神成さんと、そのあとで。 - 4/7

香月華から見た彼

 意味のある声を発しないことを自らに課していた華は、症候群の快復まで神成岳志と言葉を交わしたことがなかった。
 とはいえ、可能になったところで特段話すことはない。
 事件の担当刑事と、巻き込まれた被害者。接点はそれだけだ。
 華は、彼に対してさほど関心を寄せることが出来なかった。
 初めのうちなど、『委員会の手先ではないのか?』と、疾風迅雷のナイトハルトにこぼしてしまったほどだ。
 頼み込んで調べてもらった情報によると、『経歴は退屈なほど真っ当』――それが余計に華の不安を増幅させた。『真っ当』すぎるのは、用意されたものだからなのでは? と。
 結局全ては杞憂で、神成岳志は『ただの真っ当な刑事』だった。
 いろいろ助けてもらって恩義はあるのだけれど、彼に対する小さな苦手意識は正直なところ残っている。
 
「やぁ。もう帰る時間だぞ、不良少女」
 明治通りにかかった大きな歩道橋。最上段に座って携帯ゲーム機で遊んでいた華に、神成岳志が声をかけた。華の記憶に混乱がなければ、そんなに気安く話すような間柄ではない。画面から顔を上げると、華より下に立っている神成も、距離感をまずったかなぁという表情を浮かべていた。
 華は小さく息を吸ってから、足下を走り抜ける車の音に紛れそうな音量で言う。
「こんばんは、神成さん」
「こんばんは、香月華さん」
 神成が笑顔で挨拶を返して来たのも、少し意外。
 街はもう人工の灯りも眩しい頃合い。呑気にこんばんはじゃないだろこんな時間に、とまず怒鳴られることを覚悟していた。確信はないが、有村雛絵が相手だったら彼はそうするような気がする。
 神成はその場から動かず、つまり華より三段下に左足を、二段下に右足をかけたまま、尋ねてくる。
「何をやってるんだ?」
「『手強いシミュレーション』」
 そういうことじゃない、という返事が華の予想。またしても外れ。
「『勝ってくるぞと勇ましく』?」
 神成は男子中学生みたいに吹き出した。
 これはもしかするともしかするかもしれない。華は努めて熱を抑えた口調で問う。
「リアタイ組ですか?」
「リアタイっていうのが、どの時点のことを指すのかは分からないけど。コマーシャルは強烈に覚えてるよ、クラスのやつに借りて最初の何章かはやったと思う」
 温度差。なんだ、と華は内心で落胆。今の物量運頼みクソ難度について、シリーズ最高難度経験者から直接意見を聞けるかもと思ったのに。
「縦長から横長に切り替わった時期だったかな、今はどんな感じなんだ?」
 神成が静かに距離を詰めてきて、一段下からゲーム画面を覗き込もうとする。見られて困るものでもないのでそのままにしておくが、べろんとかかってくるネクタイは流石に邪魔。
「タイピン、しないんですね」
 暖簾のように片手で払うと、ああ悪いと神成はネクタイの剣先をスーツの胸ポケットに突っ込んだ。
 問題はそこではない気もする。
「鋭利なものは、奪われたとき凶器にされやすいからね。それを言ったらネクタイもだけど、生憎この部署はクールビズとはいかなくて」
 よ、と神成は華の隣に腰を下ろす。確か歳が一回りぐらい違っていて、見た目ではそんなに離れている印象はないが、所作の端々がおじさんだなぁと感じる。
「で。そのどこでも出来るゲームを、わざわざこんな時間に署の前でやってるのは、どうして?」
 思わず配置ミスでユニットをロスト。華は電源を切りがてら月を仰ぐ。
 それでもって、やっぱり大人で、一枚上手だなぁと思う。
 
 神成は、もう帰るところだったらしい。当直明けでねーと笑う目の下には、少しくまが出来ていた。
「せっかく明日休みなのに、どんどん仕事押し付けられちゃってさ。そこに、碧朋の制服着てる女の子が外でずっとゲームしてるって聞いて、知り合いかもしれません! って飛び出させてもらったわけだ」
 華は自分の着衣を改めて見つめた。制服だ。寮に戻っていないのだから当たり前だった。目立つ自覚はあったから、どこかで見つけてほしいと思っていたのかもしれない。
 いや、違う。見つけてほしくないなら、こんなところには来なかった。慣れない人間と電話で話す勇気がなくて、しんじょーさんいますかーと警察署に乗り込む度胸もなかったから、ゲームをしながらここにいた。
 華は観念して、ポケットを漁りながら口を開く。
「困ってることがあって、誰かに相談したかったんですけど。前に久野里さんに頼んだら、泉理先輩に叱られちゃって」
「ネットの写真の件か? やる方も悪いが、何だってあいつは人に嫌がらせをするとき、ああも活き活きするんだろうな」
 神成は自分の脚の上で頬杖をついた。
 あいつ、という呼び方が、引っかかるというほどでもなく、華の目の前に転がる。華の覚えている限りでは、神成が他の戦友たちをそう呼んだことはなかったはずだ。
 ロリポップを取り出しかけた手がつい止まった。
「好きなんですか?」
「炎上? 好きだと思うよ、久野里さんはいじめっ子気質だから」
「じゃなくて」
 失礼ながら指差すと、神成は不思議そうに自分の姿を確かめた後、いきなり赤面した。
「あ! 俺? 俺が久野里さんを好きかってこと?」
 華は頷く。ははは、と笑う神成の声は、疲ればかりを含んでいた。顔色も平素に戻っていく。
「冗談キッツいよ、香月さん……。年齢とか性別とかそういう問題を越えて、そもそも人間として俺はああいうタイプと惚れた腫れたやるの無理だ」
 逆に性別は越しちゃってもいいのかな? と華は思う。神成の中で、久野里澪とは最早『久野里澪』というカテゴリに分類されていて、男女の識別すら投げ捨てているのかもしれない。
 妙なことを訊いてしまったせいで、妙な沈黙が訪れる。すみませんふざけただけなので忘れてくださいと華が言おうとしたとき、神成は頭をかきながら、ばつが悪そうにぼそぼそ呟いた。
「……まぁ戦友という面では、頼もしいし、実際頼ってきたし。そういう意味では、好きと言えなくも、ないだろうね。正確には」
 あ、と小さな声が、華の口から漏れた。
 戦友。華たちが彼らを表現するのと同じ言葉を、神成は選んだ。きっと誰に教わったのでもなく。
 そして華の質問から小ずるく逃げることなく、きちんと誠実に答えをくれた。
「わかりました」
 充分だ。華は立ち上がって、ポケットに入っていたロリポップを差し出した。
 あの頃より食べる頻度は減っているが、まだ何本か持ち歩いている。見ないで取ったので味は分からない。
「最近、他校の男子にちょっと絡まれて、っていうか、迫られてて。『元症候群者でもいいから付き合え』ってしつこくて、でも『症候群者は凶暴だ』とか言われるのも面倒くさいなと思って殴らなかったんですけど。病気とか関係なく、『そもそも人間として』ムカつくので、やっぱり殴ってきます。ありがとうございました」
「待て。待ちなさい」
 神成も腰を上げ、左手で華の手首を掴んだ。
 右手の中では、渡したばかりのロリポップの棒がひしゃげている。
「それ、刑事として、男としての経験から言わせてもらうと、非常に危ない断り方だから。詳しい話を中で聞く。最悪、俺が単独で交渉することも考える」
「……ありがとうございます」
 すごく真剣な目だった。華の世話をしていたら、また帰りそびれるはずなのに。
 でもこの人は、こうやって動くんだなと。これが先輩の頼った神成さんなんだなと、華は妙に納得した。