同人誌『ヘルマプロディートスの縊死』サンプル

五月中に発行予定の『ヘルマプロディートスの縊死』サンプルページになります。
小春野薫・杜若颯太らが登場する「壮花シリーズ」最新&完結作です。


新書/150P/800円

–NOTICE–
この作品は『The Flowers』に収録されている「チューベローズ」の続編です。
前作のネタバレ等が気になる方は先に合同誌『The Flowers』をお読みになることをおすすめします。
未読でも今作の理解に支障はありません。お好みでお楽しみくださいませ。

『The Flowers』商品ページ
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ヘルマプロディートスの縊死

 

田中勉(たなかつとむ)が死亡した」
 巻洲(まきす)刑事の報告を聞き、ふうんと小春野(こはるの)(かおる)はスカートから伸びた脚を組んだ。
 犯人が薫に名乗ったのはもっとキラキラの厨二ネームだった。警察はあいつを本名で呼ぶのでいまいちピンと来ない。
 壮花(わかきはな)警察署の少年補導室は、巻洲刑事曰く『安心して話してもらえるように』壁がパステル調のミントグリーンに塗られていた。今着ているワンピースと同じ色だ。気に食わない。
「それで? 被疑者死亡ってやつであのクソ野郎は不起訴になるから、オレはお役御免だって?」
「そう言えたら多少はよかったんだが……」
 巻洲刑事――三十にも届いていない青年刑事は、細い顎に手をやった。歌舞伎の女形のように整った顔立ちは当惑さえ様になる。
「田中は誘拐する相手を電車の中で見繕っていたそうだが、五条(ごじょう)あやめさんについては第三者の斡旋があったらしい。小春野さんのことも同様の理由で狙いをつけた可能性がある。心当たりはないだろうか」
「は?」
 薫の喉から地を這うような声が出た。
 壮花少女連続誘拐殺人事件。中学三年生の女子生徒・十代の女子大生・薫の友人である高校一年生の五条あやめが、相次いで誘拐・強姦・殺害された凶悪犯罪だ。薫もおかげさまで誘拐までは味わった。
 薫は背中まである黒髪をかき上げる。
「急に言われても、そんなこと考えたこともねぇよ」
「すまない。ゆっくりでいいから考えてみてほしい。どんな些細なことでも、思い出したら連絡を」
 両手で差し出されたのは、几帳面な明朝体で『巻洲啓司(けいじ)』と書かれた名刺。これ二枚目だぜ、と野暮なツッコミはせず薫も両手で受け取る。
 巻洲刑事はときどき配慮に欠けるが、犯罪被害に遭った男子高校生が何故女装しているのか根掘り葉掘り聞くことはない。
 署のロビーまで送ってもらった。薫の母親が立ち上がり、忙しなく頭を下げる。薫は黙ってその横を通り過ぎる。母は小走りで追いかけてきて、警察署を出るなり薫の腕をつかんだ。
「薫、あんた警察の方にご迷惑おかけしてないでしょうね」
「なんで迷惑かけてること前提の言い方なんだよ。被害者はオレだぞ」
「でも、そもそもあんたがそんな格好してなけりゃ」
「それオレが娘でも同じこと言えんのかよ!」
 薫は母の手を振り払い駅までの道を急ぐ。朝から降り続く雨をパンプスで跳ね上げ、人混みをすり抜けて母と距離を取る。同じ家に帰るとしても、せめて違う電車に乗りたかった。
 母の言い分はしょっちゅう変わる。高校に入るときは『もう大人なんだからやることに口は出さない』と言い、こうしてトラブルに巻き込まれれば『いい歳してみっともない真似をしてるから』と眉をひそめる。結局そのとき自分が一番気持ちいい言葉を発しているだけなのだ。理解ある母親、常識ある大人、よくあるファンタジーを自己投影して悦に入っているだけ。
 薫は片手の甲を自分の口唇に押し付ける。リップの移る感触も構わず奥歯を噛む。
 五条に会いたい。こんなときいつも薫を連れ出してくれた友人。彼女を殺した犯人が逮捕されて無念が晴らせたかと思ったのに、裏で手を引いていた奴がいる?
 まだ終わってない。守らなきゃ。月子(つきこ)を。
「まだ終わってない……!」
 薫は荒々しい動作で改札を抜ける。パンプスのかかとを鳴らし階段を駆け上がる。振り仰いだ空には厚い雲。薫の元まで光は届かない。
 息を切らせてホームに立った。
 どうして。オレは、多くは望んでないのに。
 ――友達と笑って、恋をして、どうしてそんな簡単な願いすら叶わないんだろう。

 五条あやめは、薫の中学の頃からの友人だった。五条、小春野、と五十音順で座席が近かったのが話すようになったきっかけ。額を出したポニーテールがトレードマークの、一見すると活発で内実とても聡い子だった。
 五条は、制服を着ない薫を奇異の目で見なかった。初めてのコスメを買うのに付き合ってくれた。メイクを一緒に練習した。互いに他の誰にも言えない秘密を共有した。
 薫にとってはかけがえのない戦友だった。
 その五条を、さらって殺したやつがいる。薫は自分を囮にしてまでそいつを捕まえたはずだったのに、本当の犯人は他にいるだと?
 許せない。許すことはできない。決して。
 月子のためにも、五条のためにも、杜若(かきつばた)のためにも。

 縁側に朝の光が射し込んでいる。杜若邸はお屋敷と呼んで差し支えない日本家屋だ。
 薫はスカートであぐらをかき、障子に向かって声をかける。
「中間、別室でもいいから受けないかってさ。お前、あの学校のテストならちょっとぐらい勉強してなくても余裕だろ」
 返事はない。毎度のことだ。薫はウサギ柄のトートバッグから紙片を取り出し、障子の隙間に差した。
「もし何か気になることあったら、この人に連絡してくれ。事件の担当してる刑事さん」
 やはり杜若からのリアクションはなかった。幼なじみの月子が杜若の母と一緒にやってきて、腕時計を示しながら首を振る。薫は嘆息して頷いた。
「いつもごめんなさいね、颯太(そうた)がご迷惑かけて……」
 杜若の母は今日も玄関まで見送ってくれた。数週間前に会ったときは歳以上にエネルギッシュだったのに、すっかりやつれて老け込んでいる。
 薫は愛想笑いで答えた。
「颯太くんのせいじゃないですから。また来ます」
 月子と一緒に杜若邸から遠ざかる。大人に深々と頭を下げられるのは落ち着かない。
「杜若くん、今日も出てきてくれなかったね」
 月子は不器用に作った玉ねぎヘアを揺らし、慣れないコンタクトをした目をこすった。一五〇センチの身長も手伝って、おしゃれのための努力が全部背伸びした小学生に見える。
「仕方ないのかな。わたしだって、もし薫ちゃんが……って考えると、学校行ってる場合じゃないもの」
 薫は聞かなかったことにして歩みを進めた。
 小春野薫、馬剛(まごう)月子、杜若颯太、そして五条あやめはみな同じ東仲篠(ひがしなかしの)中学校の出身だ。杜若は、想いを寄せていた五条あやめの死亡が報じられてから高校に来なくなった。薫からすれば理性的な選択だ。薫は月子のいない世界に留まりたくはない。
「五条さん、怖かっただろうな」
 月子はかすれた声で言い、自分の腕をさすった。
 誘拐・強姦・殺人の被害――月子も昔、二つめまでは経験したのだ。二度と月子にそんな思いはさせまいと誓ったはずが、薫はまた友人を同じ目に遭わせ、より悪いことに喪った。
 口唇を噛む薫に、月子が手を伸ばす。肌には届かず空中で止まる。
「薫ちゃんのせいじゃ、ないよ。五条さんのことも、杜若くんのことも、わたしのことも」
 説得力がないことは月子本人も分かっていただろう。事件から十年が経っても、月子は男に触れることができない。薫がどんなに美少女に擬態しても覆ることはなかった。
 薫は自分が一番かわいく見える角度に小首を傾げる。
「コンビニ寄ってから行こっか。紅茶、月子の好きそうな限定フレーバー出てるし」
 月子から頷きを引き出すためだけの中身のない台詞だ。
 ないよりましな程度の虚飾で今日もワンピースを風に揺らした。

 

「小春野。ちょっと待て」
 廊下で呼び止められ、薫は天井を仰いで息を吐いた。生活指導の森山(もりやま)先生がジャージ姿で仁王立ちしている。名残惜しいが、月子には先に行ってもらう。
 森山先生は――薫は内心で『ゴリ山』と呼んでいるが――スポーツ刈りで筋骨隆々の、絵に描いたような体育教師だ。私服可・染髪可で校則のほとんどが機能していないこの無法地帯(わかきはなこうこう)で、ピアスや肌の露出などなけなしの風紀を取り締まっている。
「小春野。お前ってやつはどうしてズボンを穿いてくるというだけのことができないんだ」
「先生こそ、どうして男がスカート穿いてくるってだけのことを容認できないんです?」
 薫はスカートの裾をつまんで優雅に礼をする。
「丈だってそこらの女子より長いぐらいだし、襟元だって大人しいでしょ。清楚ですよ」
「男が清楚である必要があるか!」
 ゴリ山がどんと足を踏み鳴らす。通りがかりの知らない女子がびくりと肩を震わせた。薫は眉をひそめ、右足でゴリ山の足元に踏み込む。
「暴力で生徒の自主性踏み潰す必要はあんのかよ! てめェ一人がゴリゴリの偏見に収まって満足してる分には勝手だけどな――」
「小春野」
 耳元の涼やかな声が、薫の頭をすっと冷やしていく。薫は振り返り声の主に礼をした。
「おはようございます。やまぶき(やまぶき)先生」
 山吹(よい)先生が片手を腰に当て端然と立っている。百六十二センチの薫より十センチ以上背の高い、パンツスーツの女性だ。うなじを刈り上げたショートヘアがよく似合う。
「森山先生。どうなさいましたか」
「どうもこうも、小春野が……」
「小春野が、ですか。できれば場所を変えませんか? 他の生徒の目があっては小春野も気がかりでしょう」
 山吹先生はゴリ山を空き教室(かつて人気校だった壮花は、没落した現在教室があり余っている)に誘導すると、言いたいだけ言い分を吐かせた。要約すればいつもの『男なのにスカートを穿いてきてけしからん』だ。その後で薫の『男がスカートを穿くななんて校則はない、時代遅れだ』という主張を聞き、ふむと山吹先生は腕を組む。
「もちろんそういった校則はない。しかしそのことは、森山先生への敬意を欠いていい理由になるのかな」
「それは……その」
 薫は口ごもってゴリ山の顔を見る。向こうもバツが悪そうだった。どこかで折り合いをつけて早く終わりにしたい空気だ。山吹先生に免じて、薫が引き下がることにした。
「口の利き方は確かによくなかった、です。すみませんでした、森山先生」
「フン、分かればよろしい」
 何が分かればなのか分からないが、ゴリ山はそそくさと部屋を出ていった。ああいう大人になりたくねぇなと思う。こういう大人になら、と山吹先生に向き直る。
「山吹先生もすみません。いっつも揉め事起こして」
「気にしなくていい。生徒の話を聞くのも担任の役目だからね」
 凛々しく微笑む山吹先生。薫は顔を伏せる。
「山吹先生はどうしてオレのこと、そんなにかばってくれるんですか?」
「私もこうだ。君だけ差別されていい理由はないだろう?」
 山吹先生が軽く両手を広げる。先生は毎日パンツスーツだ。薫とは逆で、彼女がスカートを穿いてきたことはない。
 薫は返事を忘れて山吹先生を眺めた。長身、短髪、色白、メイクは透明感のあるジェンダーレス系で、裏で『王子』とあだ名され女子に騒がれているのも頷ける。
 だが、先生は嫌になったりしないのだろうか。薫は月子のためならば、三日に一度ぐらいは現れる『カノジョのフリをしてくれ』『試しにデートしてくれ』『キスだけでもさせてくれ』『ワンチャンヤらせてくれ』という男子たちを殴り倒すことも苦ではないが……いや、どんな格好をするのも山吹先生の自由だ。詮索はよそう。
 山吹先生は正面までやってきて、薫の左耳のそばにそっと右手を添えた。
「しかし、このヘアピンだけでも地味なものに替えたらどうかな。どうも華やかで、勉学の場にはそぐわないように感じるよ」
 手のひらの熱の内側に、ハンドメイドのヘアピンがある。六枚花弁が二輪ずつ、両耳で計四輪のチューベローズ。
「いえ、これは……お守りなんで」
 薫は頭をかばうように一歩後ろに下がった。
 このヘアピンは、月子が薫のために作ってくれた世界にひとつしかない品だ。外にいるときは肌身離さず着けておきたい。
 山吹先生は肩をすくめて手を引っ込めた。
「何にせよ、自分が爆弾を抱えて歩いているという意識を持っておくことだ。無用な火がつかないようにね」
 薫は頷く。『爆弾』とまで言われるのは不服だが、攻撃されやすいことは事実だ。『普通』よりは言動に気をつけねばならない。
 予鈴が鳴る。
「では、ホームルームでまた会おう」
 山崎先生は、片手を挙げて颯爽と出ていく。
「『爆弾』ねぇ……」
 薫はパッド入りの胸を撫でてため息をついた。

 

 四限終了のチャイムと共に、薫はパステルブルーの包みを胸に席を立つ。
 今日は月子と昼食を摂る約束をしているのだ。週に一度のハッピーな昼休み。
 ポロシャツ姿の男子生徒、友人の笹木(ささき)がすれ違いざま肩を叩いてくる。
「よお小春野。外のロリータお前の知り合い?」
「あ?」
 幸せ気分に水を差されてどえらい声を出してしまった。顔をひきつらせたクラスメイトに、薫は明るい口調で訊き返す。
「ロリィタって、何の話?」
「廊下にすげぇフリフリ服の女がいるんだよ」
 笹木は顔のサイズに合っていない大きな丸眼鏡――薫は『サブカルクソメガネ』と呼んでいるが――を片手で直した。
「この学校でそういうカッコしてんの、他に小春野ぐらいじゃん?」
「バッカ、オレのはガーリー系でロリィタとは全然ちげーよ」
 わっからーん、と頭を抱える笹木を無視して引き戸の向こうへ踏み出す。
 窓を背にして、真っ白な服の女が立っていた。ふっくらした小さな身体に、パニエで膨らんだスカート、襟元のサテン地のリボン、ひらひらのヘッドドレス。全て神経質なまでに純白だ。首の黒いチョーカーだけが浮いている。
 薫が気になったのは、学校に似合わしくないコスチュームだけではなかった。鼻まで伸びた分厚い前髪のせいで目が全く見えない。
「こ、コハゥノカオルさん」
 不鮮明な発音にひどい早口。薫は自分が呼びかけられていると気付くのに五秒かかった。
「小春野はオレだけど。何か用?」
「わ、わたしナバタケマアサ」
 質問と答えが噛み合っていない。訊き直そうにも、ナバタケマアサ? は黙らない。
「ここれ、読ん、でください」
 突き出されるピンク色の封筒。薫は首の後ろをかく。
 こんなナリをしていると、面白がってグループに引き入れようとする輩も多い。一方的なシンパシーを寄せられることも少なくなかった。
「悪いけど、オレ友達募集のためにこういう服着てるわけじゃないから」
 結構な言い草の自覚はあるが、下手に情を見せて未練を残されても困る。薫は月子以外の女子と、上っ面以上の関係を築く気はない。唯一の例外である五条を喪った今は特に。
 ナバタケマアサは口唇をわななかせて両手を握りしめた。目が見えないので具体的な感情は分からない。
「とりあえず、前髪切るか留めるかしなよ。もったいねぇじゃん、せっかくかわいい格好してんのに」
 ナバタケは封筒を薫の胸に叩きつけると、薫の言葉に答えず駆け去った。
 それにしても、どうして今? 入学から二ヶ月近く経って、人間関係もあらかた固まった頃になって友人の申し込みとは……孤立して焦ったのだろうか?
 月子がこちらに歩いてくる。薫が来ないので迎えに来てくれたようだ。
「ひどいんだ。薫ちゃん」
 月子は封筒を拾い上げ、薫の手に握らせた。
菜畑(なばたけ)さん、きっと勇気出したのに」
「知り合い?」
「菜畑真朝(まあさ)さんでしょ。写真部の子だよ。ときどき美術室に来るの」
 写真部は石膏像などを被写体にするために、美術室を訪問することがあるらしい。
「月子は写真部と話すの?」
「菜畑さんとは話したことない。山吹先生は美術(うちの)部員とも打ち解けてるけど……あと、五条さんもよく馴染んでたね」
 五条、五条か。中学ではバスケ部だったはずだが、高校では写真部に入ったのか。
 山吹先生が写真部の顧問だというのも初耳だ。部での五条がどうだったか後で聞いてみよう。もしかしたら、彼女を殺したクソ野郎についても何か知っているかもしれない。
「薫ちゃん、今日はどこで食べる? 教室?」
「あ、うん。月子の席にしよっか」
 薫はチューベローズのそばを通るように、片手で髪を耳にかける。とりあえず今は月子が優先だ。亡くなった人間のことは、食事の肴にすべきではない。
 菜畑真朝か。薫は裏面に記された名を繰り返し、ランチボックス用の巾着に封筒を突っ込んだ。

 

 今日は帰りも月子と一緒。四時前の壮花駅は、やがて始まるラッシュの気配に満ちている。
 薫が前に並んで、月子は後ろに。薫は降車駅まで開かないドア際を確保して月子に譲る。
「ありがと、薫ちゃん」
 月子が表情を緩める。薫はどんな顔をしていいのか分からず曖昧に濁す。
 発車のベルが鳴る。薫は腕を突っ張って、誰も月子に近寄れないようにする。
「夕方も女性専用車あればいいのに」
「朝だけでも助かるよ。それに、こうやって訓練しないといつまでも慣れないし……薫ちゃんに守ってもらいながら言う台詞じゃないけど」
 薫を見上げる月子の笑顔はぎこちない。その瞳に映る自分を見たくなくて薫は目を逸らす。
 いつまで月子は苦しまねばならないのだろう。何も悪くないのに、自らを傷つけた『男』に十年も怯えて。月子の心を安らかにするためなら薫は人だって殺せるけれど、その手段で解決するものなど現実には何もない。
「ねえ薫ちゃん。菜畑さんの手紙、ちゃんと読んで返事してあげなね」
 月子が抑揚のない声で言う。それって(レンアイ)として? (トモダチ)として? と茶化す気にもなれず頷いた。
 二十分にも満たない乗車時間は、永遠のように長い。

 

 

 月子に言われたとおり、薫は自宅に戻ってすぐ菜畑真朝の手紙を開封した……のだが、途中で目頭を押さえてギブアップした。

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 きつい。何がどうとは言わないがあらゆる意味できつい。せめて適宜改行を挟んでほしい。
「きゅーけーしよ……」
 薫はトートバッグに手紙をしまって立ち上がった。
 クローゼットの奥からデカ盛りのカップラーメンを取り出し、小脇に抱えて階段を下りる。キッチンで熱湯を入れ待っている間に洗面所へ。長い髪をひとつに括ってメイクを落とす。サークルコンタクトを外し、アイメイクと一緒につけまつげを剥がし、クレンジングリキッドを顔全体になじませお湯でオフ。鏡に映っているのはもう美少女ではない、平凡な十六歳男子だ。
 カップ麺を回収し、部屋で中学ジャージに着替えたら準備完了。
 薫はローテーブルにラーメンを置き、あぐらをかいてゲーム機のスイッチを入れた。サブスクリプションの動画配信サービスを起動。ずらっと並んだホラー映画のタイトル画像を眺める。
 女性は月に一度、人によっては女に生まれたことを呪うぐらいつらい時期が来るらしい。薫は男に生まれたことを毎日呪っているので、月に一日(学校がある日は半日)だけ男の自分を許してやることにした。家族にも月子にも明かしていない秘密の習慣だ。
 今日はボディメイクもお休み、暴力もスプラッタも解禁。何を観ようか。今月は散々だったから、新規開拓より好きなもので落ち着きたい。『ドント・ブリーズ』『悪魔のいけにえ』『サプライズ』……マイリストをさらい、ふとチョーカーの少女の写真が目に付いた。
 菜畑真朝の黒いチョーカー。錠前のかたちをした金のチャームがついていた。甘いロリィタファッションの中で、ひとつだけ浮いたゴシックの香り。
 薫は『エスター』を再生し始めた。背脂豚骨醤油をすすり、謎の少女が恐怖を振りまく様子を睨みつける。
 この映画で主人公が殺意の対象になったのは、エスターがその座を手に入れたいと願ったからだ。本人の責任でも資質でもなく、ただ『男の妻である』という立場だけで狙われた。
 五条は? 五条も『五条あやめ』だからではなく、彼女が立っていた場所が誰かにとって偶然邪魔だっただけだとしたら? だとして一体誰が、何を奪いたかった?
 ……駄目だ、全然気分転換にならない。
 薫はスープを飲み干すと、ゲーム機とテレビの電源を切った。満ち足りない腹を抱いてベッドに横たわる。
 薫は五条の変わり果てた姿を直接見たわけではない。気を抜くと、そのうち普通に登校してくるのではないかと思えてしまう。その甘さを振り切ったところで、五条の謎を追えば追うほど、自分を突き動かすものが友情ではなく好奇心になっていきそうで怖かった。
「お前、マジでなんで死んじまったんだよ」
 まだ遊びに行きたい場所はいっぱいあったのに。薫だけではない、月子とも、もっと……。
 見当違いの恨み言を連ね、薫は両腕で目許を覆った。
 女々しいだろうか。でもいい。女々しさだって、男の特権だろうから。

 

 翌朝学校に行くと、山吹先生に声をかけられた。
「昨日、部活中の五条のことを知りたいと言っていただろう? 少しでも助けになればと思って、彼女の撮影した写真をプリントアウトしてきたよ」
 一年のフロアの突き当たりにある空き教室。写真部が備品室にしている部屋だそうで、黒板を埋め尽くすウォールポケットには、花や野鳥の写真が挿し込んである。遮光カーテンの隙間から漏れくる朝の光が、細かに舞う埃を輝かせている。
「私が持っているのはこれで全部だ」
 手渡されたのは二十枚ほどの写真紙。
「先生、よくデータ持ってましたね」
 今時の写真部というのはデータ提出なのだろうか? もっとも薫は今のも昔のも写真部に詳しくはない。
 山吹先生は真新しいデジタル一眼に触れながら微笑んだ。
「本当ならもっと撮っていたと思うんだけれどね。保護者の方が処分してしまわれて、私の手元に残ったのは五条が見せてくれたデータと、なんとか買い戻したこの機械ぐらいさ」
 そのカメラなら薫も見たことがある。春休みに遊んだとき、高校の入学祝いに親が買ってくれたと言っていた。五条の両親は彼女が亡くなる直前に事故死しているから、五条の家の持ち物は全て叔父夫婦に渡ったはずだ。山吹先生は中古屋に流れたカメラを、わざわざ探し出したのか。よく見つけられたものだ。
「見てごらん、小春野」
 山吹先生が、デジカメ本体のモニターで画像を見せてきた。黄色い花だ。花弁が一枚少ないが、薫が髪につけているチューベローズとどことなく形が似ている。
「いい写真だ。そう思うだろう?」
 鼻先でミントの香りがした。山吹先生の青年のように冴え冴えした目許に、少年のように短く切った髪が落ちかかっている。月子の存在がなければ薫もどきっとしたかもしれない。
 薫はなるべく自然に先生から距離を取る。
「先生。この写真、いつまでに返せばいいですか?」
 両手を後ろで組み軽く首を傾げる。言い寄ってくるどんな男も女も、平等にかわしてきた必殺のポーズだ。山吹宵は彼らが見せた落胆も怒りも浮かべず、満足そうにひとつ頷いた。
「それは君にあげよう。ただし、むやみに見せて回らないこと。五条の気持ちもあるからね」
 下心なしでただ単に距離感がバグっているのだろうか。それはそれで厄介だ。自覚も悪意もない人間というのは一番扱いづらい。
 こういうときは逃げるに限る。薫は笑顔を残して空き教室を出た。
 クラスに戻る前に、廊下の隅で五条が撮った写真を確認する。花ばかりだ。カメラを見せてくれたとき快く被写体になったのだが、薫の写真は一枚もない。まぁ、部活で提出したデータだから仕方ないか。他には、だだっ広い草原に建っている洋館が何枚か……。
 さっきから、サイレンみたいな高く長い音が思考の邪魔をする。
「なんだ、うっせぇな」
 顔を上げると、真っ白な物体が薫に向かって突進してきていた。思わず飛びのく。白い塊が薫の足元に滑り込む。菜畑真朝だ。
「なんで! なんで!」
 菜畑は溺れているみたいに薫のスカートにしがみつく。ぎらぎらした目が振り乱した髪の間から覗いている。薫は腰のリボンをつかまれ廊下に膝をつく。菜畑はうめき声とともに薫の喉に手を伸ばそうとする。
「なんで、よめよぉ、てがみぃ!」
「あぁ!?」
 薫は菜畑の手首を手の甲で払った。そのまま右手で菜畑の肘を内側から握る。菜畑が喚く。薫は左足をリノリウムに叩きつけ菜畑に馬乗りになる。左の前腕を首に押し付け体重をかける。菜畑の身体ががくがく揺れる。絞め落とすまであと十、九……。
「小春野!」
 肩を押され薫は我に返った。山吹先生が薫の下から菜畑を引っ張り出している。菜畑は壊れたおもちゃみたいに、口唇からぶーぶーと細かい泡を吹いていた。薫は声を上げかけて、菜畑を心配するのも山吹先生に言い訳するのもおかしい気がして口をつぐむ。
 山吹先生は菜畑の頬を鋭く張った。菜畑は一度ぶるると震え、尋常の動きに戻る。
「あ、あの、その、ちがうんです」
 うすら笑いで弁明しようとしたのは薫ではなく菜畑だった。山吹先生は黙って立ち上がる。菜畑を後ろに連れて廊下を歩いていき、階段を折れて階下に消えた。
 その場に残された薫はへたり込む。
 何だったんだ。
 まず菜畑はどうして廊下の突き当たりに薫がいることに気付いた? 一般の教室は階段を上がって右手側だ。左手奥の部屋に何かあるなんて、薫は今日の今日まで気付かなかった。写真部の備品部屋に何かを忘れたのか? にしては、菜畑はまっすぐ薫に向かってきたように思える。
 考えても仕方ない。薫はため息をついて五条の写真を拾い始めた。見たことがある花もない花も写っている。水仙は分かる、鈴蘭、彼岸花、朝顔も。さっき見せられた黄色い花の蔓植物と、紫の釣り鐘型の花、ピンクの花がついた木などは分からない。
「杜若に見てもらうか……」
 母親の趣味である香道に幼い頃から付き合っていたおかげなのか、杜若は植物にとても詳しい。スマホの画像認識より正確に名前を当てられるだろう。それが何の役に立つかは不明だが、とにかく今は五条についての情報がほしい。
 写真を握りしめて教室に戻る。
「なに小春野、ボロボロじゃん」
 また笹木が声をかけてきた。小春野、笹木と、五十音順で席の並びが前後なのだ。五条と同じきっかけでできた友人。
 そういえば服も何も整えずに来てしまった。薫は机に写真を置き、ワンピースのウエストリボンを結ぶ。笹木が写真の上にDVDのケースを載せる。おどろおどろしく『インシディアス』と書いてある。
「観てないっつってたじゃん。持ってきたわ」
「あー、どんな話だっけ」
「引っ越した先の家でよく分からんことになるやつ」
 笹木とはホラー映画好きで息投合したものの、要約が下手すぎていまいちオススメを観る気になれない。服を直した薫はパッケージを手に取る。パジャマ姿の少年の背後、黒いもやの中に不気味な家が――。
 家? 薫は花の写真をかき分け暗い色の写真を掘り出す。笹木が勝手にそれらを持ち上げる。
「すげぇ、レザーフェイス住んでそう。こっちは『喰らう家』って感じ」
 そうだ。あの殺人鬼に連れ去られたとき、薫は『海外のホラー映画に出てきそうな家だ』と思った。五条の撮った建物はいずれもあそこと雰囲気が似ている。
「笹木、次の授業何だっけ」
「化学」
 よりにもよって山吹先生だ。とてもではないが集中して受けられない。
 薫は写真とDVDをトートバッグに突っ込んで肩にかけた。
「オレ帰るわ」
「どした急に。生理?」
「お前それ今度言ったらブチのめすからな」
 首を縮める笹木を放って教室を後にする。予鈴を聞きながら廊下を足早に進む。
 ふと窓越しに裏門を見ると、グレーのジャケットの男がきょろきょろしていた。ここの教員? 教材のセールス? 何にせよやけにガタイがいい。
「小春野さん? もう授業が始まるんじゃないのか」
 振り返るとこっちにもスーツの男がいた。巻洲刑事だ。捜査で学校にも来たのだろう。
 写真の件を話そうかと思ったが、やめた。教えたら渡すことになりそうだし、本当に必要なら巻洲刑事も山吹先生から受け取るはずだ。
「早退。体調よくないから。何か分かったらオレにも教えて」
「ああ。気を付けて帰るんだぞ」
 仮病なのに大真面目に言われた。巻洲刑事もよっぽど教師みたいだ。

 

 平日の朝九時台、都心から遠ざかる電車は人が少ない。その分、座席の端に腰掛け俯いている人物が目立った。裏門にいた灰色スーツだ。まるで『コラテラル』でトム・クルーズが口にした、地下鉄で死に六時間死体だと気付かれなかった男みたいな……気味が悪くて車両を変えた。
 乗換駅で降りる。念のため関係ないホームを二つ経由して、目的の電車にギリギリで乗り込む。
 またいる。さっきの男。こちらに背を向けて立っている。閉まったドアの前で外を、いや、ガラスに映った車内を見ている?
 薫は額に手を当てて頭を振った。
 あの男の方が先に乗っていたのだから、たまたま同じ路線に用があっただけだろう。きっと事件のことを考えすぎてナーバスになっているのだ。薫はどうせ一駅で降りる。それで男のことは忘れてしまおう。
 電車が停まり男がホームに降りていく。薫はじっと待って、発車ベルが鳴り始めてから出ていった。男はいない。ほら、気のせいだった。そんなことより杜若のところに行こう。
 薫は階段を駆け上がる。使い慣れた改札口を抜けて杜若邸への近道に踏み込む。
 そこに声。
「なぁ、君――」
 スカートに構わず後ろ回し蹴りを放つ。何の感触もない。避けた。灰色スーツの男は、薫の脚が首を刈り取る前に後退していた。
 薫は右足が地に着くと同時にジャブを繰り出す。続けて左ボディブロー。
「ちょっ、待っ」
 男は薫のラッシュを最小の動きでいなす。ローキックに対するガードも的確だ。なのに反撃をしてこない。薫が疲れるまで待っているにしても、あまりにも消極的だ。
 もしかして、もしかすると、彼は……。
「ちょっと待ってくれって!」
 男の訴えを援護するように、突然鋭い電子音が鳴り響いた。
 薫は拳を構えたまま止まる。男が手振りで『いいか』と尋ねる。薫は頷いて二歩距離を取った。
「もしもし?」
 男が電話をしている間、薫は彼をよく観察した。
 三十代ぐらいだろうか。巻洲刑事よりくたびれているが、薫の父親よりは若々しい。背は平均程度で肩幅が広く、顔は薄味で柴犬のような愛嬌がある。
 男は短髪を片手でかき回しながら眉をひそめた。
「いや、だから、俺だって颯太のことは心配だよ。だからこうやってなるべく顔だって出してるわけだろ? でも姉さんはもう杜若家の人間なんだから」
「……杜若?」

 

「いやー、まさか颯太に君みたいなかわいいお友達がいたなんてなぁ」
 男――高田(たかだ)勝武(しょうぶ)と名乗った――は、にこやかに缶コーヒーを差し出してくる。わざわざコンビニ寄って高校生にこれ買う? と思わないでもないが、奢られる立場なので薫は素直に礼を言う。
「オレも、颯太くんの叔父さんが刑事さんだなんて知りませんでした」
 殴りかかった引け目で敬語になってしまう。巻洲刑事にはタメ口なのに。
「颯太はあんまり自分のこと話すタイプじゃないよな。苦労してない? 小春野さんは」
「いえ、落ち着いてて話しやすいです」
 高田刑事は巻洲刑事と同じ壮花署の所属なのだという。電車移動をよくするのだそうだ。
「電車内で起こる犯罪も多いしさ。車乗り回して『警察車両でござい』って停めてんのも、なんだかなって感じだろ」
 呟いたときの薄ら笑いがどこか寂しそうだった。並んで杜若邸を目指しながら、薫はもらった缶のタブを起こす。
「高田さんも、五条の事件を調べてるんですか」
「結論から言うとそうだ。でも少し説明が難しいな」
 高田刑事は下口唇を前にせり出す。
「殺人に関しては、連続誘拐殺人事件のうちのひとつとして、被疑者死亡で不起訴が決まった。死亡状況に限れば田中の供述と捜査事実で相違もない。だが当日の五条さんの足取りにはまだ不明な点が多いから、誘拐や殺人教唆・幇助等別の人間が関与しているものとして捜査を続けている」
 巻洲刑事も言いづらいことを配慮なく口にするが、高田刑事のそれは相手を不快にする可能性も殴られる覚悟も織り込んでいるように聞こえた。
 損をしそうな人だ。
 杜若邸に着く。高田刑事は薫だけで杜若と会うよう言った。
「颯太もその方が話しやすいだろうからさ。頼むよ」
 薫も異存なく高田刑事を客間に置いて歩き出す。
 杜若の母はいなかった。先程の高田への電話は職場からだったようだ。祖母に案内されて杜若の部屋へ向かう。
 フットカバー越しの足裏がひやりと冷たい。天気予報によると本日の最高気温は二十七度。縁側から見上げる五月の陽射は真夏さながらだ。
 薫は目を眇め、軽やかに輝く緑を睨む。
 いずれ連れ出さなければ。杜若だけを春に置き去りにはできない。
「杜若? オレ。小春野」
 無反応。いつものことだが今日は時間制限がない分もっと粘れるはずだ。薫は手に入れたばかりの札を切る。
「今日、高田刑事と一緒に来たよ。言えよな、あんな優しい叔父さんがいるなんて――」
 ぱんと勢いよく障子が開いた。浴衣姿の杜若が、人を殺しそうな形相で立っていた。
「ばあちゃん。勝武おじさんをおれの部屋に一歩も近付けないでくれ」
 杜若の祖母は驚いた素振りも見せず、はいはいと外廊下を引き返していく。突っ立っていた薫は、杜若に腕をつかまれ和室に引きずり込まれた。
「おい、杜若」
 呼びかけたところで続きが出てこない。
 久しぶり? 思ったより元気そう? こんな場面でどれも恥ずかしいほど間抜けだ。
 杜若はしばらく廊下を向いて黙っていた。奥二重の目をじっと伏せ、ようやく口を開いたときも薫の顔を見ていなかった。
「あの人を信用するな」
 千歳緑の浴衣は着崩れせず整っている。真ん中分けの黒すぎるほど黒い髪にもきちんと櫛が通っており、頬はややこけたようだが不精ひげはない。顔つきからは四月までの気弱さが抜けた。
 杜若颯太は、間違いなく正気だ。
「情報をやり取りするのはいい。でも心は許すな」
「まるで風俗嬢の心得だな」
 薫はやっと軽口を叩いた。杜若が薫を向き太い眉を下げる。これで話しやすくなった。凛々しい杜若は、昭和の映画スターみたいに男前でちょっとやりづらい。
「もっと弱ってるかと思ったから安心した」
「すまない。小春野たちとは顔を合わせづらかった」
「いいよ。ぶっちゃけオレも何を言えばいいのか分かんなかったし」
 杜若に座布団を勧められ、薫は六畳間に腰を下ろした。
 和室にそぐわない学習机には開いたノート、棚の至るところに付箋が貼ってある。ここからでも、赤いインクで殴り書きされた文字が部分的に読める。『犯人』『事件』――中間考査の勉強でないことは確かだ。
 薫はトートバッグから写真の束を取り出し、向かいに座った杜若に渡した。
「五条が写真部に提出した写真だって。花が多いからお前に見てほしくて」
 杜若は写真を一枚一枚畳に並べていった。花の写真を右手側、建物の写真を左手側、薫から見て正面になるよう置いていく。
「小春野、これで全部か」
「オレが預かった分はな」
「他に五条が撮った写真を見たことは?」
「オレを撮ってくれたとき、本体の画面で見せてくれたことはある。それだけ」
 杜若まで刑事みたいな口振りだ。対等なつもりの相手に尋問の口調をされるのは面白くない。
「写っている植物だが」
 感情のない声で言い置いて、杜若は花の写真を順番に指差した。
「水仙、鈴蘭、曼殊沙華、狐之手袋、冶葛(やかつ)夾竹桃(きょうちくとう)石楠花(しゃくなげ)馬酔木(あせび)福寿草(ふくじゅそう)……この辺りは全部有毒だ」
「マジか」
 どれも綺麗な花だ。壁にピンで刺しても様になりそうなものばかり。
「知らずに撮ったのかも」
「おれに菖蒲(あやめ)と杜若の区別を教えるためだけに、厚い植物図鑑を家から担いできた五条が?」
 薫のぬるい憶測を、杜若が鋭い声で否定した。言われてみれば五条も花に詳しかった。よく植え込みを指差しては何だかんだと名前を言っていた。もっと真面目に聞いてやればよかった。
 杜若の手が、ピンクの花がついた木と真っ赤な花を脇に除ける。
「五条はカメラを今年の三月に買ってもらったと言っていた。なら夾竹桃と曼殊沙華は撮れない」
「じゃあ何で入ってんだよ」
 当たっても仕方ないのに険のある言い方をしてしまった。薫はうなりながらあぐらをかく。
「つか、デジカメ買ってもらったのがこないだってだけで、今時スマホでも写真ぐらい撮れるだろ。サイズ揃えて一緒に出しただけかもしんねぇぞ」
 杜若は答えずに裾を払って立ち上がった。あやめ模様に染め抜かれた手ぬぐいを持って戻ってくると、正座をして厳かに開く。
「五条がおれにくれたものだ。……おれたちの誕生日に」
 杜若颯太と五条あやめは全く同じ日に生まれた。五条は行方不明になる間際、今年の誕生日を祝う手紙を杜若に送っていたという。写真も同封していたのか。
 好きな子にもらったものを好きな子の名前の模様の布に包んでるって結構キモくない? という本音は飲み込む。好きな子の作ったヘアピンを毎日着けている男も大概だ。
 中身は写真だった。さっきまで触っていたものと同じL判。薫は再度写真を分類していく。
 赤い空、飛行機雲、虹、坂、神社、夜景……。
 杜若が問いかけてくる。
「どう思う?」
「巧いよ」
「そうだが、そうじゃない」
 今度は薫が黙り込んだ。
 五条はカメラを買ってもらったばかりだった。被写体も撮り方もいろいろ試していただろう。とはいえ、センスは出る。これらの写真は、とりあえず枠内に収めただけの花と建物の写真とは明らかに別ものだ。同じ人間が撮ったとは考えづらい。
「裏を見てくれ」
 言われて引っくり返すと、撮影場所がメモしてあった。

「五条の字だ。あいつ絶対『は』の右側繋げて書くんだよ」
 中学の頃はよく授業中に手紙を回してきたものだ。見慣れたあの字を間違えるはずがない。
「こっちが本物の五条の写真……じゃあこっちは何だ? 誰が撮ったんだよ」
「これを渡してきた先生、山吹先生といったか。何者なんだ」
 杜若が訝しげに言う。クラスが違うので覚えていないようだ。聞けば化学の授業も別の先生だったという。
 薫は先生に渡された写真を指で叩く。
「山吹先生がオレにニセの写真をつかませて何か得するとは思えない。先生と五条の間に誰かが入ってすり替えたって方がまだしっくり来る」
 理由もそうだが、山吹先生が嘘やごまかしを並べているところを想像できない。
 杜若は両手を反対の袖に入れて腕を組む。
「小春野、曼殊沙華はいつの花だと思う」
「あ? これ? ヒガンバナ? 秋だろ。なんだ急に」
「誰かが写真を差し替えたとして、おまえでも分かるような仲間外れを看過するだろうか」
 おまえでも、とはご挨拶だ。杜若はときどき致命的に言葉が足りない。『(花に詳しくない)おまえでも』の略だと思うことにする。
 とはいえ山吹先生も、時季外れの花ぐらい気付きそうなものだ。いや、先生は五条がカメラをもらったタイミングを知らないかもしれない。三月はまだ高校に入る前だ。
「ダメだ、分かんねぇ」
 薫は嘆息して花以外の写真をまとめ始めた。つまり洋館の写真たちだ。
「何だったとしても、五条の名前が出たってことは事件に関係ありそうだよな。オレはこっち側をもうちょっと当たってみるから、お前はそっち頼む」
 杜若は返事をしなかった。腕組みをしたまま固まっている。
「おい、杜若?」
「小春野」
 杜若は薫の名を短く呼び、畳を睨んで両手を膝の上に移した。
「おまえに、謝らなければと思っていた。おまえの、おまえたちのことで」
「なんだよあらたまって」
 薫は居住まいを正す。謝られる覚えは特にないが、それぐらいしなければ釣り合わないほど杜若の声は差し迫っていた。
「勝武おじさんをどう思う」
「どうって、誠実そうだと思うよ。人当たりもいいしさ」
「おれもそう思っていた。ついこの前まで」
 杜若は記憶を取り出そうとでもするように右手を額に当てる。
 高田刑事は、今までも頻繁に杜若邸を訪れていたらしい。もの心つく前に男親を亡くした杜若も、叔父にはよく懐いていた。難航している事件について叔父がこぼしたら、思いつきを伝えたりもしていたそうだ。その結果事件が解決し、褒められて誇らしくなったこともあった。
「利用されているかもとは感じていた。だがおじさんの役に立つなら、悪人が捕まるならそれでもいいと思っていた」
 ほんの二週間前、五条を喪った杜若はひどく絶望した。兆候はあったのではないか、彼女が危険なことに首を突っ込む前に止められたのではないかと自分を責めた。
 高田勝武はそこにやってきて、甥に話をした。
「五条が、どう死んでいったか聞かされた。どんな風に縛られ、どんな傷をつけられ、何をされどこまで意識があったのか、ニュースでは絶対に報道されないようなことまで、あの時点で明らかになっていた事実を、全部。ぜんぶ」
『なぁ颯太、わかるだろう。許せないだろう。だったらどうするべきかわかるだろう』
「おれのことも五条のことも考えていなかった。そういう顔をしていた」
 薫はさっき会った男を思い出す。
 見る目がない。友人の心をずたずたに引き裂いた男と平気で世間話をしていたなんて。
「おれは小春野と馬剛をずっと、気の毒だと……遠くから同情するぐらいで、理解している気になって……こんな、こんなに、気が狂いそうなのに」
 杜若は両手を自分の喉にかけてうずくまった。
「おれはだめだ、笑って歩いている女が全て許せない、女を殺すかもしれない男を全て許せない、五条の最期を想像しようともしなかった自分が一番許せそうにない」
 薫は声をかけるでもなく友人を見下ろしていた。杜若が最後の一片を絞り出すまで。
「おまえたちみたいに、強くいられない……おれは、耐えられない」
 あとは嗚咽。
 バカなやつだ。杜若颯太は。バカで、バカ真面目で、バカみたいに優しい。
 薫は杜若の後ろ衿をつかむ。でかい猫さながら杜若の上体が伸びる。見開かれた目を覗き込んで、薫は冷静に言った。
「許さなくていいよ。お前の大事な人をめちゃくちゃにした野郎も、それをネタにしてお前を動かそうとしてる野郎も、大事な人をめちゃくちゃにされてのうのうと生きてる野郎も、お前は許さなくていい」
 耐えなくていい。許さなくていい。あいつも叔父さんもオレも。
 オレもそうだ。月子を傷つけたクソ野郎も、月子をそんな目に遭わせた自分も、オレたちを置いていった五条も多分一生許せやしないんだ。
「ムカつくブッ殺してやるって言いながら前に進めよ。杜若がそうしてくれりゃ、オレもちったぁ愉快だぜ」
 杜若は呆然と薫を見上げていた。薫はゲル化した友人を座布団に置き直す。
「写真、頼んだからな」
 廊下に出ると、数歩離れたところに高田勝武が立っていた。杜若の祖母は足止めに失敗したらしい。薫は後ろ手に障子を閉め、杜若の耳に入らないよう少し歩いた。
「颯太に何か聞いたかな」
 口火を切ったのは高田だ。薫と同じ速度で、距離を保ってついてくる。
「探りとか別にいいよ。オレはあんたらが仕事してくれさえすりゃそれでいいんだ、目ェ離して被疑者死なすとかくだらねぇ職務怠慢がないならな」
「耳が痛いね」
 白々しい会話に付き合う気はない。薫は手帳を取り出し、メモページに自分の携帯番号を書きつけてミシン目からちぎる。
「オッサンも番号くれよ。名刺あんだろ」
「ないよ公務員には。口頭で言うからメモしてくれ」
 高田は薫の渡した紙をスーツの内ポケットにしまい、十一桁の数字を諳んじた。薫はそのまま手帳に書き記していく。
「巻洲刑事は持ってたのに」
「自腹で作ってるやつもいるのさ」
 そういうものか。薫が思っているより税金の使い道は厳しいようだ。
「そうだ、巻洲刑事ってまだ学校にいる? 山吹宵って先生が、五条が撮ったことになってる写真を持ってる。受け取って調べといて」
「了解」
 もっと何か尋ねてくるかと思ったのに、高田はすぐに携帯電話を取り出した。縁側でどこまで聞いていたのだろうか。
 高田は庭を向きながら写真の件を告げ、山吹宵という教師についてできるだけ詳しく調べるようにと言い添えて電話を切った。薫は立ち止まって高田を見ている。高田が振り向いて肩をすくめる。
「俺の顔に何かついてるかな」
「高田さん」
 薫は高田の目を見て名を呼んだ。ペースを崩した方が負けだ。
「現場とか被害者の状況とか、そういうの杜若じゃなくオレに回してくれ」
「これ以上颯太のメンタルに負担はかけるなと?」
 高田は半笑いだった。これは確かにいけ好かねぇなと内心で納得。
「オレの方が詳しいからだ。オレは二度誘拐されて二度生還してる。プロとは言えねぇがド素人よりはマシだろ」
「なるほどね」
 高田はそうするとも嫌だとも言わなかった。
 まぁいい。釘は刺した。帰って建物の写真を調べなければ。

 

 家には誰もいなかった。
 ちょうどいい。母が在宅していようものならまた小言を言われる。
 リビングで弁当をかき込んだが足りなかったので、食パンを二枚もらってバターも塗らずハムとチーズを挟んだ。豆乳を注いだグラスと一緒に自室に持っていく。
 写っていた建物の検証をしたいが、さて何から始めたものか。
 鞄から写真を取り出したとき、昨日から入れっぱなしだった封筒が目に飛び込んできた。菜畑真朝の手紙だ。
 うう、と薫は眉をひそめる。気は進まないが、あそこまで責められて放置するのもどうか。絞め落とした罪悪感も手伝って、最後まで目を通すことにした。
 ぎちぎちに詰められた文字が現すところは、要するに友情と賛辞のようだった。薫は月子以外から褒められても心が動かない。それより、月子は人見知りだから他の人間に付きまとわれるのはとても困る。
 何度か間違えて同じ箇所を読んでしまいながら、ようやく終盤まで来た。
 貴方は私の仲間になる資格がある、と随分と上からな宣言と共にアルファベットが記してある。

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「『ここにビットコインで五〇〇ドル支払う』、とか続きそうだな」
 薫は大事なヘアピンを外して頭をかいた。脳裏に浮かぶのは迷惑メールの一節。
『あなたがそれをする方法を知らない場合、GOOGLEに尋ねる。』
 似たようなことが書いてあった。しかし菜畑が指定したのは検索エンジンではなく、オンラインストレージだ。薫は父のお下がりのデスクトップパソコンを立ち上げる。
 言われた場所には圧縮ファイルがひとつ。パスワードがかかっている。手紙にある『ninf』を入力すると開いた。長々とした英数字名の動画ファイルがたくさん入っている。
 ウイルススキャンで問題がないようだったので、一番上のファイルをダブルクリックする。他人にタックルをかましてまで見せたいものとは何なのだろう?
 無音だ。手の大写し、そして二十歳かそこらの男性の顔。自分でカメラをセットして撮影を始めたらしい。部屋は異様に片付いており、画面内には男性と金属製のバケツしかなかった。
 男性は壁際まで下がり、バケツを脚の間に抱えて腰を下ろす。フレームレートが低いようで動きがかくついている。男性はぼんやりした表情で口に手を突っ込むと、バケツに胃の中身を吐き戻し始めた。
「何だこれ……」
 薫はハムチーズサンドを食べる手を止め、再生スピードを速める。男性は一時間もえずき、やがてバケツに顔を突っ込んで動かなくなった。録画はその後も三十分続いていた。
「何だよ、これ!」
 薫は机を叩き肩で息をした。
 何だこれは。あれは誰だ。何のためにあんなことをして、何の目的で撮影を? 再生を止めたのは誰だ、それともバッテリー切れ? この映像を回収したのは誰だ? 菜畑真朝は何故これを薫に見せたがった?
 別のファイルを開く。違う男性が同じように録画を開始する。所狭しと置かれた二リットルのペットボトルを次々手に取り大量の水を飲んだ。他の男性。何時間もずっと自慰をして射精し続けていた。あれも、これも、ひとつの行為を倒れるまでやり続ける様子を、自分で撮影した動画だった。みな憑かれたように生気のない目。
 もうやめよう。こんな、わけの分からない動画に付き合う必要なんてないはずだ。
 最後に手が滑って、また別の動画を開いてしまった。今度は何をする気だ。気を失うまでオタ芸打ち? それとも二十四時間耐久ヘッドバンギング?
 薫の皮肉などお構いなしに、男性は三十センチほどの棒状のものを手に取った。白鞘の短刀だと気付いたのは、それが腹に突き立てられてからだった。刃は皮膚を肉を横に裂き、男性は自らの手で、
 ――薫は両手で自分の口を押さえた。昼食はほとんどせき止められずキーボードに部屋着にびちゃびちゃと降り注ぐ。
「あ……」
 早く止めるべきだ。早く止めるべきだ。早く止めるべきだ。
 この不愉快な映像を。
 解っているのに、吐瀉物塗れの手でマウスに触れることを躊躇した。
 その一瞬の間に。
 男は。
 引きずり出した、
 はらわたを、
 バルーンアートみたいに、

第一章「カーリアの森の泉」はここまでとなります。
薫たちの進んだ道を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

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