溶ける泡沫

『今夜少し、お邪魔しても構わないかな』
 神成岳志が、青葉寮の固定電話に連絡をしてきたのは、6月9日の6時過ぎだった。泉理は少し困惑する。急だとは思ったが、相手は刑事だ。何か大事な話があるのかもしれない。
 わかりましたと答えると、よかったと神成はどうやら笑ったような声を出して、じゃあ後でと電話を切った。
 泉理はうーんと呟きながら受話器を戻す。口調からして悪い知らせでもないようだから、思い詰めることもないのかもしれないけれど。
「姉さん、誰から?」
 うきが歩み寄ってきて、心配そうに泉理の顔を覗き込んだ。フライパンを任せたはずがここにいるということは、野菜炒めはいい具合に完成させてくれたのだろう。うきは、ただ言われた通りにするのではなく、自発的に『最適』を探してくれる子だ。
 泉理は微笑んで、軽く首を振った。
「ちょっとね。うきと結人は今夜、早めに寝てもらった方がよさそう」
「何か、あったの……?」
「多分何も。ただ、遅くなるかもしれないから。何があったかは明日ちゃんと話すわ」
 先にお夕飯作ってしまいましょうか、とテーブルを見遣れば、泉理が出そうと思っていた料理たちは既に皿に盛られ、綺麗に並んでいる。
「あの、余計だった?」
 うきは居心地が悪そうに身体を揺すっていた。いいえ、と泉理は苦笑する。
「完璧。これで味も負け始めたら、もう私は台所の主を隠居かしらね」
「そ、そんな! 姉さんのお料理、どこのお店のよりあたたかくて優しい味がするもの……私まだ、そんなの作れない」
 嬉しいことを言ってくれる妹の頭をぽんぽんと叩き、結人呼んできてくれる、と頼んだ。うきは面映ゆそうに頷いて、勉強中の弟の部屋に駆けていく。
 テーブルの上を改めて見渡し、泉理は軽く首を傾げる。
 実は酢の物がないけど。別に当てつけみたいな真似しなくても、明日だって構わないわよね?

「ごめん、遅くなっちゃって」
 神成がやってきたのは、結局夜の10時過ぎだった。訪問客としては非常識な時間だが、泉理はもう彼をそういった尺度で測ることを諦めている。刑事云々以前に、多分根っからこういう人間なのだ。
 ただ、この遅くにインターホンを鳴らさずに、泉理の携帯にメールをして、裏の通用口の鍵を開けさせた辺り――アンバランスだが気遣いは心がけているのだろうなと、正直笑いそうになった。
「二階にどうぞ。落ち着いてお話出来るの、居間ぐらいですから」
「ありがとう。お邪魔します」
 泉理が先に立ち、縦に並んで階段を上がっていく。神成は、その上背と体格にかかわらず、音らしい音も立てない。お仕事柄なのかしらと、泉理も足音を殺して進む。
「晩ご飯、まだなんですか?」
 泉理はちらと振り返り、神成が片手に提げたコンビニのビニール袋を見た。そんなに大きくはないが、ぼこぼこと膨らんでいる。ああ、と予想通りの返事の後、神成は予想外の言葉を続けた。
「そういえば買うの忘れたな」
 ではあれは、明日以降の食料か何かだろうか。土日もお疲れ様ですと内心で頭を下げ、二階に着くなり泉理は神成に椅子を勧めた。
「簡単なものでよかったら、お出ししましょうか?」
「いや、それは……うーん」
 夕食は迷うくせに、席につくのはふてぶてしいほど慣れている。泉理は苦笑を手で隠しつつ、冷蔵庫に向かおうとした。
「麦茶でいいですか?」
「あ、飲み物は買って来たんだ。座って」
 泉理が目を見開いたのは、神成がまるで自分の家かのような発言をしたからではなく。ごんごんごんごん、と酒の缶がテーブルの上に並んだからだった。
「ほら、一昨日、二十歳の誕生日だったんだろ? やっと飲み友達が増えるかと思ってさ。当日は家族と過ごすだろうと思ったし、昨日は平日だったけど、今日は金曜で翌日休みだからいいかなと」
「……神成さん」
「あ、やっぱり警察官が酒持ってくるのまずかった……かな。一応まだ『高校生』だし」
「いえ」
 泉理は小さく肩をすくめた。待っていてくれたのは嬉しい気もするけれど、生憎なことに。
「私、初めてのお酒、当日に小森さんと飲んじゃってるんです」
「……そうか」
 神成は非常に複雑そうに、笑みをつくってみせた。
 小森歩美は、青葉寮に出入りしている警視庁生活安全部の警察官だ。神成と面識はないそうだが、お互い存在は把握している。そして、これは泉理の邪推になるが、あまりいい印象がないのもお互いらしい。
 神成は深く息を吐いて、片手でビールの缶をぞんざいに揺らした。
「いや、いいんだ。君の飲酒デビューが6月7日以降であるなら、口出しする権利もない。俺は、男同士の約束を果たしに来ただけだから」
「男同士の?」
「ああ、ほんのささいなね。約束っていうより、俺が一方的に覚えてるだけで、向こうはもう忘れてるのかもしれないけど」
 ふてくされたような口調。泉理はやはり冷蔵庫に向かって、麦茶とは違うものを取り出してきた。神成の目の前に、こんこんこんと追加で並べていく。
 缶ビールと缶チューハイと清酒の小ぶりな瓶。
「小森さんたら、張り切ってたくさん買ってきてくれたんですけど、私ビールとか口に合わなかったから。飲めなくて余っちゃってるんです。よかったら、そのフルーツのと交換してくれますか。それから」
 神成が座っているのとは別の椅子の背もたれに、うきのエプロンがかかっている。悪いけれど少しばかり拝借。
「おつまみも、あった方がいいでしょう? やっぱり少し作りますね。意外とレパートリーあるんですよ……ときどき、父さんに出してあげてたから」
 神成は視線を合わさずに、ありがとう、と言った。何への礼なのかと問うほど泉理も無粋ではない。調理場へ歩いていく。
 さて、天ぷらか煮物に使おうと思っていたビールはこれでなくなった。酢の物はもう和えるだけだからいいとして、もう一品ぐらいは用意したいがどうするか。
 残り食材を頭の中で組み合わせ、明日の朝食と併せて試算。突発的な事態に上手く対処するのも、台所の主の大事な仕事だ。

「すごいな、この短時間に」
「大袈裟ですよ。大したものじゃありません」
 泉理は汚さずに済んだうきのエプロンを畳み直して、また背もたれにかけた。
 用意したのは三品。夕食に出しそびれた酢の物。常備菜として冷凍庫に入っていたきんぴらは、小鉢ひとつ分だけ解凍。だし巻き玉子は新しく作った(これは明日朝のセール、先着100名様限定10個入りパック98円で補填可)。
 神成はビールを缶のまま飲むと言うので、それじゃあんまりでしょうと父の使っていたジョッキを久々に出した。泉理も、普段はお客様――有村や香月のような身内ではなく、正真正銘の『お客様』――にしか使わない少し上等なグラスを、思い切って持ってきた。桃味だという度数の低い缶チューハイは、ほんのりと赤みがかっている。泉理の好きな色だ。
「それじゃあ、改めて。二十歳のお誕生日おめでとう、南沢泉理さん」
「はい、ありがとうございます」
「乾杯」
「乾杯」
 ガラスとガラスが軽くぶつかる。二人共自分の酒を口に含む。2日前と同じ感想、ただの炭酸ジュースとの違いがよく分からない。とはいえ自分がアルコールに強いかどうかもまだ知らないので、用心して舐める程度でテーブルに置く。
 神成は一度で半分ほどまで量を減らしていたが、特段何も言わなかった。父――佐久間恒が『父親』をしていた時分のように、仕事終わりの一杯は格別だとか、働かなかった日の一杯はたまらねぇ贅沢だとか、上機嫌に話し始めはしない。
 思えば泉理は、『父』以外の男性が酒を飲むのを見るのは初めてだった。……酔っていないときなどないゲンさんは別として。結衣のこともあって、成人男性が『家』の範囲に寄りつくことはなかったし、それで不便を感じたこともなかった。何事もなければ、こうして泉理の正面に座ってグラスを傾けていたのは、きっと拓留だったのだろうと――詮無いことを考えて、やめた。どの時点からの『何事も』なのか、考えるだけ無駄な試みだ。
「川原くんが、ですね」
 意識的に、別の男の名前を持ち出す。神成が、ん? と視線を向けてくる。川原とは面識があったろうか。どっちでもいい。どうせ泉理の周辺人物を彼が知らないはずはない。
「退院したんです。相変わらず、私とは目も合わせてくれないし、会話もしてくれないんですけど」
 泉理はうきの作ってくれた夕食をしっかり食べていたので、腹は減っていなかった。少し未練のあった酢の物を、一口分手元に置いていただけ。キュウリは切ってから時間が経ってしまっていたから、何だかくたびれていたけれど、不味いというほどでもない。
「おうちで、勉強してたんです。復学するつもりらしくて。ときどき手が止まって、あ、わからないのかななんて思うんだけど――私が何を言わなくても、しばらくすると自分でまた解き始めるんです。私の方が、なんだか、たまらなくなっちゃって。見てられなくて、逃げるみたいに帰ってきちゃって」
 神成は、うん、と短く相槌を打って、静かに先を促した。泉理は喉を潤そうと飲み物を流し込んで、そうだこれお酒だったんだわと、今更思った。まだ酔ってはいないはずなのに。
「私、正直川原くんのこと、苦手で。彼が乃々ちゃんのこと好きなのは、子供の頃から知っていたから。私のことは邪魔がっているんだろうなってことも。でも、それってお互い同じだったんじゃないかって、気付いて。結局私も川原くんを、『乃々ちゃんのことが好きな男の子』として見てただけなんじゃないかって……多分、『川原雅司』くんのことあんまり知らないんだ、思って。私、『来栖乃々』をしている間、ずっと傍にいたのに。彼の言葉は全部乃々ちゃんへのものだからって、必要最低限の部分しか聞いていなかったんじゃないかって。そう考え始めたら、すごく」
 すごく、どう感じたのか、この期に及んで言えなかった。
 神成も訊かなかった。いつの間にかビールを一杯飲み切っていて、泉理の渡した缶のプルタブに手をかけている。
「でも、快復してからも彼に会いに行こうと勇気を出したのは、君だろう? それって、『来栖さん』の意思じゃなかったはずだ。なぁ南沢さん」
「それは……」
「復学しようとペンを手にしたのも、『来栖さん』じゃなく川原くんの意思だ。ひどい言い方かもしれないが、本当の動機がどうあれ、君の為でも実際の来栖さんの為でもない。彼が、彼自身で、彼の為にそうしようと決めて動いている。君の感情とは無関係の、彼だけの人生の選択だ。外から悩む方が驕りということもある」
「そう、ですね」
 泉理は俯いた。神成の手が伸びてきて、言葉の厳しさとは裏腹に、優しい手つきで泉理のグラスに酒を注ぎ足す。淡い色のチューハイ。
「けど、そうだな。相手の心と真っ直ぐ向き合おうという気持ち自体は、とても大事なものだと俺は思うんだよ。それを自分の問題にすり替えるのは越権だというだけでね。君はただ、一から彼を見つめ直して、彼が望む道を歩きやすいように、そっと手を貸してあげればいいんじゃないのかな。今度こそ、一対一の友人として」
「……はい」
 泉理は薄く笑って、こぼれないようグラスを押さえた。神成にも酌をしてやればよかったと思った。
「お酒って、こんなに静かな飲み方もあるんですね」
「ああ、俺はこれぐらいの方が落ち着くよ。バカ騒ぎの宴会は結構苦手だ、付き合いだから出るけどね。君ぐらい若いと賑やかな方がいいのかな」
「神成さんだってまだお若いでしょうに」
「今年で30だぞ。もうオッサンに片足突っ込んでるよ」
 神成はおどけた口調で言ってから、泉理の料理を褒めてくれた。夏に酸っぱいものは口がさっぱりしていいとか、きんぴらは味がしみ込んでて旨いとか、最近の居酒屋はだし巻き玉子に余計なことをしすぎるけれど自分はこういうシンプルな方が好きだとか。泉理は笑いながら、今後の参考にしますと頷いている。
 10歳の頃、20歳はまるで別次元の生き物に見えていた。いざなってみると、自分でも拍子抜けするほど幼い。全く変わらないとは思わないが、想像した半分も『大人』にはなり切れていない気がする。
 そして子供の頃、30代は親と同世代の『おじさん』であり『おばさん』だった。20代に足を踏み入れてみると、数歩先を行っているというだけで、届かないほど遠いという感じもしない。
「10年後、私、何をしていて、何を思ってるのかな」
 呟いてみると、神成はばつが悪そうに、少なくとも目の前にいるのが俺じゃない方が幸せだろうねと首を傾げた。
 確かに、10年後の泉理の人生に、神成はもういないかもしれないけれど。
「今日のことは、ずっと覚えてると思いますよ」
 もう一度、乾杯とジョッキにグラスを当てる。ああ乾杯、と神成も軽口を止めてビールをあおる。泉理もこの一缶を開けてしまうことにする。
 申し訳程度の果汁が舌で香って。ささやかな炭酸が、喉の奥で弾けて溶けた。