きみのてづくり

 かのデイン=クリミア戦役から二年。クリミアは新王エリンシアの許、着実に完全復興へと近づきつつある。
 それに合わせてガリア王国も援助の手を緩め、クリミア自身の手に全てを委ねようとしていた。
 ということはガリアの者は通常業務に戻る筈。ところが、ところがだ。先の戦いで多大な功績を残したガリアの戦士ライは、その有能さ故に国内外の重要な仕事を押し付けられ、多忙極まりない日々を送っていた。
 過労死、というのを聞いたことがある。ベオク特有の死因。ただでさえ短命なのに死ぬまで働いてしまうなんて、と呆れていたものだったが。今は冗談抜きでこう思う。
 ――このまま働き続けたら、オレ、死ぬかも。
 しかしそんなことは上も承知のようだ。明日からはしばらく休暇をもらえることになっていた(あまりに嬉しくて「ジフカ様あいしてます」と言ったら、虫でも払うように手を一振りされた)。
 ああそうさ、阿呆のように惰眠を貪ってやろう。思う存分引き篭もってやろう。明日から数日、仕事のことは忘れて自分の欲望の赴くままに生活できるのだ!
 ……目の前の仕事が今日中に終わりさえすれば、だが。
 書類は山積み。
「泣いてなんかないぞぅ。」
 ライは誰にともなく呟いて姿勢を正した。ペンを走らせる。
 大体、ガリアの識字率が低すぎるのがいけないのだと思う。文官という役職がまともに機能していないから、こうして自分がペンを執らなくてもいい書類まで回されてくるのだ。一般に字を書く習慣がないから物の質も悪い。紙はすぐ毛羽立って引っ掛かるし、ペン軸は持ちづらいし、ペン先は潰れやすいし、インクは分離しやすいし。作業能率は最悪。胃で疼く虫だけが、絶好調。
 紙はともかく他の物は次クリミアに行った時に調達してこよう。絶対そうしよう。寧ろ休暇中に傭兵団に手紙書いて送ってもらおう。マジそうしよう。固く心に決め、ライはインク瓶の蓋を閉めた。
「は・ら・減っ・たー!!」
 伸びをする。一人仕事は独り言が多くなって困りものである。いつか禿げそうで嫌だ(ただでさえ抜けやすいのだ猫っ毛は)。上体を捻ると小気味のよい音がした。
 もう昼食の時間か。王城の一般食堂は混んでいるだろう。兵舎は論外。街に出るのも時間が勿体ない気がする。とはいえピークを過ぎるまで仕事して待つ……というのは無理だ。一度空腹に気付いてしまったら、もうこれ以上は一秒だって余計に耐えられそうにない。
(どうすっかなぁ……)
 悩んだところで選択肢は二つしかないのだが。とりあえず食堂の混み具合を見てから決めるか。ライはゆっくりと腰を上げた。と、そのとき。
「ラ・イ・たーい、ちょ♪」
 少女が入り口からひょこんと顔を出した。
「リィレ?」
 ライは目を丸くして少女の名を呼んだ。リィレははち切れんばかりの笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
「隊長、お昼ご飯もう食べました?」
「いや、まだだけど」
 もしかして誘いに来たのだろうか? だとしたら非番だというのにわざわざ来てくれたことになる。無下に追い返すのも可哀想だし、たまには可愛い部下に昼飯のひとつも奢ってやるか。
 思いながらリィレの顔を見た。両手を後ろに回して、何だか照れくさそうにしている。
「ライ隊長、あのですね、私」
「うん」
 頷いてしまってから、解っていて待っているのも意地が悪いなと思い直した。こちらから切り出してやろう。口を開きかけたら、リィレは突然両手を前に突き出してきた。
「私、隊長の為にお弁当作ってきたんですぅー!!」
 うっかり沈黙が訪れた。
「べ……べんと?」
 ライは間の抜けた声で呟き、リィレの持つ籐の籠を指差す。リィレは、はいっと元気よく答えてから、急激に勢いを失くした。おずおずと上目遣いに見上げてくる。
「あ、あの……隊長? ごめいわく……でした?」
 ライははっと我に返り、思い切り首を横に振った。籠の持ち手をしっかり掴む。
「全ッ然! 寧ろ、逆ッ! 外に出るの面倒だなって思ってたんだ、ホント助かる! ありがとな!!」
 力説。本当に何というタイミングだろう。食事によるタイムロスが無ければ今日中に帰れるかもしれない。そうしたら明日は丸一日休みだ。ライの言葉に偽りがないのを見て取ったか、リィレはにっこりと笑った。
「そんなに喜んでくれてあたし、嬉しいです」
(……うぉっ?)
 リィレの手がゆっくりと持ち手を這い、ライの手に重なる。そのまま握って離してくれない。
 冷や汗が伝う。
(あ、あれ? 何、この雰囲気?)
 手を引こうとしたが、動かない。内心でかなり焦った――なんて力で握ってんだこの女。
「ライ隊長、私……」
 脂汗が噴き出す。
 やばい。ちょっとウカツすぎたんじゃないの、オレ。ちょっとどうすんだよ。ちょっと、コレ、まずいんじゃないの、おい。
「……り、リィレ、その」
「はい。何ですか、隊長?」
 どうするよ、オレ。
「ラぁイ、たぁあい、ちょおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
 ――野太い声と共に、目の前に骨張った手が突き出された。リィレの顔の横に現れたそれは、そのままリィレの肩に喰らいついて後ろに引き摺り倒す。
「ぎにゃああああああああッッッ!!」
 リィレはお世辞にも可愛いとは言えない悲鳴を上げながら、ヘッドロックをかまされていた。締め上げている張本人……キサが、ライに向けて叫んでくる。
「御無事ですかッ、ライ隊長ぉぉぉぉぉぉ!!」
「あ、あぁ……無事。無事だけど」
 だけど。久しぶりだ――こんなに耳が下がる程の恐怖を感じたのは。
 お前をひっくるめてこの状況全部、こわい。
「こぉぉぉのアマァァァ、抜け駆けなんて卑怯よ~~~~~~~ッッ」
「ふんだあたしの作戦勝ちよッ、離しなさいよあんたなんかお呼びじゃないんだからバカ虎~ッッ」
「お黙りィッ! 油断も隙もないこの泥棒猫ぅおぉ!!」
「大体キサ、何なのよその包み! あんたも隊長にお昼ご飯持って来たってワケ?そ ーんなバカでかいお弁当、隊長を太らす気!?」
「あんたこそ何よその小さい籠、小市民丸出しじゃない! 働き盛りの殿方のお腹はそんなんじゃ満たされないわよ!!」
「うっさい! 隊長はスリムだからそんなに食べないのー!! あんたみたいなデブとは違うんだからっ!!」
「ぬわんですってェ!? あたしのことデブデブって、あんたなんか洗濯板みたいな胸しちゃってさ! この豊満なバストを見なさいよ!?」
「バカじゃないの!? あんたの胸トップとアンダーの差なんて無いじゃない! そーいうのはバストって言わないのよ胸筋よ胸筋!!」
「ふんっ、なーにを見栄張っちゃってるんだか! どうせあんただって10cmぐらいしか差がないくせに!!」
「ちょっとやめてよ10cmとか妙にリアルだからホントやめてよ!! 隊長が信じちゃったらどうしてくれんのよーッ!?」
 あれっ、ここってどこなんだっけ。オレの執務室だっけ。
 自分に確認し直して、ライは喉に手をやった。発声練習。よし、出る。息を吸い込んで。
「はいそこまでッッッッ!!」
 ぴたり、と二人の取っ組み合いが収まった。その姿勢のままこちらを凝視している。ライは内側から痛む頭を押さえた。
「あの、な。オレ今、すごく腹減ってるから。両方ありがたくいただくから。だからケンカするんじゃない、分かったか?」
「「……はぁい」」
 二人は同時に耳を伏せた。ライはため息をついて二人に歩み寄る。
 キサの左腕とリィレの右腕を、軽く叩いた。
「ありがとな。二人共」
「「……はいっ!!」」
 二人の顔が一瞬にして明るくなった。ライの口許も思わず綻ぶ。まったく、そんな顔をされてはまるでこっちがいいことをしたような気分になってしまうではないか。
 ライは受け取った籠と風呂敷包みを机の上に置いた。それから積まれている書類のうちの一束を持ち上げる。
「あ、キサ。これチェック回してほしいんだが……担当者分かるか?」
「はい。謹んで拝命いたします」
 キサは大真面目にライの目を見つめながら、書類を両手で掴んだ。まずいこれはさっきと同じパターンだ。気付いてとっさに手を離した。
「や、それはそんな畏まる程の書類じゃないんだ。帰り際にさーっと出してってくれれば……」
「その程度の書類でしたら私にも処理する権限はあった筈です。何故言って下さらなかったのですか」
 キサは眉をひそめて手を下げた。ライは苦笑して、肩をすくめた。
「お前の能力の高さはオレも承知してるよ。でもオレの頼まれた仕事だし、お前の手を煩わすこともないなって思ってさ」
「隊長……」
 キサは書類を胸に抱きかかえた。心持ち、口調と視線が鋭くなる。
「何の為の部下なのです。ライ隊長の補佐をさせていただくのが私の役目なのですから、次からはどうぞ何なりとお申し付け下さい」
「……すまない。気をつけるよ」
 ライは頭をかいた。こういう部下だからこそ余計な負担をかけたくないんだがなぁ、とは口にせずにおいた。
「弁当、ありがとな。ごちそうさま」
 キサは黙って微笑むと、一礼して部屋を出て行った。
(さて、と)
 飯でも食うか。椅子を引きかけてライの手が、止まった。
 ……何か忘れてる気がする。首を動かした。リィレが何かをものすごく期待している目で、こちらをじっと見つめていた。
「あー、っと……」
 ライは意味なく呟きながら、首を後ろに反らした。天井が目に入る。それから、壁、棚、と視線を巡らせ、机の上で止まった。
「えーっと、そうだ」
 インク瓶を持ち上げる。ガリアでは硝子産業が発達しておらず、耐水性の器は陶器が多い。例に漏れずコルク蓋のこの瓶も陶器製な訳で、中身は見えなかった。しかし豊かな水音としっかりした重量は、開封間もないことを如実に物語っている。ライはそのインク瓶をリィレに手渡した。
「悪いんだが、これと同じやつをもう一個もらって来てくれないか? 切らしちゃってから取りに行くのは面倒くさくってさぁ……」
 我ながら白々しい。だがそれでも一応ご期待には添えたらしく、リィレはもげそうな勢いで首を縦に振った。
「はいッ! すぐ行ってきます!」
「あのな、急ぐとこぼれるから! こぼすと服が汚れるだろ!? だからなるべくゆっくり、ゆっくりな!」
 何度も念を押してからリィレを送り出した。嘆息しながら腰を下ろす。腹の虫がいい加減、癇癪を起こしているのだ。手を伸ばして籠を引き寄せた。
 あまり大きくはない。恐らくリィレの膝の上に載せたときに、最も似合わしいサイズなのだろう。アーチのような持ち手の下に、桃色と白の市松模様の布がかかっている。それをそっと取り去った。
「……うぉっ」
 思わず妙な声が漏れた。サンドイッチだ。底に敷かれた大きな葉の上に盛り付けられている。野菜や卵・鶏肉などが彩り豊かに挟んである。デザートには剥かずに食べられる苺つき。
「すっごいなー、うわー、女のコだなー」
 聞きようによっては非常に失礼な独言を吐きながら、ライは部屋の隅にある桶で手を洗った。手巾も入れてくれた手前、洗わなければ悪いような気がしたのだ。牛乳もつけてある。ガリアのパンはクリミアのものほど柔らかくない、喉が渇くのだ。流石よく解っている。かぶりついてみると味も見た目を裏切らなかった。
(……旨いなぁ)
 口の中がいっぱいで発声できなかったので、胸の内で呟いた。ふと目を伏せる。
 もう二十年以上も前のことになるだろうか。リィレの姉が軍人になったばかりの頃だ。彼女はライが当時任されていた隊に配属されていた。
 彼女はいつも母親の手製の弁当を持ってきていて(それがまた大変な美味だったので毎度毎度たかられて怒っていたように記憶しているが)、そのせいか他の隊員にも弁当持参が広がった時期があった。
 しばらくして、ある日、彼女はいつもと様子の違う弁当を持ってきた。誰も悪気はなかったのだと思う。見栄えも味も話にならないその弁当を、母さん寝坊で今日は親父の手作りか、などと隊員達は様々に野次った。彼女は無表情でずっと黙っていた。
 黙って翌日から弁当を持ってくることをやめた。いつの間にか弁当ブームは下火になっていった。
 ライは薄々勘付いていた。だから何も言えなかった。なのに何も言ってやれなかった。
 今ならもっとはっきり分かる。そうだ、きっと、あの日の下手な弁当は――。
 ぽつりと、こぼす。
「……うまいな。リィレの弁当は」
「本当ですかぁ!? よかったぁ!!」
 感傷的な気分が投石でも受けたように跡形なく粉砕された。ライはかくついた動きで振り返る。
「リ、イレ、さん……? 随分、お早い、お帰り、で……」
「隊長のためにあたし頑張っちゃいましたぁ! さ、どんどん食べて下さいねっ!!」
 二つのインク瓶を素早く置くと、リィレはライの目の前にしゃがみ込んだ。大きく開いた襟元を見下ろしながら、なるほどじゅっせんち、と呟くだけでこの状況からは解放されるのであろうが……。余計どうしようもないことになる気がする。
「はいっ、隊長!あ~ん」
 リィレはパンを手にとって、ライの顔に近づけた。眉をひそめて避ける。
「あのなぁ、飯ぐらい一人で食える……」
 言っている最中に口唇すれすれまで突き出された。これは食べないと事態は進行しないということか……仕方なく歯を立てる。
 咀嚼。……旨い。あー、確かに旨いとも。
「やぁっだぁ隊長ったら、ほっぺにパンくずついてる~! かーわーいーいー!!」
「…………」
 ――食堂に行った方が早かったかもしれない。
 細い指に頬を好きなようにされながら、ライは遠い目をするのだった。