病院の廊下は中学校の廊下よりも広く長く冴え渡っていた。
一点の汚れも許さない冷たさに気後れしながら、一歌は財布を握りしめる。たった十数メートルを躊躇させるような潔癖な箱に、どうして咲希ばかり閉じ込められてしまうのかと考えるだけで俯きがちになる。
このロビーの奥に自動販売機があるはずだ。用を済ませて早く咲希の元に戻ろう。
「一歌!」
突然名を呼ばれ一歌ははっと振り向く。ロビーのベンチに、見知った少年が脚を組んで座っていた。
天馬司。咲希の兄だ。
司は読んでいた文庫本を椅子に置き、一歌に歩み寄ってくる。
「どうした。飲み物か?」
「は、はい。咲希が喉が渇いたって……」
一歌は言いかけて口をつぐんだ。これではまるで咲希が自分を顎で使っているみたいだ。
私も、と付け足した声は、勢いよく腕を広げた司に遮られた。
「よし! オレも水分補給するとしよう。喉のケアを怠っては、スターの美声も台無しだからな」
一歌は何と返そうか迷って、結局黙って頷いた。
相変わらずだなと思う。芝居がかった大袈裟も、どこかずれた優しさも。
司は自販機の前に立つと、千円札を一枚入れて何も訊かずにミルクティーを購入した。落ちてきたペットボトルを一歌に差し出す。もったいぶった笑い方。
「どれでも好きなボタンを押す権利をやろう。あ、自分で飲めないやつはダメだぞ。青汁とかは却下だ。アレはピーマンを噛んだときの味が延々続くからな」
飲んだのか。一歌は青汁の下の『売り切れ』表示をちらりと見て、首を横に振った。
「私はいいです。司さんだけ……」
「む、さっき『私も』と言ったではないか。何がいい? おしるこか?」
「あ、じゃ、じゃあ、私もミルクティー……」
「そうだな。揃いの方が咲希も喜ぶ」
司の指が軽やかにボタンを叩く。一歌は全く同じボトルをもう一度受け取る。
一歌は両手で抱えたミルクティーに口許を埋め、ありがとうございますと呟いた。ペットボトルは二本ともあたたかくて、顔の周りがほかほかする。
咲希の喜びそうなことを解り合えた。それは一四〇円を代わりに払ってもらうことよりも、ずっと得難い奇跡のように思えた。
それでも司にとって、こんなものは多分奇跡などではなくて――。
「司さん、来年神高受けるんですか?」
一歌の出し抜けな質問に、司は一瞬目を丸くした。驚いた表情が咲希そっくりだった。続く答えは痛ましいほどに晴れやかだった。
「受けるぞ。近いからな! 何かあればすぐ帰れるだろう?」
「そう、ですか」
白茶けた茶を強く握れば、熱が手のひらをじわりと焼いた。
咲希はめったに来られない一歌を『仕方ない』と許してくれた。中学生の一歌にとっては、移動も時間もお金も何ひとつ自由にはならない。新幹線で二時間という遠出は、親に都合をつけてもらってやっと叶う『贅沢』だ。『友情』は世間が礼賛するほど強くはなくて、『現実』の前にいつでも吹き散らされてしまう。穂波も志歩も、『仕方ない』事情で遠ざかっていった。
けれど一歌がこの場所に来るとき、司は必ず先にいた。聞くところでは頻繁に通っているらしい。
司にも『現実』があるはずなのだ。『天馬司』としての生活が。一歌が悩み楽しんでいるのと同じ、授業や行事や宿題やテスト、好きな音楽に浸ってリラックスする時間、夜更かしした後の何もしない日、家族とテレビを見ながらゆっくり飲むお茶……そういったものが。
司は年を経ても、妹中心の生活を続けているようだった。押し寄せる『現実』に捻じ曲げられることもなく。
もし理由を問えば、司は即答するだろう。
――オレは咲希の兄だからな。
きょうだいのない一歌には、ときどきその献身が途方もなく感じるのだ。
「なんだ? もしかして一歌も神高に興味があるのか? 妹の友人のよしみだ、合格したあかつきには行事に呼んでやってもいいぞ。オレが眩しくて学校の印象は記憶に残らんかもしれんがな!」
「え、あの……」
一歌は返事を探すために一度息を止めた。
人を基準に進む道を決めるなと。人を選択の言い訳にするなと。大人たちがしつこく繰り返す説教には、一歌も一応同意できる。
それでも妹のために生きてきたこの人を否定することは、一歌にはできない。こんなにもまっすぐで綺麗な生き方を、逃げや甘えだなんて絶対に言いたくない。
息を吸い直して司を見つめる。
「咲希が、受けたいって言ったら、受けます。神高」
――私は、咲希といたい。咲希のためとか咲希のせいとかじゃない。私自身が、咲希と一緒に笑う未来を歩みたいんだ。
司さんと多分、同じように。
「そうか」
意外なほどに落ち着いた声で、そうか、と、司は繰り返した。いつもは自信に満ち溢れている瞳が、少しだけ揺れていた気がした。
一歌は司に頭を下げ、きびすを返す。『未来のスター』は、きっと年相応の表情なんて見てほしくはないだろうから。
足早に歩き出す。咲希の病室へ続く廊下は、陽の中に飛び込んでいくように明るかった。