The Catcher in the Crazy City - 3/3

The Catcher in the Crazy City

 ここを訪れたのは何度目だろう。神成岳志は、『碧朋学園』の校庭から部活棟を見上げた。
 本来の――名称通りの目的でこの建物が使われ出してからもう長い。壁に触れてみる。もうすり抜けたりはしない。地下施設は既に破棄された。
 こんなところを未練がましく調べたとして、あの周到な男が痕跡を残しているとも思えない。それでも『個人的な捜査』が行き詰まる度にここへ戻ってくるのは、ただ神成の刑事としての性でしかないのだ。
 不意に風が起こり、樹々がざわめく。神成がその緑に目を遣りかけたときだった。
「――キミもよくよく物好きだねぇ。もう何の義理もないだろうに、そんなに律儀に僕を捜して」
 背後から、人を食ったような声がする。幻聴ではない。神成はこの声に聞き覚えがある。
 ずっと捜していた、一方で見つかりそうにないと思っていた男。どこにもいないように見えて、どこからでも現れる。哲学の言葉遊びみたいな連中……それこそが『ギガロマニアックス』なのだと、その程度には神成も彼らを理解していた。だから驚きもせず、振り向きもせずに答える。
「どういう風の吹き回しだ? 一度は俺を虚仮にしておいて、急に声をかけてくるなんて。今更再評価してくれたってわけでもないんだろう。――和久井」
「おや。噂通り『根に持つ』タイプだ、あまり敵に回したくないね。刑事さん」
 笑いを含ませた言葉に、神成はこめかみをわずかに痙攣させながら首を巡らせた。
 名前すら認識されていないらしいことに、全く怒りがないと言えば、嘘だ。けれど自身のプライドは二の次で。間接的に侮辱された人たちのことで、腹の内が煮えたぎるような感覚に陥る。
 表層にすら出さないことは得意なつもりだが、能力者の前でそんな演技は無意味だろう。
「『能力者』、という括りは正確ではないし、僕も心外だよ。僕ら『ギガロマニアックス』は、あの『出来損ない(イレギュラー)』たちを、同類だとは……いや、『人間』だとは認めていないからさ」
 和久井はまるで、まるで、ではない、本当に家畜の話をするような調子で笑う。くたびれたスーツで。もう、『くたびれたスーツ』というフレーズでさえ神成にとっては気に障るというのに。
 型崩れしていない自分のスーツの懐に手を入れ、かつて久野里に言われた通り躊躇も警告もせず銃を引き抜き撃鉄を起こした。その銃口と同じほどに冷たい目で和久井を見据える。
「和久井修一。貴様を、殺人教唆・恐喝、および殺人未遂の嫌疑で連行する」
「おいおい、今の碧朋学園はただの私立校だろう? 生徒が見ているかもしれないのに、随分堂々と凶器を出せたもんだ」
 和久井は大仰に肩をすくめてみせるが、神成は眉一つ動かさずに答えた。
「どうせ『見せていない』んだろう、ギガロマニアックス」
「キミだけ見えていると言ったら?」
「稚拙な脅しには乗らない。俺は性格も死に方も、人の真似をする気はないんでね」
「そんな嫌疑で僕を連れていって、証拠でも出ると思うのかい」
「証人なら何人もいる。他の容疑も叩けば埃はいくらでも出るだろう。証拠は――出てこないかもしれないな、『もしも貴様が、まだ委員会にとって有用なら』の話だが」
 挑発に乗ったのはむしろ和久井の方だった。口角を上げたまま、目だけを獰猛に光らせる。
 平日の昼下がりの高校。授業中のはずの校舎は無人のように静か。校庭には場違いな成人男性が二人きり。
 和久井は、かつて教師としてここに馴染んでいたはずの姿で腕組みした。
「今日僕がキミの前に現れたのはね、『神成くん』。どうもキミが、僕にとって目の上のたんこぶかもしれないと、ちょっと思ったからなんだ。キミの言う再評価というやつだね」
「そいつはどうも。そろそろ発砲しても?」
「いや、恐ろしいことを言う警察官だな、キミも。だけど僕はキミ個人の能力は全く脅威に感じてないんだよ。何を嗅ぎ回っても消されない、というのは、『先輩』よりも優秀であるとは思うけど」
 今度は神成が戯言を無視しきれなかった。銃把を握る手がわずかに震える。
 和久井は落ち着いた目で神成を流し見ながら、何かを持っているようなかたちの手を軽く上げた。
「場所を移すかい? 今度はキミも入れてあげよう。独りぼっちは寂しかったろうからね?」
 突然の、耳を突き刺す咆哮のような甲高い音と、頭蓋をこじ開けられるような痛み。右手の銃だけは何とか保持したまま、神成は左手で側頭部を押さえた。座り込みたい衝動を気力で抑え込む。
 瞼も閉じないよう必死に努力するが、見えるのはただ白色と――やがて、赤色の、光。壁一面に人工灯が点る、円柱状の狭い部屋。
「そう。一度はキミも入ったから見覚えがあるね? ……僕が研究室にしていた場所さ」
 懐かしそうに見回す和久井の背中に、躊躇なくトリガーを引いた。内臓が集中している上半身、肩甲骨を避け肋骨下部に二発、更に即時行動不能を求めて背骨に二発叩き込む。一ヶ所につき複数回撃つのは目標を確実に潰す為。
 本来ならば彼のような捜査官が被疑者に対して行っていい攻撃行動ではない。だが尋常の犯罪者ならいざ知らず、委員会のギガロマニアックスに加減しているほどの余裕が神成にはなかった。たとえ自らの手を汚しても絶対に止めなければいけない相手だと、そう覚悟してのことだった。
「いやだねぇ、警官が民間人にむやみに発砲して。その銃弾も僕らの税金だろ? ま、僕は払ってないけど」
 それが無駄に終わったことを神成はすぐに覚る。背後で嘲笑う声は間違いなく和久井のもの。即座に振り向こうとして目に入ったのは、内臓を思わせる薄紅の気色が悪いきらめき。
 まだシリンダーに一発を残したままのリボルバーは、神成の手首ごと吹き飛んでいって壁にぶつかり無様に落ちた。一瞬何が起こったのか理解が追い付かなかった。
「あっ……ぐ……!」
 手首から滝のように血が流れ出ている。視覚からやや遅れて、意識が苦痛を知る。神成は悲鳴を噛み殺し、左手の爪を右腕に食い込ませた。
 うるさい、痛くない。痛くなんかないんだ。これは妄想だ。これは妄想なんだ。俺の手首は現実には繋がっているはずだ。血なんかきっと一滴も出ていない。俺はこんなことで、死んだりはしない。これは、妄想だ。
「まぁ、キミがどう受け取ろうと自由だけどさ」
 和久井は言いながら壁際に歩み寄り、神成の右手首、のようなもの、を見下ろした。
 自分を睨み上げる神成の視線をわざわざ確認してから、そこに―自らの靴底を叩き落とす。執拗に。全体重をかけて。神成の喉から、声にならない潰れた叫びが漏れた。
 やっぱり、妄想のはずだ。おかしいだろう。妄想じゃなきゃおかしい。そうでなきゃ、もう繋がっていないはずの神経が、こんなに痛みを訴えるはずが……ない。じゃあ何でこんなに痛いんだ、それも妄想だからか? アレは、本当に俺の右手なのか?
「さすがに痛みではすぐ折れない、か。ならこういうのはどうかな。僕はさぁ、一応国語の教師だったんだよね。キミ、文学書は読むタイプ?」
 目の前に急に何かが現れた。太腿ほどもある巨大な手首だった。神成が持ち出してきたはずの拳銃を握っていた。和久井がさっきまで踏んでいたはずの手首。気付けば無数の銃口が神成を囲んでいる。壁もいつしか鏡面に変わっていて、青白い顔で脂汗をかいている男が……自分が、自分を見ている。虚ろな目で。死に追いつかれた顔で。見果てぬ数の自分を、互いに見ている。見つめられている。
『僕にはちょっと、ケイサツカンの教養レベルこそ分かりかねるけど。お気に召すといいねえ』
 やがて天井と床は曲面を描き、鏡は球体になろうとしている。神成を、神成岳志という存在を、終わりのない反射の中に閉じ込めてしまおうと。『神成岳志の世界』を『神成岳志』だけで完結させてしまおうと。
「文学とか、俺は知った、ことじゃ、ないが――」
 神成は、不安定な床に両足を突っ張りながら、眼前の対戦車砲ほどもある銃口を睨めつける。
「貴様は、俺を撃てない」
『なんだって?』
 和久井の声が訝し気に響く。うるさいな、と思いながら、神成は痛む頭を無事な片手で押さえた。
「変形鏡による幻像は、まともな物理現象として、起こりうる……。今ここに、鏡が現れたのが、妄想でも。俺が、それを『手品師と変わらない』と認識しているなら、『妄想具現化ほどの脅威にはならない』」
『言うじゃないか。じゃあそれとキミが撃たれないことに何の関係があるのか、ご高説を聴こう』
「簡単、だ」
 神成は左手をこめかみから離し、真っ直ぐに銃口を指差した。
「貴様は、銃の機構を、全く理解、していない」
 その間抜けな鉄の筒。内部はひどくつるっとして、ライフリングすら施されていない。これではジャイロが付与されず、弾丸が直進しない。照準を合わせる為のフロントサイトもない。
 指摘し始めればキリがないほど、まるで観察がなっていなかった。子供のオモチャもいいところだ。
「俺は、これを、『銃と認識出来ない』。共通認識には、ならない」
『……ふうん。屁理屈だな。それでも僕は「撃てる」けれど。ただ、知識で挑発しておいて力尽くで殺すというのも、あまりスマートじゃない。仕方ないね、ここはキミに譲っていったん解こう』
 不意に足元が平面に戻り、一瞬たたらを踏んだがすぐに持ち直す。壁も神成を無限に映すことを止め、赤色に光り直し、右手首は依然和久井の靴底の下にある。
「で、だ。久野里くんから聞いてるかい? ギガロマニアックスも全能じゃあなくてね。脳をいくら騙しても、身体が痛みを認識させてしまうから、傷の治療は出来ないんだよ。というわけで、僕にももうキミを治してあげることは出来ない。だからキミと右手の関係は、これでおしまい。さようならだね、かわいそうに」
 踏みつけが再開される。和久井がかかとを捻る度に、神成の胸は引きつった息を吐き出す。
 このままでは、本当に何も出来ずに犬死にしてしまう。神成は矜持だけで、ただの息ではなく意味のある言葉を絞り出した。
「貴様は何故、今更になって……自ら俺の前に、姿を現した……!」
「そうそう、それなんだ、僕が言おうとしてたのは。最初からそれだけなのに、キミは自分から話の腰を折るんだから」
 和久井は苦笑して足をどけ、神成の目の前まで歩み寄ってきた。腕を押さえている為に背を丸めざるを得ない神成を、眼鏡越しに見下ろしてくる。
「さっきも言った通り、僕はキミ自身のことをとても非力だと思ってるんだよ。ところがだ、宮代くんと久野里くんは、キミを随分頼りにしてるみたいじゃないか、神成岳志くん。僕としては彼らに崩れてもらわないと困るのにさ、木偶の坊でも支柱があるんじゃ、邪魔だと感じても、無理はないと思わないかい?」
 神成はかすれた笑いをこぼした。和久井が怪訝な顔をしたようだが、どうだっていい。
「……お前、舌がよく回る割に、頭は回らないんだな」
 右手の感覚はもう、『痛い』などという概念で括れるレベルのものではなかった。出血だって冗談みたいな量で、人体がどれだけの血液を失えば死に至るか熟知している神成にならば、助からないことも分かり切っている。
 だから何だ。それがどうした。全身から汗を吹き出させながら、神成は不敵に笑う。
「彼らが、今更俺ごとき失ったところで折れるものか。子供たちの『ゲーム』は、大人の用意したくそったれなルールなんかで縛れやしないって、そんなことぐらいよく知ってるはずだろう? なぁ、さんざん盤面を引っくり返された『和久井先生』――!!」
 和久井の口許からふざけた笑みが消えるのを、その思考と妄想にノイズが混じるのを、神成は見逃さなかった。
 左手を右腕から離す。そのまま脇の下に滑り込ませ、別の銃把を握った手は迷わず和久井のワイシャツに銃口を押し付ける。
「あ……!?」
 和久井は愕然とした顔で、弾丸の走り抜けていった腹を見ていた。
 ――今日神成が身に着けていたショルダーホルスターは、日本の警察が貸与しているものではなく、二丁拳銃(デュアルハンドガン)用のもの。右脇に潜ませていたグロック社製のセミオートマチック拳銃は、セーフアクションと呼ばれる独自の機構により、引き金を最後まで引き絞ることだけで安全装置が解除された。薬室には既に初弾。接射状態で放たれた9mmパラベラム弾の速度は音速に近い。
 ギガロマニアックスがいかに妄想攻撃に優れようと、起こったことすら把握出来ていなかった物理現象を後から捻じ曲げることなど不可能だ。神成は和久井を見下ろしながら言った。
「悪いな。そっちは『他人の心を壊す能力』を磨いてきたのかもしれないが、俺たち刑事は『自分の心を殺す訓練』を受けてきてる。これだけ痛ければ、別のことを考えないのも簡単だったよ。現に俺は今の今まで、こんなもの久野里さんに渡されたことも忘れてたしな」
 自身の言った通り傷の治療は出来ないのか、和久井は顔を歪めてうずくまっている。
 成程ギガロマニアックスは『万能』かもしれない。だが『全能』ではない。ジャケットの下にどの程度の銃器を仕込んでいるかなど、プロフェッショナルならば布地の膨らみと腕の動きで分かるものだ。それに、防ぐ装備も技術もないくせに、不用意に相手に近づいたりはしない。
 結局和久井は、純粋な荒事においては素人だったのだ。『万能』であるがゆえに、『無能』を侮った。
「あまり『常識(けいさつ)』を舐めるな。『現実逃避野郎(ギガロマニアックス)』」
 冷えた刃物のような声に、和久井は視線を上げる。額には汗がにじんでいたが、口許はまたあのいけ好かない笑みで。
「よく吠えるね、『盲目の犬(けいさつかん)』は!」
 和久井のディソードが激しく弧を描く。神成はとっさに和久井から見て左側に足を運び、グロックを素早く二連射する。妄想の壁が銃弾を弾く。やはり知られた以上は意味がないか。神成は舌打ちして拳銃を放棄する。こんな閉所の近接戦、しかも片手しか自由にならない状態で持っていても枷になるだけだ。どうせ思考も読まれている。だとしたら。後はもう、『思考すら介さずに戦うのみ』。
 立ち上がろうとする和久井。左手は腹の傷を押さえている為に左半身はがら空き。神成は懐に踏み込む。憎々し気に振られようとする右腕に左の前腕を叩き込む。己の肉体をもって鍔競り合う。
 教場……警察学校ではいろいろなことがあった。剣道場で何度も吹き飛ばされた。柔道場の畳に受け身もままならないぐらい叩きつけられた。融通の利かない教官に張り飛ばされた。加減を知らない馬鹿な同期にさんざん痛めつけられた。
 和久井の右腕が震え、切っ先が外に流れる。左手でその肘を裏から掴み、足を払う。和久井がバランスを崩す。
 晴れて警官になってからも、たくさんひどい目に遭った。交番に詰めていただけで、酔っ払いがナイフを持って挑みかかってきたこともある。喧嘩の仲裁に向かったら、件の二人が何故かこちらに殴りかかってきたことも。刑事部に配属になってからだって、危険なことは増えるばかり。逮捕しようとした被疑者が抵抗するのもざらなら、逆恨みで襲われたことも、手を引けと殺されかけたことも、被害者の遺族から人殺しと刺されかけたこともある。
 先のない右手で和久井の顎を殴りつける。同時に掴んだままの左手を捻り関節を無理な方向に曲げる。和久井が短い悲鳴を上げる。
 成程、神成のそれは一般的な経験ではなかっただろう。しかし刑事としては珍しい体験ではない。彼らは、他ならぬ自分の肉体でその全てを弾き返してきた。魂は脳に宿るもの、そんな言説、神成は賛成出来ない。それを認めてしまえば、ギガロマニアックスはこの魂全てを掌握可能だということになる。けれど和久井は、止めることが出来ていない。考える前に動き出すこの身体を。
 思考盗撮(ハッキング)妄想攻撃(クラッキング)思考誘導(リモートコントロール)も、肉体記憶(スタンドアローン)へのあらゆる介入は不可能。
 だからそのまま、彼は戦闘装置として目標を沈黙させてしまえばよかった。けれど神成岳志は、どうしようもないほど警察官で、人間だったのだ。制圧の間際で、つい『考えてしまった』。
 ……ごめんな、久野里さん。手掛かりはまた探してやるから。今は、市民の安全の為にこいつを排除させてくれ。
 その瞬間、和久井が最早どちらのものとも知れない血に顔を汚しながら、嗤った。
「だったらその、大事な『久野里さん』の見てきたものを、自分で見てくるのはどうだい。――あのさキミ、解ってるかな? どんなにあの子たちの前で大人ぶったところで、世界から見たら自分も無力な若造にすぎないってことを、さぁ!」
 神成ははっとして身を引こうとしたが、遅い。彼もまた和久井の指摘通り、ギガロマニアックスを侮っていたのだ。カオスチャイルド症候群者ではなく、真の超誇大妄想家の凄まじさを。
 ディソードは物理法則も和久井の肉体的限界も軽く超え、ありえない動きで神成に迫る。眼前で毒々しい顎門(あぎと)が開く。刃は牙となり神成の顔面を襲う。その喉の奥に飲み込まれるように、神成の意識は暗転した。

 

 『自分』は、白衣を着てそこにいた。
 ミオ、ミオ、と子供たちが足元にまとわりついてくる。手が勝手に幼い少女の頭を撫でていた。少年は、この間もらったお菓子が美味しかったと、はしゃいでいた。久野里澪が子供に菓子をくれてやるなんて意外だった。

 少女は、わたしミオのことだーいすきと腕に絡みついてきて、少年は真似たいけれども幼い男心が邪魔をしていると見えて、口を尖らせてかわいい悪態をついている。『自分』も悪い気がしていないのが分かった。

 投薬の量を増やすと上の研究者から告げられた。万一のことがあったらと『自分』は拒んだ。それでも、先を越されてしまう、科学者としてそれでいいのか、あの子たちに強いてきた我慢も全部無駄になると畳みかけられて、最後までその命令に否と言い張ることが出来なかった。

 子供たちが苦しみ出した。両目から溢れた涙と血が混ざり合い不自然な薄紅になって被験者用の医療服を染めた。頭をかきむしって叫んでいた。いたいと。たすけてと。どこにいるのミオ、と。
 『自分』はここにいると声を返した。ずっとずっと声をかけ続けた。助けたかった。死なせなくなかった。自分を慕ってくれた小さな手が、冷たくなっていくのなんて見ていたくなかった。
 それでも子供たちはやがて動かなくなって。今度は『自分』が叫び始めた。私が殺したと己を責め、『自分』は壊れた。

 『自分』は子供たちを助けられなかった。
 宮代拓留をスケープゴートにした。彼はこれからただただ無意味に息をして、無辜の凶悪殺人犯として死んでいく。『自分』が彼を死刑台に送った。宮代に真実を託すためとはいえ、脳に更なる負荷をかけていく伊藤真二を止めなかった。医療少年院に送られる彼はまだ完全に正気の人間とは言い難く、いずれ社会復帰もと宮代には明るく告げたが、伊藤自身の心は本当にそれを許すだろうか。

 そもそも『自分』が間抜けに佐久間を信用さえしなければ、その手元で橘結衣をむごたらしく死なせることもなかったのではないのか。

「なあ、キミと久野里くんと何が違う? 直接手を下さなかった分、キミの方が悪質じゃないのかい?」

 どうして上手く出来ないのだろう。
 同い年の連中なんて馬鹿ばかりで、そんな中で『自分』だけはセカイというものを別の視点で捉えられているような気がしていたのに。ずっとずっと届かない。あのひとが見ていたセカイには。

 笑いかけないでほしい、
 甘い言葉で褒めないでほしい、
 優しく思い知らせないでほしい、
 こんなにも『自分』が無力で無様で、どうしようもないほど凡俗だなんて。
 この手に救えるものなんて本当は何もないって。

『それで、私を殺せた?』
 おれの知らない、わたしのよく知った声が突き放す。
『オマエはオレを捕えられなかった』
 わたしの知らない、おれの知っている声が笑う。

『私の世界はあなたには見えない』『二人して犯人の手の平の上で鼻息荒くしちゃって、まぁー無様ッスね』
『そんなとこまで猿真似って、馬鹿丸出しすぎ』『所詮あなたの評価は「よくできました」止まりなのよ』
 知っている知らない女と、知らない知っている男の声が、よく似た抑揚で左右の耳孔を刺す。
『『噛みついたところで、どうせ欠けるのは世界じゃなくて、その愚かな牙だけなのに』』

「悔しいね。悲しいね。だから『キミ』は殊更に『復讐』を望むんだろう?」

 ちがう、復讐は無益で、なにもうまない―。

「違わないさ。『弔い合戦』という言葉は、仇を討ってこそ成り立つんだから。巧みに言い換えているだけで、『キミ』たちは結局同じことを望んでいるんだよ。『殺してやりたい』ってね」

 誰かが叫んでいた。あのとき叫べなかった『自分』だった。
 許せなかった。何もかもが。その願いすら抱くことが許されないから口に出せずに呑み込んで、代わりに嘔吐ばかりしていたまだ痩せぎすな身体。いつしか輪郭がぶれて震えた両腕は少女のものになる。虚像が重なり合い個の存在が不確かになる。

 憎かった。世界が憎かった。委員会が憎かった。犯人が憎かった。ギガロマニアックスが憎かった。自分たちを裏切った刑事たちが憎かった。何もかもが憎かった。みんなみんなころしてやりたい。ころしてころしてみんないなくなってしまえばいいと思った。じぶんも憎かった。おれがもっとうまくやっていればあのこたちはだれもしなずにすんだのかもしれなくて、わたしがこんなことにてをだしさえしなけばちゅうこくをきいてさえいればうまれさえしなければなにもかもがもしかしたら、

 ああ……まってくれ。わたしのことばを、おれがさえぎる。みっともなく、なきながら。わらいながら。

 ちがうよ。たしかにうまくやっていれば、あのこたちは、しなずにすんだかもしれないけど。それだけじゃ、ないだろ。じぶんがいなければ、すくえなかったものだって、たくさんあるはずなんだ。おれも、わたしも。

 だから、おなじ泣くなら、立ちあがってまえに進もう。おろかでいいから、噛みついていこう。

 『自分』は手を伸ばす。無力な手。誰も救えなかった、手首から先のない右手。
 『自分』は口を開く。『自分(おれ)』の意識で、『自分(きみ)』の声で。

「私(俺)が、引き受ける(受け止める)」

 君たちを、連れていく。背負っていく。『自分(きみ)』ごと、全て。
 『自分(きみ)』の声に、『自分(おれ)』の声が重なる。

「東京都の人口は、今年頭の時点で既に千三百万人を越えた」

 だから何だ? と『自分(きみ)』は思う。
 だから、きみはもう『自分(おれ)』じゃなくていい。俺が話すよ。代わってやるから、少し寝ていろ。

「警視庁勤務の公務員は、その全ての命と安全を守る為に身を粉にして働いている。その全てが生み出しうる、そして被りうる痛みと悲しみを少しでも減らし、日常と非日常に寄り添う為に警察官がいる」

 俺の声だけが響く。右手は、そこにある。この身体は、意識は、全て。

「子供たちの罪や涙も受け止めきれずに、刑事なんてやっていられるか!!」

 全ては彼らのものであり、そして。
 全て俺の―神成岳志の、ものだ。

『神成さんは、自分は百万年かけても、世界中の悪人の半分も逮捕しきれないんだって……そんなこと解ってて、それでもきっと最期まで、そんな世界を認めることが出来ないんでしょうね』

 少年の呆れたような声が聞こえて、視界が真っ白に染まる。

 男の耳障りな笑い声がどこかから反響している。

『驚いたね。いくらこっちが怪我で集中力を欠いてるって言っても、ディソードも持たない一般人が、妄想攻撃から自力で逃れるなんて……おっと、キミたちを「一般人」とは括れないか。まったく「刑事」というのは本当に厄介な犬だね、諏訪くんも苦労するハズだ』
「待て、お前は何を……!」
『待たないよ、このままじゃ僕も死んでしまいそうだし。だから、キミを殺すのは、もっとちゃんと準備してからだ――なぁ神成くん?』

 頭がひどく痛い。哄笑が遠ざかる。ダウンバーストに巻き込まれたように、身体が上から風で押しつけられて動けない。そもそも何も見えないが、とにかく目を開けていられない。

″You’d just be the catcher in the crazy city and all.
You know it’s insane, but that’s the only thing you’d really like to be.″

 最後に聞こえた、とても耳に心地いい涼やかな女性の声は、一体誰のものだったか。

 

「だ、大丈夫ですか!? どうしたんですか、刑事さんっ!」
 誰かが自分の身体を揺さぶっている。聞き覚えのある少女の声。神成は軽く頭を振りながら、両腕を突っ張ってうつ伏せの姿勢から起き上がった。右手は当たり前のように手首から生えている。
「あ、れ……君、は」
 まだぼやける視界で声の主を捉える。心配そうな顔で傍にしゃがみ込んでいるのは、宮代拓留が自身の全存在を賭けて守り抜こうとしている、あの少女だった。
「尾上さん、どうして……」
「わ、私の台詞ですよ! 次体育で、当番だから用具取りに来たら、倉庫前に刑事さんが倒れてたんです!」
 そうか、横浜から碧朋に通っているのだったか。神成は緩慢に情報を整理しながら、はっと気付いて少女に詰め寄る。
「あの男は!? もう一人いなかったか!?」
 少女は目を丸くして、戸惑いがちに首を横に振った。怯えたり隠したりという様子ではなく、本当に何も知らないようにしか見えない。
 神成は少女に軽く謝って、額を押さえた。和久井を取り逃がしたことそれ自体もだが、後始末のことを考えたら頭痛がぶり返してきたのだ。
「あ、の。ホントに大丈夫、ですか? 誰か呼びましょうか? えっと、救急車とか……」
 おどおどと問いかける『尾上世莉架』は、本当にただの少女で。神成は苦笑して、首を横に振った。
「黙っておいてくれると助かるよ。出来れば百瀬さんにも」
「え? 刑事さん、百瀬さんと知り合い――」
 しまった、これも秘密だったのか。神成は人差し指で自分の口唇を縦に塞ぐ。そのジェスチャーの意味を汲み、少女はこくこくと頷いてくれた。
 右手を差し出して、小柄な身体を立ち上がらせる。
「危うく俺の方が不審者として通報されるところだった、ありがとう。授業頑張って」
「あ……は、はい。ありがとう、ございます?」
 少女は不思議そうに首を傾げた。かつてと同じ、否、似ていると言わなければ宮代に怒られてしまう、そんな仕草。『普通の女の子』。ひらりと手を振って、神成は碧朋学園を出た。
 人気のない路地でジャケットの前を開け、リボルバーの弾倉を確認する。五発全て入っている。ひとまず安心してため息。一発だけでも書類仕事が増えるのに、四発かまして理由言えません現場わかりません相手いませんでは首が飛ぶ。
 次にセミオートの確認。薬室に一発ある。全弾詰めていたはずのマガジンからは三つ消えていた。ということは。
「うち一つは奴の腹、か」
 呟いて銃をホルスターに戻し、抜けないようにロックをかける。
 まぁこの銃弾の貫通力なら体内に留まっていることはないだろうが、かなりの接射だったから雑多なマテリアルは残留しているだろう。それしきのことで死ぬようには思えないけれど、これで神成は和久井修一個人から相当な恨みを買ったことになる。
 壁にもたれかかって、狭い空を見上げた。
「いいぜ。俺に気を払ってくれるなら、その方が都合がいい。俺を狙えよ」
 それであの子たちへの意識が少しでも逸れるなら、俺はその方がずっといい。
 神成は満足に動く右手でジャケットのボタンを一つ留め、陽の当たる大通りへとまた踏み出していった。