吾が姿を見よ

深夜

『このところ渋谷に不穏な気配はない。碧朋学園も』
 ここまで書いて、神成はペンを止めた。これではまるで報告書だ。形から入ってみようかと背伸びして買った万年筆は、まだ持ち方もおぼつかない。
 便箋を破り捨てる。改めて、ひとつだけ書き慣れてしまった『前略』を記し直してみる。
『君の友人はみな元気に過ごしている。結人くんはずいぶん背が伸びて、そろそろ声変わりも』
 これもやめた。家族のことなら、彼の姉や妹が山ほど報告しているだろう。
 神成は文具店で教わった通りの手順で万年筆を片付け、嘆息しながら自室の天井を仰ぐ。
 書いた手紙は検閲が入る前に、自分で握り潰していた。正確に言えば、文字列が手紙の体裁を成した試しがなかった。神成は現在、例の事件からは遠ざけられ、彼とは法廷で証人として呼ばれる以外の接点を失った。かけられる言葉など、結局のところ何一つとしてないのだ。
 それでも。何度そのことを思い知っても、また便箋を広げてしまうのは何故なのか。答えだって本当は知っているのに。
 足元で、預かっている黒猫がもぞもぞ動く。眩しいのかもしれないと、神成は手元の明かりを消した。この部屋ならば目を閉じていても歩ける。
「俺も寝るから、お前も寝ろよ」
 猫に声をかけてベッドに向かう。ついて来られて、またかと呆れる。専用のベッドをいくら快適そうに改造してやっても、こいつは神成の上で寝るのがお気に入りらしいのだ。
 クーラーのタイマーを起きる1時間前に『入』でセット。
 時刻は2017年7月10日1時15分。神成岳志は眠りに就く。

 

 このところ渋谷に変わったことがないのは、彼を安心させるための方便ではなく、事実だった。
 本庁から渋谷署に異動になってから、ほとんど事務方のような仕事ばかり。それはそれで神成には苦痛でもない。警察が忙しくない方が、日本は平和でいいのだ。
 だが半日缶詰でいると流石に飽きが来て、昼食をとりに外へ出た。夏の陽射しは厳しくて、歩道橋を上がりながら軽く眩暈がした。
「あら危ないわね、階段でぼーっとしちゃダメよ」
 女性のかすれた笑い声が降ってきて、ももせさん、と神成は呟く。
 百瀬克子は大きな手提げ鞄を持って、神成の上がりきるのをじっと待っていた。
「どうしたん、ですか」
「通りすがり。神成ちゃんはお昼?」
「ええ、まぁ。こう暑いんじゃ食欲もないんですが……動けないのは困るので」
「だらしないわねぇ。ちゃんと食べてしゃんとしなさい」
 背中を叩かれながら、和菓子屋のビニール袋が目に入ってしまった。恐らく季節限定の水菓子だろう。その店のものなら神成も一度だけ、『先輩』のおつかいで買いに行かされたことがある。
 百瀬さんは逆に少し控えた方が、というのは、女性に対する最低限の礼儀として黙っていた。
 それに、神成は百瀬が少し苦手だから。もちろん嫌いではないけれど、何だか――。
「若いと言っても、もうそれなりなんだから。その頃の無茶が、私たちぐらいになってたたるのよ」
 ――こういうところが、久々に実家に戻ったときの居心地の悪さに似ている。
 咳払いして、神成は無理に話を終わらせた。
「あの、昼休憩そんなに長くないので。食いっぱぐれる前に行きますね。すみません」
「ええ。あ、ちょっと待って神成ちゃん」
「まだ何か?」
 実のところ、この台詞を口にしながら引き留められるのも初めてではない。内心の苦々しさを覚らせないよう曖昧に笑えば、そんなことぐらい見透かしていると言いたげに笑い返された。
「うきちゃんたちに、お夕食に誘われたの。今日はお姉ちゃんがご馳走を作るんですって。私は仕事で行かれないんだけど、神成ちゃんのことも強く誘っていたから、行ってあげて」
「はぁ……。あとで南沢さんに確認して、時間的にお呼ばれ出来そうなら、甘えるかもしれませんが」
 それにしても、何故今日なのだろうか。暑気払いにしても半端、しかも月曜日だなんて。
 いろいろと世話を焼いていた百瀬のことはともかく、神成の主観では、理由もなく食卓にお邪魔するほど彼女たちに恩を売った覚えもない。
「ホント、まだまだねぇ。神成ちゃん」
 何か言われた気もするが、汗と一緒に流して百瀬と別れた。
 夏の陽光がアスファルトとコンクリートに反射して、まるでフライパンだ。外はやめよう。暑すぎる。署内の食堂でいい。神成は志を下げて、来た階段を引き返していく。
 不意によろけかけたけれど踏ん張れたのは、日頃足腰を鍛えているおかげ。
 2017年7月10日12時18分。

 

「ああ、お気持ちだけで。……そうだな、別の日なら伺うよ。それじゃあ」
 南沢との通話を切り、神成は携帯電話を懐にしまった。廊下の壁に頭をもたせかけてみても、その重みが軽減されるわけでもない。
 腕時計を見る。神成はもうすぐ上がるところだ。彼女たちの誘いに応じられない時間ではない。だが今日が何の日か思い出した瞬間、青葉寮には顔を出しづらくなった。
 ――橘結衣の誕生日。神成がそれを知ったのは、彼女の資料に初めて目を通したとき。直接言葉を交わす機会が、永遠に失われた後のことだった。
 どうしてその日付を覚えているといって、この因果な商売のせいではない。1987年7月10日、橘結衣よりちょうど13年前に、神成岳志もこの世に生を受けた。たったそれだけの偶然だ。
 同じ日に生まれて彼女は永遠に時を止め、神成は生き残って順調に歳を重ねている。
「……それだけなもんかよ」
 部屋の中の人間に迷惑でない程度に壁を殴った。こんなときにまで気遣いのふりだなんて、ひどい偽善だ。
 深く息を吐いて、神成は歩き出した。渋谷署は駄目だ。殺人課の刑事の身空で、綺麗な思い出の警察署なんてないけれど、ここは一段と赤黒いから。
 強い酒を買って帰ろうと思った。20代を終えたのだから、もう背伸びでもあるまい。
 誰かと呑みたいような、独りでいたいような。内ポケットの携帯電話を持て余す。
 2017年7月10日19時46分。

 

深夜

「自分は他人とは違う特別な人間だなんて空想はさぁ、少年少女の頃には多かれ少なかれするもんだろ、誰だって。大人でさえその妄想から抜け出てない連中がごろごろいるってのに。それぐらいで罪だの罰だの言ってたら警察も検察も機能しないって……大体、膨らました夢がいいか悪いかってそんなことに血税使って裁判してさぁ、絵本の中のお話かっつうの」
『だいぶ酔ってるな……』
「酔ってねぇよ」
『それこそ酔っ払いの常套句だろうが』
 久野里の冷静な指摘に、神成はどれほどアルコールが回っているのかようやく自覚した。
 ジャックダニエル。ウイスキーはよく分からないので、有名なものを買った。度数は40%、神成とは(誤差1年で)100歳違いらしい。ちなみに愛飲しているビールは5%、同い歳。
 帰宅してからほとんど何も食べずに、この消毒液みたいな味の酒をちびちび飲んでいて、インターネット通話アプリの着信ランプに気付いたのがつい先程。記録は16時頃、発信者は久野里澪。もう何時間も前なのに、ついマウスを動かして折り返してしまった。
 そしてこの体たらくだ。
『調子に乗って、ロックで慣れない酒なんか飲むからだ』
「何でわかるんだよ……」
『氷の音。ついでに右手で飲んでる。アイスピックで左手を傷つけたか?』
「根拠は」
『根拠と呼ぶには弱いが。さっきグラスを置いただろう、その後マウスを操作したときにぶつけた音がした。検索の際のタイプ音も明らかに遅かった、多分片手打ちだ。それにじゃれかかってきたクロに向かって「左手はやめろ」と……』
「ああご名答だよ名探偵、あんたはいつもそうだ。俺より有能だってことを常に見せつけてないと気が済まないんだ、自分の頭の出来をいつだってひけらかして」
『おい、またえらく荒んでるな。刑事さん』
「荒みもするだろ。こんなくそったれな現実」
 神成はテーブルに突っ伏して、包帯を巻いた自分の左手を見た。
 あのとき――わざわざ買ってきた氷を自前のグラスに入るサイズにしようとして、右手を滑らせアイスピックを深々と突き刺してしまったとき――真っ先に頭を占めた感覚は、痛みでも熱さでもなかった。
 己の手から血が流れているという事実に、言ってしまえば安堵のようなものを覚えた。他人のものばかり見てきたから。ああ俺からもこんな赤いのが出るのかと、当たり前のことを再認して、立ったまま傷口をじっと眺めてしまった。鮮やかな原初の色を。猫が足元で鳴かなければ、ずっとそうしていたのかもしれなかった。
『三十路にもなって年下に絡み酒するな、みっともない』
「どうせ俺はみっともないよ。個人情報が筒抜けで、今日なったばかりの年齢を揶揄されるぐらいにな」
『自覚があるなら、よく使ってるパスワードも変更した方がいいぞ。でないと買い物履歴に覚えのないやつが混じる』
「最悪だ……」
 神成はうめきながら頭を抱える。まったくなんてことだ。30回記念にして、人生最悪の誕生日になっ――。
 そこでまた、嫌なことに気付いてしまった。
「ああ、もう日付変わってるじゃないか……寝ないと……」
『あんたそれで仕事行けるのかよ?』
「わからん……最近アルコールの抜けが悪い……こないだ肝臓で健康診断引っかかった……」
 パソコンの表示の不具合なわけがない。携帯電話で確認しても、現在は7月11日だ。
 ぐだぐだと理由をつけて自分を甘やかせる特権も失ってしまった。もう大人にならないといけない。
『ところであんた、その様子じゃ宅配ボックス見てないだろ』
 ふと、久野里が呟いた。カメラはお互いつけていないので、どんな顔で言ったのかは分からない。
 何故宅配ボックスを使っていることをと訊こうとして、すぐに愚問と気付いた。これだけ留守がちな仕事なら自ずと分かろうというものだ。
「何か送ったのか? 炭疽菌とか?」
『手口が古いな。見てないならいい』
「いや、よくない。ちょっと待ってろ、切るなよ」
 携帯電話とヘッドセットをテーブルの上に置いて、立ち上がる。玄関に向かおうとしたら、寝ていたはずの猫がついてきたので、出かけないよと部屋の奥に追い返した。
 ボックスに半ば無理やり詰め込まれていたのは薄手の箱だった。これは久野里澪のじゃないとすぐに判断する。
 引っ張り出してみたら案の定、実家から。そうめん。あんたこれ好きだからと毎年送ってくる。神成としては母が茹でるから食べていたのであって、別に好きでも嫌いでもない。出してもらったものに文句をつけるのも悪いと、ずっと黙っていただけだ。
 夏でもこれなら食べられるでしょうというのも毎年言われるが、実は鍋だのざるだのを洗う手間を考えると非常に億劫。よくある悲しいすれ違いである。
 底の方にもうひとつ、ラベルに英字の書き殴られた段ボールが入っていた。
 宛名が『Takeshi Shinjyou』、差出人が『Mio Kunosato』。確認完了。部屋に引き上げる。
 そうめんの桐箱が少し邪魔。すぐに台所の戸棚に突っ込んだ。
「ありがとう。当日中に受け取れなくて悪かったな」
 パソコンの前に戻り、つい頭などかきながら、今更の礼を言ってみる。嫌味を言われると思ったのに、久野里は何故か上機嫌で返してくる。
『いいさ。こっちはまだ7月10日だ』
「久野里大先生とも思えぬ寛大なお言葉、感謝するよ」
 神成もつい笑ってしまった。
 片手で持てるくらい小さくて軽い箱を、指先で揺らしてみる。何を贈ってくれたのだろう。
『まだ現実はくそったれか?』
「どうだろう。俺、結構現金だからな」
 開けてもいいかと礼儀で問えば、むしろリアクションを知りたいとかわいいことを言ってくれる。包みを破いて、神成は中に入っていた薄い板状のものを手にする。
「おま、え」
 それを開けた瞬間、神成の笑顔は引きつった。
 やはり今夜は酔いすぎた。こいつが、この女が、『久野里澪である』ということを失念していたなんて。
 銀色のシンプルなコンパクトミラー。男でも問題なく使えそうなデザイン。物のチョイス自体は悪くないのかもしれないが。
「割れた鏡って、縁起悪い、だろ。もうちょっと梱包――」
 文句を言いかけて途中で気付く。左上から見事にひびの入った鏡面。だが蓋やヒンジに圧迫された形跡がなく、破片は欠け落ちることなく揃っている。加えて正しく畳まれた状態で、執拗なほど厳重にクッション材で巻かれていた。ということは。
 久野里澪は、飛散防止に布か何かを置いたうえで、意図的にこの鏡へ硬いもの――例えば金槌のような――を叩きつけたのだ。
「……好かれてるなんて自惚れたことは、なかったが。まさかここまで恨まれてるとはな。おかげで酔いも吹っ飛んだ」
『心外だな。恨んではいないさ、好いてもいないが』
 ただ忘れてもらっちゃあ困るんでね、と久野里は歌うように言う。
 神成は眉をひそめて、左の親指を割れた鏡に押し付けた。
 彼女が『自分を忘れるな』などと願わないことは解っていた。戒められたのは『2015年』でしかない。
「言われるまでもないし、こんなのはやっぱり悪趣味だ。でも」
 ぐっと力を込めれば、皮膚が破れて血が滲み出す。付け根の傷も開いて包帯の色が変わる。亀裂に沿って赤い線が広がっていく。毒々しい蜘蛛の巣模様が描き出される。
「おかげで腐らずにはいられそうだから。一応感謝はしておく」
『で? 映り具合はどうだ』
「ああ、少しは男前だよ。今までよりはな」
 ひびだらけの血塗れの男の顔。これが自分だ。壊れた鏡も、流れた血も、過ぎ去った時も戻らない。
 どこにも逃げられない。逃げる気もない。この姿を連れて、この魂はこれからもこの地獄を生きていく。
 ここに映っている男だけが、紛れもなく『神成岳志』なのだ。
『これで私の用はやっと済んだ。あんたももう寝た方がいい』
「そうするよ。ありがとう」
『じゃあ、おやすみ』
「ああ。……おはよう、久野里さん」
 あべこべの挨拶をして、海の向こうとの通信を切る。親指をグラスに突っ込んで軽くすすぐ。琥珀色が微かに濁る。この鉄臭い酒を飲むのはもうやめることにした。
 神成岳志は醜態の痕跡を片付け、猫に挨拶をして眠りに就く。
 時刻は2017年7月11日0時41分。
 アメリカ太平洋標準時サマータイム、7月10日8時41分。