霽月の一片

 電車で買い物に行った帰り、穂波は文具店の前で妙な男を見かけた。見覚えのある背中をこちらに、彼は軒下で腕を頭上にかざしたり手のひらを空に向けたりしている。
 ――司さん、何やってるんだろ。
 訊きたい気持ち半分このままそっと離脱したい気持ち半分、判断を下す前に天馬司が片足を軸に大仰な動きで振り返った。
「おお、視線を感じると思ったら穂波ではないか。オレの華麗なポーズに見とれていたのか?」
 あはは、と穂波は愛想笑いを浮かべる。またどっちつかずと言われるかもしれないが、こと司相手では否定も肯定もしないのがベストだ。
「どうかしたんですか?」
 穂波が歩み寄っていくと、司は深く頷きながら腕組みする。
「実は持ってきた傘が壊れてしまってな。カッコいいうえに雨を避けられる一石二鳥なポーズはないかと考えていたところなのだが」
「ぽ、ポーズだけで雨を避けるのはさすがに難しいんじゃないでしょうか」
 この人はときどき……ときどき? 努力の方向が著しくずれている。
 今日の予報は朝から雨。穂波がショッピングモールに入るまではかすかな霧雨だったのだが、買い物を終えて出てくると風が激しくなっていた。司が観劇のついでに文房具を調達しに来たのがちょうどその頃だったそうで、腕にかけた傘は前衛芸術のように骨が折れ曲がっていた。直そうと試みてとどめを刺したのだろう。
 空からは白い線が休みなく降り注いでいる。雨粒がコンクリートを叩くテンポは『ステラ』と同じぐらい。頭の中でドラムスティックを握る――走って逃げきれる速度でも雨量でもないのは確かだ。
 穂波は自分の傘を持ち上げ肩をすくめる。
「よかったら、入っていきませんか? 小さいですけど……。ずぶ濡れで帰ったら咲希ちゃんも心配するでしょうし」
「すまんな、コンビニまで頼む。家に風邪を持ち込むのは困る」
 司は静かに呟いた。穂波は黙って笑みを返す。
 志歩は『いつもうるさい』と司を煙たがるけれど、きっとこの人はそれぐらいでいいのだと思う。余計な装飾を剥いだ姿は、触れてはいけない箇所を見つけてしまったようでそっと目を背けたくなる。
「さて! ではスターに相応しく優雅に帰路につくとしよう。隣へどうぞ、お嬢さん」
 穂波の傘の柄をつかむと、司はオーバーに礼をしてみせた。古いミュージカル映画みたいだ。穂波は苦笑してお招きに預かる。
 一つの傘を分け合って歩き始めた。穂波のトートバックには雨粒がほとんどかからない。一方、司の右肩はほとんど外に出ている。
「咲希ちゃん、元気になってよかったですね。ご家族もずっと心配だったでしょう?」
 穂波はバッグを身体の前に引き寄せ、司との距離を少し詰めた。司は瞳を瞬かせて目礼し、濡れた肩を半分傘の下に納めた。
「咲希がよく耐えた結果だろう。さすがはオレの妹だ。まぁ、オレの溢れるスターオーラに恐れをなし、いずれ病魔も裸足で逃げ出すだろうと思ってはいたがな! ハーッハッハッ!」
 雨の街に響く高笑い。穂波の方が恥ずかしくなってくる。見られてないよね……と周囲を見回す。幸い、道行く人は足早で、やたらと声の大きい隣の男は注目を浴びていなかった。
 信号に二人足を止める。おしゃべりも止んで雨のリズムを聴く。目的地のコンビニエンスストアはすぐそこだ。
「咲希は――」
 ふいに妹の名をこぼした司は、穂波を見てはいなかった。その横顔が見つめていたのは、正面ですらなかったのかもしれない。
「穂波たちから見ても、咲希はちゃんと元気だよな」
 黒い車が横切っていく。水たまりを跳ね上げていく高く細い音。
 司の声はそんな雑音よりも温度がなかった。金属同士を叩きつけるような硬く冷えた響きだった。
「咲希は、学校も、部活も、バイトも、バンドも、全部ちゃんと楽しんでいるよな?」
「はい」
 穂波は喉を開いてはっきりと答えた。
 都合も事情も関係ない。本当は穂波に向けた質問ではないことも解っている。それでも強く肯定しなければいけない。大切な友人のためだから。
 穂波は司をまっすぐに見上げて言葉を紡ぐ。
「咲希ちゃんは、やっぱりまだ無理をしないように気を付けないといけないのかもしれません。でも、わたしたちと同じように笑って、遊んで、いろんなことを楽しんでいます。ちゃんと司さんの手の届くところで」
 司はようやく穂波に視線を戻した。遠い昔、『ほなみは「おねえさん」でえらいな』と小さな手で頭を撫でてくれた『さきちゃんのおにいさん』の顔だった。今の穂波に触れないのは、傘を持っているから以上の理由があるのかは知らない。
 きっと分別がついてしまったのだ。むやみに他人に手を伸ばさない、道端で泣き出さない、それが正しい在り方なのだという賢明で臆病な分別が。
 信号が青になる。穂波を無言で促してから、司は一歩前に出る。規則的に足を運んでいく。
「昔から咲希の夢をよく見た。咲希は笑顔で、学校にも行って、友達と遊んで、家でも楽しそうで、オレも安心して笑おうとして――目が覚める」
 穂波は雨を追いかけながら、ある朝の咲希を記憶から掬い上げる。
『夜中にね、お兄ちゃんがいきなりアタシの部屋のドアをすっごい勢いで開けたの。なに!? って思ったら、部屋を間違えたー! だって。いくら寝惚けてたからって、フツー妹と自分の部屋間違えるかなぁ?』
 司さんらしい、と穂波たちは一緒になって笑っていたけれど、そうではなかったのだ。
 司は妹の部屋のドアだと分かっているから開けた。幾度も見た夢の後に、妹はいつもいなかったから。看病のため両親の部屋に移されたり、あるいは家から運び出されていたから。
 穂波が並び立つ司は他の少年たちより際立って大きいわけではなかった。むしろ平均的と言ってよかった。その肩に家族を失う予感をずっと負ってきたのだ。穂波が風邪の弟を別室から気遣うのとはまるで違う、妹が二度と帰ってこない恐怖をずっと努力と笑顔だけでひた隠してきた。
 咲希ちゃんそっくり、と穂波は口の中で呟いた。
 ――ううん。違う。多分、咲希ちゃんが。
 コンビニの真ん前に着くと、司は雨粒を軽く払って穂波に傘を返してくれた。
「世話をかけたな。礼に何か買ってやりたいが、何がいい?」
「あ、じゃあ、あったかいお紅茶、とか……いいですか? 少し冷えちゃって」
 穂波は両手を擦り合わせた。司は快諾して、ビニール傘とペットボトルの紅茶を手にレジに並ぶ。穂波はそれを確かめて、スマホを取り出し複合機に急ぐ。手早く機械を操作し終えると、司より先にイートインスペースに腰掛ける。
「どうした。写真か?」
 戻ってきた司が手元を覗き込む。穂波は立ち上がり、紙片を綺麗に揃えて司に差し出した。
「はい、この間四人で遊んだときのです。お手数ですけど咲希ちゃんに渡してもらえませんか?」
「おお。手間ばかりかけるな」
 司は目を丸くして数枚の写真を受け取った。一歌と志歩にからかわれてむくれている咲希、咲希に反撃され拗ねた志歩をなだめる一歌、何撮ってるのと穂波の撮影を止めようとする志歩、笑い合ってぎゅうぎゅうで収まった自撮り。ささいな日常の風景だ。
「これは、よかったら司さんに」
 最後の画像を、穂波は一枚多く印刷した。
 司の目の前で裏返す。白い面にサインペンでこう書いていた。
『咲希ちゃんは、こうしてとっても元気です』
「こうすれば、咲希ちゃんを起こさなくても『夢じゃない』って確かめられると思うんです。……どうでしょう?」
 司はしばらく言葉を失っていた。穂波は、この後に大袈裟な未来のスターが現れても、痛みに耐える咲希の兄が現れても、完璧に合わせる心構えをしていた。
 だが実際穂波の前に顔を見せたのは、そのどちらでもない。
「はは」
 間の抜けた声で口許を綻ばせたのは、穂波の知らない少年だった。例えるならば、『神山高校二年生の天馬司』。素朴で年の近い無邪気な男の子。
 穂波も笑った。自分をどんな立場と決めることなくそのまま受け止めた。
 遅いので送るという申し出をやんわり断り、穂波は一人で家を目指す。彼に限って下心がないことは分かっていたけれど、なんだかこうしたい気分だった。
 スマホを取り出し、メッセージアプリから無料通話のボタンを押す。呼び出し音の後に大好きな友人の声が届く。
『もしもし? どうしたの、ほなちゃん』
「ううん、ただ咲希ちゃんの声が聴きたいなぁって思って。迷惑かな?」
『まさか! アタシもほなちゃんの声いつ聴いても幸せだよ』
 咲希は読んでいた雑誌の内容を楽しそうに説明してくれた。穂波は相槌を打ちながら空を見る。
 雲は随分薄くなっていた。白雨がぼやけた月明かりに煙っている。司が家に着く頃には空も晴れているかもしれない。
『ほなちゃん、本当に何でもない?』
 咲希の声が不安げに揺れる。
 なんでもないよ、と穂波はできる限りやわらかく言う。
「咲希ちゃん。お兄さんのこと、大事にしてあげてね」
 手渡した一片も、いつかはただの想い出になればいい。これからの夜にもう傘はいらない。
 穂波たちの空は、どんなときも希望の流星に彩られている。