ロスト・アクトレス - 10/11

EX.今回は一人じゃない

「ッ、あ」
「変な声を出すな、気持ち悪い」
 久野里は露骨に眉をひそめたが、耳朶に穴を開けられてノーリアクションでいろという方が酷だ。とはいえ、確かに大の男が喘ぎじみた声を漏らすのはセクハラのようでもある。神成はプライドにかけて黙ることにした。
 碧朋学園元新聞部、集団昏睡事件。先日起こったばかりのそれで、神成は全く蚊帳の外だった。委員会のギガロマニアックス・和久井修一の仕組んだ『妄想シンクロ』。新聞部でなかった久野里澪まで巻き込まれたというのに、神成は全てが終わった後で事態を知った。しかも彼女はよりによって、妄想の中で『神成岳志のふりをした和久井修一』と行動を共にしていたという。
 これが業腹でなくて何だ。
「動くなよ」
 消毒液を含んだ脱脂綿が冷たい。反して近くにかかる久野里の息が熱いので、何だか変な気分になる。顔を背けるわけにもいかず、神成はせめて目を伏せた。
 どうして一人だけ戻ってこられた、と訊いたとき、多分私だけじゃないと言い置いて、久野里はそのカラクリを教えてくれた。体内にマイクロマシンを埋め込むなど、SFじゃあるまいし正気の沙汰じゃないと神成は言いたいのだが、目の前の小娘は現にやってのけたのだ。じゃあ俺も、と意地を張るのはある意味必定の流れだった。ただし勇気だけでなく金も相当持っていかれた。いつもの病室で施術中だが、いろいろと居心地が悪い。
「これ、ピアスホールってどれぐらいで定着する?」
 神成が、これは医療行為、と自身に言い聞かせながら尋ねると、さぁと久野里は気のない返事である。
「普通は三ヶ月ぐらいじゃないのか」
「え、仕事中に困るな……」
 ピアスホールとはいわば傷口である。塞がらないようにする為には、自然治癒を阻害する固定用のピアスが必要になる。しかし、警察官が大っぴらにそんなのものを着けて歩けない。久野里は、ふむと件のファーストピアスを手の中で転がしながら、悪びれずに言ってのけた。
「効果は薄まるが、外付けに出来なくもないぞ」
「あんた何でそれ穴開けてから言った?」
「訊かれなかったから」
「手口が完全に詐欺なんだが」
「ちなみに改造は別料金」
 詐欺師――もとい商売上手な久野里澪の手の平に、五千円という半端な額の札を叩きつけ、神成は後日『ジャミング』用のイヤーカフを受け取った。
 二〇一六年の春のことだった。

「さて、と」
 二〇一七年秋。神成は普段使いのスーツに例のイヤーカフを着け、ある場所に立っていた。隣には久野里澪の姿もある。
 滑り止めワックスがしっかりかけられた薄茶色の床面は、てらてらと品なく光っていた。色違いに幾本も貼られたテープは、神成ほどの年代になると郷愁さえ呼び起こす。
 『学園の体育館』――二人が今回の舞台に選んだのは、まさに『ここ』だった。あれで幕引きと安心するほど、神成も久野里も楽観的ではない。『ディソード』を持ち出したからには、ギガロマニアックスは絶対に事件に絡んでいる。そう結論付けてここまでやって来たのだ。
「これ、意外と重いな。久野里さんもよくこんなもの振り回すよ」
 ディソードのレプリカを手に神成が呟けば、横の女は小さく笑った。
「本物は重さを感じない。物理法則の外にある妄想の剣だからな」
「そういうものか……」
 解りもしないのに分かったような口を利いてみるが、お見通しなのか彼女は深く追及してこない。もどかしいようなわずかの沈黙の後、そいつは、狙い通り姿を現した。
「……あーあ。ギガロマニアックスが関わっているというから、僕も議員先生たちに手を貸してあげたっていうのに。またキミか、久野里くん」
 和久井修一。追っては追っては、『神成の目だけ』をすり抜けてきた男。今ようやく、眼前にそいつが、いる。
「あのオートマタだって、過去のCODEサンプルまで持ち出して忠実に再現したんだ。ニシジョウタクミと楠美愛のは、詳細なデータがなかったから精度は劣るだろうけど、他の彼女たちの動きなんてかなり真に迫っていたと思うよ? なのにキミたちは、ロクに確かめもしないで全部壊してくれちゃってさぁ。僕は結構頭にきているよ」
 口許は笑みらしく歪んでいたが、目許は全く笑っていなかった。射抜くように神成の隣にいる女を睨んでいる。神成はレプリカの柄を握り締め、何の警告もなく突然に振りかぶった。
「俺を無視するのもすっかり板についたもんだな、おい!」
 非武装の人間を鈍器で殴りつけるなど言語道断ではあったが、和久井はつまらなそうにディソードでレプリカを受けていた。神成が見てきたギガロマニアックスたちの数は少ないが、それでも異常なほど禍々しいと断言出来る形状の剣だった。いや、剣と呼んでいいのかすら怪しい。悪意の具現、とでも言うべき禍々しさ。
 和久井は顔すら動かさず、目だけで神成を見遣ってくる。
「ああ、なんだいキミか。一般人はここにいても死ぬだけだから、帰って寝なよ。僕ってほら、思いやり溢れるタイプだろう。無駄な殺生はしない主義なんだ」
「御大層なオモイヤリだな。無駄かどうか、殺せるかどうか、試してからもう一度言ってみろ!」
 獰猛に光る牙を、平凡なアルミニウム合金で逸らす。へえ、と初めて和久井が、神成をまともに見た。
「なるほどね、ディソードは本来持ち主にしか扱えない。だが模造品だからこそ、フィジカルの強い人間に預けたか。いや、考えた方じゃないかな? 褒めてもいいと思うよ」
「警察官になるには武道が必修でね。俺は一応剣道の段位を持ってる、これを剣として扱えるかは話が別だが」
「じゃあ試してごらんよおまわりさん。キミが、『紛い物』でもそれを扱えるかどうかをさ!」
 甲高い刃鳴りの音。夜のネオンサインより妖しく光る両のガラスライン。
 一度、破砕されかかったこのレプリカは、ギガロマニアックスの女性たちが『修復した』。これのオリジナルなら知っているから、細部を教わるまでもないと。
 そして今それは、神成の手に託された。
「がっかりだ、ああがっかりだね! 症候群者といい、その玩具といい、この頃はギガロマニアックスの大安売りだ! 僕らは、精神が一度崩壊するまでの地獄から生還した、強靭な存在のはずなのに! ちょっとつらいことがあった、ちょっと真似をしてみたかったで簡単に踏み込んでこられちゃ、不愉快ってものだろう!?」
 和久井の動きは実に常人離れしていた。一閃を弾き返しただけで手が痺れる。服の上から見ただけでも、あの筋肉量であの刃渡りの剣を自在に振り回せるとは到底思えない。そう在れかしと自らに課した妄想が、常軌を逸した剣線を引き出しているのだろう。ならば神成をいつでも殺せると信じている以上、外付けの妄想阻害など出来たところで、いつかは競り負ける。神成には、久野里ほどの才もない。道具を与えられたところで、思考誘導も妄想攻撃も可能になりはしないのだから。
 欠け落ちるニセモノの切っ先。そもそも、芯のないこの割れた剣身には耐久性などまるでない。そういった物質的概念を度外視した構造。神成が扱うなら、特殊警棒でも持ってきた方が余程ましに渡り合えたのかもしれなかった。完全に押されて、守りに入ることしか出来ない。致命的な傷こそ避けていたが、皮膚が裂かれる度に体育館の床に赤い飛沫が散る。
「ほら、口だけかな? もっとその剣道有段だかの腕前を見せてくれよ!」
 和久井がディソードを頭上に振りかぶる。神成はとっさにレプリカで受けようとして、目を瞠った。ありえない軌跡で曲がった和久井の『牙』は、神成の手にしたニセモノの中心へ滑るように入り込み支えとなっていたスポークをことごとく破壊する。真っ二つになったレプリカが重い音を立てて落ちる。あと一瞬指を開くのが遅かったら、そこに神成の両手も仲良く並んでいたことだろう。
「……そうだな。俺は『彼女たちほどの地獄を生き延びた』わけじゃない」
 神成は呟いた。そうだ。神成岳志に『ディソード』は扱えなかった。現実と地続きに生きてきた彼には、少女が己を外界から守る為に抱いた幻想を、共有することは出来ない。たとえニセモノであっても。少女の夢を預かることは、借り受けることは許されなかった。
 それでも、なお。壁際まで追い詰められ、用具倉庫の扉に背を向けながら、神成は不敵に笑う。
「だが今の貴様も、『認めたくない現実から目を背けているだけの癇癪持ちのガキ』にしか見えないね。宮代くんも久野里さんも、その姿を見たらきっと鼻で笑うだろうさ。なぁ、『和久井先生』?」
「……言うじゃないか」
 和久井は急に低い声で言い、間合いを外した。徒手空拳で壁際に立った彼女をちらと見、嗜虐的に口唇の端を上げる。
「子供に御膳立てしてもらわないと何一つ出来ない『オトナ様』がさ。その玩具だってそうだろう、前に上手くいったのをお下がりでもらって得意がって。二番煎じがいつまでも通じるとでも思っていたなら、僕も随分舐められたものだね……!」
 和久井のディソードが、神成がかばうように立っていた用具倉庫の扉を破壊する。はっと振り向くも間に合わない。それで中身を確信したらしい和久井は、満身創痍の神成を剣圧で跳ね飛ばし、悠々と中を覗き込む。
「そら、あった。カラクリを説明したくなるのは、科学者のサガってやつなのかな? 久野里くんも詰めが甘いよ。あのときのご高説さえなければ、僕はもう一度騙されてあげられたかもしれないのに、ねぇ!」
 和久井のディソードが、『その装置』を破壊する。破壊した、はずが。音は何もしなかった。手応えすらもなかっただろう。
 何もなかった(・・・・・・)。そう、そこには最初から、何もなかったのだ。
「何ッ……!」
 振り返ろうとした和久井の両脚に、短機関銃(サブマシンガン)の連射が叩き込まれる。近距離からMP5A5が吐き出した九ミリパラベラム弾は、『体育館』の床を無遠慮に赤く染める。神成も起き上がり、携行していた拳銃を抜き放つ。和久井はそれを見ていなかった。奴の視線は、ある一点に釘付けになっている。
「何故、また持っている……何故、光が消えない!?」
 何のことを言っているのかは一目瞭然だった。彼女は、赤く輝くそれを掲げ、冷酷に告げる。
「この『ディソード』は、本物だ」
 蒼井セナ(・・・・)が妄想を解き、自らの姿に戻ってディソードを握り直す。レプリカではなく、正真正銘のオリジナルを。倉庫の奥から出てきたのは、サブマシンガンを腰だめに構えたままの久野里澪。
「まだ分からないのか?」
 久野里は、左手の人差し指でくるりと周囲を示す。
「ここは『碧朋学園の体育館』じゃない」
「自分の勤務してた場所の詳細も覚えてないんじゃ、やっぱり観察力が足りてないな」
 神成も銃口を和久井に向けながら、呟いた。
「ここは『翠明学園の体育館』、正確に言えばその紛い物だ。彼女たちにはそちらの方がイメージしやすかったようなんでね」
「翠明、だと……!」
 ぱんと弾けるような音と共に、全体の照明が点いた。和久井が眩しそうに左腕で光を遮りながら、周囲を見回している。
 機材の為の二階通路。左に楠優愛、折原梢、岸本あやせ。向かいに西條七海、咲畑梨深、そして彼女に寄り添うように西條拓巳が立っている。
「……香月華は、一応僕と同じクランのプレイヤーでさ。あんたの話は、一通り聞いてるんだ。香月や宮代拓留に何をしたのかもね。『碧朋学園新聞部・元顧問の和久井修一先生』」
 西條は相変わらずフードを被っていたが、下からならば彼がどれだけ冷えた目をしているのかも分かった。和久井は血の止まらない両脚で膝をつきそうになりながら、西條を激しく睨みつける。
「『疾風迅雷のナイトハルト』……香月華のチャット相手か!」
「あんたあれをほとんど与太話だと思ってたのかな。意外とほとんど本当なんだよ」
 西條拓巳は、ただ静かに和久井修一を見下ろしていた。
「自分が『妄想シンクロ』を食らう側になって、今どんな気持ち?」

「彼女たちが全員、本物のギガロマニアックスだって?」
 神成が素っ頓狂な声を上げると、楠探偵事務所に新たに集った面々からいっせいに視線が飛んできた。いやあの、と席が足りず久野里の後ろに突っ立っている神成は、肩をすぼめる。
「あれだけの症候群者がいても、その中で『能力者』は数が少なくて、さらに『本物』は一人ぐらいだったと聞いたから……」
「こんなにいるのかって思いましたか?」
 楠はにこやかにティーカップを配り歩いていた。黙って受け取る女性もいれば、おさとうとミルクもと無邪気にねだる女性もいる。
「逆だ。あの病院だけでもどんな数の被験者がいたか、あんたもデータを見ただろう。日本中から集めて、いじり回して、やっと覚醒したのがこの数。それでも私からすれば恐ろしく手際がいい」
 ソファにふんぞり返った久野里が――彼女が一辺丸ごと陣取っているから神成は席がないのであるが――言い放つと、久野里さん、と向かいに腰かけている咲畑が声を上げた。
「悪気がないのは解ってるけど。もう少し、言い方考えてもらえないかな。……思い出したくないことも多いの」
「その子、こずぴぃたちの頭開けたいって思ってるのら!」
 壁際に立っていた女性が、思いきり久野里を指差す。歳は西條たちと同じだと言うが、黙っていればともかく、話し始めるととても幼く見える。傍らの黒髪の女性――どこか久野里に似ている――が、梢、とやんわり友人の名を呼んだ。
「彼女はこちら側の研究者だそうだ。私たちに対する好奇心はあるかもしれないが、ひどいことをしようとしているわけじゃない。味方だよ」
「うぴ? セナしゃんと拓巳しゃんのお友達なら、こずぴぃ今はなぁんにもしないよ」
 ツインテールを揺らして首を傾げる無邪気な姿と、『今は』という限定のギャップに、神成の背筋はうすら寒くなった。その『なぁんにもしない』状態が一秒でも長く続くよう留意しよう。
「それで、拓巳。キミが今回、私たちを集わせたのは何故?」
 楠のデスクに寄りかかりながら、ショートカットの女性が優雅に紅茶を口にした。彼女のことなら神成も知っている。かのファンタズムの歌姫・FESこと、岸本あやせだ。今日はあの顔色が悪く見える舞台化粧はしておらず、うっすらと粉をはたいて薄い紅を引いているだけのようだった。この方がかわいいんじゃないかなぁ、というのは神成の主観であるので、これ以上は胸中でも黙っていることにする。どこでどう読まれているか分からない。
 それにしても、と神成は部屋の中を見回す。壁際の折原梢、蒼井セナ。デスクの傍の岸本あやせ。ここの主、楠優愛。西條拓巳を挟むようにソファに座っている、咲畑梨深、西條七海。これだけのギガロマニアックスを、まだ理由も明確に伝えないまま、たった一日でここに呼びつけるとは。そこでいたたまれなそうにしている西條拓巳は、改めて何者なのだろうか?
「おにぃ、ナナも何にも聞いてないよ。また……危ないことなの?」
 西條七海が、兄の左手をぎゅっと握る。右の手首で、雪の結晶をかたどった飾りが小さく揺れた。西條兄は複雑そうな顔をした後、誰を見るでもなくテーブルに視線を落とした。
「い、委員会は二〇一五年の『渋谷箱庭実験』の失敗をきっかけに、『プロジェクト・ノア』凍結以来下火になっていたギガロマニアックス研究を、完全に打ち切る決定をした、らしい。ここまではわかるな?」
「ああ。『箱庭実験』も、そもそもは残務処理だったと聞いているしな。研究者の数が極端に減っているのは、私も肌で感じている」
 蒼井が片腕を折原に預けながら、ぽつりと呟く。彼女も何らかの研究をしていた……している? らしいが、神成は深く教えてもらっていない。西條は頷き、ただ、と言葉を継ぐ。
「その『箱庭実験』の首謀者、和久井修一がまだ手を引いていない。あいつは『宮代拓留』と、そこにいる『久野里澪』以外には興味がないらしいけど、宮代を闇堕ち再覚醒させられたら正直、状況はどうなるかわかんない」
「その、ミヤシロ、って人は、すごいギガロマニアックスだったの?」
 妹に問われ、しらんけど、と西條は困惑した声を出す。
「僕らは、完全覚醒した彼の力を、伝聞でしか知らない。でも、人間をゼロからリアルブートしたっていうのは、やっぱり警戒すべきだと思う」
 西條七海は顔を強張らせ、俯いた。沈黙を斬り裂くように、岸本の涼しい声が響く。
「私たちは、その滞留する思念を刈り取ればいいのね?」
 岸本は既に紅茶を置き、自分の爪の先を気にしている。
「闇は光あってこその闇。黒の持つ黒さと比べるものではないもの。拓巳の邪心ひとつで塗り潰せるわ」
「闇は対義を必要とする言語上の概念だが、黒は十六進数で表現し得る数学的事象だということか?」
「久野里さん、意味がわからない方向に話広げないでもらっていいか」
 神成は久野里の頭を押さえつけた。これ以上混乱させないでほしい。
 後ろでは折原が飛び跳ねている。
「こずぴぃも、拓巳しゃんをいじめるやつはドカバキグシャー! するのら!」
「梢、はしゃぐな」
 はしゃぎ方が物騒すぎておまわりさんは振り向きたくない。とにかく、と西條がやや大きな声を上げた。
「そいつが最後の『壁』だ。他のギガロマニアックス構成員も、多分和久井とは連携を取ってない。あいつを倒せれば、僕たちに対する委員会の視線は一気に崩せる」
 あれ、なんだ、と神成は違和感を抱く。西條は和久井を『壁』と呼んだ。それは本来なくなれば視界が広がるもののはずだし、『視線を崩す』という表現は日本語として成立していない。久野里も同意見らしく、怪訝そうな顔で神成を見上げてきた。神成も見つめ返しながら首をひねるしかない。どうやら翠明OGたちには、問題なく通じているようだったから。
「では、改めて」
 楠は紅茶を配っていたトレーを置き、所長の椅子に腰を下ろした。眼鏡を光らせながら、組んだ両手に口許をうずめる。まるでどこかの司令だった。
「和久井修一を無力化する為の会議を、始めます」

 蒼井セナが、『重さを感じない』というあのディソードを、目の高さに掲げ上げた。
「電磁波照射装置の精度向上により、委員会は元々疎ましかったギガロマニアックスを、既に無用のものとして切り捨てようとしている。意思を持った超誇大妄想狂など、本来抱えていても危険なだけだからな。お前たちは、『新世界』に在ってはならない時代遅れの『遺物』なんだ」
「黙れ、先に不要の烙印を押されたのは貴様の方だろう波多野セナァッ!!」
 和久井の太刀筋は粗暴に過ぎた。蒼井は軽く横に飛び、物理武器しか持たない久野里から離れるだけでいい。神成は和久井の背面を回るようにして、久野里に駆け寄る。
 西條たちの視線が、降ってくる。見るなと和久井が怒鳴った。自分を見るなと。
「こんなことをして、ただで済むと……!」
「三下の台詞だね。草が生えるよ」
 西條の声は小さいのに、和久井の声よりはっきりと、この狭い空間に響いた。
「あんた、野呂瀬をどう思う? あいつは、僕たちと梨深に負けたけど。あんたは、どうする? 勝てるつもりなら、六人のギガロマニアックスと一般人三人、一人で相手する?」
「調子に乗るな、ガキ共――!!」
 叫びながら和久井が狙ったのは、今まで奴に一番煮え湯を飲ませてきた、久野里澪だった。不意打ちでなくなって、もうギガロマニアックスに対してサブマシンガンなどものの役にも立たない。撃ち出された銃弾は全て空中でひしゃげて床に跳ね落ちていく。
「久野里さん!」
 神成は凶刃がその美しい身を裂く前に、和久井に背を見せるかたちで飛び出した。刹那、久野里の表情が目に入る。泣きそうな、悲しげな、微笑。神成も微笑み返そうとして、脇腹の灼熱感に顔を歪める。和久井のディソードが、後ろから肉をこそぎ取っていく。神成は血を噴き出させ、身を捻りながら倒れていく。ずっと上に立っている楠の姿が見えた。
 『先輩』は、楠を置いて一人で敵地へ赴き、味方を気遣って命を落とした。和久井修一がその程度のことを知らないはずがない。背を向ければこうなることは分かっていた。そう、だから。
 笑って逝った『先輩』の為に……神成は、笑うのだ。
「そう、来ると思ってた」
 諦念ではなく未来の為に。守れなかったという自嘲ではなく、守れたという自負の為に。
 無防備になったその空の頭に銃口を向ける。スローモーションの世界の中で引き金を絞る。床に叩きつけられながら放ったリボルバーの一発は、確かに和久井修一の頭蓋を貫通した。

「あの後、どうなった」
 すっかりおなじみのAH東京総合病院。今度は自分がベッドに寝る側になろうとは、と神成は腹に響かない程度に嘆息する。久野里澪はベッドの傍の壁に寄りかかり、見舞い品の果物を『どうせ食べられないんだろ』と勝手に見繕ってかじっている。
「死亡を確認する前に逃げられた。頭に傷を負わせたのは確かだが、知っての通り脳幹が無事なら即死はしない。どうやらそうならず抜けたらしいな」
 神成は眉を寄せて首を振った。やはりあの体勢からのダブルアクション射撃は精度に難があったか。せめて撃鉄を起こしておくべきだった。和久井もほとほと悪運が強い。
「だがそれって、どうなんだ。超誇大妄想家としては」
「分からん。ただ損傷箇所によっては、今後能力の行使に影響が出る可能性は大いにある。出血もかなり派手なことになっていた。一矢報いたと呼んでいい状況だろう」
「……そうか」
 そこで神成は仇敵の話を切り上げ、周りを見た。警察関係者からの花(そんなものはいいからもう少し何か『気持ち』が欲しい)、碧朋元新聞部員一同からの果物(これが食べられない。誰の発案かは何となく察している)、百瀬からは身の回り品一式(神成はこういうところで百瀬に気後れするのであるが)。そして、たくさんの本と、品のいい模様の紙製の栞。
「彼女たちは?」
 神成は片手で栞を裏返しながら尋ねた。『お大事になさってください また来ます。 楠』と流麗な字で書いてある。久野里は林檎の芯をそのままゴミ箱へ捨て、果汁のついた指先をぺろりと舐めた。
「めいめい好きなことを言って去っていったよ、楠優愛以外はな。元々西條拓巳を中心に繋がっているだけで、彼女たち同士は特段仲がいいというわけでもないらしい。あいつら自体がまるで妄想みたいだった」
「そうか」
 西條くんも結局何も言わずに去ったのかと、神成は本の背表紙を漫然と指でなぞってみる。一冊だけ、書店の紙カバーがかかったままのものがあった。ここから動かずには取れないので、久野里に頼んで渡してもらう。中を見る。口絵にいきなり、露出度の高い少女の姿がでんと出ていた。呆気に取られていると、挟んであったメモ用紙がひらりと降ってくる。それにもやはり、同じ少女の絵がプリントされていた。
『紹介が遅れちゃったけど、この子が僕の嫁の星来オルジェル。これは「ブラッドチューン」小説本。原作のノベライズじゃなくてスピンオフだけど、前日譚だしこっちからがオヌヌメ。本編と設定の齟齬もあるけど作者違うし後付けだからこまけぇこたぁいいんだよ。この本は布教用だから返さなくていい。続きが気になったら優愛に借りて。あいつ全巻初版で持ってるからwww』
「くっ、ふっ、ちょ、笑うと痛いんだって、勘弁しろよ……!」
 神成は背を丸めて身体を震わせた。名前は書いていなかったが、心当たりがありすぎる。久野里はきょとんとした顔でオレンジを消費する作業に勤しんでいた。
 笑い止んで、ふと、音がなくなる。二人共、元々あまりおしゃべりな方ではないから。休日に身を挺して一般人……一応久野里のことだが、をかばって負傷したということで、上の厚意により個室での入院だった。こんな平日の昼間、ドアを閉めていれば、この病棟の廊下が慌ただしいということもあまりない。
「……クロがな」
 神成が提供出来た話題は、結局のところ彼女が渡米する際に預けていった黒猫のことぐらいで。開け放した窓からは、九月の陽光が熱を持ち込んでいる。
「ときどき、何もない場所を見てる」
「猫っていうのはそういうもんだろう」
「そうだけどさ。俺はあれ、久野里さんを捜してるんじゃないかって、思ってるんだ」
 久野里は何も答えなかった。百瀬の持ってきてくれたウェットティッシュを、勝手に一枚引ったくっただけ。わしゃわしゃと指先をこすり合わせ、またゴミ箱の中に落とす。後で看護師さんに叱られるかもな、と神成は口唇だけで苦笑した。
「この後、君はどうするんだ。またアメリカに行くのか」
「生憎と当面戻る金がない」
「それなら――」
 こちらに向けられた彼女の目は、猫に似ている。見えない何かを見つめるような瞳。ただしそこには今、神成が映っていて。つい顔を背けてしまう。
「クロの傍に、またいればいい」
「回りくどい言い方はやめろ」
 そんな小手先で逃げられる相手ではないことぐらい、もうとっくに知っていたはずなのに。強い口調で言われて、そうだな、と神成は視線を上げた。彼女の姿は逆光で眩しかった。
「しばらくでもいいから、一緒に、暮らしてくれないか。俺と、君と、クロとで」
 何故だろう。何故、自分はこんなことを言い出したのだろう。痛みで弱っているから? 疲れて寂しくなっているから?
 違う。知っている。本当はずっと前から、口にしたかった言葉だった。今になって声に乗せた理由は、自分でもやはりまだ分からないけれど。
 その、細い手首を軽く掴む。いつでも振りほどける力で。縛りつけない強さで。
「もう、どこにも行ってほしくないんだ」
 彼女は顔を歪めていた。神成の自覚のない本音まで、解ってしまったように。
「あんたはあのとき、私の泣き顔を見ただろ」
 アメリカに旅立つ前のことを言っているとすぐに分かった。彼女が神成にそんな姿を見せたのは、あの一度きりだったから。
「でも、現場は押さえてない」
「状況証拠ならあった。だから」
 彼女はまた、同じ笑みを。この腹が裂かれる前に見せたのと同じ、悲しむような、憐れむような笑みを、神成だけに注ぐ。
「あんたが泣くなら、そうしてやるよ」
 横柄な言い方に、神成は微笑み返した。目尻から一筋だけ、彼女の要求したものが伝っていく。久野里澪はそのやわらかな笑顔から、翳を消す。
 光射す病室の中。風に揺れるカーテンの音を聞きながら、密やかな口付けを交わす。ペットボトルの回し飲みなどと、中学生のようなことはしたくせに、直接口唇に触れるのは初めてだった。いつしか自分はそれを欲していたのだと、今更になって理解した。
 彼女の心に、『彼』がいつまでも居続けようと、構わない。自分もそうだから。共に背負った運命だから。消せない業だから。彼女が『彼』に祈った分だけ、自分が『彼』に望みたかった分だけ、彼女と幸福を歩いていこう。『彼』が『あの子』に願ったような、平凡な幸せを。
「『ざらざらした大地』、か」
 なめらかな指先が、神成の肌を撫でる。ぱらぱらとひげの伸びてきてしまっている顎のことではないらしいが。どういう意味だと訊いても、ゆるゆる首を振られてしまう。
「治ったらゆっくり説明してやる」
 あの日、電話で伝えたかったことも思い出したからと、彼女は可憐に笑った。その指の隙間に、自分の節ばった指を滑り込ませて、神成は呟く。
「あのさ。こういうの、最初にはっきりさせといた方がいいと思うから、改めて言うよ」
「なんだよ」
 こんなときだってまたそんな、不機嫌そうな声を出す。そういう君の、君のことが。
「君のことが好きだ。久野里澪さん」
 二度と失わない。君のことだけは。この先もずっと、最期まで。
 絡めた指に返される、確かな力を感じながら、神成はそっと目を閉じる。彼女の囁いた返事に、かすかに頷く。
 女優たちはまたひとたび舞台を降りた。
 今年の秋は、もう何も起きない。