神成さんと、そのあとで。 - 6/7

有村雛絵から見た彼

 雛絵が神成に呼び出されたのは、ある日の放課後だった。
 聞きたいことがあると深刻に言った割に、用件自体は『よく知らない』と雛絵が言ったのですぐに終わった。神成も落胆した様子すらなく『そうか』と短く答えただけで、食い下がらなかった。
「で、何でその素行不良の碧朋生のこと、わざわざ私に訊いたんですか」
 雛絵は人の少ない喫茶店で、アイスレモンティーをすすりながら神成を睨んだ。
 最初は怯んでいた青年刑事も、近頃は面の皮が三倍ぐらい厚くなった。ミルクだけ入れたコーヒーを平気で飲んでいる。ソーサーを持ち上げる品が彼にあるはずがない。
「いや、貴委員会は盛んに活動されているそうなので。何かお耳に入っているかと」
「慇懃無礼やめてくれません? それなら華か先輩に訊けばいいのに」
「有村さんも会員なんだろう? 実質的に対外の広報活動をしているのは君のようだと聞いたけど」
「……結果的にそうなってるだけで、そういう役割を振られた覚えはないです」
 雛絵はこの青年との会話にいい覚えがない。助けてもらった恩義と好悪は別だ。
 警察への不信感以前に、神成岳志という、息を吸うように小さな嘘を混ぜるこの男があまり好きではない。能力を失った今でも、神成のばらまく嘘の破片が見えるように分かる。
「ま、元気そうでよかったよ」
 本音も業腹ながら、分かる。
 邪気のない笑顔を見ているのもばつが悪くて、雛絵はテーブルに目を落とした。
「話戻しますけど。私たちの意志は確かに学園中に知れ渡ったと思います、でも生徒全員が活動に積極的なわけじゃありません。嫌悪感を示して、否定したがる人もいます。……そういう、私たちを避けたがる人のことまでは、把握してないです。その、繁華街での喫煙とかを、その人たちがしてるとまでは言いませんけど」
「そうだな。君たちのせいじゃないよ、ああいうのは。よくいる『普通』の不良だ」
 神成が笑ったのが息で分かった。骨ばった手はメニューをたたみ、勝手に脇のスタンドに挿す。
「こんなこと言っちゃ怒られそうだが。俺は正直、ほっとしてる。『碧朋生』が社会に反抗を見せるというのは、あれ以来滅多にないことだ。共通の夢にすがらず、個々で悩み、あがいて、考えて、自分の道を探している。それは至極健全な精神活動じゃないか――もちろん法の範囲内でやってくれって、建前上は言うけどね。よその大人に本気で叱られて、やっと目が覚めたって子供も世の中にはたくさんいる。俺たちでいいなら、いくらでも受け皿になるよ」
「話長いです」
 雛絵はまだ続きそうな説教を遮り、紅茶の色を変えすぎたレモンの輪切りを指でつまんだ。
 言われなくても分かっていることを、大真面目に並べたてられるほど面倒なことはない。
「神成さんって、一般論をさも自分の言葉かのように言いますよね。独創性もないし誠意もない。教科書みたいでつまんない人」
「確かに教科書に誠意はないな」
 神成が自分のソーサーを突き出してくる。雛絵は、中央のくぼみを塞ぐようにレモンを置いてやった。
「神成少年はさぞさぞ優等生で、正義感まるだしで進路なんか決めたんでしょうね。ご立派なことで」
 そんなことないよとお決まりの謙遜を、鼻で笑おうと思っていた。なのに。
「……どうだろうね」
 そう目を伏せて背もたれに体重を預けた神成は、それこそ十代の少年の憂色を帯びていた。
「俺は、高校生の頃から刑事を目指してたわけじゃないんだ。一応部活で運動はやってたけど、選手も目指してなかった。才能あるってほどじゃなかったし、アスリートって潰しききにくいだろ」
「うわ、夢がない」
 雛絵はおじさんの昔語りには興味がないのだ。だから適当に茶化しておく。茶化しておかないと、多分、本当に、言わなくていいことを……言わせてしまう。彼に。
 だが神成岳志というやつはこういうところで空気を読めない。いっそ読まないのか。構わず話を続けてくる。
「そう、夢がない。勉強もそれなりに出来たつもりだったけど、企業に入ってバリバリ働く自分ってのもあんまりピンと来なくて。とりあえず学力に見合った大学ってのに行ったよ」
 雛絵はアイスティーのストローをぎっと噛んだ。
 だから止めようとしたのに。『とりあえず大学』の先は、今雛絵が一番知りたくなくて、同時に一番知りたいことだ。黙って聞いているしかなくなる。
「でも、結局中退だ。具体的に何かあったとかじゃない。むしろ何もなかったんだ。ここじゃないなと漠然と感じて、息が詰まりそうだった。自由が苦しかった。気楽さに溺れきれなかった。世間の役に立っている気になりたかった、やることを与えてほしかった――彼のことを言えない」
 そんな懺悔のように目を伏せられても困る。雛絵は嫌味と興味を込めて、少しだけ話題をずらした。
「警察官って、そんな曖昧な気持ちでなれるものなんですか?」
「テスト自体は結局公務員試験だし、気持ちどうこうじゃないよ。受かってからの教場……警察学校のがキツかったな」
 今ばかりは神成も自分の失策に気付いたか、顔を上げて苦笑を見せた。
 見せる為の顔で、当然のように聞かせる為の声だった。
「ま、ひどい話じゃあないさ。かつてないほど厳しくて理不尽な状況に放り込まれて、俺はやっと、自分がどうやら人一倍執念深くて負けず嫌いだって気が付いた。納得出来ないことは許せないし、誰かが傷つけられたままになっているのなんてもっと嫌だ。正義なんて立派なもんじゃない、何も出来ない無力な自分を認められないって意地だけがあった。その一心でここまで来たんだ」
「随分悠長な就活だったんですね」
 雛絵は素直に相槌を打ったつもりだった。癖で皮肉めいた言い方になってしまって、紅茶で自分の舌を冷やす。噛んで潰れたストローでも、液体は問題なく喉に届いてくる。
 神成もゆっくりと瞬きをして、穏やかにコーヒーを口にした。もういくらも残っていないようだった。
 雛絵は口唇を開き、コップを脇に軽く退ける。
「……神成さんはそれを、『正しい寄り道』だったって思います?」
 ただしいよりみち、という表現は、雛絵が今読んでいる小説に出てくるフレーズだった。
 現代日本の小説ではないが、貧しい農村で育った少年が、都会に住む兄を訪ねていき、いろいろな体験をする。少年の兄は言うのだ。大嫌いだった田舎の生活は、今思えば自分にとって『正しい寄り道』だったと。この期限付きの自由を『どんな寄り道』にするのかはお前次第だと。
 少年が兄と共に憧れていた暮らしを続けるのか、田舎の両親の元に自ら戻って生きるのか、雛絵はまだ結末まで読み終えていない。
 神成は自分語りを重ねなかった。一度きり、微かに、確かに、頷いて立ち上がった。
「大学、楽しいといいな」
 彼は不思議な顔をしていた。雛絵が『普通のひと』に対して浮かべているかもしれない表情。うっすらとした羨望と、身の内に織り込んだ諦念。
 ――神成さんって、私が思うよりいろんなものを、置いてこなきゃいけない人だったのかもしれない。
 雛絵は思いながら、彼の手元を見ていた。いやしかしもうちょっとスマートに伝票を取りんさいや、と胸中でダメ出しもしつつ。ええいぐしゃっと握るな、女子の前で。
「私、もう少しここで考えたいことがあるので。紅茶はごちそうさまでした」
「ああ、どうぞ。悪かったね呼び出して」
「いえ。素行不良の件は『普通に』碧朋生の恥なんで、女帝にチクッておきます。あなたがどう思うかとかは、私たちの知ったことじゃないです」
 雛絵が頬杖をつけば、そうだなとやけに楽しそうに笑って、神成は席から離れた。
 何とはなしに目で追えば、レジで小銭入れをじゃらじゃら漁りながら会計している。後ろが並んでいないとはいえ、スタイリッシュとは言い難い光景だ。事件中はとにかく札を出して釣銭で財布を膨らませていたような気もするので、今は少し余裕があるということなのかもしれない。
「どっちにしろ彼女出来なさそ……」
 小さくあくびをして、まだ店員が片付けていないコーヒーカップを見遣る。喫茶店のロゴが入っている。
 渋谷からも自宅からも離れたこの店を指定したとき、そういえば神成は、何の文句も言わなかったのではなかったか。
 窓の外を見る。電柱の影に彼の姿が見えた気がした。この距離では確かではないけれど。
 あの人はいつまで縛られているつもりなのかなと考えて――自覚すらないんだろうなと、雛絵は彼のことを頭から消し、一人の少女としての未来にただ想いを馳せた。