第三夜

 病院は嫌いだ。何度訪れても慣れることがない。
 諏訪護はこの清潔すぎるハコの中で、薬品の臭いに眉をひそめる。非常灯のみが点る院内の、皆が認識出来ない区画に踏み入っていく。
 諏訪はある病室の前で立ち止まり、少しだけ髪を整えた。それから、すっと扉を開く。
「あら。おかえりなさい、護」
 眼鏡をかけた女、恋人の葉月志乃がパソコンのモニターから目を離し、諏訪に微笑みかける。諏訪も素直に微笑み返す。
「ただいま、志乃」
 この病室こそが、当面の二人の愛の巣だった。否が応もなく。
「またエンスー?」
 諏訪はスーツのジャケットを脱ぎ、ベッドに放り出した。しわになるわよと志乃は口だけで注意して、キーボードを叩いている。
「『ナイトハルト』は夜型だから。ずっと付き合っているのは、夜勤ほどじゃないけど少し大変」
 ふふ、と志乃は微笑した。諏訪は口唇を尖らせて志乃に歩み寄ると、後ろから眼鏡をさっと奪い取った。
 赤いセルフレーム。こんなの、諏訪に言わせれば、志乃には全然似合わない。
「護?」
「『ナイトハルト』に色目使う用のメガネ、オレの前でかけるの禁止」
 にっと口唇の片端を上げて、諏訪はその伊達眼鏡を自分でかけてみようとしたけれど――やめた。趣味ではないし、第一志乃は小顔だから、フレームの幅が狭そうだった。
 パソコンの脇に眼鏡を置いて、抱きつきながらモニターを覗き込む。
「『グリム』には慣れた?」
「ええ、あなたが特訓してくれたおかげでね」
 志乃は苦笑して、諏訪の腕に頬をすり寄せた。
 『西條拓巳』とネット上で接触する際、奴に警戒心を抱かせないために、志乃はネットスラングやサブカルチャーの知識を自在に操ることから始めなければならなかった。一方諏訪は、アニメオタクではないがフィクションが好きだし、アングラなネットもある程度かじっている。志乃と一緒に『合宿』と称して夜通し鑑賞会をしたり、普段の何気ないメールさえ全部ネット風にやりとりするのは、『修行』とはいえ馬鹿みたいで本当に楽しかった。
 諏訪は腕を伸ばして、志乃の身体越しにチャット欄に文字を打ち込む。
『ちょっと落ちるお、スマソ』
 どした? とナイトハルトが文字を返してくる。無邪気で無知なガキ。渋谷の連続殺人はこいつを狂わせるためだけに行われているなんて、一体誰が信じるだろう?
『オトナの時間だからさ (`・ω・´)』
 そう打ち終えると、諏訪は志乃に断りなくサーバーとの接続を切ってしまった。
「『ノシ』ぐらいつけなきゃ」
 志乃は呆れたように笑うけれど、怒りはしなかった。そういう感情を滅多に抱かない女だった。気の短い諏訪からしてみれば、志乃は聖女のような存在だった。
 だから留め置きたくなる。椅子を回して自分の方を向かせ、口唇を奪う。志乃は抵抗しない。初めての夜も、諏訪を無条件に受け入れてくれた。今も甘い声で、まもる、と名を呼んでくれる。
「志乃」
 諏訪は囁いて、彼女の肩口に顔を押し付けた。
 このままめちゃくちゃに抱いてしまいたいのに、彼女の身体はその細い腕で裂かれたばかりで、当分諏訪を迎えられる状態にはない。痛むだろう。疼くだろう。彼女はそれすらも厭わない。どうしたの、と屈託なく笑いながら諏訪の震える背を撫でてくれる。
 諏訪も敬虔な信者だった。盲目と言い換えてよかった。けれど彼女ほど信心深く在れないことが、常につらかった。『二人の子供は神光の救いのために召された』。喜ぶべきことのはずだった。なのに、どうして志乃のように出来ないのだろう。焼けるような吐き気が胸から消えないのだろう。
『私、護の子を産みたい』
 そう言ってくれた日のことを。自身の願望を滅多に口にしない志乃が、珍しくこぼした自分たちだけのための言葉を。静かで、優しく、しかし強い意志のこもったその声を。映画のように彼女の身体を抱き上げてぐるぐる回してしまったことを。こんなに鮮明に覚えているのに。
 それでも諏訪は『教祖様』を恨んではいない。本心から。
 憎いのはただただ『西條拓巳』。全てのきっかけと呼ばれる少年。クソガキ。
「護? ……携帯、鳴ってない?」
 志乃にぽんぽんと肩を叩かれ、はっと我に返る。いけない。こういう部分が志乃に比べて足りていない部分なのだ。自身の不信心を再び恥じ、諏訪は身を起こす。
 ベッドまで歩いていって、ジャケットから携帯電話を取り出した。どうせ警察からの電話だろうと思って表示を見、露骨に顔をしかめる。確かに警察からに相違なかったが。
「例の、『先輩』? 出なくていいの?」
「いいよ」
 心配してくれた志乃にも、つい不機嫌な声で答えてしまった。着信拒否しながら、慌てて明るく言い繕う。
「『クソガキ』の方だった。っていうのも、その――」
「ああ、『神成くん』ね」
 志乃は諏訪が言い終える前に、両手を合わせてぱっと笑った。諏訪も笑い返すが内心笑えない。
 彼女はどうやら、寝物語に諏訪がこぼした愚痴を覚えていたようだ。
「まだ一課に入って一年ぐらいのくせに生意気なんだよ、あのガキ。『先輩』に取り合ってもらえなかったからって今度はオレか? 現金なヤツ」
 携帯をワイシャツの胸ポケットに滑り込ませ、諏訪は愛する彼女の元に戻る。『彼女が他の男の名を口にしたら、一回キスして消毒』という自分の中でのルールを遵守して、ついでにかわいい耳たぶも少し噛んでやった。志乃がくすぐったそうに身をよじる。
「護だってまだ新人じゃない」
「でもアイツはもっと下。歳だって二十一とかいったかな、まるで大学生の職業見学」
 諏訪と志乃は今年で二十五。充分に若者だが、縦社会の警察官にとって、職歴や年齢は権力とほぼイコールだ。シンジョウタケシとかいう、諏訪が『もう一人のクソガキ』と呼んでいる青年。期待のルーキーとして大抜擢された青年はそれを全く――いや、多分とてもよく弁えている。弁えているから、何の後押しもなしに捜査一課(ここ)まで上がってきた。初めから内部にコネクションがあった諏訪は、勘付かれているはずはないのに、無言で皮肉られているようで気に入らないのだ。
 本気で腹が立ってきそうだったので、冗談で濁そうとする。笑いまじりに志乃の額にも口唇で触れる。
「それに、オレより背が高い。ムカつく」
「あら、珍しいわね。護も身長高いのに」
「ほんのちょっとだよ、ちょっと」
 数センチ。数センチだが、神成の方が上背があった。もっとも向こうはまだひょろっこくて、警察学校は出ているはずなのに、執行実包の反動にすら耐えられそうもないほど頼りない身体つきだが。それでも、数センチ違えば目線は変わる。神成に悪意があろうとなかろうと、諏訪は神成に見下ろされてしまう。
 いや、見下ろされることそれ自体は――好かないけれど、諏訪が『神成岳志』を評価するうえで、然程重大な事項ではなかった。嫌いなのは『目』だ。いつも情けなく使いっ走りをさせられているくせに、ときどき諏訪の殺意を煽るような目つきで見下ろしてくる。
 全てを見通そうとするような。見透かそうとするような。まるで、相手が焦れて尻尾を出すのをじっと待っているような、あの目。本物の刑事の、追う者の目。判安二と同じ。
『これ多分自殺じゃないですね』
 コーネリアスタワー集団投身事件。当初は自殺だと思われたそれについて、神成が判にだけこぼすのを諏訪は聞いていた。判は、若いのはそうやってすぐに何でも事件にしたがると笑っていたけれど、目は笑っていなかった。あの目。
『そうは言いますけど――続くと思いますよ』
 年若いくせにやけに落ち着いた声で、神成はひどく冷静に告げていたのだ。あの目で。
『続けますよ、ホシは。少なくとも、これは自殺じゃないって誰もが思うまで』
 殺そうと、思った。だが指示にない殺人を犯せば計画が狂いかねない。しかも神成は既に、判に対してその考えを流してしまっている。ギガロマニアックスの妄想具現化と同じ。共通認識とまではいかなくとも、その発想は現実的な可能性として提示されてしまった。いち早く察した刑事を消せば、真っ先に疑われるのは警察の人間――しかも警視庁捜査一課のこの係という、極めて限られた範囲の。揉み消すことは出来るだろうが、諏訪の勝手な判断で、教団に迷惑をかけるわけにはいかない。
 何故判に言ったのか、と殴り倒したかった。それを聞いたのが諏訪だけならば、神成を『事故死』させることなど簡単だったのに。
「あいつは、殺さない」
 諏訪は、自分がどんな残忍な声を出しているのか自覚していた。そのうえで、いっそう優しい手つきで志乃の身体をなぞる。
「頭のつくりだけは優秀だから。――『これ』が終わったら心だけぶっ壊して、従順な部下にする」
 いつ触れても安心する。この女のためならば、この女と共に崇める神のためならば、どんなことだって出来る。万能感で全身が満たされる。
 志乃は妖艶に、そのくせ汚れを知らない乙女のように、濡れた口唇の両端を上げた。
「羨ましいのよね、護は」
「え」
 諏訪の口から間抜けな声が漏れた。
 志乃の腕が伸びてきて、諏訪の身体をなぞり返した。慈悲深い声は、情け容赦なく諏訪護という男の鎧を打ち砕く。万能感が、ひやりと流れ出ていく。
「『先輩』のことも、『神成くん』のことも。本当はそんな風に素直に懐きたかったし、懐かれたかったって」
「……まさか」
 諏訪はその女の前で跪いて、縋るように白い両の太腿に手を添えた。最後に残った強がりで、笑みかける。
「オレ、ああいう古臭い人種って大嫌いだね」
 そう。古臭い、セピア色みたいな、色褪せた――焼けるほど太陽の下にいられた人種。
 志乃はそれ以上何も言わなかった。諏訪と同じ高さまで下りてきて、両膝をつき、神光の救いあれと口付けた他には。

 

 諏訪は渋谷の通りを行く。この街は暗くなっても人通りが絶えず、うるさくて邪魔くさくて片っ端から黙らせて回りたい。
 昨日は志乃と会えなかったから尚更むしゃくしゃする。だが、これが終わればまた志乃に会える。神光の救いにまた一歩近づく。諏訪の信心が彼女の安寧を後押しするのだ。
「西じょォ……拓巳ィイ……!」
 獣のような声が喉の奥から鳴っている。ダーススパイダーのヘルメットの中で、口角は裂けそうなほど上がっている。
 ふと昔聞いたようなことを思い出す。殺した自分の子を負って歩くのは一体何の話だったか。夢? 思い出せない。どうでもいい。装置の入ったリュックサックがあの万能感をまた甦らせてくれる。

 ――今に重くなるよ――

「狂え、狂っちまえよ……」
 諏訪護は今夜も人を殺す。愛と信仰のために。一人の『クソガキ』が存在するせいで。
 諏訪護は翌朝も人を捜す。法と正義のために。一人の『クソガキ』の存在に苛立ちながら。
 奇しくも第三夜。『グリム』による下準備はもう済んだ。今度はこちらが『実行犯』の通りかかるのを待つだけ。『張り付け』はあと一時間もしないうちに、現実となり少年の心を侵食するだろう。
 壊れろ。早く壊れてしまえ。

 ――二〇〇九年だろう――

「クソガキどもめ……!!」

 ――お前が×××を殺したのは、今から丁度六年前だね――