長に依頼させていただいた、神成と申します。今日、お会いさせていただくお約束でしたので……」
 青年は神成の口上を最後まで聞かなかった。暗い瞳を片方だけ覗かせて、ぼそぼそと問う。
「警察?」
「え?」
「優愛が、警察の人間が来るって……それ、本当?」
「え、ええ」
 優愛、とは随分親しげに呼ぶ。彼女のオトコだろうかと下賤なことを考えつつ、神成は身分証をぱっと見せた。いわゆる警察手帳。顔が認識出来る程度には長く、番号が暗記出来ない程度に短く提示。青年は目を伏せ、だるそうに片手を上げた。ドアを閉じられるのかと思ったら、チェーンを外してもらえた。
「僕にはどうせ、それが本物かどうかも分からないけど。そういうDQNな名字の刑事が来たら、入れてやれって、言われてるから。あとはシラネ。……入れば」
「はぁ。ありがとうございます」
 どきゅんな、というのは彼の感想で、楠が言ったのではないと信じたい。
 青年は扉を押さえてくれるでもなく、ふらふらと奥に戻っていってしまう。神成は慌てて手を突っ込み、自分が通れるスペースを確保してからどうにか中に入る。迷ったが一応鍵は閉めておいた。パステルカラーの玄関マットを靴のまま通り抜け、事務所の内部を観察。
 まるで託児所だった。ぬいぐるみや乳幼児向けのおもちゃが、威圧感のない程度に並べられて、床には衝撃吸収用のマット。ローテーブルも角が通常よりも丸いものを用意してある。渋谷の信用調査会社とは大違いだ。
 青年は中央のソファに深く腰掛けて、両手でポケコンを持ち、何やらゲームに興じていた。舌打ちや毒づきが頻繁に交じるところからするに、首尾は芳しくないらしい。
「あの、すみません」
「な、なんだよ。座りたければ、座れば。僕の隣以外。あ、正面も無理」
「いえ。そうではなくて」
 神成は腰を落とし、青年のフードの奥を読もうとした。
「以前。どこかで――」
「西條くん!」
 突如響いた女の声に、びくりと青年が身を跳ねさせる。振り返ると、薄い緑のエコバッグを提げた楠がいた。
「ごめんなさい、お会計思ったより時間かかっちゃって……」
「な、な、優愛ぁ! 人前で呼ぶなって……!」
「『西條くん』」
 神成が低く呟いて、楠は初めて客の存在と、自分の失言に気付いたようだった。神成はわざと青年を見ず、楠に大仰な挨拶をした。
「こんばんは、楠さん。そちらは、『西條拓巳くん』?」
 青年が、ううう、とうめいているのが聞こえる。楠は、観念したように、はいと肩を落とした。
「そうです。今回の、依頼主の……西條、拓巳くんです」
 神成は、嘆息して白い天井を仰ぐ。
 先輩。もしかしたら俺は今、あなたと同じかそれ以上に面倒なことに、足だか首だかを突っ込んでいるのかも、しれません。

「はい、どうぞ」
 紅茶は所長の楠が手ずから淹れてくれた。というか社員は彼女一人なのだという。ありがとうございます、と神成は軽く頭を下げる。
「それにしても、随分とやわらかい雰囲気の事務所ですね」
 言外の『ファンシーな』というニュアンスも嗅ぎ取ったのだろう、楠は苦笑しながら向かいに腰を下ろした。
「土地柄、相談にいらっしゃるのはお子さん連れの主婦の方が多いんです。安心していただきたくて、いろいろやっていたら、こんな風になっちゃって」
「ゆ、優愛は少女趣味だから。ふひひ」
 青年――西條拓巳は変な笑い声を上げたが、神成が驚いて目を向けると、勢いよく顔を背けた。神成にしてみれば職業柄慣れっこの反応ではあるが、それを差し引いても彼のは過剰な気もする。まぁ、かつてあれだけの人間に追い回されたのだから、視線恐怖を患ってもおかしくはない。
 フードを背中側に落とした彼は、確かに見覚えのある造形をしていた。ワイドショーを騒がせた『エスパー少年』、当時十七歳。と、いうことは今は二十五歳か。八年の歳月は少年の風貌から幼さを取り去ったが、少し目尻の垂れた目はどこかまだあどけなく、成熟を拒むような色をしていた。
「優愛の、儲からない浮気相談所の話は、いいよ。り、梨深の話」
 ひどい早口のくせに時折不自然につっかえる。別の、しかし似たような名前の、同じような事件に関わった青年が、出逢ったばかりの頃に見せていた話し方に近かった。神成は西條から視線をやや外し、向かいのソファの背もたれを見る。
「ああ。咲畑梨深さん、だったか。捜すのは構わないが、もう少し彼女に関する情報が欲しい」
「かかか、カノジョとかそんなんじゃないんだから勘違いしないでよね!」
「は?」
 何故急に裏声になったのか理解出来ない。真っ赤になっている西條の肩を、隣の楠が遠慮がちに叩く。
「西條くん。多分ただの三人称です」
「し、知ってた」
「あ、あー……」
 神成は視線の置き場に再び困る。
「すまない、楠さんの言う通り他意のない三人称だ。その、俺はそういうセクシャリティに関する偏見はなるべく持たないように心がけているつもりなんだけど、無神経だったなら謝る……」
「ちがうちがう、そうじゃ、そうじゃない!」
「神成さん。西條くんは照れてるだけで、性自認は男性ですし性的指向は女性のみです」
「あ、そうですか」
「冷静に解説されるのセカンドレイプ案件!」
 話が進まない。
「り、梨深は……咲畑梨深は、ギガロマニアックスだよ。カオスチャイルド症候群の患者とは違う、ほ、本物の」
 気を取り直して事情を説明し始めてくれた西條だが、フードはまた被られてしまった。神成は冷めかかっている紅茶に、『褐色の恋人』たるミルクを入れる。
「戸籍がないっていうのは?」
「覚醒実験の為に、委員会に破棄された。梨深には、もう本当の両親もいないし……『咲畑梨深』は、多分本名じゃない。肉体が持っていたラベルは、もう本人も、知らない」
「知らない? 覚えていない、ではなく?」
「知らない。その人格は、もう死んでる。からっぽの身体に、何度も心が生まれて、拷問がつらすぎて、自殺して。そのうちの誰かが、器に名前を付けて。次の誰かが、覚えてたり、忘れてたりして。生き残ったとき、ちょうどラベルが『咲畑梨深』だった。だから、それを使ってる。それだけ」
 西條は俯いて淡々と語っていた。口調に反してあまりにも凄惨な、その女性の過去を。神成は思わずハンカチで自分の口許を押さえた。
 南沢泉理の過去は常識外れに過酷だと思っていた。山添うきの置かれていた状況はこれ以上ないほど異常だと考えていた。研究者たちの非道は常軌を逸していると憤った。それでも彼女たちは、なお『彼女たち自身』でいられたのに。空の身体を遺して、精神だけが何人分も殺され続ける? それではまるで。
「――尾上世莉架と、逆だと思う?」
「え?」
 口にしそうだったことを別の声で言われ、神成は顔を上げる。西條はつまらなそうな視線を寄越した後、投げやりな様子でソファの背もたれに上体を沈めた。
「あんたの疑問に答える。僕は『再来』についてもある程度知ってる。ギガロマニアックスだったのは前の話で、今のは思考を読んだわけじゃない。他には?」
「あ、いや」
「西條くん、それじゃあんまりですから」
 困惑する神成の向かいで、やんわりと楠が言った。彼女がいなければ、本当に話が通じないだろう。
「発端は、ええと、昨日でいいんですよね?」
「正確には、一昨日。途中で昨日になった」
「そうですね。最近渋谷が『物騒だ』というので、もう九月だし、またニュージェネが起こるんじゃないかと……咲畑さんがそう心配して、西條くんの家を飛び出して」
「ちょ、っと、処理が追い付かないぞ」
 神成は震えながら片手を上げた。西條拓巳は男、性自認も男、性的指向は女性のみ、咲畑梨深は『カノジョ』ではない。が。
「な、なんだよ。ど、童貞が女の子と同棲してちゃ悪い? えっちなのはいけないとおもいます」
 西條はふてくされた声で言った。なんだか事情が複雑すぎるのだが、とりあえず最後まで聞くことにする。
「梨深と僕は、い、一緒に暮らしてる。深い意味とかない、いっそあってくれてもいいのに……なくて、梨深が死ぬほど貧乏で、生活力がアレだから、放り出せないだけ。優愛は保身で伏せたけど、実はこの事務所はずっと『ラプチャーC』っていう、新種の合成ドラッグを追ってた。若者に強く作用するっていうそれが、委員会の電磁波照射装置のレセプターの役割を果たすんじゃないかって、情報があって。それ知った梨深が、僕に黙って家を出てった。僕はちょうどコンビニ行ってて気付かなくて。書き置きあって。慌てて優愛に連絡した」
「わたしは、それからずっと渋谷を捜していたんですが……手がかりがなくて。少し思うところがあって、フリージアにも寄らなかったんです。そこで、判さんのことを思い出して」
「俺のところ……というか、警視庁に来た、と」
「はい」
 神成は嘆息して、西條ほどではないが持て余した背中をソファに預けた。片手で頭を軽く押さえる。とりあえず記憶だけして、整理するのは落ち着いてからにしよう。情報も状況も、あまりにややこしい。
「どういう関係か知らないけど。そのひとを捜してくれって言う割に、落ち着いてるんだな、君は。西條くん」
「あんたは転んで擦りむいた子供が一日以上泣き叫び続けてると思うの?」
 早口に言い捨てられ、そうだなと神成は素直に降伏した。確かに、いくら大変な心持ちだからと言って、現実的にはいつまでも喚いているわけにいかない。思えばあの世紀の冤罪でさえ、彼は自力で引っくり返している。あれから八年。自分の望まない現実の前で、駄々をこねるほど子供でもないのだろう。この頃は年甲斐のない人間ばかりだから、神成の物差しも年々役に立たなくなるのだけれど。
「俺はどうすればいい。渋谷の知り合いに咲畑さんのことを、片っ端から訊いて回ればいいのか?」
「あ、あんたバカぁ!? どこに委員会の目があるか分かんないのに、大っぴらに捜してますって騒いだら普通に警察に届けるのと変わんないだろ常識的に考えて!」
 前言を撤回。西條拓巳は神成が見積もった以上に子供だった。神成は背筋を直しながら、引き続き頭を押さえている。
「常識的に考えたら、委員会の話にはならないと思うんだが……」
「うわもうクソリプ!」
「楠さん! 彼には話を続ける意思があるのか!?」
「ご、ごめんなさい意思はあるんです! 彼はコミュニケーション手段がちょっと特殊なだけなんです!」
 結局、神成が安全そうな手段で、咲畑梨深と新ドラッグについて調べるということで落ち着いた。最初から、単純明快にそう言ってほしかった。

「……まだ帰ってなかったんだ」
 神成が事務所の外にある自動販売機でコーヒーを買っていると、西條が出てきてぼそりと言った。神成はもう一度小銭を投入する。
「何を?」
「こ、コーラ」
「……そう」
 缶のつもりだったので入れた金が足りていなかった。五〇〇ミリのペットボトルを買える分の小銭を足して、光るボタンを押す。がたんとコーラが降ってくる。炭酸飲料を投げるわけにはいかないので、手を伸ばして渡した。
「どうぞ」
「ど、どうも」
 神成は缶を開けながら立ち去ろうとしたのだが、どうやら西條はついてくる。階段のところまで歩いて、振り返ってやった。
「何か言い忘れたことでも?」
「忘れてたんじゃ、ないけど。あんたが確実に梨深を捜すって……保険をかけたいんだ」
 神成は答えず段差に腰かけた。西條は近くの壁に寄りかかり、神成を見下ろす。
「――判って人のこと。最期、知りたいって思う?」
 まだ一口も飲んでいない、コーヒーの缶が。手から滑り落ちて、転がっていって、どこかへ消えた。
「思うんだね。僕は知ってる。見てた。誰がどうやって、殺したか。何て言って、死んだか」
「……どうして!」
 神成は勢いよく立ち上がったが、続きが出て来なかった。『どうして』。どうして黙っていた? どうして殺された? どうして、今。想いが乱れすぎて、何を言えばいいのか分からない。
 フードを被った西條の表情は読めない。
「言っとくけど、僕じゃない。それでも確実に分かってる。どうしてかっていうのも、報酬だよ。……梨深を、見つけて」
「そんなに、大事か。彼女が。初めて会った俺を脅すほど」
 威圧的な声を出しても、今度の西條は全く怯えなかった。目を逸らした青年とは別人かと思うほど。フード越し視線を上げて、ぶれずに神成を見据える。
「大事とか、そういうのじゃないんだ。そういうレベルじゃない。梨深が生きてないと、『僕の存在する理由がない』」
 恐ろしく冷えた声だった。並大抵の男女関係で発せられたなら、ひどく陳腐に響くであろう台詞を、彼は何の衒いも熱情もなく言い切った。神成は、意に反して空になってしまった両手を握り締める。
「君は、ギガロマニアックスだったんだろう」
「昔はね」
「なら――」
「そうだよ。今は他人の思考を読めないけど。多分、あんたが考えてるので合ってる」
 何がどうと西條拓巳は言わなかった。だが、合っているのなら得意げに言い当てる必要もない。神成は目を伏せ、缶コーヒーが作っていった汚い滝を見ていた。
「保険なんかなくても、人捜しぐらい引き受けてやる。あまり刑事を見くびってもらっちゃ困る」
「じゃあ、見つけてよ。そしたら僕も安心して、口が滑るかもしれないから」
 西條はふらときびすを返した。神成も黙って階段を下り始める。
「ねぇ」
 半分ぐらいで、西條が上から声をかけてきた。どうでもよさそうな口調で。
「あんたもその、優愛に頼んだ『久野里』って人のこと、『大事』なの」
「さぁな、死なれたら寝覚めが悪いって程度の腐れ縁だよ!」
 言い捨てて一気に下まで行った。我に返って振り向いたとき、西條の姿はもうなかった。
 最初から何もかも、狐に化かされている気分だ。落とした缶を見つけ出して手近なゴミ箱に放り込むと、神成はまた半端な位置にあるバス停を目指した。