ブルーブルー・ビリジアン

 久野里澪から、日本にいるので面を貸せと電話があったのは、二〇一七年の暑い盛りの朝だった。
 神成岳志は、たまの休みだたっぷり寝坊しようと思っていたところ。急な呼び出しに相応の文句を言いかけたが、舌を軽く鳴らしただけで飲み込んだ。刑事の休日は少ないけれど、八ヶ月ぶりに帰国した人間と会う機会ほどの貴重さではない。
 通話が切れて、神成は早速身支度を始める。
 どうにも久野里は『先輩』――神成のではなく彼女自身の――の帰省に付き合って戻って来たらしい。盆が近いからだろうか。御茶ノ水にホテルを取っているとのことだったので、駅近くで待ち合せることにした。あの辺ならば車でない方がいい。
 渋谷署からは少し距離があるが、警視庁からは目と鼻の先だ(直線上にある皇居を『目と鼻の間』と呼んでいいのなら)。今更なようでも、オフの日に見つかるのは具合が悪い。
 癖でいつものワイシャツを手にしてから、仕事でもないのに酷暑の中、長袖を二枚も重ねる必要がないことに気が付いた。今週はずっと三十度越えが続いているのだ。
 箪笥の引き出しを開けて、中身をまじまじ眺めてみる。カジュアルな服のほとんどはモノトーン、プライベートでまで白と黒ばかり見なくてもいいのにと自分に辟易した。
 数少ない別の色――ただし全て寒色――から、迷った末に、襟ぐりの広いビリジアンのTシャツを選んだ。というより、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなって、一番手に取りやすい位置にあったものに決めただけ。
 上から、薄い素材のシャツを羽織る。爽やかな白色で、七分袖を意図的に折り返すデザイン。これを着ていれば、インナーがどうだろうとそれなりに様になってくれるので助かる。
 ボトムスはストレートのデニム一択。何にでも合う無難な紺。
 朝食にゼリー飲料を十秒でチャージ。
 仕事用よりあらゆる意味で軽い藍色のレザーバッグを肩に提げ、神成岳志は通気性重視の黒いスニーカーで出かけていく。

 

「飯を食わせろ」
 正午近く、御茶ノ水駅前。久野里澪は、神成がまだ何も言わないうちから、いきなり言い放った。相変わらず尊大に、片手を腰に当てなどしながら。しかも自分が指定した時間に遅れておいて、である。
「用ってのはまさかそれか?」
 やっと口に出せた台詞はひどく情けないものだった。
 眉をひそめる神成に、久野里は広すぎる襟からはみ出た白い肩をすくめる。ネイビーのトップスはどこか、あの頃の制服を思い起こさせた。
「話のついでに食事でも、ってのは定番だろ? ホテルが夕食なしでカップ麺しか食べてないんでね、腹が減って仕方ない」
「ビジネスホテルか? だとしても朝食ぐらいあるだろう」
「寝過ごした」
「自業自得だ……」
「空腹で寝つけなかったせいだぞ」
「ならもういっそ徹夜して、食ってから寝たらよかったんじゃないか?」
 久野里はなおも何か言い募ろうとしていたようだが、無益に気付いたか、黙って七分丈のスキニーパンツから伸びたふくらはぎを反対の足でかいた。仕種に品がない。
 神成は彼女の足元にちらと目を遣る。
「俺はこの辺あまり詳しくない。もうちょっと足をのばして後楽園まで行けば、いろいろ選べると思うけど」
 大した距離ではないが、女性もののサンダルが歩行に適しているとは思えない。
 丸の内線で二駅。電車なら片道二百円もかからないから、昼食代に上乗せしてやってもいいだろう。
「いい。歩く」
 久野里はあくびを噛み殺しながら、この暑さではいっそう邪魔そうな髪を揺らした。
「代わりに水代を寄越せ。本庁の空気からは離れたいんだろ? 公務員」
「五百ミリペットなら、電車賃と大体とんとんなんだがなぁ……」
 別の地名を出しただけで、二手三手先まで読まれてしまってまったく敵わない。
 近くの自販機でスポーツドリンクを買ってやってから、外堀通りを歩き出す。順天堂大学の敷地の間を通っていく。
 暇潰しに雑談をしようという試みは無駄に終わった。久野里はどんな話題を振っても、ろくな返事を返さない。
 海の向こうにいた分、この国とは違う暮らしをしていたのだろうに。些細な差異に大袈裟に驚くぐらいの世間話には付き合ってくれてもいいのではあるまいか。
 神成は、鞄に入れていたハンドタオルで額の汗を拭った。
「……使うか?」
 ダメ元で差し出してみたけれど、何であんたの体液が染みついたやつを肌に当てなきゃならないんだと、ものすごく誤解を招くような言い方で突っぱねられた。
「あーあー分かった分かった、君はこういう使い捨ての方がいいんだもんな、消費大国アメリカのお育ちじゃあな」
 神成の放り投げたメンズ用の制汗シートを、久野里は躊躇なく使い始めた。遠慮がなさすぎて本当にかわいげがない。オッサンのおしぼりかというぐらい豪快に顔を拭いている。化粧はしていないようだが、日焼け止めなどもしていないのだろうか。
 密かに心配していたら、未使用のシートが残ったパックのみならず、使用済みまで丸めて鞄に戻された。
「言っといて自分は押し付けるのかよ!」
「オナニーに使ってもいいぞ」
「死ぬよ!!」
 よく考えたら帰る頃には薬品が揮発してただの紙になっているとかそういう問題ではない。
 神成は新しいシートを取り出して、余計に熱くなってしまった顔に当てた。清涼タイプではないのにやけに冷たい気がした。
 やっとどうでもいい話を二、三して、途中で曲がってさらに先へ。
 そろそろ、行く手に白くて大きなメロンパンのようなものが見えてきた。
「東京ドームか」
 久野里が呟く。口振りからして、生で見るのは初めてらしかった。
「日本人はどうしてアレを、何かと計量器に使いたがるんだ? 分かりやすいとでも思ってるのか」
「そっちも日本人じゃないか……。俺も分かりづらいとは思うけど、他に代替出来るものがないんだろ、多分」
「福岡ドーム三杯分」
「申し訳ないが俺は西が丘競技場の方がまだ分かる」
「私は余計わからん」
 神成もメディアの不文律についてまで詳しいわけではない。
 実際、東京ドームのどこからどこまでの部分を指しているのかも分からない。面積なのか、体積なのか、座席部分は含むのか、高さは頂点が基準なのか、云々。
 くだらないことを言い合っている間に、『東京ドーム』はどんどん大きくなっていく。相対的に。
「……親父がさぁ」
 神成は目を細めて、その建物を見つめた。『東京ドーム』。
「どうしてもこう呼ぶんだよな。『後楽園球場』って」
「ただの俗称じゃないのか?」
「半分当たりだ、情強のケイさん」
「情強・情弱という呼称が最早古い」
「うるさい情弱。『後楽園球場』は東京ドームの前身『後楽園スタヂアム』の俗称なんだ。そっちはちょうど俺が生まれた年に解体されてる」
「その薀蓄、女に聞かせてウケると思って傾けてるのか。情強刑事さん」
「違う。あんまり言うからつい調べて詳しくなっちまったってオチ……どっちにしろ面白くないな、ごめん」
 無駄なことに体力を使ってしまった。予報では最高気温は体温を越えるかもというこんな日に。
 そんなことより、そろそろ何を食べるか決めないといけない。
「確か、そこのラクーアの中に、ムーミンカフェっていうのあったと思うんだが……」
 妻子持ちの上司から聞かされた話をちらつかせ、神成は横目で久野里を見る。隣を歩く女はさらりと即答。
「高くて少ないところより、あんたの財布でも腹にたまるものが食える場所がいい」
「同感。だと思った」
 こういうときばかり意見が合うのである。
 麺が食べたいというのでつけめん屋にした。夏休みの遊園地エリアの昼時らしく混んでいてうんざりしたが、恐らくキャラクターカフェよりはましだろう。子供の好むような店でもないから。
 やっとついた席で、白いシャツは念の為脱いで、人気の火付け役だとかいうつけめんを向かい合ってすする。神成は、味が濃すぎるし少し脂がくどいと感じた。久野里は文句も言わず、するすると食べている。若さの差かなぁ、と神成は内心でぼやきながら胃をさすった。
「すみませんまぜそば一つ追加」
 その正面で、勝手に追加注文する久野里。あとでもたれるぞぉと、店員を前にしては言えなかった。
「――で。飯は話のついでじゃなかったのか」
 本題に入るよう促すも、彼女は無視を決め込んで昼食を続けている。アメリカなら食事は充分ファッティだろうに(神成は研修で短期滞在しただけで胃を壊した)、このうえハイカロリーなものを食べて一体どこに脂肪を蓄えるつもり……無防備な襟元に目が行きかけて、慌てて顔を背けた。
 久野里が不意に声を出す。
「庭園」
「は?」
「この辺にあったろ」
「……ああ、小石川後楽園か」
 神成はこれ以上の栄養摂取を諦めて箸を置いた。
「君が日本庭園に興味を持つとは意外だな」
「興味はない。人が定点に留まりにくい分、盗み聞きをしている奴が目立つ」
「話はそこですると?」
「あんたが入園料を出せるならな」
 久野里のまぜそばが来た。十代か、いいところ二十代前半までなら神成も喜んで食べたかもしれないが、今は見ているだけでも体力を消耗するようである。食物なのに。
 自分の気を逸らす為に携帯電話で入園料を調べる。『一般三〇〇円』。遊園地に比べて良心的すぎて涙が出そう。携帯をしまってため息をつく。
「それで終わりだぞ。もう注文するなよ」
「ふところがしんろい?」
「口に入れながらしゃべるな。そろそろ移動したいからだ」
 久野里は答えの代わりに、そばをすするスピードを速めた。
 風光明媚なイメージがあったのに、庭園のベンチにはラジオを聞いている中年男性が寝転がっていた。そういえば競馬場が近いのだった、と男性の手の中の新聞で思い出す。
「もうちょっと奥行くか……」
 神成が促すと、久野里は舟を漕いでいるのだか頷いているのだか分からない首の振り方をした。寝不足であれだけ食べたら、そりゃあ眠くもなるはずだ。
 日陰の空いているベンチを探して、池の周りを歩く。この距離でも、後楽園駅――文京シビックセンターはよく見える。向こうの展望ラウンジからもこちらはよく見えるだろう。
 蝉時雨という言葉が似合う夏の庭で、私服で、恋人でもない女とこうして並んで。
 現実感がまるでない。
 やっと腰を落ち着けたベンチで、久野里澪は『委員会』の話を始める。緊急性の高いものはなく、現状報告のようなもの。メールや電話で済むような事柄を、さざめく水面に目を遣りながら一定のトーンでつらつらと。
 神成は、短い相槌を打ちながら聞いている。半分全く関係ないことを考えながら、だらだらと。他人との会話と自分の思案を並列で行うことなど簡単だ。日常としてこなしてきている。いつもいつも狭い部屋の中で。
 風が吹き渡る。あの頃より少しは整えられているような黒髪が揺れる。
 実際に帰って来たのは何日だったのだろうと。出ていくのはいつなんだろうかと。
 俺以外にも連絡をしたのだろうかと。だとしたら俺は何番目だったのだろうと。
 きっととてもどうでもいいことが、どうでもいいだけに発することが出来ず、澱になって胸に残る。
「――こちらの現状はこんな感じだ。そちらは?」
 久野里が話し終えて顔を向けてきた。
 夏の外気の中にあってもその瞳は涼やかで、また日陰の中にあっても光に満ち満ちている。
「何も。君が把握している以上のことは」
 そこに映っているのが自分であることに安らいでいると言ったら君は笑うだろうか。
「なら話は終わりだ。夕飯までには帰らないと、『うちの母さん』がうるさい」
 久野里は立ち上がって伸びをした。神成も苦笑して腰を浮かす。いつの間にかいい時間だ。
 日が長いから、針の進みを忘れそうになる。
「また二人でカップ麺か?」
「どうだろうな。昨晩は着いたばかりだったってのもあるから、今日はもう少しマシかもしれんが」
「送ってく。御茶ノ水の駅前で何か買って持たせてやるよ、先輩の分も」
「いいのか」
「何を今更」
「あいつは私と違って常識人だから、お礼をしないと、とか言って後で面倒なことになるぞ」
「相変わらず心配のポイントがおかしいんだよな……」
 和らいだ気配のない陽の下を再び歩き出すと、久野里は剥き出しの肩を軽くこすった。見れば、白いはずの肌は赤みを帯びてしまっている。
「こんな日にそんな格好でうろうろするから」
「あ?」
 どうせ、日焼け止めなんて塗っていないだろうし、持ってもいないのだろう。
 少しだけ迷ったが、神成は自分の上着を脱いだ。
 白いシャツ。ほら、と強引に彼女の肩に載せる。
 あの日の少女はこの約二年で女性になった。けれどその、紺に白を羽織る姿は。
「やっぱり、白は俺より君の方が似合ってる」
 眩しさに目を細めたのは、彼女が光源の側に立っていたから。きっとそれだけ。
 久野里は妙な顔で腕組みをしている。神成はおかしくて笑い出してしまった。
「やるよ、それ。紫外線よけに着てろ」
「汗臭い」
「悪かったな」
「いいさ。洗えば着られるだろう」
 彼女も小さく笑って、ようやくシャツに腕を通してくれた。
 肩が少し落ちてしまっているが、元が七分だから袖もそこまでおかしくはない。
「着心地は?」
「まぁもらっておく」
「そりゃあ光栄」
 帰りは電車の方がいいかと訊いたら、まだ日が高いから歩いて帰ろうと返された。
 また水を買ってやらなければ。もしかしたら絆創膏も。
 彼女が誰かのものになるまでは、こうして保護者の真似事をしていたって構わないのだろう。
 緑に囲まれた庭の中で、神成はビリジアンのシャツの裾を軽く振って、汗ばんだ素肌に風を送った。
 御茶ノ水まで、二人で歩けば案外近い。