幾百の初恋

 セリノスの大森林。
 新しい国として生まれ変わろうとしているこの地では、鳥翼族が忙しなく飛び回っている。
 その間を縫って翔けてきた天馬は、純白の翼を畳みながら静かに降り立った。
 リュシオンは天馬よりも白い羽でその許へ近寄った。
「タニスか」
「お久しゅうございます、リュシオン王子」
 ベオクの女が地面に立ち、深々と頭を下げた。
 リュシオンは小首を傾げて微苦笑した。絹糸のように細く滑らかな髪が揺れる。
「王子は止せ。新王国の王にはティバーンがなるのだ、これからの私は一臣下に過ぎん」
「……は。では、畏れながらリュシオン様と呼ばせていただきます」
 相変わらず真面目な女だ。
 顔を上げろと言ったら初めて、タニスはその露草色の瞳を見せてくれた。
 リュシオンは緑青の瞳で覗き込みながら問う。
「どうした? 皇帝から何か言伝か」
「いえ……」
 タニスは目を逸らした。
 鷺の民は真っ直ぐに相手の目を見て話をする。
 普段のタニスは鷺の民と同じくらい、しっかりと相手を見つめる。
「この森は無事、貴方がたの手にお返し申し上げたのです。ベグニオンの管理下にはないのですから、今までのように頻繁にお目通りすることはかなわないでしょう。その前にリュシオン様に御挨拶を申し上げねばと、先触れも出さずご無礼かと思いつつ馳せ参じました」
 今日は、一度も目を合わせない。
 リュシオンは肺の許す程度に大きく息を吸い、そしてわざとらしく吐いた。
 きっ、と顔を上げて両手を腰に当てる。
「タニス。私との別れを惜しんでくれるのなら、妙な体裁など気にせずいつでも会いに来ればいい」
 タニスは切れ長の目を一瞬見開いて、それから鋭く細めた。
「読まれたのですね。お人が悪い」
「馬鹿を言うな。お前のことなら読まずとも解る」
 眉をひそめ、リュシオンはふわりとタニスに近寄った。歩けば一歩半という距離だ。
「自由にこちらに来ては具合が悪いというのなら、私が行ってやってもいい。それも困ると言うのなら私が手紙を書いてやろう。乞われて来るのであれば問題はあるまい」
「大有りです」
 タニスは下がろうとしたが、天馬に袖を咥えられてやむなく留まった。
 なのでリュシオンはもう少し、近づいてやる。
「ではその問題を具体的に挙げてみろ。みな私が論破してやる」
「ですから、それではまるで――!」
 タニスは珍しく声を荒げたが、そこで自制した。
 だが呑み込まれた言葉もリュシオンには聞こえていた。
「構わん。事実を隠し立てする必要はあるまい」
 端正な口唇は薄く開いたまま、塞がらない。
 リュシオンは腕を組み、くっくっと喉を震わせた。
「初めて見る顔だな」
「……当然です。私のような者にそのようなお戯れを仰るのは、リュシオン様しかおられません」
 ようやく我に返ったらしく、タニスはそう言ってふいと他所を向いた。
 その正面に回り込む。
「聞き捨てならんな。鷺の民は戯言は言わない」
「よく存じ上げております。ですから――戯言だと」
 今度は目を伏せなかった。縫い付けるように強くリュシオンの目を見ていた。
 リュシオンもそれを受け止めた。
 右手を上げ、繊細な指で自分とは形の違う耳の下から顎先にかけて、そっとなぞる。
「変わらないな。お前は」
「いいえ老けました。そして貴方様にとっては瞬きの間に、老女の体ていとなりましょう」
 タニスは告げた。
「我々はそういう生き物なのです。老いさらばえ、たった百にも満たず朽ちていく醜い生き物です」
「儚きことの何が悪い」
 か弱き身体で千歳を生きる鷺の王子は、陽射ほどにも眩しい白翼を広げた。
 幾枚の羽が抜け落ちたが、それらはもうリュシオンではなかった。
 目の前の女に向けて言葉を紡いでいるのこそがリュシオンだった。
「その器が土に還っても、再び生まれて来い。そうすれば私は何度でもお前を捜し出す」
「そのときの私は、もう私では――」
「お前はお前だ。冬が木の葉の全てを落とそうと、春はまた新芽を寿ぐ。お前の気高き魂は滅びない」
 リュシオンは目を閉じて樹の幹に触れた。青葉が静かにさざめく。
 何度でも、何度でも生まれ変われ。私は何度でもお前を見つけ出して見せよう。
 何度でも、何度でも、新しいお前を想い続けよう。
 ゆっくりと瞼を上げたリュシオンは、瞬きすらせずその瞳にタニスを映した。
「そして幾百の時を経て、私と共に天へと還ろう」
 タニスの瞳にもリュシオンが映っていた。
 しかしタニスは眉間にしわを寄せ、視線を足下に落とした。
「……随分と、お待たせしてしまうことになりますよ」
「構わん。瞬きの間だ」
 リュシオンは浅いため息をつき、天を仰いだ。
「我が生の中にお前がいてくれるのならばな」
 タニスは地面を見るのをやめた。
「では、何度でもお目にかかりましょう。リュシオン様がお望みになる限り」
「差し当たり、また今生で会いに来い」
「御意」
 ですからそのお顔をこちらに向けてはいただけないでしょうか、とタニスが生真面目な口調で言った。
 今日のお前がそれを言うのかと苦笑して、リュシオンは要請に従った。
 穢れひとつない清い心だった。幾ら顔貌が変わろうと決して見紛うことはあるまいと思った。