もっと馬鹿ならよかった

 僕がその転校生を気にし始めたのは、やはり彼女の正体を知ってからだと思う。
 ネットラジオ『渋谷にうず』。垂れ流される無秩序な情報の中で、ここの管理人・ケイさんの発信する事柄だけは、清流のようにすっと抵抗なく入ってきた。彼女は、得意顔で間違いを撒き散らす他の情弱とは違う。本当の情報強者だ。
 リスナーという一方的な立場だけれど、僕はそれがとても嬉しかった。自分以外にもまだ『本物』がいるという事実が。そのうえ、彼女の声は心地いい。それこそ耳を雪ぐように。
 僕は配信予告があったときはいつも、日付変更前の数十分を、そわそわと過ごしていた。そして聴き終えた後は、決まって穏やかな眠りについた。
 それはすごく幸せな時間だったんじゃないかと、思うんだ。

 

「なぁおい、宮代ぉ……」
 新聞部の部室に伊藤がふらふらと入ってきたのは、放課後の一番だれた時間だった。
 香月はエンスーをやっているし、有村はジュース片手に文庫本を読み、乃々は生徒会、世莉架はそこでクリームパンを頬張りながら、やっぱりこのコンビニのが一番おいしいんだよぉと一人で上機嫌。
 僕は――誰も新聞部としての活動をしてくれないことに怒るのも疲れて、何とか紙面を埋めようと試みたものの、アイディアの深刻な枯渇を痛感していたところだ。
 だってこのところ、渋谷にはバカバカしい事件しか起こらない。
「どうしたんだよ、伊藤。掃除当番終わったのか」
 伊藤は質問には答えず、宮代、と僕の名前をもう一度繰り返し、幽鬼のような有様で机の真横に立った。
「ち、近いぞ。何なんだよ」
「知ってたか、宮代」
「何をだよ」
 僕の問いかけに、伊藤はぐんと後ろに首を反らした。そのまま勢いをつけて、思いきり机に両手を叩きつける。まるでゾンビのヘドバンだった。僕は思いきり飛びずさる。世莉架が、真ちゃんすごい動きしてるー! と感心したような声を出しているがそれどころじゃない。
「なぁッ、ななな、伊藤!? 危ないだろ!!」
「知ってたか! 宮代!! ケイさんが、俺たちの、ケイさんが!!」
 続く言葉は、いや別にケイさんは僕たちのじゃないぞというツッコミとか、僕が知らないはずないだろとかいう強がりとか、そういう一切合切を忘れさせるような内容で。
「嘘だろぉ!!」
 と、僕は肺活量の限界に挑む悲鳴を上げていたのだった。
 『ケイさん』の正体は、あの横柄な転校生――久野里澪である、と。

「嘘だろ……」
 帰り道も、僕は同じ言葉を繰り返しながらとぼとぼ歩いていた。伊藤が、ここは(ソフトドリンクで)飲み明かそうぜ宮代ぉ! と力説するのを振り切ってきたのだ。正直そんな気力ももうなかった。

 久野里さんは、僕と同じ学年の女子だけど、僕より背が高い。多分伊藤と、とんとんぐらいじゃないかと思う。
 いつも白衣を着ている変な人で、口も悪いし、よく新聞部の部室に来ては因縁をつけて勝手に帰っていく。たまに青葉寮にも顔を出しているとかいないとかで、乃々とケンカになっている、らしい。
 僕や伊藤や有村は、彼女のことを密かに『狂犬』と呼んでいるのだ。
 その久野里さんが『ケイさん』だと何故伊藤が知ったのか。
 久野里さんは何かの『研究』をしているらしくて(普通科の高校生の身空で出来る研究って何だろうと思うけれど)、たまに警察の人が『捜査協力』の要請にやってくる(女子高生に頼る国家権力って何だろうとも思うけれど)。

 伊藤は今週、校庭の掃除当番だった。誰もがバックレる面倒な仕事でも、新聞部員は真面目にこなす。
 そのいち、全校生徒に真の問題を提起するべき我々新聞部一同は、意義深い活動をサボタージュするべきではない。そのに、女帝が恐い。本当のところはこっちだ。
 とにかく校門近くのゴミを拾っていた伊藤は、久野里さんと神成刑事が話しているのを聞いてしまった。
『なんだ。私は昨晩も配信の下準備をしていて、眠いんだ。要件は手短に頼む』
『はぁ。普段もケイさんの半分ぐらい、愛想がよくてもいいだろうに』
 これで驚いた伊藤が、逃げればいいのに逆に飛び出して、いまのはなしってほんとうなんですかケイさんはくのさとさんなんですかと二人に詰め寄ったらしいのだ。そこで久野里さんが伊藤の顔面に蹴りを食らわせながら、ああ事実だと認めたと。キック速すぎてパンツみれなかったわ、と二重に落ち込む伊藤はたくましいのか何なのか分からない。

 ともあれ、伊藤に嘘をつく理由がない以上、『久野里さん=ケイさん』というのは本当なんだろう。
 ショックだ。とてもショックだ。ケイさんは淑女で、オフの日は陽射しの注ぐテラスで紅茶とか嗜んでて、揃えた膝の上で白いオッドアイの猫とか撫でてるイメージだったのに。足元に気性の穏やかな大型犬でもいい。

 それでも、僕が伊藤の言葉を、認めたくないけれど信じたのは、別の理由だった。
 久野里さんも、確かに情強なのだ。僕らよりも先に事件のことを嗅ぎつけて先手を打ったり、それこそ警察しか知らないはずの情報を持っていたり。新聞部で勝手にパソコンを使うときだって、世莉架たちと比べ物にならないほど慣れていて、あの腕ならネット配信ぐらい平気でやれるだろう。
 キャラ以外は、二人が同一人物であることを否定する要素が、全くない。むしろ僕の妄想した淑女の方が、ネットの猥雑さからはかけ離れている。
「なんで、ネットではあんなキャラなんだろう……受けがいいように猫被ってるのか?」
 僕はベッドにごろんと横になる。
 素の性格でやってもコアなファンはつきそうだけど、アンチも多くつきそうだしな。万人受けを狙ったらああなるのか。それを文字通り『計算』してキャラ調整して声色練習してる久野里さんとか、想像すると結構面白い。
 ケイさん、ってどこから来たんだろう。クノサト、の頭文字かな。

 なんだかんだ妄想しているうちに、また十二時が近づく。
 僕は今夜も、彼女の声を最後まで聴いた。

 

「久野里さんについて?」
 神成さんは目を丸くして、僕の質問を繰り返した。
 結局一睡もせず彼女のことを考えていた僕は、このままでは無駄に睡眠時間を削ってしまうと結論付けた。
 そして久野里さんについて調査をすることにしたのだが……彼女の教室に行く勇気もなければ、そもそもクラスを知らなかった。
 世莉架たちは学年が違うし、乃々は彼女を毛嫌いしているようで恐くて訊けず、女子に関する情報ならば僕より詳しいはずの伊藤は、次はどう蹴られればパンツを見ることが出来るかの脳内シミュレーションに忙しそうなので触れずにおいた。
 それで、渋谷警察署前の歩道橋で張り込みをしていたのだ。こんな個人的なことで刑事さんに連絡までは出来ないけど、通りがかった神成さんをつかまえるならここが一番確率が高いと思ったから。
「と言っても、俺は彼女のプライベートまで知ってるわけじゃないよ」
「でも、ケイさんだってことは知ってたじゃないですか」
「なんだ、拗ねてるのかい?」
「なんで僕が拗ねなくちゃいけないんですか」
 神成さんは苦笑して、取り出した手帳に何かを書きつけた。そのページを破って、こっちに寄越す。
「久野里さんち。何か食べ物を持って行けば、多少態度は軟化するんじゃないかな」
「こ、個人情報の漏洩だ……警察の腐敗だ」
 わなわなと手を震わせながら、僕はそれを受け取ってしまった。共犯だね、と神成さんは意地悪く笑う。
「頑張れよ、恋する少年」
「なんでこれが恋ってことになるんですか!」
 怒鳴ったけど、神成さんは取り合わずに歩道橋を下りていってしまった。
 改めてメモを見る。ここからそんなには遠くない。今からでも、行こうと思えば行ける。
 でも、少しだけ。僕は神成さんの字を見たことがないはずなのに、『こんな字だったかな』と、何故か思った。

 

「……何しに来た」
「え、あ、あの」
 どうして十八時に寝起きの顔なのかは訊かない方がいいだろうか。
 僕は悩んだ挙句、久野里さんが住んでいるというアパートを訪ねた。駅から結構離れていて、かなり築年数が経っていそうだ。家賃も相当安いだろう。
「久野里さんが、ケイさんだって伊藤から聞いて、その」
「ファンレターなら間に合ってる。新聞もだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 確かにアポなしで女子の一人暮らしに押し掛けた僕も悪いけど! 話も聞かずにドアを閉めようとすることないじゃないか!
 僕は手に持った袋をばっと掲げる。
「取材を! させてほしいと思って! 匿名でもオフレコでももちろん大丈夫です、ギャラはヒレカツ弁当でどうですか!!」
 コンビニのじゃないぞ、専門店のだぞとロゴマークをちらつかせた。
 とてもどうでもいいけど、僕は『個別の11人』のシンボルマークを見るとここのカツを思い出す。とてもどうでもいいけど。
 久野里さんは不愉快そうに顔を歪め、けれどお腹を鳴らしながら、斜め下を睨む。
「……入れ」
 即落ち2コマってこういうことかなと、ちょっと思った。

 部屋の中は僕のトレーラーハウスよりも散らかっていた。立派なPC前の座椅子から動かずに済む範囲に水のボトルが何本も立っていて、ものぐさ加減がよく分かる。洗濯は一応しているみたいだけど、衣類は積んであるだけで畳んでなかった。
 と、というより、モノトーンの服の山から覗くカラフルなアレとかソレとかは……!!
「で? 取材内容は一人暮らしの女の下着についてか?」
「ち、ちち違います、すみません!!」
 あ、危ない。これじゃ本当に餌で釣った変態じゃないか。
 僕は久野里さんに促されて、本の山を崩さないように脇に避けながらどうにか腰を下ろした。その拍子に、タイトルや作者がぱっと目に入る。
「あ……久野里さんもブコウスキーとか下品なの読むんですね。意外です」
「お前もそれが『下品だ』と判断出来る程度には低俗だな、宮代」
 久野里さんは涼しい顔で、2リットルのボトルをラッパ飲みしていた。オッサンだ。僕の目の前に巨乳のオッサンがいる。
 僕は話題を逸らす為に、二個買った弁当の片方を差し出した。
「でもなんとなく、わかります」
「お前に何がわかるって?」
「別に何も。でも、なんとなく久野里さんっぽいじゃないですか」
 また知ったようなことを言ってしまって怒らせたかなと思ったけど、久野里さんは、ふうんと呟いて割り箸を手に取った。紙袋をばりっと破いて、箸の片側をくわえて片手でばきっと割る。
 やっぱりこの人、女子の皮を被ったオッサンなんじゃないだろうか。
「他には?」
「え?」
「え、じゃない。他には何を読む」
 いつの間にか僕が訊かれる側になっている。特に嫌ではないので、ええと、と記憶をたどる。
「最近読んだのは、ロアルド・ダールとかです」
「チョコレート工場?」
「いえ、児童向けじゃない短編集が何年か前に上下巻で出たんですよ、新訳で。それが結構よかったかな」
「文学書だけ?」
「まさか、身になりそうなものは何でも。岩波だって赤帯以外も持ってますから」
「青は?」
「読んでます。一番最近なのは多分、『判断力批判』」
「カントか、ベタだな。理解出来たのか?」
「う……」
 久野里さんに意地の悪い質問をされて、僕は言葉に詰まった。
 実は、今の僕にはちょっと難しかった。ほとんどは理解しているつもりだけど、久野里さんに論戦を吹っ掛けられたら自信がない。ちょ、ちょっとだけだからな。本当だぞ。僕は誰に言い訳しているんだ。
「まぁいい」
 けど、久野里さんは何故か上機嫌だった。楽しそうな顔で……あれはヒレカツが楽しみなのか? 弁当のパッケージを持ち上げる。
「少しなら話をしてやる気になった。こうして報酬もいただいたことだしな」
「あ、ありがとうございます」
 僕も自分用に買った弁当を食べることにした。
 なんだか、こんな話題でぽんぽんとやり取り出来た相手って、初めてかもしれないな。伊藤は文学より映像の方が好きだし、乃々も頭はいいし読書家だけど、あいつの趣味はちょっとロマンチックな方に偏ってるから。有村が読んでるのも大抵エンタメ小説だし。
 いつの間にか僕は、『ケイさん』よりも『久野里さん』の話が聞きたいと、思い始めていたんだ。

 

 あれから僕は何度か、久野里さんの家にお邪魔した。
 夕食を持って行かないと入れてもらえない気がしたから、少し無理をしたけど。
 マウンテンビューの本数を減らしたり、風呂を青葉寮で借りたりと節約すれば、何とかご機嫌を損ねないランクのものを買えた。一番最初にちょっと見栄を張ったせいで、ハードルが上がってしまったんだ。
 でも、あそこで手を抜いていたらとっかかりも得られなかったかもしれないし、仕方ない。

「だからここの解釈はこうだと思うんですってば!」
「読解力がないなお前は、あそこでこういう伏線があって、こいつが敢えてそうしなかったんだったらここはな……!」
「久野里さんが穿ちすぎなんです!」
 本の話は一回ぐらいで終わって、『映画でも観るか』と久野里さんが言い出したので、それからは映画を一緒に観ながらぎゃあぎゃあ言う会になった。
 なんだかんだで、久野里さんも毎回ポップコーンを用意してるぐらいだし、意外とノリ気なんじゃないだろうか。
「あ……もうこんな時間だ」
 僕は腕時計を見た。今日は調子に乗って二本も観ていたから、遅くなってしまった。
「久野里さん、今日渋谷にうずの配信ですよね。よかったら僕、フリージアまで送りますけど」
 機材はこっちの方が充実しているのに、久野里さんは何故かいつもフリージアという興信所で配信をする。あそこでのバイトだからとかどうとか言うけど、本当のところあまり効率的じゃないと僕は思っている。
 いや、と久野里さんはつまらなそうに、エンドロールの途中で映画を止めた。
「情弱だなお前は。『ケイさん』は今日、『風邪で声が出ないのでお休み』だ」
「え?」
 慌ててスマホを出し、渋谷にうずのページを確認する。確かにそう書いてあったけど、いつの間に?
 僕が昨日見たときにはこのメッセージはなかったし、久野里さんは今こうして元気にしゃべってるのに。
「お前、一人暮らしだろう。遅くなって誰か困るのか」
 久野里さんは、いたずらっぽく笑いながら僕ににじり寄ってきた。
 上目遣いはなんだか甘えているようにも見える。こ、これは……まさか……。
「いやいやいやいや」
 ふ、フラグなのか……?
「いやいやいやいやいや」
 お泊りフラグなのかッ!!!!
 後ずさる僕に、久野里さんは――普段からは考えられないぐらい、やわらかく笑って。
「……お前ひとりの為に『ケイさん』をしてやってもいい。生放送のオフレコだがな」
「矛盾している……!!」
 だが今その言語ゲームに乗るべきか宮代拓留!? 否! 断じて否!!
 久野里さんはもう僕の膝に乗っからんばかりで。ええい男を見せろ、宮代拓留!!
「じゃ、じゃあ……十二時半まで、なら」
 これが僕の限界でした。どうしてなんだクールキャットプレス。

 僕たちはまた並んで座って、PCで映画を観る。
 今まではサイコサスペンスやミステリーだったのに、フランスの叙情的な映画。モノクロのフィルムで、男女が色恋の話をしているだけ。正直僕の好みじゃない。
「こ、この映画、何分あるんですか」
「三時間弱」
 ……それって一時近くなるぞ。この人、是が非でも僕を帰らせないつもりか。
 興味のない映像を眺めることに飽きて、僕は久野里さんを観察することにした。
 久野里さんは珍しく、僕の肩にずっともたれかかってきている。運動不足のせいか、結人とかと比べて体温はあんまり高くない。風呂嫌いだと言ってた割に髪はいい匂いがする。肌も脂っこいというより、あの滑らかさはきめ細かいと呼んだ方が正しい。まつ毛は長くて、いつも不機嫌そうな瞳は、じっとモニターを見つめていて。
「おかしいな、宮代」
 何もおかしくないシーンで、何も面白くなさそうに、小さな口唇が綺麗な声を発した。
 僕の好きな声。安らぐ声。夢見心地で返す。
「おかしいって……何がですか?」
「何もかもだよ。こうして、私たちが一緒に過ごしていることも」
 久野里さんの細い腕が、僕の片腕に絡んで。胸が二の腕に触れるけれど、どうしてか少しも興奮しなかった。
 どうしてか? 決まってる。久野里さんが、どこか悲しそうだったからだ。
「何もおかしくなんて、ないですよ。男女――じゃない、人間関係なんて、どこでどう転ぶか分からないじゃないですか」
 クールキャットプレスにもそう書いてあるし。
 いいや、と久野里さんはかすれた笑いをこぼした。
「おかしいだろう。だったら、私たちはどうやって出逢った?」
「え」
 暗い部屋の中で流雅なフランス語だけが流れる。
 気付くのが遅すぎた。こんな映画、久野里さんだって好きなわけがない。ただの……BGVだ。
 自分の身体が信じられないぐらい強張っているのを感じた。久野里さんのやわらかさが痛いぐらいに。
「思い出せないだろう。当たり前だな」
「い、いえ、そんなはずないです。だって久野里さんと僕が知り合ったのは最近――!」
 僕は必死に思い出そうとした。
 最近、なのに。どうして。その部分だけ、真っ黒に抜けているのか。
「いい、やめろ。そんなことをしても意味はない。『この世界』に合わせて、『解釈』しようとするな。引きずられるぞ」
 久野里さんは僕の腕を放し、代わりに両手を僕の頬に添えた。
 無理やりそっちを向かせたくせに、表情がそんなに優しいなんて。
 卑怯じゃないか。そんなの。

「宮代。楽しかったか」
 久野里さんは、かすかな問いを僕に投げた。
 初めて聞いたはずなのに、とても聞き覚えのあるフレーズで。
 僕は思わず、はいと返していた。
「久野里さん」
「なんだ」
「やっぱり、僕は人間関係って、どう転ぶか分からないと思うんです」
「そうかもな」
「だから」
 僕らは額を合わせて、互いに目を閉じる。冷たい肌だなと、思った。
「どこかで、何かがあったら。はずみで、僕らは、こうなっていたかもしれない」
「かもな」
 だからって、どうなるわけでもないが。そう彼女が笑って。
 そうですね、と僕も笑った。

 僕らはもっと馬鹿ならよかったのかもしれない。
 そうすれば、知らなくていいことを知ろうとはしなかっただろうし。
 気付かなければよかったことを、気付かなかったことにだって出来たかもしれなくて。
 だけど僕らは半端な馬鹿だから。違うな、僕が、半端な馬鹿だから。
 情弱の僕は、情強の彼女に、いつだって導いてもらっているんだ。

「ここでの経験は、肉体にはフィードバックされないぞ」
「気を遣わなくていいですよ。証拠がないならいいやって、女の子に手出しするほど馬鹿じゃないですし」
 記憶は残るかもしれないなら、僕はあなたに何もしない方がいい。
 けれど最後に、以前果たせなかったあのわがままだけ、聞いてくれますか。
「締めの一言を――お願いしても、いいですか」
 彼女が頷く気配がして、額が離れる。僕は目を開けて彼女の顔を見た。
 嬉しくなって、笑ってしまった。ちゃんと、笑っていてくれて、ありがとう。

「宮代拓留さん」

 彼女はケイさんの声で言葉を紡ぎながら、その口唇を、僕の口唇に近づける。
 吐息はわずかに震えていて。

「時刻は間もなく、目覚めの頃合い。この先、悔いのない一生を送れることを祈っています――」

 彼女は。久野里澪さんは。
 結局、ぎりぎりのところで僕にキスを、しなかった。

 

「気を、遣わなくていいって言ったのに」
 苦笑しながら、僕は夢の欠片を手放した。
 このピースは持っていかない。僕の生きていく世界のどこにもはまらないから。
 あなたもどうか、拾わないで。どうせ、いらないって突っぱねるでしょうけど。
 ああ、でも。あの言葉はせっかくもらったんだから。僕も何か、挨拶を返したいな。

「――おはよう、ございます。久野里さん」

 僕は、僕たちが戦ったこのくそったれな世界に、戻りました。
 あなたのおかげで。今度も僕は、あの子を守れたかな。