水幻の色

 一面の海原はガリアからベグニオンへ向かった船旅を思い出させた。
 潮風の匂いだとてそう違いはないのに、この場所は女神の作り賜うた土地とは遠く切り離された『異界』なのだそうだ。波に揺れる足下はどこにもまして頼りない。
 レテは甲板に立ちため息をついた。そこに並ぶベオクが一人。
「水に棲む竜鱗族、あんたは本当にいると思うか?」
 アイクだ。特務機関ヴァイス・ブレイヴに何人かいるうち、父を亡くしたばかりの『アイク』。
 レテはやかましく乱れる髪をかき上げる。
「竜だとしてもラグズではないだろう。人を食らうという話だぞ」
「そうだな。エフラム王子たちが言うように、魔物に近い類の存在だと考えるのが妥当……まぁ半分はセネリオの受け売りだが」
 アイクが決まり悪そうに鼻をかく。
 調査隊として送られた船に、傭兵団お抱えの軍師殿の姿はなかった。召喚士殿はいつも訳知り顔で、根拠不明の人員配置をする。以前、人に指図するなら素顔ぐらい見せろと外套を剥ごうとしのだが、アルフォンス王子にひたすら止められた。きっとわたしたちには分からない繋がりが見えているんですよ、とシャロン王女にもとりなされて、レテは二人の顔を立てるかたちで召喚士殿の指示に従っている。
「アスク近海を荒らす『水竜』、か。私たちが退治する筋でもあるまいに」
 レテは手すりに寄りかかり吐き捨てる。アイクは水平線をまっすぐに見据えていた。
「俺は傭兵だからな。依頼なら受ける」
「その話をするなら私は軍属だ。他国とはいえ民間人が危険にさらされているなら、倫理は優先せねばならない。私の気持ちとは別個にな」
 実際のところ、召喚士殿の頼みより陸にいる王の命令であるという理由が大きかった。かといって不本意なことに変わりはないが。
 アイクが振り向き、蒼い瞳をふっと細める。なんだと問えば、いや、とアイクはやわらかい息をこぼす。
「あんたは俺の知っているレテより理屈っぽいな」
「そうか? ……そうは変わらんだろう」
 レテはそれきり黙った。アイクも特に何も言わないまま、雲が通りすぎていく。
 隣の『アイク』は、厳密にはレテの知っているアイクではなかった。彼の歴史は、エリンシア姫とともに祖国を取り戻したところで止まっている。レテが知るのはそのもっと、もっと先だ。
 レテが言葉を交わしてきたアイクは、残る者に全てを託してテリウス大陸を旅立った。一人の供も、友も連れずに。
『これで約束は果たしたな』
 レテが引き留める口実を失った日、アイクの声に宿っていたのは安堵だった。
 言えばよかったのだろうか。行くなと。何度でも約束で縛りつければよかったのか。
 行けばよかったのだろうか。彼がしたように、大切なものに事後を託してどこまでも。
 言えなかった。行けなかった。後悔なのか寂寥なのか、正気を削る濁流に抗っていたら自然強くなって、戦士長の職を拝命するまでになっていた。
 ――短く眩く命を燃やし往くひとに、ただもう一目会いたいと。
 封じ込め諦めていたつもりの願いは、夢か現かも分からない場所でいとも簡単に叶ってしまった。
「嫌な気配がする……前方から何か近づいてきているな」
 レテはつま先でデッキを叩いた。負の気だ。お調子者の上官ほど敏感ではないが、ここまでになればさすがに分かる。
「聞く限り、かなりまずいものみたいね」
 歩み寄ってきたのは隊長のアンナだ。人差し指で口許を忙しなくつついている。
「アスクの王族には『扉を開ける』力があるって話は、あなたたちにもしたわよね。実はずっと昔、この辺りでアスク王族の血を引く人に不幸があったらしいの」
「以来、『扉』や『渦』というほど大規模ではないけれど、異界のものを通す『穴』のようなものが発生するようになったらしいんだ。その人の遺品なりが媒体になってしまっているのかもしれない」
 アルフォンス王子も柳眉を寄せていた。アイクがしかめ面で神剣ラグネルを背負う。
「要はそいつの念だか何だかが、この辺りに異変を引き起こすんだな」
「そういうことになるね。渦と一緒で、特異点をどうにかすれば落ち着くはずだ」
「なら簡単だ。水竜とやらを倒して止める」
「ちょっと!」
 アンナがアルフォンスたちの会話に割り入った。
「簡単に言わないでちょうだい。何でも今回の異変は人も飲み込む巨竜だって聞くわ、もう少し調査してみないと――」
 突然の轟音に船が揺れる。アンナが悲鳴を上げて吹き飛ばされる。レテは頭をかばいながら彼女を抱き留める。
「おい! この距離でまだ簡単だ困難だと議論する気か? 死にたくなければ、止めるかしか手立てはないぞ」
「そんなこと言っても!」
 まだごねるアンナをアルフォンスへ放り、レテは化身の光を指先に湛えた。
 後ろでシャロンが槍を構える気配がする。
「うう、大きい……! たった五人で勝てるんでしょうか?」
 レテもあらためて『水竜』を振り仰ぐ。竜といっても竜鱗族のシルエットとは似つかなかった。水でできた大蛇がとぐろを巻き、船を飲み込もうとしている。
「攻撃、効きますかね?」
 シャロンの問いに、アイクは神剣を手にして答えた。
「やってみるしかないだろう!」
 アイクは斜めになった甲板を駆け上がる。手すりに足をかけ神剣を薙ぐ。血のごとき飛沫が視界いっぱいに激しく舞う。水竜がうねる。弾き飛ばされるアイク。レテは落下点に走ってやったが、要らぬ心配だったようだ。アイクは朱の外套を翻し危なげなく着地していた。
「大方水だが、骨のような手応えもあった。頭を潰せば全部水に戻るかもしれない」
 それを聞き、レテは無言で水竜の頭に向かって速度を上げる。アイクはまた手すりを蹴り、今度は水竜の背に降り立った。一歩、二歩、三歩、弾むように、大股に、軽やかに、竜の背びれを跳ねのぼる。
 レテは水竜の進行方向に回り込み、海から突き出た巨岩に飛び移る。水竜は眼前に迫っていた。咆哮と共に透明なあぎとが開く。岩ごと噛み砕きそうな凶悪な牙。レテは緑のリボンを風に流しただ待っている。
 恐れはなかった。
 解る。アイクが何をしようとしているか。レテに何を求めているか。
 解るのだ。
「レテ!!」
 アイクが高い声でレテの名を叫んだ。レテは迷いなく竜の喉元に飛び込む。
 神剣で脳天を貫かれ水竜が身をよじる。仰け反った首に黒い塊。レテは爪を突き入れて怪異の『芯』を破壊した。
 シャロンの歓声。大量の水は竜の姿を保てず空中で弾ける。リィレが――妹がふざけて、桶一杯の水をレテにかけたときみたいに――。
 身体が自由落下する。衝撃。背中から海面に叩きつけられる。世界が混濁する。今も以前も明日も同じ渦の中に溶ける。
 空から注ぐ光が揺れていた。差し出す指は獣牙の爪ではなく、頼りない少女のものだった。
 ああ、と口から空気の塊を吐き出す。祝福のヴェールに消えていく、小さなため息。
 どうせこの世界では、私は死ぬことも敵わない水と同じだ。いつかは醒めてしまう夢。勇者に解決されてしまうささいな怪異。
 だから何度でも、こうしてお前を手放していこう。いずれ不確かな私がお前にできることは、ただ縛らないことだけだから。
 レテはそっと目を閉じた。しんと静まり返った碧。心地よさすら感じたのに、無遠慮な騒音が静寂を乱雑に乱した。レテは思わずまぶたを上げる。
 そこには、海でも空でもない色があった。
 蒼。他の色を寄せ付けないほど深い、蒼。水の中で、レテのそばで、まるで炎のように。
 ――あの、あんなにも焦がれた色。
 アイクは必死の形相でレテの脇に手を入れた。引き上げようとしているようだったが、二人の身体は緩やかに沈んでいく。
 ああ『この』アイクはそうだったと苦笑して、レテは少年を胸に抱いた。両足を魚のように揺らして空を目指せば、じきに海面から顔が出る。
「レテ、すまない。無理をさせた」
 少年が全く本気の表情でレテを見つめていた。その細腕はレテを持ち上げることすらかなわないのに。レテはびしょ濡れの右腕で、水を含んだバンダナを元の位置に戻してやった。
「笑わせるな。私が何度お前の無茶に付き合ってやったと思ってる」
「そうだな」
 アイクはめずらしく微笑んでいた。レテの覚えているどこか下手くそな笑みだった。
 船からロープが投げ下ろされる。アンナたちが大声で呼んでいる。
「行こう。レテ」
 蒼い瞳で促すアイクに、レテはゆっくりと頷いた。レテたちは寄り添って『仲間』の元へ泳いでいく。
 いつか消えるとしても、元の世界が違ったとしても、構うものか。
 こうして隣で戦っていけるだろう。守りたいものを守っていけるのだろう。
 たとえ何が違っていたとしても、私はレテで、お前はアイクなのだから。