彼の足跡の追随 - 3/3

2015年10月16日

「申し訳ありません、佐久間先生。こんなかたちで子供をひとり保護していただくことになってしまいまして」
「いや、なに。あんなに大人しい子、乃々や結衣に比べりゃちっとも手がかからんさ」
 佐久間は待合室のソファで豪快に笑い、斜向かいに座った神成はそれを愛想笑いで流した。
 青葉医院。昨晩AH東京総合病院に侵入しようとしたとき、ありえない動きで自らの手を離れていく鍵を見て、宮代拓留だと神成は確信した。同時に、彼らが山添うきを最終的にこの建物に連れてくるだろうということも。
 だから、怒り散らす久野里を百瀬に抑えていてもらって、あとは俺が何とかするとフリージア組とは別行動を取ったのだ。折り悪く巡査たちが発火能力者の女に襲われたという報が入ってばたついたが、彼らを見舞った後、夜分遅くに申し訳ありませんがと青葉寮に電話をかけた。それでひとまず山添うきの所在を確認した後、明くる日の常識的な時間に直接訪れたというわけだ。
 佐久間とは主に山添うきの境遇や身体異常に関する情報交換をした。能力のことはどこまで話していいやら迷ったので、とにかく『脳に関する何らかの人体実験』で押し通す。
「『身内』の見立てによると、その……『再来』の被害者は皆、脳に異常が見られたそうです。もし一連の事件が『それによる異常行動』に過ぎないのなら、犯人などいないことになるし、またその傾向のある人間を治療しなければ不審死はやまない、ということにもなります。我々は、うきくんだけでなく、有村雛絵さんという碧朋の女子生徒と、お宅の拓留くんにもその疑いがあると見ています。ただ、2人とも検査にはあまり乗り気でないようでして――事は命に関わりますし。ぜひ先生からも、ご説得いただけませんでしょうか」
 言いながら、白々しいな、と神成は思う。脳の異常で自殺、それだけならありえるだろう。しかし立て続けに赤の他人が、『力士シールに絡めて』『6年前と同じ日に』死のうなどと、おかしくなった頭でそこまで考えるものだろうか? 否に決まっている。この事件は絶対に第三者が糸を引いて、『殺し』を行っている。だが現状、久野里の駄々に乗っかってやることぐらいしか、業腹ながら神成に打てる手はなかった。
 実際あのお姫様は、一定以上の成果を挙げている。真相に近付くために、彼女の持つ知識は必ず必要になるはずだ。神成の頭では理解の及ばない分野だから、分からないながらも、こうして穏便にお膳立てをしてやることしか出来ない。
「うちじゃあ設備的に難しいが。昔馴染みのところなら紹介してやれそうだ、俺の知り合いなら少しはあいつらも気が楽だろ。ちょっと待ってな、今電話して都合訊いてみるわ」
「助かります」
 佐久間が立ち上がり、固定電話に向かっていく。その背からふっと目を逸らし、神成は他に誰もいない待合室を見回した。いつもは賑わっているようだが、今日は『臨時休院』の札がかかっていたから誰もいない。2階は佐久間の引き取った地震孤児たちの居住区になっているらしい。そこは『青葉寮』と呼ばれ、1階の医院とは名義上別ものという扱いになっていた。山添うきは今そちらにいるのだろうか。
「こっちの都合が決まり次第、連絡すれば受け入れてくれるそうだ。神成くんからもあいつらによろしく頼むよ、説得は人数がいた方が心強いからな」
 佐久間の声がして、はっと我に返った。結構な時間ぼんやりしていたらしい。
 振り返り、ありがとうございますと頭を下げる。こちらが刑事だからといって萎縮せず、また敵愾心を剥き出しにもせず、『神成くん』とまるでご近所さんのように接してくれる佐久間の態度が、内心ありがたかった。『ありがたい』というよりも、常に気を張らなければならない職業にありながら『珍しく気楽だ』という方が、正確かもしれないが。
 佐久間は大きな口でかすかに笑む。
「うきちゃんが気になるか?」
「ええ、乗り掛かった舟ですし……こちらで預かっていた時の彼女は、ずっと悲しげに俯いていましたから。今度こそ本当に救えたのかと、それは正直気がかりです」
 神成は苦笑して、座ったまま佐久間の大柄な身体を見上げた。
「ただ、我々は些か以上に、配慮に欠けた対応をしてしまった。彼女がもう会いたくないと望むのなら、捜査上必要なとき以外、接触は避けようと思っています」
 佐久間は神成の言葉に直接は答えず、診察室に目を遣った。今はそちらに山添うきがいるらしい。
「なんて伝えれば通じるかね。『神成さんが来てくれた』で?」
「いえ、彼女は俺の名前を認識していないと思いますので――『スマホのおまわりさん』と、お願い出来ますか」
 なんだそりゃ、と笑って佐久間は奥へ姿を消す。山添うきの意思を確認しに行ってくれたようだ。つくづく頭が上がらないな、と神成は隠れて肩をすくめる。ややあって、ドアが少し開き、太い腕がぬっと出てきて手招きをする。神成は大きすぎず、また誰かが近づいていることは確実に分かる足音を立てて診察室に近付き、既に開きかけているドアを軽くノックした。
「うきくん? 入っても、構わないかな」
 はい、とか細い声が聞こえて、ようやく神成はその部屋に踏み入った。山添うきは所在なさそうにベッドに腰かけて、視線を下に落としていた。佐久間が退室しようとするのを、神成は首を横に振って留める。彼女は佐久間たちになら心を許し始めているようだったから、ここで2人きりになってはまた不安にさせてしまう。
 彼女の視線を拾い上げるように、神成は診察用の簡易ベッドの前に片膝をついた。
「うきくん。僕らは、君に謝らないと。いろいろと不安がらせてしまったね、ごめん」
 山添うきは、小さい頭をわずかに振った。長い髪が揺れる。
「おまわりさんと、百瀬さんは、なにも……」
 言ってから、それが失言であったと感じた風に、彼女は自分の口をはっと押さえる。神成は苦笑いするしかない。
「久野里さんは――あのお姉さんは、すごく気が短くてさ。口も悪いし。だからとても怖い想いをしてしまったと思うけど、なにも君にひどいことをしようと考えていたわけじゃないんだ。許してやってくれないかな? どうしても嫌だったら、文句は全部、僕に言ってくれて構わないから」
 完全な嘘でもない。久野里は、山添うきに『ひどいことをしたかった』のではなく、自分の目的のためなら『ひどいことになっても知ったことじゃない』と思っているだけだ。こういう言い換えは、神成の――というよりも刑事の常套手段だった。
 山添はおずおずと視線を上げ、ようやく神成の顔を見てくれた。人相があまりいい方ではない自覚はあるけれど、なるべく優しげに微笑む。山添は、両の拳を強く握り締めていた。
「百瀬さんは……わたしがお世話をしていたみなさんがいなくなったのを初めて見つけたのは、刑事さんだって、そう言ってました……。そう、なんですか?」
「……ああ」
 せっかく山添が見てくれたのに、今度は神成が目を伏せざるを得なかった。
 どれだけ劣悪な環境だったとしても、あの場所は彼女にとっては6年以上を過ごした『家』であり、どれだけ他人の目に異常に映ろうと、あそこにいた実験の被害者たちは皆彼女の『同胞』だったのだ。神成は彼女を日の光の下に引きずり出したこと自体が間違っているとは思わないが、仮初であれ『日常』だったものを突如奪い去った罪は消せないと考えていた。
「ごめんな。もっと早く駆けつけていれば、彼らが消えてしまう前に、助けることが出来たかもしれないのに。ごめん」
 いつもそうだ。仮の話ばかりして。遅すぎたと後悔ばかりしている。自分というものに本心から嫌気がさした。
 山添は震える声で続ける。
「見つけることは、できないんですか……?」
「手は尽くしている。けど……ごまかしたくないから、正直に言うよ。手掛かりは何も残っていない。もう、君が彼らに会うことは、出来ないかもしれない」
 山添はもう何も言わず、ただ大きな両目からたくさんの雫を落としていた。小さな手は膝の上で服を強く握ったまま、神成の差し出したハンカチを受け取ってすらくれなかった。
「なぁ、うきくん」
 神成はそれが何の慰めにもならないと承知したうえで、自己満足のために言葉を紡ぐ。
「日本国憲法って、習ったかな。簡単に言うと、そうだな、日本人がみんな持っている権利と、みんなで守らないといけない決まりなんだけど。そこに、こんな一文があるんだ」
 山添が濡れた目を神成に向ける。つまらない講釈でも気を惹けたことに安堵して、神成は自分の方こそ泣きそうな気分で続けた。
「『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』。つまり、君は病気を治して元気になっていいし、あたたかくて綺麗なベッドで寝ていいし、美味しいご飯を食べて、家族と笑って、また学校に行って勉強をして、たくさんお友達をつくってもいいんだよ。それが許されているんだ。君はたくさんがんばったんだから、もう『みんなのためのいい子』でいなくていい。『普通』に、他の人と同じように『生活』していっていいんだ。君にそれを禁じられるやつなんてどこにもいない。そんなやつがいたら、俺がそいつを許さないから」
 ああ、一人称が戻っちまった、と神成は詰めの甘さを呪いつつ。山添は意味を呑み込みきれない様子で、目を丸くして動きを止めていた。とりあえずはいい。泣くのだけやめてくれたから。
 ゆっくりと立ち上がり、神成はジャケットの裾を直した。
「また近いうち来るよ。今はゆっくり休んで」
「あの」
 立ち去ろうとした神成を、山添が控えめに呼び止める。指が軽く開いて、まるで遠くから服をついと引いているようだった。
「わたし……まだ、わからないことばかりで。でも、ありがとうございました。『神成さん』」
 神成は一瞬固まった後、笑い出してしまった。そうだ、彼女は小柄でも14歳だった。目の前であれだけ何度も呼ばれていれば、いい加減名前だって認識するだろう。
「ごめんごめん、子供扱いしすぎたみたいだな。参った。次からはもうちょっと、淑女に対する扱いを考えるよ」
「おー、ナイトを跪かせてハンカチ断って、立派に貴婦人だわなぁ」
 それまで黙っていた佐久間がにやにやと言うので、神成は赤くなって咳払いした。本人は相変わらずわかっていない顔をしている。
 佐久間と二・三言、検査に関する確認をして、山添に改めて挨拶をしてから、神成は青葉医院を出た。
 と、そこで電話が鳴る。百瀬からだった。
「はい、どうしまし――」
『神成ちゃん、今日は澪ちゃんと一緒にいないわよね?』
 百瀬の切迫した声の調子から、まさか、と引きつった笑みが浮かぶ。
「百瀬さぁん。俺、あの子大人しくさせといてくれって頼みましたよね?」
『あのね神成ちゃん、私の仕事はこの件だけじゃないのよ……。電話応対の間ちょっと他の子に任せてたら、言葉巧みに出て行っちゃったみたいで』
「こっちのお姫様は何でこう、おしとやかにしてられないんでしょうね!」
 神成は毒づいて、自分の車に乗り込んだ。この状況で久野里澪の行きそうなところと言ったらひとつしかない。
「心当たりあります。そこにいなかったらまた改めて連絡するので、一回切ります」
『ごめんなさいね』
 本当だよと思ったので、フォローせずに切った。
 久野里は、山添うきの件で宮代拓留たちにひどく腹を立てていた。としたら、カチコミに行く先は。
「『碧朋学園』は敷地内に入るの警察官でも面倒なんだぞ、まったく!」
 カーナビに目的地を入力。法定速度を遵守して、神成は車を走らせた。

 

2015年10月18日

「久野里さぁん。まだかかりそう?」
「黙ってろ。誰も待ってろなんて言ってない」
 取り憑かれたように、何度も何度も何度もデータを確認している久野里の隣に立ったまま、神成は浅くため息をついた。このクソ忙しいときにしょっちゅう席外す言い訳もそろそろ心許ないんだけどなぁ、と胃をさする。
 この日、神成は山添うきたち3人のギガロマニアックスの検査に立ち会うため、朝から本来の職務――これも一応刑事の仕事のつもりだが、独断であることは否めない――をいったん脇に置いていた。これが本当に『山添たちの付き添い』だけであるならば随分と気が楽だったろうが、実質『久野里の監視』だったのだから無駄に苦労した。
 今は青葉医院で、佐久間のパソコンから離れない久野里に付き合っている。有村はとっとと帰ってしまった。いや、いたらいたで久野里と喧嘩し始めるので面倒なのだが。佐久間も山添も宮代もそそくさと姿を消していて、使用許可を得たとはいえ他人のパソコンで何をやらかすか分からない久野里と、そうならないよう見張らなければいけない神成だけが残ったというわけだ。
 だが彼女は本当に検査結果にしか興味がないようで、医院の患者の個人情報まで盗み出すような気配はなかった。この分なら放っておいて署に戻った方がいいかもしれない、と神成は時計を見る。
「あの……来栖がお茶淹れてくれましたけど。飲みますか」
 そのときちょうど宮代が、遠慮がちに顔を出してきた。久野里は聞こえているだろうに返事をしない。英語と日本語をごっちゃにしながら、しきりに推論を呟いている。宮代がその様子にたじろいだ様子を見せたので、いらないってさと神成は肩をすくめて、彼を診察室から押し出した。ついでに自分も出てしまう。
「いいんですか、神成さん」
「いいよ。ああなったら久野里さんは、もう脳みそのことしか頭にないんだから」
「何か妙な言い回しですね、それ」
 待合室の受付台の上に、木製の盆と、きちんと茶托に載った3つの湯呑が置いてあった。正直あまり高級そうな茶器ではないが、決して安っぽくはなく、落ち着いた品性のようなものを感じる。来栖乃々らしい、と神成は思わず微笑んだ。
「せっかくだから、俺は帰る前にご馳走になっていこうかな。宮代くんも、忙しくなければ一服付き合ってもらっても?」
「はぁ。いいですけど」
 どうぞ、と宮代は迷わずに手前の青磁色の湯呑を神成の方に寄せ、自分は藍色の釉薬のかかったものを手にした。これが来客用で、向こうが彼の普段使いと決まっているのだろう。ソファに並んで腰かける。
「すまないね、せっかくの休日を」
「いえ、こちらこそ。検査のことはともかく、僕のスマホの買い替えにまで付き合わせてしまって。すみませんでした」
 宮代は小さく頭を下げた。神成は苦笑して首を横に振る。
「どうせ検査結果なんてすぐには出ないんだから。待ち時間をどう過ごしたって同じことだよ」
「そう言ってもらえると、助かります」
 藍色の湯呑が口に運ばれる。神成はその横顔を、観察というほどでもなく見ていた。
 宮代拓留。初めてラブホテルで保護したときは、思慮の浅い少年だと思った。けれど彼は歳相応に感情的な面を持ち合わせてはいるものの、総合して見れば、年齢よりはるかに理性的な部類だった。理屈や道筋を重んじて考え、また話す。ただその性質が行き過ぎるのか、知的好奇心だけは周囲が制御できないほどに荒々しく。それはどこか、理論で話すくせに感情で動いてしまう、久野里澪にも似ていた。
「でも久野里さんって、やっぱりなんというか、容赦ないですよね。有村ともずっと暴言吐き合ってるし……山添も怯えてたし。神成さん、疲れないかって彼女に訊いてましたけど、僕から見たら神成さんこそ疲れないのかなって思います」
 宮代は診察室の方を気にしながら、小声で言った。さてねぇと神成はごまかしながら茶をすする。旨い。丁寧に淹れたのだろうな、と頭の隅で思う。
「一応、さっきは多少優しかったんじゃないかな」
「あれでですか?」
 宮代が思い切り顔をしかめた。無理もない。神成はざらつく湯呑の底を無意味に撫でながら、笑ってしまった。
「少なくとも、うきくんはやっと意味の通った文章で返事してくれてたしな。『とりあえず知ってることだけでいい』なんて、随分譲歩してたはずだよ」
 フリージアで山添に問いを投げつけたときの久野里は、何も返答がないことに苛立って『いいから洗いざらい吐け』と椅子を蹴飛ばし、ただでも泣き通しのところを更に泣かせたらしいのだ。百瀬が止めなければ首でも絞めていたのではないかと、それは神成の憶測だが。ことによれば警察の尋問より剣呑である。口にすると宮代がまた激怒しそうなので、黙っておく。
「久野里さんなりに気は遣ってた、ってことですか?」
 宮代は眼鏡の奥の瞳を、真っ直ぐ神成に向けてきた。
 深い色の瞳。真実を追い求めようとする、貪欲なまでに純粋な瞳。
 ――神成は刑事だから。彼が追っているのは常に真実だから。同じ目をした人間には、あまり不誠実が出来ない。少年の目をしっかりと見つめ返す。
「そうだと、思うよ。俺の印象に過ぎないが」
「そうですか」
 宮代は静かに呟き、視線を外した。何かを考え込むようにしばし床を見つめて、それから言いづらそうに顔を上げる。
「もしそれが事実なんだとして、その。神成さん。失礼かもしれないですけど、いいですか?」
「今更なんだよ。気になることがあったら、何でも遠慮なく言ってくれ」
 神成がお兄さんぶって笑えば、宮代はついに哀れむような色まで表情に滲ませて。
「――久野里さんがそうやって気を遣ってくれてるのに、神成さんの方は『陰謀論者』って煽ったり、『あん?』とかガラ悪い相槌打つの、ちょっと大人げなくないですか?」
「うっぐ……!」
 神成は撃たれたように胸を押さえた。
 高校生にド正論で性格上の瑕疵を指摘された。いい歳こいて。ドヤ顔の後で。実に、実に痛い。久野里に罵られる何倍もきつい。
 神成は顔を背け、震える声を絞り出した。
「き、気を付け、ます……宮代先生」
「ああ、はい。なんかすみません……」
 そのうえ気まで遣われた。穴があったら入りたい。神成は湯呑を持ったまま自分の膝の上に突っ伏した。
 2階から誰かおりてきて、一生懸命何かを言ってくる。山添の声だった。
「あ、あの! 神成さん、お茶請け、お菓子とお漬け物どちらがいいか聞いてきて、と言われたんですが……!」
「うきくんごめん、今おまわりさん優しさが心えぐられるようにつらい」
「や、山添。神成さん疲れてるみたいだから、お茶請けはいいって伝えてくれ」
「宮代くん、頼むからその気配りでとどめを刺しに来ないで」
 ああ『大人』するって難しい、と神成は自棄になって緑茶を一気飲みする。
 底の方に沈殿していた濃い部分が、今日はいやに苦く感じた。

 

2015年10月20日

 渋谷警察署の眼前にある立ち食い蕎麦屋で、神成はずるずると温蕎麦をすすっていた。署内の食堂で済まさなかったのは人目が煩わしかったから。胃の調子が微妙なので揚げ物を避けてほうれん草蕎麦にしたけれど、よく考えたらほうれん草も消化はよくない。
 脱いだジャケットをカウンターに置き、ワイシャツの袖を肘まで折って、ネクタイを胸ポケットに入れてひたすら麺を喉の奥に流し込む。彼にとっては捜査期間の食事など、腹が鳴らないための処置にすぎない。
「お疲れ様です、神成先輩」
 声をかけられて、丼から顔を上げる。所轄の、神成より若い青年刑事が傍らに立っていた。
「ご一緒しても?」
「どうぞ」
 神成は一席を占めてしまっていたジャケットをどけた。そこに青年が身を滑らせる。持て余したジャケットはとりあえず腕を通さず肩に引っ掛けておく。青年は、神成の姿を観察して、どこか途方に暮れたように言った。
「前から気になってたんですけど、神成さんって」
「うん」
 旨いともまずいとも思わないつゆをすすりながら神成は、意味のない相槌を打つ。いよいよ呆れた様子で青年は言う。
「……麺類の食い方だけ妙にオッサンですよね?」
 神成はむせて、つゆを思い切り丼に吐き戻した。咳き込むと出汁の香りが喉に絡みついて気持ちが悪い。
「ど、のへんが?」
「全体に。袖もだし……特にネクタイの扱いとか」
 神成は黙ってジャケットの胸ポケットからタイピンを出し、引っ張り上げたネクタイの下方をワイシャツに挟んだ。滅多に使わないが持っていないわけではないのだ。
 青年の疑問に直接は答えず、正しく扱えている箸を空のまま開閉させる。
「中学のとき、いくら指摘しても握り箸の直らないやつがいてさぁ」
「はぁ」
「1回だけ、そいつの家で飯をご馳走になったことがあるんだけど。親父さん、やっぱり握り箸だったんだよ」
「はぁ」
 数年前に渋谷署の刑事課に配属されたばかりの彼には分からないだろう。6・7年前に、桜田門でついてしまった癖なんて。けれど分からなくていい。神成はなるべく誰にも知られたくない。『麺類の食べ方だけやけにオッサンくさい28歳』、それでいい。どうせ年齢もすぐ相応になるのだから。
「ごちそうさま。お先に」
 残りを手早くかっ込んで食器を片付けようとしたら、待ってくださいよ言いながらと青年が慌てて麺をすすっている。
「神成さん食うの早すぎません? まだ半分以上あったみたいだったのに」
「早食いは刑事の基本。俺が捜査のノウハウより先に叩き込まれたことだよ」
 苦笑して、ワイシャツの袖を元に戻す。神成にそれを言った本人は猫舌だったから、急ぐときはいつもざるそばだった。ジャケットに正しく腕を通し、上のボタンを留める。タイピンも外して胸ポケットへ。青年は真っ赤になってコロッケ蕎麦を流し込んでいる。
「またどこか行くんですか? 基本の話をするんだったら、捜査は所轄と本庁のツーマンセルのはずなのに。神成さんはいつもスタンドプレーだって、噂になってますよ」
 ふむ、と神成は不精ひげのない顎に触れながら、見ていて楽しくもない天井を仰いだ。
 刑事が原則として二人一組で捜査を行う理由は様々だが、安全面なら神成に誰かがついてくる方が余程危険だし、本庁刑事は所轄ほど地理に明るくないという理由だと、神成は渋谷なら行動に何の支障もないほどだった。
 更に言うなら、単独行動させないのは情報の隠匿や漏洩を防ぐ目的もあるそうだが――これはもう真っ黒だ。言い訳のしようもない。しかも神成の『協力者』は身を隠そうという気がないから、既に一部関係者に目撃されてしまっている。これ以上妙な噂が立つのは避けたい。
 神成は青年に視線を戻し、頷いた。
「じゃあ、今日は『一緒に行動しよう』」
「本当ですか?」
 青年がぱっと顔を輝かせる。そんな、いつかの自分みたいな表情をするのはやめてほしい。神成は笑みを引きつらせ、ポケットから自分が吸いもしない煙草の紙パッケージを取り出した。
「この銘柄、吸うっけ?」
「あ、はい」
 何気なく受け取る青年も流石刑事だった。すぐに眉をひそめる。偽装してあるが開封済みであることに気付いたらしい。
「それやるから、『渋谷からなるべく遠い』ネカフェで、今『電脳世界』がどうなってるか『一緒に』調べてほしいんだよ」
 わざと、自分は詳しくないが彼の好きなアニメの用語を持ち出して、笑顔をつくった。青年は難しい顔でパッケージの蓋を開け、煙草が一本抜き取られた隙間に、縦長に丸めた紙幣がしれっと入れてあるのを見て取ったようだった。
「神成さん……」
「それは心遣い、ってことにしといてくれ」
 もしくは捜査費用。袖の下、という言い方は、警官として些か困ってしまう。青年は嘆息して首を横に振った。
「分かりました。後で『合流します』」
 どうやら口裏を合わせることに決めてくれたらしい。ありがとう、と神成は肩をすくめる。こんなことばかりやっているから、いつも金欠なのだけれど。
 青年は批難がましい目で神成を見る。
「俺、神成先輩のこと尊敬はしてますけど。こうはなりたくないなとも思います」
「どうも。それ、意外と悪い気しないもんだな」
 百瀬にいつも言っていることを思い出しながら、神成は首を振った。
 さて。これから神成に『尊敬』の欠片も抱いてくれない娘と共に、いよいよ影ぐらいは見え始めた真相を探しに行かなくては。こうして、何も聞かずに信じ、託してくれる同職たちのためにも。

 

2015年10月27日

 久野里澪を杯田理子の部屋に置いたまま、神成は現場マンションを出てきた。自分も執念深い方だという自覚はあるが、あのお姫様のそれは常軌を逸している。流石に付き合いきれない。『委員会』――それも彼女の妄想ではないのかと、この時点の神成は少し思っていたぐらいだ。
 気晴らしに食事の話もしてみたが、すげなく返されただけだった。とはいえ神成も特に食べたいものがない。むしろあの部屋は食欲が削がれる……特に肉類を食べる気が一切なくなる。だからといって、おしゃれなカフェで女性に交じってサラダをつつく気にもなれなかった。今のうちに栄養を取っておかなければとは思うのだが。
「あ……そうか」
 食欲がなくとも栄養を摂取する手段ならある。神成は行き先を決めて歩き出した。
「おお、神成くん。また何か捜査で?」
 平日昼間でも青葉医院はそれなりに繁盛していた。地域住民から愛されているというのは本当らしい。
「どうも、佐久間先生。今日はただの患者なんで――お待ちの皆さんを先に」
 神成は苦笑して、受付台の『初診の方へ』と書かれている箱から書類を一枚抜き取る。シールやポップで、派手すぎない程度にかわいらしく飾り付けてあって、ここで暮らす姉妹の心遣いを感じる。あの2人にもこれぐらいのかわいげや気遣いがあればなぁ、と有村と久野里の顔を思い浮かべたら、空っぽの胃がまた痛み出した。さっさと記入を済ませてしまうことにする。
 午前診療の受付時間ぎりぎりだったせいか、神成は最後の患者だった。どうしましたと形式的に佐久間から問われたので、神成は捜査情報を伏せて、ここへ来た理由を説明する。
 佐久間は大口を開けて笑った。
「点滴を食事の代わりに、ってのは、健康的な日本男児のすることじゃないなぁ」
「すみません。本当は自分でも、不健康だなとは思うんですが……最近食事のことを考えるのが億劫で」
 神成は頭をかいた。ひとつだけ嘘をついている。食事のことを考えるのが億劫なのは、最近始まったことではない。生きていければ、不愉快でなく食えれば割と何でもいい。
 佐久間は神成を批難しなかった。分かってるだろうけどと前置いて、ゆったり笑みながら、順を追って説明してくる。とても落ち着いた『医者』の口調だった。
「よく勘違いされることだが、通常の点滴は栄養補給にはならないんだよ。脱水症状の緩和が主な目的でね。そして自力で動けるレベルの人間に、高カロリーの点滴剤は打てない」
「そう、ですよね」
「まぁ、確かに顔色はあんまりよくないわな。即効性はないが、食欲不振に効く薬なら出せるぞ? 漢方だから副作用も滅多にない」
「それはありがたいです」
「とはいえ、その様子なら栄養剤を出すほどでもないだろ。ええと、既往歴は『特になし』、常用薬は――『市販の胃薬』?」
 佐久間は初診の書類をめくる手を止めると、『医者』の顔でなく『宮代拓留たちの父』の顔で苦笑した。
「いや本当。苦労をかけるねぇ、神成くん」
「まぁ、その……そんなことないですとは、流石に言えませんが」
 神成は頭をかいた。宮代や、時には来栖の無茶にも手を焼いているのは事実で、そこのところを無理にごまかしても仕方がない。しかし、そこですっと背筋を伸ばし、彼も『患者』ではなく『刑事』の顔で答える。
「うきくんや有村さんのことで、我々も先生には大変お世話になっていますから。それから、ええと、その節は久野里さんがとんだ失礼を。申し訳ありませんでした」
 別に俺はあの子の保護者でも何でもないんだけど、と胸中で呟きながら頭を下げる。大人である以上、どのような関係であれ、連れてきた子供の不始末は詫びるべきだ。いいっていいって、と佐久間はやはり笑って神成に頭を上げさせた。
「優秀な子じゃないか。将来大物になるぞ」
「はは……」
 だから別に保護者ではないので、犯罪さえ起こさずにいてくれるなら久野里澪がどうなろうと彼の人生にはさして影響がないのだが。愛想笑いで神成はその話題を流した。
 佐久間が電子カルテに記入するのを、ぼーっと眺めている。
「なぁ。再来の捜査は、そんなに大変かい」
「そうですね……と、一般人の先生にこぼしていいのか分かりませんが。正直、しんどいですよ。『まとも』な犯人の起こしてる事件ではありませんから」
「殺人者な時点で『まとも』じゃあないだろ?」
「それはごもっともなんですが。――違うんですよ。多分、そいつの殺しには『メリット』がない」
 佐久間がタイピングを止め、視線を神成に向けた。喋りすぎたかと思ったがもう遅い。佐久間は興味深そうな目で続きを促してくる。
「『普通』の殺しは『メリット』が引き金になる?」
「概ね。金が欲しい、憎いから消えてほしい、そういうのは全部、犯人にとっての『メリット』です。通常、という言い方はしたくありませんが、大多数の殺人はそれに基づいて起こされます」
 神成は観念して、正直に見解を述べた。佐久間の太い指が再びキーボードを叩き始める。
「自分が楽しいから、ってのは『メリット』じゃあないのか?」
「いいえ。あくまで持論ですが、俺は犯罪の動機となる『メリット』を、『第三者から見ても利であると論理的に納得出来るもの』と定義しています。少なくとも、ニュージェネの犯人は、6年前も今も、そんなものは度外視で殺しを行っているはずです。それは最早損得ではなく、ただの」
 エンターキーが押された。プリンターが鈍い音を立てた。2人の男は同じ言葉を、片や薄笑いで、片や眉間に深いしわを刻んで、口にする。
「「ただの、『サイコパス』だ」」
 神成の目の前で、処方箋が揺れていた。佐久間は例の『医師』の顔で、『患者』に微笑む。
「生憎、うちでは扱ってない薬でね。薬局ならどこでも置いてるだろうから、二度手間で悪いが持って行ってくれるかな。よければ最寄りを紹介しようか?」
「ああ、いえ、大丈夫です。――すみません、つまらない話を。忘れてください」
 神成は薬の名が記された紙を受け取ると、慌てて頭を下げた。
 いつもは娘たちに任せてるからあまり得手じゃあないんだが、とぼやきながら佐久間が会計までしてくれて、恐縮しながら青葉医院を辞した。なら昼はいつもどうしてるんですか、とは訊きづらかった。
 今日は10月27日。
「明日か……」
 空を見ながら呟いた。
 明日きっとまた死人が出る。神成の『常識』はそれを止められない。どこかでもう諦めているのに、一方でそんな弱気な自分を全力で殴り倒したくて。このところずっとそうだ。自分と自分が取っ組み合っている。
 ニュージェネレーションの狂気を終わらせなければ。再来などという模倣犯のお遊びを看過することは絶対に出来ない。いや、これはもう模倣などという安易なレベルではない。再来は、渋谷地震と同じ日まで終わらない。渋谷の誰かは、『犯人』が満足するまで死に続ける。
 生ぬるいものが口唇から伝って、食欲もないのに涎かよと思ったら、触れた指先が赤かった。鉄臭い。いつの間にか噛み締めて切っていたらしい。
 神成はぐっと口許を拭うと、手の中の紙切れを握り潰してポケットに突っ込んだ。代わりに携帯電話を取り出す。佐久間には悪いが、やはり飯を食っている場合ではない。
「久野里さん? もうマンション出たか? 何か気付いたこと――ああそうだよ、解ってる。言われた通り『君は探偵じゃない』! でも頭の中身は俺よりずっと優秀なんだろ? だったら頼む、少しでいいから考えてくれ。力を貸してくれよ。『明日、もう誰も死なせないために、俺は何を犠牲にすればいい』!?」
 そして彼は彼女から何の託宣も得られず。自ら贄を供することも出来ず。
 その場所から罪のない少女が一人、消える。 
 狂気の幕は、まだ下りない――。