同人誌『紺碧つらぬけ』サンプル

同人誌『紺碧つらぬけ』のサンプルページです。

文庫/126P/600円

身体が欠けても、 希望が欠けても、 空ぐらいなら裂いてやる。

森貞竜光は、二十一歳にして大切なものを二つ失くした。
理想の家庭を築く夢。左手の親指の先。
目指していた者にも、完璧な者にももうなれない。
絶望すらも通り過ぎ、ただ漫然と日々を消費する。
このまま妻を愛して二人で生きていけたらそれでいい。
俺の人生は、もうそれだけで。

そんなとき、恩師に渡された「左利き用のキャッチャーミット」。
後輩と再びバッテリーを組み、逆の手を使って野球をして……。
いつしか、その『無意味』に竜光の心は弾んでいた。

既婚社会人が駆け抜ける、周回遅れの青春ストーリー。
自己愛混じりの感傷はもういらない。
白球よ、頭上を覆うこの紺碧をつらぬけ。

収録内容
  一 ただの左手の親指の先がないだけの人              
  二 親はなくとも子は育つしプロポーズも二回する          
  三 本日はお日柄もいいのでブチのめされてもらっていいですか? 

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一 ただの左手の親指の先がないだけの人 

 身体の一部を失ったとき、森貞(もりさだ)竜光(りゅうこう)は何かしら自分の『世界』が終わってしまったのだと思った。だが、左手の親指の第一関節より先、爪の部分を丸ごと切り落としても、国の基準によるとこの程度では『障害者』とも認定されないらしい。
 実際竜光はすぐに欠けた自分に順応した。指先ではなく関節で押さえるコツさえ覚えれば、右利きの竜光は左手をそんなに繊細に動かす必要がない。不便ではあるもののほぼ問題なく生きてはいける。医者も驚いていたから皆が皆同じ具合に暮らせるとは考えていないけれど、なるほど少なくとも自分は『障害者』ではなくただの『左手の親指の先がない人』なのだなと妙に納得した。
 血塗れにしてしまった職場も辞めなかった。罪滅ぼしに働いていきたい気持ちもあったし、不注意による事故で指を切り落とした高卒二十一歳に行き場がないこともわかっていた。現場の加工課から、測定が主の品質保証課へ異動にはなったが、妻と二人生活できる金が入るならどこでも構わない。
 周囲から思われるほど悲愴な心情ではなかった。絶望と呼べる自己憐憫は左手の先端と一緒に欠け落ちて、身体に馴染まない異物になってしまったから。
 今日も一八八センチの巨体を机と椅子の間に押し込めて、勤勉に無感情に仕事をこなす。測定室はとにかく狭いので、少し中にいるだけでも身体がバキバキだ。
 昼休み、ロッカールームで一人飯をするのが職場で唯一の癒しだった。一人飯といっても完全に放っておいてもらえる日はない。神崎(かんざき)金属株式会社は社員数が五〇人にも満たず、よく言えばアットホーム、悪く言えば暑苦しい社風なのだ。
 廊下を行く間も、同じ品質保証(ひんしょう)の先輩たちが話しかけてくる。
「森貞ー、たまには飯食いに出ん?」
「弁当あるので」
 毎度の返事を返すと、先輩たちのお小言もループに突入。
「またかぁ。たまには奥さん休ませてやれよ」
「女は不満を溜めといていきなり爆発するんだぞ」
「そうそう、ウチのカミさんもこの前さ……」
 最初こそありがたく拝聴していた竜光も、今はまともに聞いていない。はぁ、はい、そっすね、で大体流している。
 ひとしきり奥さんの愚痴をこぼすと、先輩たちは鼠色の上着を置いて出ていった。どうせ近所に顔は知れているが、外食時は制服を脱いでいく決まりなのだ。
 静かになったロッカールームで、竜光はパイプ椅子に座って弁当を開いた。今日は三食そぼろか。妻の雪枝(ゆきえ)は毎日早起きして弁当を作ってくれる。身体が弱いのだから無理しなくていいと言っているのだけれど。
 今度はドタドタと遠慮のない足音。現場の人たちだ。ノックもなしにドアを開け、一気になだれ込んでくる。
「おっ森貞、今日こそ帰りキャバクラ行くか?」
「行きませんけど」
「そんなとこダメですよ、こいつ愛妻家なんですから。雀荘なら来るよな?」
「絶対行きません」
「なんだよー」
 現場組は、競馬~ゴルフ~釣り山キャンプ~、と肩を組んで歌いながら去っていく。竜光は苦笑して箸頭で額をかいた。内容はともかく、無趣味な若手(といっても三年目)を気にかけてくれるのはありがたい。
 雪枝の弁当に戻る。舌がバカなので細かいことはわからないが、今日のおかずもとてもうまい。雪枝の料理はどれもこれも絶品だ。
 半分ぐらい食べたところでまたドアが開いた。桜原(おうはら)監督だ。
「監督、おつかれさまです」
 挨拶すると、監督は普段どおりのだるそうな調子で首を傾けた。
「お前、いつまでも『カントク』って呼ぶんじゃねェよ。学生気分抜けてねぇのか?」
「人前ではちゃんと『桜原さん』って呼ぶじゃないですか」
「使いわけねぇで統一しろってんだよ」
 監督は自分のロッカーに手をかけた。その拍子に、ロフストランド――グリップと前腕のカバーが一体になった杖が倒れる。竜光は慌てて拾い上げて近くに立てかけた。よく見れば、監督の左足はギプスと包帯でガチガチだ。
「どうしたんです。その足」
「階段を踏み外しただけだ」
 監督はぶっきらぼうに言い捨て、近所の弁当屋のビニール袋をロッカーから出す。竜光は、ぎこちなく椅子に座る監督をヒヤヒヤしながら見守った。
 桜原家には何度もお邪魔したが、確かに二階へ続く階段は急だった。滑り落ちたら玄関までまっしぐら。骨の一本や二本折れそうだ。
「そういや、こないだのタッパー持ってくるの忘れちまった。今日取りに来てもらうんでもいいか」
 監督が左手の割り箸で竜光を差してくる。竜光は弁当のもう半分をかっ込む。
「いつでもいいですよ、タッパーぐらい」
 先週、雪枝が生理で食欲がないと言って、竜光一人では食べきれない作り置きをおすそわけに行ったのだ。竜光たちが借りているアパートと桜原家は目と鼻の先にある。
「馬鹿野郎、おめぇが困らんでも嫁さんが困るだろうが。とにかく取りに来い」
 お願いが命令になってしまった。竜光はバラン一枚残った弁当箱を閉じる。
「ついでに片付け手伝います。それじゃ家の中も歩きづらいでしょうし」
「いいから、嫁さん孝行でもしてろ」
「雪枝も理由があれば朔夜(さくや)と会いやすいんで、別に監督のためではないですね」
「年々口が減らなくなるな、お前は」
 監督は大袈裟にため息をついた。
 学生のときと印象が違うのはお互い様だ。竜光も監督はもっと無口な人だと思っていた。野球部では野球以外の話をすることがなかったから。
「朔夜と雪枝に連絡しますね」
 ポケットから携帯を取り出す。右の親指でタタタと文字を打っていく。
 『健常者』なのも道理だ。竜光は、こんなにスムーズに妻にメールができる。

 桜原親子とは高校の野球部で出逢った。ちょうど二〇〇〇年、今から六年前だ。
 桜原太陽(たいよう)は雇われの監督。朔夜は監督の子供だからと、中学生ながら部活に参加していた。細かい事情は知らない。興味がなかったし今もない。
 最初の二ヶ月間、竜光は朔夜のことを男子と勘違いしていた。当時の朔夜は、ほぼ坊主というほど髪が短くて、加えて身長が一七〇センチあった。見間違うのも無理はない……と思っていたのだが、雪枝は一目でわかったようなのでやはり竜光のせいなのかもしれない。
 女子だと知った直後、一度だけセーラー服の朔夜と下校した。
「怒ってないのか。俺、本当に何も気付いてなくて」
「いえ、隠してたのは私なんで」
 と朔夜が決まり悪そうに言って、ああ本当の一人称は『私』なのかと竜光は納得した。今まで朔夜が口にしていた『自分』は、どうもぎこちなかったから。
 梅雨の晴れ間だった。アスファルトに白いスニーカーが光って、靴底よりも感情の擦り切れた声で朔夜が呟いた。
「去年、別の捕手の先輩に、『なんで女の球なんか受けなきゃいけないんだ』って言われて――」
 あの日の朔夜に何と言葉をかけるべきだったのか、竜光は今でもわからない。
 竜光は野球にさほど関心がない。父と再婚相手がいる自宅が嫌で、少しでも長く外にいる口実として部活に入った。野球だったのは、小中でもやっていたし多少は楽ができると思ったからだ。
 竜光がだぶつかせている権利を、生まれつきの理由で行使できない人間がいる。頭では知っていたつもりだったけれど、目の当たりにしても何もできなかった。
 望んでも得られない側に自分が回った今でさえ、何をするべきなのかわからずにいる。

 終業後、監督と一緒に桜原家に向かった。職場から徒歩圏内。普段ならどうということもない距離だが、片足の監督は歩きづらそうだった。
 雪枝は玄関前で待っていた。十一月の夜は冷える。竜光が連絡してから家を出てくれればいいと言ったのに。
 雪枝が会釈すると、マフラーの隙間から細い髪がさらさらこぼれた。
「こんばんは、監督さん。足のお加減いかがですか」
「悪かねぇよ。月村(つきむら)こそ大事はねぇか」
 返す監督の声はやわらかい。業務時間外だからなのか、自分も旧姓で呼ぶせいなのか、野球部のマネージャーだった雪枝の『監督さん』呼びには文句をつけない。単に女性に甘いだけかもしれないけれど。
 雪枝が、右手の手提げ袋を軽く持ち上げる。
「おかずを作ってきたんですけど、お台所であたためても構いませんか?」
「好きに使ってくれ。いつもすまねぇな」
 監督がスウェット(この人は最寄りのコンビニに行くヤンキーのような格好で会社に来る)の左ポケットからキーケースを出す。杖のせいで絶対に手間取ると思ったので、竜光は黙って監督の手からケースを抜き取り引き戸を開けた。
 監督は不満そうに家に入り、框へ無造作に尻を落とした。監督が右足のスニーカーを脱ぐのを待つ間、竜光は玄関の違和感に気付いて眉をひそめる。
 綺麗すぎるのだ。いや、散らかり方に変わりがなさすぎると言うべきか。桜原家の玄関は、何が入っているのか見当もつかない古い和家具が三分の一を占めている。この家の構造なら、階段から誰かが滑り落ちたら和家具にそのまま突っ込むはずだ。監督は決して大柄ではないが、成人男性が骨折する勢いで落ちてきたのならこの辺りは壊れるなり崩れるなりしていなければおかしい。
「森貞。突っ立ってんならそれ取れ、家用の杖」
 監督に声をかけられて我に返る。竜光は腰を曲げ、三和土の和家具に立てかけられた松葉杖を監督に渡した。
「ちゃんと使い分けてるんですね。意外です」
「拭かないなら分けろって朔夜に叱られたもんでな」
 監督は器用に立ち上がり、ひょこひょこと廊下の奥に進んでいく。竜光は監督のすっ飛ばしていったスニーカーをそろえ、自分も靴を脱いだ。長男の皓汰(こうた)の靴はないようだ。大学に入ってから外泊が増えたらしくとんと見かけない。
 朔夜とも指を切り落として以降会っていない。わざわざ報せるほどの用ではないと思ったのだ。まぁ父親が骨折したというのも、後輩と会う理由としては下の下だが。
 がちゃがちゃと金属の音がする。まずい、このままだと朔夜が外から鍵を閉めてしまう。監督のサンダルを勝手に引っかけ、急いで引き戸を横に滑らせた。
「朔夜。おかえり」
「お久しぶりっす。リューさん」
 朔夜は快活に笑った。相変わらずのショートヘア。男性ならば長髪に分類される長さだが、女性としては随分短い。
「お前、なんか肌チカチカしてないか?」
「ウソ? メイク崩れてんのかな」
 朔夜は手首にスーパーのビニール袋を提げたまま、両手で自分の頬を押さえた。
 メイクをしているのか。よく見ると小さな赤いピアスもつけている。パンツスタイルだろうと決めつけていたスーツもスカート。三年間陽の下で一緒に過ごした『弟分』とは別人のようだ。
「チカチカかぁ~……。私まだ上手く化粧できないんすよね。パンプスもまっすぐ歩けないし。ユキさんにちゃんと教えてもらおうかな」
 朔夜は嘆息して両手の袋を框に置き、革の靴を脱いだ。気遣わしげに訊いてくる。
「そういえば、リューさん左手は大丈夫です? 不便してませんか」
「問題ないよ。何とかなってる」
 竜光は即答し、朔夜に続いて廊下に上がった。
 最近ではボタンの留め外しもスムーズにできる。日常生活レベルで困ることはほとんどない。
「手、見せてもらっても大丈夫ですか」
 朔夜が竜光の向かいに立つ。身長差だけは在りし日のまま。
 竜光は左手を持ち上げて朔夜に委ねる。朔夜の利き手の指が、竜光の左親指の根元を確認していく。
「可動域も支障出てます?」
「普通に動く。ただ先端がないだけだ」
「これってこの先、手当とかつくんですか?」
「労災で単発の治療費。それだけだよ。法的に俺は障害者じゃないらしいし」
「え、IP関節が生きてるから?」
「さすが、詳しいな」
 スポーツ医学に明るい朔夜は、親指の第一関節の重要性も理解しているようだった。ここが無事なら一応『普通』に暮らせることになっている。
 朔夜がしんみりと呟いた。
「私、ずっとこの指にお世話になってきたのにな。どんな球もいつも捕ってくれて」
 それに関しては竜光も口をつぐむしかない。
 捕球は『日常生活』の外のことだ。親指の精密な動きなしに、朔夜の放つ多彩な変化球は捕れない。たとえもう捕る必要がないとしても、それはまた別の話だ。
「すんません、変なこと言って」
 朔夜はぎこちなく笑ってビニール袋を持ち上げる。竜光は首を振って袋を引き取る。中身は食材のようだ。
「先に着替えてこいよ。冷蔵庫に入れとく」
 朔夜は何か言いたげにためらった後、結局頷いて階段を駆け上がっていった。竜光はそれを見送り、振り返ってぎょっとした。松葉杖を手にした監督がぬぼーっと立っている。
「どうしたんですか。そんなとこで」
「便所」
 ああ、自分がここにいると邪魔なのか。
 竜光は道を譲ったが、監督は何か考える素振りで動かなかった。
「監督?」
 呼びかける。監督はようやく一歩前に出る。
「右なら捕れるだろ」
「は?」
 思わず不遜な声が出てしまった。
 さっきの話か? 親指がないから朔夜の球を捕れないという、そういう?
「無理ですよ、逆の手で捕るなんて。もし捕れたって左で投げられませんし」
「俺はいつも右で捕って左で投げてる」
「それは監督が左利きだからでしょう」
 竜光はきつめに言い返す。監督はふんと鼻を鳴らしてドアの向こうに消える。
 何なんだ。
 竜光は首を傾げて、重い荷物を台所まで運んでいった。

「これは?」
「何らかの菓子の缶だな」
「このクソ重い木の箱は?」
「アイロンだな。中に炭を入れて使うやつだ」
「使ってるん……ですか?」
「なワケねーだろ、今時そんなもん」
 万事この調子である。竜光は右の手首で額を押さえて嘆息した。赤ん坊というやつは何でも口に突っ込むらしいのに、よくこの父親のもとで朔夜も皓汰も無事に育ったものだ。
 その朔夜は、父が心配でしばらくは一階の客間で寝るという。四人で食卓を囲んだ後、雪枝と一緒に二階の部屋から細々したものを下ろしていた。いや、監督そんなに重症か? と思ってしまうのは、竜光が指の足りない生活に慣れすぎているせいかもしれない。
 竜光は、監督の部屋の片づけを手伝っている。整頓好きの朔夜の手が及ばない監督の私的空間は、六畳という言が信じられないほど狭苦しい。
 竜光は炭火アイロンの箱をひとまず部屋から出し、腰をぐっと反らした。
「ちょっと、思ったより力仕事なんで指付けます」
「軍手も貸してやる。ちょっと待ってろ」
 万年床に座っていた監督は手の力だけで立ち上がり、片足でひょいひょいと押入れの前まで行く。器用だなと思いつつ、竜光はポケットから、お守りぐらいの小さな巾着を取り出した。雪枝が縫ってくれた袋を開けると、中には『左手の親指』が入っている。義指だ。シリコン製で、指サックのように根元に被せて使う。リーチが伸びる分、手に力を入れやすくなる。
「ずっとそれしてりゃあいいじゃねぇか」
 丸めた軍手が飛んできた。竜光は右手でそれを取る。
「蒸すんですよ」
 口にしないだけで、義肢をつけない理由は他にもあった。自分の一部でないものが、さも自分であるかのようにくっついてくるのが嫌なのだ。周囲の人間が目のやり場に困るようだから、医師のすすめに従って一応作ってみたけれど全然しっくりこなかった。
 手袋をすればそれも全て隠れる。
「他人の親父ばっか気にして、自分(てめェ)の親父にはやっぱり会ってねぇのか」
 手持無沙汰なせいか、監督はいつもは言わないことを訊いてくる。竜光は監督に背を向け、日付が昭和の新聞紙をまとめて束ねる。
「生きてるうちに孝行しろとかいう話なら耳タコですよ」
「いや。別にいいんじゃねぇか。嫌いなら嫌いで」
 倒れ込む音。振り返ると、監督は写真立てを手に仰向けに転がっていた。
「俺の親父は一族郎党嫌って縁を切ってたが、俺はそれで親父やてめェが不幸だと思ったことはねぇよ。皓汰はともかく、朔夜だって家に居つかなかった母親を許しゃあしないだろうしな。どうしても認められねぇ相手と、たまたま同じ血が流れてることだってあるんだろうさ」
 竜光は厚い口唇をぐっと引き結んだ。
 監督のこういうところが好きだし苦手だ。頑なに拒もうと身構えていたところに、緩やかに流れ込んでくるようなところが。
 監督が寝返りを打つ。張りの甘いシーツが一緒に動く。
「あと、これも会社の連中に言われて耳タコだろうが、お前少しは自分の世界を持てよ。ずっと見られてるんじゃ嫁さんも息が詰まっちまう」
「嫁さん孝行しろって言ったじゃないですか」
「それが孝行になんだよ。亭主元気で留守がいいって昔から言うだろうが」
 監督は眠そうに写真立てを脇に伏せた。
 釈然としない。雪枝を想って雪枝だけを見ていることの何がためにならないのか。
 竜光は意地になって答えなかった。監督も無言だった。と思ったら、いつの間にかいびき混じりの寝息を立てていた。
 人に片付けさせておいて……。一瞬むっとしたが、放り出された松葉杖を見て竜光は怒りを引っ込める。
 身体を損傷すると、それだけで体力と気力を消耗するのだ。痛みで眠れない夜もある。睡眠が取れそうなら機会は逃さない方がいい。
 竜光は可能な限り音を立てず、監督の部屋の動線を確保した。これで少しでも楽に暮らせればいいのだけれど。

 帰りしな、仮眠をとってスッキリした様子の監督に段ボールを渡された。養生テープで雑に留められた、片手では持ちづらい大きさの箱だ。玉手箱だから帰るまで開けるなと言われたが、玉手箱なら帰っても開けてはいけないのではないだろうか。
 雪枝と二人、足下から冷える道を歩く。晩秋の夜闇は随分深まっていた。手を繋いで足早にアパートに戻る。竜光たちが暮らすのは一〇二号室、大家の隣で家賃が一番安い部屋だ。
 八畳一間の真ん中には、桜原家のお下がりのちゃぶ台がある。竜光はその脇に段ボールを置き、緑の養生を一息に剥がした。
 開けた瞬間はっとする。このフォルム、懐かしい革のにおい。
 ――キャッチャーミットだ。
 雪枝が横から覗き込んでくる。
「それ、竜が持っていたのとつくりが逆じゃないかしら」
 竜光は箱に両手を突っ込んで、大きな革細工をそっとすくい上げた。
 左利き用のキャッチャーミット。時に『存在しない』と言われるが、実は数が少ないだけで存在はしている。実際手にしたのは初めてだ。
 竜光は気のない目つきで、よく型付けされたミットを眺める。
 右手なら捕れるなんて、監督はあんなことを本気で言っていたのだろうか。
「朔ちゃんがね」
 雪枝が右肩にもたれかかってくる。遠慮がちにぽつぽつと話し出す。
「最近お仕事つらいみたいで。気晴らしに監督さんとキャッチボール始めたばかりだったんですって。そろそろピッチングも、ってところで監督さん、足が……でしょう」
 竜光は黙って雪枝の背を支えた。
 雪枝は竜光の手越しにミットに触れる。
「また、朔ちゃんとバッテリーを組んであげられない? ちょうど私も、高校受験でやめてしまったピアノをまたやってみたいと思っているの。あなたも、お仕事と私以外の時間を過ごしてみてほしい。きっと大事なものになるはずだから」
 厄介払いの口調ではなかった。本当に心配してくれているのだと思う。
 雪枝と過ごす時間は、もう人生はこれだけでいいと思えるぐらいに大切なのだけれど……その雪枝が他の時間も設けろと言うのなら検討してみるか。
「これが似合うかどうかぐらいは、確かめてみてもいいかもな」
 一生懸命おどけてみせる。雪枝はまるで素敵なものを見たみたいに笑ってくれた。

 森貞竜光は二年前、一九才のときに結婚した。
 高卒入社二年目。相手はひとつ年上の幼なじみ、雪枝。
 そろそろ子供を、と思ったのは半年ほど経ってからだ。監督の世話で入った神崎金属の給与は多いわけではないが、無趣味な竜光は幼い頃から貯金をそこそこ貯め込んでいて、FXでも一定の利益を上げていた。三人でも充分に暮らせるはずだ。
 それに雪枝は、軽いアルバイトをしているだけで平日はずっと一人で家にいる。子供がいれば寂しくなくなるだろう。
 雪枝は元々体調管理のために基礎体温を測っていたし、タイミングを見て自然妊娠を目指すことになった。竜光は煙草は全く、酒もほとんどやらない。加えてこの若さならと高を括っていたが、一年経っても雪枝に生理は来続けた。
 きちんと婦人科に行って妊活したいと、長いまつ毛を伏せて雪枝は言った。一年何の成果もないとなると竜光も、そこまでする必要はないとは言えなくなってきた。
 仕事で付き添いはできなかったが、検診では問題ないと言われたらしいので安心した。
 雪枝はいっそう身体に気をつけるようになった。睡眠。運動。冷え性。栄養。カフェイン。ストレス。日光を浴びる頻度まで。
 竜光も健康な精子のために自分の生活を見直した。下半身に熱をこもらせていないか、圧迫していないか。もちろん雪枝と一緒に、バランスの整った食事と規則正しい就寝・起床時間も忘れない。
 概ね二十八日の周期で雪枝は毎回落ち込んだ。
 竜光はそのたび言葉を尽くして雪枝を励ました。水族館、美術館、博物館、雪枝の好きな場所に連れ出した。森の妖精が営んでいそうな小さなカフェに、熊のような巨体を押し込むことだって厭わなかった。
 雪枝に笑顔は戻らない。
 あなたも検査を受けてほしい、ある日そう呟いたトーンで、膝の上で握りしめた白い両手で、彼女がどれだけ長い間その言葉を我慢していたのかを思い知った。
 町の婦人科――町医者が内科と小児科とを兼ねてやっているところ――ではなく、設備の整った大学病院で、夫婦ともども診てもらった。雪枝の身体は、少なくとも子供を宿すという点においては健康そのものだった。
 竜光は再検査になり、診断が確定するのに一ヶ月かかった。
「……です」
 竜光は医者の言葉が聞き取れなくて二度聞き返した。一度目は意味がわからず、二度目はわかりたくなかったのだ。
 非閉塞性無精子症。精子を造る能力が著しく低下している・もしくは全くない状態。
 竜光の無精子症の原因は、先天性の異常によるものらしかった。Y染色体のAZF領域に欠失があると、生殖機能に問題が生じる。中でもAZFc領域の欠失であれば、ごくごく少量存在している精子を顕微鏡で拾い上げ、妊娠に繋げることも可能だという。
 竜光の欠失はa領域。aおよびb領域に欠失が認められる場合、精液内に存在する精子の数は、どれだけ熱心に探したところでゼロである。
 後ろから誰かに突き飛ばされた気がした。突き飛ばされて初めて目の前が崖であったと知った。
 一年半だ。雪枝に無意味な努力を強いて、他人事のように励まし続けた期間。
 父親ができなかったことを自分は成したかった。母親が持てなかった幸福を雪枝にあげたかった。自分が欲した関係を子供に用意してやりたかった。
 あたたかな家庭。笑顔の絶えない食卓。親子の信頼。
 最初からできなかった。生まれたときから素質がなかった。どこにも責任を問えないぐらいの『そもそも』の地点から。
 手につかない仕事を無理やりこなそうとして、その事故は起こった。金属断裁機(シャーリング)での作業中、どうしてそんなことになっていたのか今あらためて考えても全くわからないが、左の親指を刃の下に置いていた。旧い足踏み式の機械で安全装置はついていない。全体重でペダルを踏み抜けば、まっすぐな刃は簡単に指を両断した。
 周り中大騒ぎになって怒鳴られながら止血されて、相当痛かったしうるさかったはずなのに竜光はあの日のことをあまり覚えていない。
 屋外に連れ出されたとき、コンクリートで熱せられた空気がむわりと全身を包んで、体温が上がってしまうなと困り果てた気がする。どうせもう無駄だったのに。
 蝉が鳴いていた。全力で鳴いていた。
 あの蝉たちはこれから恋をして子供を作ってさっさと死んでいく。
 俺はひと夏の間には死ねない。子供も残せないのに。
 救急車の中は涼しかった。生物でもないくせに蝉の声を蹴散らすサイレンがおかしくて、竜光は少し笑った。

 病院に行く必要も、出産育児を見越した準備も必要ないとなると、時間は間抜けなほどに余っていた。
 お菓子作りや編み物、読書やピアノなど、好きなものがある雪枝に対し、竜光には趣味がない。何時間でも机に向かっていられるというのは特技ではあるが、仕事で持っておいた方がいい資格の勉強も、できないよりはと続けている英語と中国語の勉強も、楽しくてやっているわけではない。ただの暇つぶしだ。
 余り余った時間で後輩の、朔夜の役に立つなら浪費するより有意義だろう。
 桜原家で夕飯をご馳走になってから、礼として食器洗いをする。雪枝もレッスンが終わった後は、ピアノの先生のお宅で夕食をご一緒させていただいている。先生は雪枝の母親の親友で、子供がいないためか雪枝を我が娘のようにかわいがってくれるのだ。
「皓汰ってキャッチできたよな? 監督がダメでもあいつに練習付き合ってもらうわけにいかないのか」
「だってあいつ、最近マジで帰ってこないから」
 拭き終わった食器を棚にしまいながら、朔夜は眉をひそめる。
 皓汰は朔夜の一歳下の弟で、朔夜と違い中学時代はほとんど高校の部活には顔を出さなかった(考えてみればそれが普通だ)。皓汰が高校一年生、竜光が三年生のときに在籍期間が被ったが、竜光は夏に引退してしまったので一緒にいたのは半年弱だけ。
「皓汰はそもそも野球が好きじゃなさそうだったしな。無理にやらせたらかわいそうか」
 運動より読書が好きな少年だった。父と姉がいなければ、野球部には寄りつきもしなかっただろう。
 片付けが終われば客間に行く。
 桜原家の庭には防球ネットが張ってあり、ちょっとしたバッティングセンターのような風情だ。とはいえブランクの長い竜光はいきなり動けないので、まずは室内で道具を手に馴染ませるところから。朔夜と向かい合い、グラブとミットをつけて直接ボールを手渡し合う。
「朔夜、最近仕事はどうだ」
「父さんでも訊かないこと訊きますね」
 朔夜が力なく苦笑する。
 朔夜はこの春、短大を卒業して製薬会社に就職した。学んできたスポーツ栄養学を活かすため、だったはずだ。
三住(みすみ)製薬っていったら大手だろ。大変なんじゃないのか」
「どんな仕事も大変でしょ」
「随分一般論で返すようになったな」
「勘弁してくださいよ。品質管理部(ひんかん)の新人なんて雑用ばっかりで愚痴まで退屈なんですから」
 開け放った障子からは月光が注いでいる。特に手入れしていないという庭木の赤が毒々しいほどに鮮やかだ。
 朔夜の左手が控えめにボールを寄越す。
「すみません、こんなことに付き合わせて。リューさんこそ野球なんか好きじゃないでしょう」
「いや」
 とっさに否定したが、我ながらこの答え方はあんまりだった。迷って付け足す。
「俺も雪枝がいないと暇だから。しばらく構ってもらえると助かる」
 竜光はミット越しに球を握ってから、左手で持って朔夜に返した。朔夜はグラブの中でしきりにボールを転がしている。
「職場の上司も、みんなリューさんとユキさんみたいな人だったらよかったのにな」
 雪枝はともかく、竜光のような他人に興味がない人間が上に立っても不幸しかない気がするのだが。実際竜光が主将を務めた年は波乱続きだった。
「朔夜、今の会社に入ってやりたいことがあるって言ってたよな」
 朔夜が顔を上げる。泣きたそうな笑いたそうな顔をしている。
「ちゃんと聞かせてもらったことなかった。教えてくれよ」
 できるだけ誠実に、誠実に聞こえるようにではなく本気で誠実に、竜光は朔夜の目を見つめた。朔夜は二・三言渋り、うなじをかきながら話し始めた。
「栄養補助食品とかって、基本甘いじゃないですか。プロテインとかゼリー飲料とか、そういうの大体。甘いの苦手で我慢して摂ってる人たちも結構いると思うんですよ、私みたいに」
 私『たち』みたいに、というのが正確なところだろう。朔夜も甘いものをわざわざ食べるタイプではないが、より苦手なのは朔夜の恋人だ。みんなのマネージャーだった朔夜を射止めた、二つ下(朔夜にとっては一つ下)の後輩。
「糖がエネルギーだからっていうのもわかるんですけどね。いつか普通の食事みたいに、純粋な好みだけで選べるように味の選択肢を増やせたらって思うんです」
 訥々と語る朔夜は眩しかった。
 竜光は早く家を出たかったから就職しただけだ。父には大学を受けるよう言われたが、願書だけ出して当日はバックレた。監督もすぐ就職することには反対していたものの、行く当てのない竜光を見かねて勤め先を紹介してくれた。
 今の竜光は、親を裏切って恩師に世話をかけて、自分の意志も持たずここにいる。
 きちんと生きようとしている人間は、きちんと報われてほしい。
 竜光はミットを置いて立ち上がった。
「ちょっと外でも走るか。身体を動かす感覚を思い出せた方が、それを必要としてる人の気持ちもよくわかるだろ」
 無事な右手を差し出すと、朔夜もグラブを外してその手を握る。
「私、普段から結構走ってるんで。鈍ってるのリューさんだけっすよ」
「そうだよ。しかも俺は元々足が遅いんだから、加減して走ってくれよな」
 軽口を叩いて笑い合う。
 懐かしい。味方が誰もいなかった頃も、お互いだけはいつも共犯者だった。バカみたいでクソッタレな世界でもなんとか生きていられると、自分たちを騙し続けていくための。

「もう、竜。お行儀が悪いからやめて」
 休日の朝、右手で本を読みながら左手で朝食を食べようとしたら雪枝に叱られた。竜光は謝って昨日古本屋で買った本を閉じる。雪枝は呆れ顔でウェットティッシュを差し出してくる。
「中学でも高校でも、野球のための勉強なんてしてなかったのに」
「しなくてできるならやらないんだけどな」
 ティッシュで手を拭いて、雪枝が焼いてくれたハムエッグトーストにかじりつく。
 身体が覚えている動きと、全く逆のことをやろうというのだ。肩は、腕は、肘は、手首は、指先は、どうやって動かせばいいのか都度考えて止まってしまう。故障しないためにも正しいフォームを学び直……いや、違う。単に後輩にいいところを見せたいだけだ。できればそれを雪枝にも自慢したい。惚れ直されたい。
 さておき、今は雪枝との約束の方が大事だ。心を切り替えて尋ねる。
「それで、どういうキーボードを買いに行くんだ?」
「このお部屋だし、六十一鍵ぐらいのものにしようかと思って。ちゃんと弾きたいときは実家に寄ればいいし、とりあえず毎日触れるようにしたいの」
 雪枝は四つに切り分けたトーストをゆっくり口に運んだ。
 何を言っているのかよくわからないが、要するに雪枝の実家にある、こう、グランドピアノではないまっすぐなピアノ(アップライトピアノと呼ぶのを後で知った)をこの家に置けないことは確かだ。もっとコンパクトなものがいいらしい。
 朝食が済んだら二人で家を出た。雪枝はネット通販でもいいと言っていたけれど、やはり実機を触って決めるべきだ。それに、持って帰ってすぐ弾ける方が楽しいだろう。
 晴れた日に雪枝が隣を歩いている。
 結婚してからは結んでいることが多かった髪を下ろしている。
 花のようないい匂いがする。
 竜光の視線に気付いて微笑みかけてくる。
「久しぶりのデートね」
 竜光は咳払いしてよそを見た。
 もう何回デートしたかなんて覚えていないのに、一回も外さずかわいいのはずるい。
「竜、残額は?」
「結構ある」
「じゃあ私だけチャージしてくるわね。少し待っていて」
 券売機に向かう雪枝といったん別れ、竜光は改札の近くでポスターなど眺めて待つ。
 四十がらみの男性が、身体を左右に揺らしながら歩いてきた。極端な内股で、右足は地面から持ち上がっていない。足が悪いのに加え、どうも背中のリュックが重くて上手くバランスが取れないようだ。
 心配になって見守っていたら、案の定というか自動改札に荷物を引っかけた。竜光は駆け寄って手を貸す。
「大丈夫ですか」
「ああ、どうもすみま――」
 振り向いた男性の愛想笑いが、突然凍りつく。男性はさっと顔を背け、不自由な足を引きずりそそくさと改札の奥に進んでいく。
 竜光は肩をすくめて左手を下げた。
「竜」
 呼びかけられて振り返る。雪枝が難しい顔でポシェットの紐を握りしめていた。竜光はジーンズのポケットから、ICカードの入った財布を取り出す。
「気にしてない。行こう」
「あなたはそうかもしれないけど」
 雪枝の声は硬かった。舌を向いて、竜光より先に改札をくぐっていく。
「もしあなたが事故に遭っていなかったら、私もあの人と同じ反応をしたのかもって思ったの。それが勝手にショックだっただけ」
「俺だってそうだよ。だから気にしてないんだ」
 竜光も財布で改札を殴って向こう側へ行った。
 こういうことが起こるたびに考える。
 男同士でも差別はある。高卒同士でも偏見はある。それぞれ別の人生で別の人格だ。だったら当然、不自由な者同士で無理解が生じることもある。
 自分は弱い。多分雪枝も弱い。さっきの男性もきっと悪気があったわけでなく、爪のない指を見て驚かないほど強くはなかっただけだ。傷つかず傷つけずにいられる強さを持ってほしいと、相手にばかり願うのは傲慢だろう。
 ホームで『親指の爪』をつけようとした。雪枝が首を振って、右手で竜光の左手を握った。竜光は雪枝の手の甲にそっと四本の指を回す。
 雪枝の機転はありがたい。繋いでいる手の先端を目ざとく見る人間はいない。
 ただ、本当に正直に望みを言うならば。
 カモフラージュなんかではなく、デートだからと無邪気にこのひとの手を取りたかった。

「えっ、監督その足で飲みに行くんですか?」
「さすがに酒は飲まねぇよ。ちょっと顔出しに行くだけだ。鍵渡しとくからうちで朔夜待っといてくれ」
 他人の家で一人待つ時間はあまりにも気まずかった。一度自宅に戻って本を持ち込みもしたけれど、全く集中できなくてすぐ読むのをやめてしまった。
 古い振り子時計を見る。もう八時半だ。この時間なら朔夜は大体帰っているはずなのに、何かあったのだろうか。
 玄関で大きな物音。竜光は慌てて廊下に出る。
「朔夜!」
 コート姿の朔夜が玄関でうずくまっていた。竜光は走り寄って朔夜の背を撫でる。
「どうした? 具合悪いのか?」
 朔夜は力なくかぶりを振って何も言わない。ずっと膝に顔を埋めている。
 竜光もできれば落ち着くまで待ってやりたかったが、いかんせん玄関は寒い。丸まっている朔夜をそのまま抱え上げてリビングに向かった。
 とりあえず朔夜をソファに下ろす。パンプスを脱がせて古新聞に置く。
「何か飲むか。ええとその、待ってろ」
 動揺のあまり監督みたいな口振りになってしまった。
 ダイニングを通ってキッチンへ。何かあたたかいものを……電気ケトルをセット。コーヒー、は夜にはアレか、紅茶は置き場所を知らない。ホットミルク、って、今お湯を沸かしているのに。何か、こう、ないのか、リラックスするときに雪枝がよく飲んでいるものとか……。
 三分後、竜光は渋い顔でマグカップをソファに持っていった。
「すまん。白湯しか用意できなかった」
 朔夜は竜光が運んだときと同じ姿勢で俯いていて、反応も返さない。竜光はカップを手にして立ち尽くす。
 朔夜がつらいのなら慰めてやりたい。
 苦しいことがあるなら聞いてやりたい。
 悲しませたやつがいるのなら殴り倒してやりたい。
 全部竜光のわがままだ。朔夜が本当に望んでいることがわかるまで、いつも気丈に振る舞っていたこの子をさらに追い詰めたりしたくない。
 正面でじっと待つ。やがて朔夜は、左手を億劫そうに持ち上げた。
「お湯……」
「あ、ああ。気をつけろよ」
 竜光は腰を屈め、朔夜の左手がマグカップをしっかり持ったのを確かめてから手を放した。
 朔夜はちびちびと白湯を飲んでいる。竜光はその間何も言わなかった。朔夜が言うまで言わずにいようと決めていた。
「おなか……」
 朔夜は嵩が減ったマグカップに言葉をこぼすように、口許を隠しながら呟く。
「お腹空きましたね」
「俺もだ。飯食おう、雪枝が作ってくれた世界一の肉じゃががあるから」
 竜光は微笑んで右手を差し出す。『エース』の利き腕に触らないのは六年前からの不文律だ。
 右手で握り返す朔夜も、少しだけ笑ってくれた気がした。

 朔夜が左手のスポンジで洗った食器を、竜光が右手の布巾で拭いていく。桜原家の水切りかごはシンクの右側にある。
 まだ鼻が赤い朔夜が、疲れきってかすれた声で言う。
「リューさん、昔、私が奈佐(なさ)さんとタイマン張ったこと覚えてます?」
「忘れられるわけないだろ。中学生が二つも年上の高校生を黙らせたんだぞ?」
 竜光は誇張抜きで即答した。
 奈佐さんは竜光のひとつ先輩の捕手だ。朔夜に『なんで女の球なんか』と言い放ち、ケンカという極めて直接的な手段に出た挙句こっぴどく負けたらしい。竜光は現場を見ていないが、ある日を境に奈佐さんがすんと大人しくなったことは事実だ。
「まさか、また奈佐さんに会ったとか言わないよな?」
 かなり本気で心配したのだが、朔夜は冗談と取ったようだ。
「まさかぁ。大体もう顔も覚えてないですよ」
 笑い飛ばすならもっと明るくやってほしいのに、朔夜の笑顔はしけっていた。それさえ長続きせず、油に汚れた泡と一緒に消えてしまう。
「別に、大したことがあったわけじゃないんですよ。大きい会社だし、入ったばっかですぐ自分のやりたいことやらせてくれるとか甘いこと考えてないし。言われたことすら上手くできなくて叱られたりするのだって、承知も覚悟もしてるんですけど」
 お湯が流れる音。剥き出しの皮膚。食器を白く保つために、界面活性剤で変性していく両手のたんぱく質。
「どうしても考えちゃうんです。私が言われてること、あの人たちは半分も言われてないのになって……生まれたときから男で、四大出てる新卒たちは」
 最後の一枚がシンクから出ていく。竜光が受け取って水気を拭っていく。朔夜の頬も乾いている。
「それ自体がそんなにつらいわけではないと思うんです。社会に出る前からずっとそうだったし。ただ、なんていうのかな。くだらない理不尽と戦う気概がもう、今の自分には残ってないんだなぁって。気付いちゃったことが、すごく……」
 振り子時計が鳴る。冷酷無比に時刻を告げる。リミットを念入りに知らしめるように、空気を低く震わせていく。
 竜光は食器を片付けて終えて、じっと目を伏せた。
 時は止められない。戻せない。確定した過去を消すこともできない。
 そんなことは解りきっている。
 だからせめて、あの頃に自分が信頼を寄せた輝きを、永遠に失わずに済むように。
「朔夜」
 視線を上げて相棒
を見据えた。愛していたのでも恋していたのでもなく、女だからでも男でないからでもなく、そのときは気付かなかったけれど――ただ単純に楽しかったから隣にいた相手を。
「試合しよう。うちの会社の飲んだくれオヤジどもと」
 神崎金属には、不定期に活動している草野球チーム『神崎メタルドランカーズ』がある。気の合う仲間と気の向いたときに遊ぶだけのゆるいチームだ。こちらの都合で巻き込むのにこれ以上の適任はない。神崎金属の多くのオッサンどもにとっても、朔夜は娘同然の存在なのだ。勇姿を見せるのも一種の授業参観、親孝行だと思えばいい。
「俺は証明したい。朔夜がカッコいいやつだってこと、今でも気概を失ってないってことを、お前自身に証明してやりたいんだ」
 朔夜は痛ましいものを見るように竜光を見つめ返した。
「リベンジってことですか?」
「そうだな。そうしよう」
 時計は鳴り止んでいる。朔夜の声もよく聞こえる。
 黒々とした両目は、もう己の無力を嘆いてはいなかった。口唇には懐かしい笑みが上っていた。
「だったら父さんにも投げてもらわないとですね。ユキさんにもマネジ頼みたいし」
 竜光は一瞬虚を衝かれて、すぐに頷いた。
 監督は足を怪我してから、野球の道具に触らないどころかテレビでも野球を観なくなった。オフシーズンでも録画を引っ張り出して、一年中何かしら流していた人が。
 雪枝はかつて野球部のマネージャーだったが、無理がたたって入院したのち退部した。朔夜とも一時期疎遠になりかけたし、竜光の最後の試合を見届けたのはベンチではなくスタンドからだった。
 朔夜が穏やかに微笑んで左手を伸ばしてくる。
「ありがとうございます。またよろしくお願いします、リューさん」
「こっちこそ、ありがとう」
 多分自分は一等不細工な笑顔だったと思う。
 竜光も、最後の公式戦は負傷退場で終わった。顔面にボールが当たって鼻梁骨折。あれから一度もプレーしていない。
 この試合が実現したら、雪辱戦になるのかもしれない。
 朔夜にとっても、朔夜以外にとっても。
 朔夜の利き手を、竜光は親指の先がない左手でそっと包む。
 朔夜の指は、遠慮はいらないと伝えるように力強かった。

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