君は無辜の林檎 - 2/2

 それ以降も、ソーンバルケは他の者に対し、飄々とした態度を崩さなかった。
 モゥディとはよく共にいるようでもある。アイクに稽古もつけてやっているようだ。レテにはあれから近づいてこない。
 レテの方でもそれどころではなかった。ダルレカでのジルの決断、ネヴァサでの竜鱗族の敵対……。考えることは多すぎた。
 それでも、全くソーンバルケのことを忘れていたのでもない。
 レテがアイクに相談を持ちかけたのは、パルメニー神殿でのことだった。
 神殿の牢、白鷺の語り。全てを聞いていたわけではないが、アイクが世界や両親のことで、重大な事実を知らされたことは見て分かる。このうえ彼を悩ませるのは気が進まなかったが、こんな気持ちのままクリミアには戻れない。
 その床を血で汚されながら、なお神聖な気に満ち、また人の目の少ないここだから、アイクに打ち明けてしまいたかった。これがベオクの言う『懺悔』や『告白』というものなのだろうか、と他人事のように考えた。
「ソーンバルケがそんなことを?」
 二人きりの聖堂で事の次第を話すと、アイクは眉をひそめた。近頃はこんな表情ばかりしている。レテはその種となるものを、本当は一つだって増やしてやりたくはなかったのに。
「俺のときとは随分印象が違うな。そんな感情的な言葉を使うようには思えなかったんだが」
 アイクが腕組みをするので、そうだな、とレテは沈み調子で答える。
「他の者にはそんな素振りは見せない。と言っても、あいつが関わっているのはミストたちのような人懐こく寄ってくる者と、お前のところの参謀殿ぐらいのようだが」
「あとは、モゥディか……でも相手がモゥディだと、ソーンバルケはむしろ遠慮がちにしているように見えるけどな」
「ああ。かといって、個人的に恨みを買うほど私はあいつを知らん。もしこの先、獣牙の民が参戦することがあったとして、今のままではあいつにとっても我らの同胞にとっても、何かよくない方に転ぶと思った」
 言ってから、そういえばソーンバルケは『我ら』『我々』という主語に対して不快感を示していたと思い出した。あれは一体どういう意味だったのだろう。
 レテは視線を落とす。ステンドグラス越しに降り注ぐ色とりどりの光の中で、緑色だけがやけに目に付いた。アイクは信徒席にどかりと腰を下ろす。
「あんたもよく怒らなかったな。そんなことを言われたら殴りかかるものだとばかり思っていた」
「お前が私をどう思っているのかはよく解った」
「すまん。他意はない」
「何ならあるんだ?」
 口唇を尖らせて、レテも同じ長椅子に座った。一人分の空白を保ったままアイクと並ぶ。
 嘆息して、両手を組む。それは奇しくも祈りの姿に似ていた。
「怒る前に、疑問が先に来てしまってな。あいつはデイン兵たちのように、思い込みや無知でラグズを敵視しているのではなく……何か、極めて個人的で、触れがたい理由で憎んでいるように見えた」
「根拠がある?」
 アイクが空白の座席部分に右手をついて、身を乗り出してくる。レテは小さく頷いた。
「恐らくは。過去手酷いことでもあったのだろう」
「俺から訊こうか」
 アイクは今度、身体ごと距離を詰めてきた。繊細な話をするには遠すぎると思ったのだろう。相変わらず、図太いのだか気遣いが出来るのだか分からない。
「ラグズに誤解があるなら解いておきたい。遺恨があるなら流しておきたい。あんた相手では心を閉ざしてしまうんでも、ベオクの俺ならいくらか気を許して口を開いてくれるかもしれないだろう」
 レテは黙って、アイクの身体を押し返した。手の平越しに胸の鼓動を感じる。
 ああ、だって彼は団長だ将軍だと希望を一身に受けながら、その実こんなにもただの少年なのに。
「レテ?」
「……お前にこれ以上手間をかけさせるわけにはいかない。話したのは私の失策だった。忘れろ」
 言い捨てて立ち上がる。だが去れなかった。アイクが、レテの右手首を掴んでいたから。
「手間をかけさせているのは、いつも俺の方だろう。それに、あんたもソーンバルケも、仲間だ」
 青色の瞳はレテをまっすぐに見上げていた。降り注ぐどの光よりも透明な色。
「抱え込みすぎるな。ひとりになんてならなくていい。もっと、頼れ」
 レテは答えられなかった。無骨な指を、ゆっくりと外していく。
「傭兵団の皆が待っているぞ」
「レテ」
「いいから。忘れろと言ったことは撤回する。共に考えてもらいたい。だが、今でなくていい。私が手を伸ばしたときに、掴んでくれさえすれば」
 アイクの目は納得していないようだったが、彼の片手はすとんと落ちた。このまま待っていてもアイクはどかないだろう。だから、レテの方から歩き出した。
 女神を臨む席に座ったままのアイクを置き去りに、レテは聖堂を出た。石造りの廊下を行く。ベグニオン王宮の回廊とは違っていた。陽の入らず立ち並ぶ燭台に昼でも火が灯された道は、薄暗く頼りない。
 くっと、急に身体が引き寄せられた。独特の匂いがした。直後、肩から壁に叩きつけられる。衝撃に息が止まる。思わず閉じた両目を何とか抉じ開けると、さっきまで思い出していた色がそこにあった。
「ソーン、バルケ」
 ソーンバルケは若竹色の目を見開いてレテを見つめていた。左手でレテの右肩を押さえつけたまま、右手で橙の髪を掴み無理やり上を向かせる。
「何、を……!」
「思慮のない獣が」
 ソーンバルケはレテの抗議の声など聞いてはいなかった。否、レテを見下ろしながら、レテを見てすらいなかった。独言のように抑揚なく呟く。
「お前のような者がいるから、我らが消えない。無知で傲慢で考えなしの畜生共が」
「『我ら』という言い方は、好かないのでは、なかったか?」
 引っ張られた喉がつらい。それでもレテは、そう笑ってやった。彼がその複数形に込めた意味を、今なら聞かせてもらえるかもしれないと思ったから。
 ソーンバルケは急に鋭い目になって、レテの髪から右手を離した。ようやく解放されたとレテが息をつこうとした刹那、その大きな右手が真っ直ぐに伸びてくる。とっさに自分の右手で喉を庇ったが、ソーンバルケはレテの手ごと細い首を掴んだ。レテの口から詰まった咳が漏れる。ベオクが片手で持ち上げられるはずのない猫の体躯が浮く。爪先が床をかく。
「お前が死ねば」
 ソーンバルケの声が、死神のように響く。嫌悪? 憎悪? 否、それより。
 まるで、責務のように告げられた殺意。
「お前を殺すことで、未来の絶望が潰えるのなら。今ここで私がこの首を折ったとて、誰にそれを咎められる? いや、咎められはしないはずだ。世界にも……女神にも」
「や、って、みろ」
 レテは残された左手で彼の手首を握り締め、爪を立てた。酸素の足りない肺から声を絞り出した。
 もうソーンバルケの顔も見えない。伝えられるのは言葉だけ。だから全力で叫んだ。
「それが、貴様の本当の願いなら……心のうちに、一片の誤魔化しも嘘もないと言い切れるのなら、やってみせろ!!」
 ソーンバルケの指がびくりと震えたのが、薄い皮膚越しに分かる。レテは彼を傷つけていた左手を下ろした。もう、そんなことをしなくてもソーンバルケは自分を殺さないと思ったから。
「ソーン!」
 モゥディの声がする。向こうから駆けてくるのが聞こえる。
「ヤめろ、レテをイじめてもソーンは幸せにはナれナい! ソーンを苦しめる女神と同じにナってはイけナい!!」
 いきなり締め付けるものがなくなって、レテの身体は床に落とされた。ぶつけた尻も痛いが呼吸が苦しくて咳き込む。モゥディはレテの傍にしゃがんで背を撫でながら、耳を伏せてソーンバルケを見上げていた。レテもつられて目を上げる。
 ソーンバルケは、まるで初めて人を殺めた者のように呆然と、己の両手を見つめていた。かすれた声で問われる。
「……何故、抵抗しなかった?」
「抵抗ならした」
 レテもかすれた声で言いながら、彼の血が少しにじんだ左の爪を見た。ソーンバルケは自分の手を見下ろしたまま顔を上げない。
「だが殺せと言った。私の身勝手な感情の前で」
「別に、お前を受け入れたわけじゃない。黙られるよりはまだしもと思って、言い分を聞いていただけだ」
 ようやく調子の戻り始めた喉で答えると、ソーンバルケがレテを向いた。別人のように頼りない、幼い視線だった。レテはゆっくり、その目と自らの目を合わせる。
「言いたいことがあるのなら、話せ。『我ら』と言われるのが嫌ならば、『私』が聞いてやる。それでなお私個人が憎いと言うのなら、好きに憎むがいい。その感情を否定することは誰にも出来ない」
 ソーンバルケはすっとレテから目を外した。代わりに見つめていたのはモゥディだった。モゥディは、小さく頷いてレテを向いた。
「レテ。ソーンは【印つき】……【親無し】だ」
「は?」
 思わず間の抜けた声が出てしまった。レテはその存在を、概念としてしか知らなかったからだ。
 親無し。ラグズとベオクの混血。決して生まれるはずのなかった子供。目の前の男が、それだというのか。
「では、お前の親は片方が……」
「いや。私の両親はベオクだった。祖父母も一族郎党、極々平凡な、ベオクにすぎなかった。元凶となった連中を除いては」
 ソーンバルケは言いながら、左手で長い髪をかき上げた。そこには痣のような印が刻まれている。ベオクにはない、混血にのみ現れるという印。
「祖先の誰かが、後先考えずラグズと交わったらしい。思慮の足りないラグズにたぶらかされ子を生したのだ。もういつそんなことがあったのかすら誰も辿れないのに、潜伏していたラグズの因子が私の代になって発現した。信じられないだろう。ただ生を受けたその時点で、既に『不浄』の烙印を押されていたなどと」
 淡々と告白するソーンバルケに、レテは言葉を失っていた。
 半獣と呼ばれ蔑まれてきた者の、更に半分以下の者。女神は彼らの存在を許さない。ベオクに属することも、ラグズに属することも出来ず。迫害されているという事実すら、主張することの出来ぬ者。
 レテはいつかアイクに、『お前たちの仕打ちを絶対に忘れない』と言ったことを思い出した。だがベオクがラグズを隷属させたことが事実でも、後の世に生まれたアイクに贖罪を求めたことは果たして正当だったのか。
 自らが異種族と契ったのでもない。ただ生まれてきただけの者を、断罪する権利が一体誰にあるというのか。
 ソーンバルケは左手を下ろし、眉をひそめながら不器用に笑った。
「そのことで心乱す若さは、もう過ぎたと思っていたのにな。ベオクの少年と仲睦まじくするレテを見て、つい逆上してしまった。こんな風に無邪気に、楽天的に、私たちという罪は産み出されてきたのかと。愚かな妄想だ。相すまぬことをした」
「ソーンは罪ナんかジゃナい!!」
 黙ったままのレテの代わりに、モゥディが珍しく大声を上げた。立ち上がり、何かに立ち向かうように両足を踏ん張って立つ。
「ソーンはモゥディの友達だ。ソーンの仲間とも、モゥディはキっと仲良くデきる。絶対デきる」
「モゥディ……」
 ソーンバルケは戸惑いがちにモゥディを呼んだ。レテは嘆息して、やっと口を開く。
「なぁ。お前は嫉妬したんだろう」
「え?」
 ソーンバルケが気の抜けた声を出す。レテは壁際に座ったまま、存外脆い若竹色を見上げた。
「もしお前の祖先がアイクのような者で、真っ直ぐにラグズの異性に触れて、その間に生まれ落ちたのがお前自身だったならば……ちゃんと正しく愛されていたのかもしれないのにと、思ったんじゃないのか」
「そちらもどうして、想像力が豊かなようだ」
 ソーンバルケはぎこちなく肩をすくめた。
「この印を最初に持ち込んだ者が愛されていたとしたら、それこそ私は血族を許せない」
「そら、言った」
 レテは重い腕を上げ、その不自然な笑顔を指差す。彼が自覚するまで指摘する。
「お前は今その口で言ったじゃないか。もしそうなら、自分もそのように愛されたかったのに、と」
 ソーンバルケの顔から感情が消えた。ソーン、とモゥディがその肩に片手を置く。レテやアイク相手では大柄に見える彼も、虎の手の元では華奢に思える。
「モゥディは女神に会ったコとがない。デもモし……会えたら、文句を言ってヤる。ソーンを、モゥディの大切な友達を苦しめるナと」
 ソーンバルケの喉が引きつった。それでも何かを言おうと開いた口唇が声を発する前に、誰かが走ってくる音がする。ああ、とレテは目を閉じる。大騒ぎしすぎた。むしろここまでよく見つからなかったものだ。
「モゥディ? ソーンバルケも……何をしている?」
 アイクの緊張した声がする。レテは立って事情を説明してやりたいのだったが、まだ身体が上手く動かない。自分の手越しとはいえ、首だけで浮くほど締め上げられたのは初めてだった。言葉は何とか達者に戻っても、四肢の先が少し痺れる。
「レテ!」
 アイクが血相を変えて寄ってきた。傍に膝をついて、乱れた髪や、恐らく赤くなっているレテの首や右肩を確かめている。引っ叩く元気もない。ラグズだベオクだという話ではなく、異性の身体をべたべた触るなというのに。そんなだからソーンバルケも怒るのだ。
 アイクはぐっと口唇を引き結んでレテを見つめてきた。レテは力なく笑う。別にお前が心配することではないと。だがアイクはそう受け取らなかったようで、首だけでソーンバルケを振り返り低い声で言った。
「あんたが、やったのか?」
「そうだ」
 ソーンバルケは即答した。静かな声音だった。目を伏せて、確かに自分の罪状を述べる。
「彼女に非はない。私が逆恨みで、無抵抗の者を手にかけようとした。それだけのことだ」
 何かを怒鳴ろうと腰を浮かしたアイクの目の前に、美しい鞘が突き出される。ラグズのレテにさえ名剣だろうと窺える、ソーンバルケがいつも腰に帯びている一振りだった。
 ソーンバルケはもう床を向いてはいない。アイクの瞳をしっかりと見据えている。
「斬るがいい。報いは受ける。どうせ永らえて価値のある命でもない」
 ソーンバルケの言葉に嘘はないようだった。こう言えば許してもらえるだろうという打算も甘えもない。彼にとってはそれが本当に償いの手段なのだ。
 アイクは黙ってソーンバルケを見上げていたが、やがてため息をついて宝剣の鞘を押しのけた。
「レテが怒ってない以上、俺がどうこうするのは筋違いだ」
 言い捨てて、レテの右腕の下に左腕をくぐらせる。完全に脱力している状態なら無理だったろうが、少しは回復してきた今なら、レテもアイクの力を借りて立ち上がることが出来た。大丈夫かと問われて頷く。アイクは一瞬微苦笑のようなものを浮かべてから、厳しい目でソーンバルケに向き直った。
「あんたを罰しはしない。だが、俺はすごく怒ってる。それだけは分かるな」
「ああ」
 ソーンバルケは無感情に答えた。アイクがレテを支える手に力を込める。
「だから、話を聞かせろ。俺と、レテと、モゥディが納得するまで全部だ」
「ああ」
 ソーンバルケは同じ言葉で答えた。ただし今度は、かすかに震えた声で、微笑みながら。
「……話してもいいのなら、いくらでも」

 

 あの後、クリミア軍は無事祖国を取り戻し、ソーンバルケも一介の剣士として仲間たちの元に帰った。
 目を輝かせてその冒険譚をせがむ同胞もあったが、ソーンバルケは曖昧に笑って言葉少なであった。
 ただ、クリミアにもガリアにも我らの居場所はまだないと、それだけは強く言い含めた。
 そして彼らにとっては然程長くない年月が経ち、ソーンバルケは再び同胞の為に戦地に立った。
 大方の事情は察したが、あまり実感は湧かない。導きの塔なる建造物を前にして、ソーンバルケはただ人の手ならざる光を見上げている。
 少し前に、ずっと恨み続けてきた『女神』と言葉を交わした。彼女は混血の呪い子を、知らないと言った。ベオクとラグズの交わる禁忌を、何も知らないと感情的に否定した。
 だとしたら、ソーンバルケたちを今まで逆説的に支えてきた怒りは、どうしたらいいのだろう。
 自分たちは罪の象徴ですらない。ただの何かでしかない。何者にもなれない。
 『女神』に認知すらされなかったものが、このうえ『女神』に抗ってどうなるのか。
 ――こんな世界に、何の意味があるのか。
「ソーンバルケ」
 ただ呆然と塔を眺めているだけのソーンバルケの耳に、懐かしい声が届いた。振り返る。ガリアの戦士、レテだった。いつか腹立ち紛れに殺そうとしたラグズの少女。
 それに怒ったベオクの少年はもう青年になったというのに、彼女は少しも変わらない。
「こんなところにいたのか。少しは休まないと明日の突入作戦に支障をきたすぞ」
 両手を腰に当ててソーンバルケを叱る。ソーンバルケは、ふっと小さく鼻で笑った。
「戦いをご所望ならば、剣を振ることぐらい造作もないが。……生憎大義を失くした」
 レテの耳がぴくりと動いた。塔に向き直るソーンバルケの視界を遮るように、前に回り込んでくる。
「スクリミルに会っただろう」
「あの歳若い獅子か」
 モゥディの同胞だとかでやたらと馴れ馴れしく接してきた。ソーンバルケはああいった手合いがあまり得意ではない。レテは難しい顔で続ける。
「そうだ。ガリアの次期王、スクリミルだ。――あいつはデイン=クリミア戦役終結の直後から、ずっとお前に会いたがっていた」
 今度はソーンバルケが難しい顔になる。ラグズが『親無し』に会いたがる理由などないはずだ。それがたとえ、同胞の友人と称する者だとしても。
 レテはその疑問を先取りして、ひとつひとつ丁寧に説明してくれる。
「あいつも端で見えるほど馬鹿じゃない。お前たちがラグズにとってどういう存在なのか、理解はしている。ただそれでもスクリミルはモゥディの友人に、かつて女神をも打ち倒した三雄の名を冠するお前に、ただならぬ興味を示していた」
「それで、これから今度はユンヌではなくアスタルテの掃除をさせようというのか」
 ソーンバルケの悪い冗談に、レテは乗ってこなかった。ただ真剣に、話を先に進める。
 女神の放つ、人々を畏れさせる為の威光にさえ、彼女の瞳の紫は褪せることがない。
「違う。この戦いを終わらせて、お前たちと、共に生きたい」
 恐らくはスクリミルからの伝言であろう言葉に、ソーンバルケの頭は殴られたようにがんと動いた。
 嬉しいのではなかった。ただ痛かった。苛立ちのにじんだ言葉が滑り出る。
「勝手を言うな。私たちが今までどれだけ――」
「何もかもでたらめだったんだぞ!!」
 レテが全身の毛を逆立てた。光の粒子をまとった橙は、透き通ってきらめいていた。そんなことを感じている状況ではないのに、綺麗だと思った。
「女神ユンヌが邪神だというのも、ラグズとベオクの成り立ちも、どの国の政も王族も将軍も嘘だらけだ! 本当を生きてきた者なんていくらもいないじゃないか! 何故お前たちだけが、律儀に偽りを守って虐げられねばならない!?」
 ふわりと風が動く。レテが詰め寄ってくる。両腕を掴んで見上げてくる。いつか折ろうとした細い首が眼下にある。生きているとその喉が動く。
「不毛の地から出ろ。スクリミルは、お前たちが望むなら現ガリア領の一部を譲ると言っている」
「そこまでしてもらう筋合いは、ない」
「何でもいいから、どこでもいいからもう隠れるのはやめろ」
 レテは震える両目を隠すように、額をソーンバルケの胸にぶつけた。
「私たちの目の届く、手の届く場所にいてくれ。――頼むから」
 ソーンバルケは、かつてあれほど憎んだラグズの少女を何も言わず見下ろしていた。そのまま両肩を押すと、レテの指は思うより簡単にソーンバルケの腕から外れた。レテはそのまま数歩後ろによろめいた。
 自ら招いた沈黙は、存外に重く圧し掛かってくる。
「……ガリアには、住めない」
 やっと搾り出せた台詞はそれだけだった。レテの尾が不自然な揺れ方をしたのが分かった。それを見て、もう少し言葉を継ぐ。
「だが、黄砂を見飽きたのも事実だ。そろそろ住処を変えてもいい……あのミカヤという娘も、表で生きようとしているのなら」
 レテが顔を上げた。まだ不安げな瞳。彼らに、ソーンバルケたちを裁くことは出来ない。あんな不完全で弱い存在に、負けていると思いたくはない。
 すぐに朽ちてしまうベオクにだとて。彼らを看取ってやれるのなら、傍にいることぐらい赦されていいはずだ。
 そうだ。女神の知らなかった者たちに、咎はない。世界が自然に生み出した果実の形が、いくら歪であったとしても。この印に罪はないと、いつか胸を張って言い切ろう。
 たとえ自分が生きているうちに叶わなくてもいい。もう随分生きてきた。残りの寿命を全て使い果たしても構わない。引き継ぐ意志を、今ここに始めたい。
 ソーンバルケは歩き出した。自分の足で。自分の意思で。種族を超えた仲間たちの元へ。
「その話は後でもいい。差しあたっては、あの目障りな塔を斬り捨ててしまわねばな」
「……ああ!!」
 レテが明るい声で言って、隣に並んできた。
 向かう先には、モゥディとアイクが微笑しながら待っている。
 何もかも壊れてしまうなら。
 何もかも崩れてくれるなら。
 何もかもやり直せるのなら。
 彼らの濁りなき瞳と、共に歩みたい。
 流れる若竹の髪の奥を、ソーンバルケは初めて、厭わしくないと思った。
 秘密の林檎に刻まれた、無辜の印を。