君は無辜の林檎 - 1/2

 その男がアイクの前に現れたのは、本当の本当に唐突なことで。
 どう見ても貴族にも使用人にも見えないのに、さも当然のような風情で、ベグニオン王宮の庭に佇んでいた。
 
「……あんた誰だ?」
 アイクが呼びかけると、振り返る。若竹色の髪がふと揺れる。かなりの長身で、虎ほどではないが肉付きのいい体格をしていた。しかし無駄がない。只者ではないことは一目で分かる。
 だからこそ、アイクは低い声で問い直す。
「いつの間に、俺の団にいる?」
 アイクの警戒を意に介さぬように、男は微笑んだ。
 髪と同じ色の瞳を少し眇めて、俺のと言ったがお前がここの将かとやわらかく問うので、何だか馬鹿にされたような気がして、そうだが何かとアイクは眉をひそめた。
「私は、砂漠の戦より参加している。名はソーンバルケという。挨拶が遅れて申し訳ない」
 男――ソーンバルケは、右手を左胸に軽く添え、小さく頭を下げた。剣を抜く気はない、という意思表示なのだろう。アイクは見慣れぬ拵えの、ソーンバルケの腰のものを気にしながら更に問う。
「どうしてここにいるんだ?」
「いくばくかの好奇心と、概ねは運命の導きによって」
 ソーンバルケは右手を下ろさぬまま、さらりと答えた。答えた、のだろうが、アイクにとっては意味不明だ。答えになっていない、と言ってもいい。
 しかしソーンバルケの方では涼しい顔をして、それ以上付け足す気がないようである。
「もっと具体的に分かるように――」
 アイクが焦れて言いかけたとき、モゥディが慌てた様子で走ってきた。
「アイク! ソーンは敵じゃナい、ケんかはヨくナい!」
「……いや、別にケンカはしてないが」
 喧嘩をするつもりではなかったが、それにしても気が削がれた。アイクが脱力していると、モゥディがソーンバルケに並んだ。
 こうして見ると、やはり彼は大柄と言ってもベオク並みであるのがよく分かる。
「ソーンは、砂漠でモゥディと会って、ガリアの話を聞きタいと言った。デもソの時は、戦ってイる途中ダったカら……」
「ならば手伝うと無理を言って、同行させてもらった」
 ソーンバルケはようやく手を下ろし、モゥディの言葉を継いだ。口角をわずかに上げたまま、アイクを見つめる。そう、確かにアイクを向いているはずなのに、どこか虚ろな視線で。
「不快ならば、すぐにでも辞そう。若き将」
「アイクだ」
 アイクはきっぱりと返した。浮世離れした若竹色を、引き寄せるように睨み上げる。
「ここに留まるつもりなら、俺の名前ぐらいは覚えておけ」
「ふむ。道理だ」
 ソーンバルケの瞳がちらと光った。左手を、とんと剣の柄に置く。
「では、アイクとやら。砂漠で、お前の剣を見ていた。独自の技を操るようだが、未だ動きに迷いが残っている。修行半ばで師を失ったか?」
 彼は何も得意気にそれを指摘したのではなかった。燕が低く飛ぶから明日は雨だな、というぐらいの他愛ないことのような口調で言った。アイクは何も言えなかった。
 見ていただけで、全て筒抜け。しかも彼にとっては、胸を張るほど特別な技能ではないらしい。それが余計にアイクから言葉を奪った。
 ソーンバルケはあくまで世間話のトーンで続ける。
 
「幸い基礎だけは固まっている。ならば、この私が力になろう。その技……完成すればどれほどのものか見てみたい」
「あんた、一体……」
 砂漠で会ったとモゥディは言っていたが、あそこにはラグズ奴隷解放軍ぐらいしかいなかったはずだ。
 しかし目の前の男は明らかにラグズではない。トパックのようにラグズに与するベグニオン人にも見えない。その腰のものが飾りでないとしても、剣筋ににじむ迷いまでも見透かす程の巧者が……偶然その辺りをうろついてなどいるものだろうか?
 アイクの怪訝な顔を見て、ソーンバルケは柳眉をわずかに歪めた。
「私の素性を知らずとも、剣を習うことはできるだろう。どうする、おまえの心一つだ」
 なお詮索を続けるならば、彼は間違いなく去っていくだろうと思えた。モゥディの表情が、それは嫌だと言っている。アイクとて、この未熟な剣のまま、漆黒の騎士と渡り合うことなど出来ないことぐらい解っている。
 ならば、答えはこれしかなかった。
「分かった。この剣技を極められるなら……あんたに教えを乞う」
 アイクが慎重な声で答えると、ソーンバルケは眉間のしわを解いた。頷いて、剣を抜く。
 すらりとした刀身。美しく浮かび上がる刃紋。クリミアではお目にかかれない、オリエンタルな業物。武具に詳しくはないアイクにも、名剣であるとすぐに分かった。
 それをソーンバルケは、何気なく持ったまま立っている。
「では、構えるがいい。そして全力で私に仕掛けてくるんだ」
 そう言うソーンバルケは、構えてすらいない。恐らく構える必要すらないのだ。今のアイク相手なら。
 アイクはぐっと奥歯を噛み締めた後、彼の言葉通り全力で突っ込んでいった。
 しばし経って、アイクは仰向けに転がってぜいぜいと空を見上げている。
 歯牙にもかけられなかった。ソーンバルケはかわしながら、一振りごとにどこが悪いか一言述べるのみで、アイクの攻撃はまともに防いでさえもらえなかった。無様に転ぶことまではなかったとしても、度重なる空振りにアイクは疲弊し、こうして一時の休憩を申し出る始末である。
「本当に、あんた、何者……いや、詮索はしない約束だったな」
「別に約束というほどでもない。生きる為、わずかながら守りたいものを守る為、身についたまでの技。生憎と、他にすることもなかったのでな」
 ソーンバルケは淡々と言い、剣を納めようとした。アイクは息を荒くしたまま彼を見上げる。
 アイクはソーンバルケほど、他人の太刀筋をきっちり見分けられるわけではない。それでも彼の剣はどこか哀しいと思えた。否、寂しいと言った方が正しいのか。
 例えばワユのような、弾けるかのごとく前向きに高みへ向かう剣ではない。グレイルの教えてくれた、覚悟を秘めた剣とも違う。
 確かに巧い。ただ、巧いけれど。なにか、その切っ先の届く限り、他人を拒もうとするかのような剣。
 それがどうしても引っかかった。
「待ってくれ。あんたがよければ、もう少し続けたい」
 アイクは身を起こし、剣の柄を握り直した。モゥディが、大丈夫カと問うのに、頷く。
「まだもう少し、剣越しでいいからあんたを知りたい。ソーンバルケ」
「そうか」
 ソーンバルケは半ばまで鞘に戻りかけた刀を、もう一度抜き直した。今度は構えている。一見先程と変わらないが、やや半身を開いてアイクを見ている。今度はこの刃を受け止めてくれるだろうと思った。
 交えた刃は案外と激しかった。若竹色の瞳は、昏い冷徹に光っている。殺意ではない。害意でもない。悪意でもない。何かは分からないが、容易に突き崩せるものではなかった。
 何合かはどうにか打ち合えたと思う。それでもアイクはすぐに押されて、剣を弾き飛ばされてしまった。切っ先が喉元に突きつけられる。陽光を照り返す、見惚れるほど美しい輝きだった。
「……参った」
 アイクが両手を上げると、ソーンバルケは薄く微笑した。
 何を言うでもない。嘲るでもない。ただどこか満足したように微笑んだ。
 だがその剣が引かれるより先に、アイクの視界は大きく揺れる。
「レテ!」
 モゥディが叫んだので、ようやくレテに引っ掴まれたらしいと気付いたぐらいだ。正確には、横から走り寄りざまに首根っこをくわえて跳躍された。化身しているレテは、モゥディの傍にアイクを振り落とすと、ソーンバルケに向けて咆哮する。
 モゥディが両手を広げて、レテの前に立ちはだかった。
「レテ! 違う、ソーンは敵じゃナい!」
「ああ、剣の稽古をつけてもらっていただけだ。襲われたわけじゃない」
 アイクもようやく状況を理解して、襟元を直す。引っ張られたので首が絞まっていた。
 レテの身体が光り出し、姿が猫から少女に変わる。ばつの悪そうな顔をしていた。そうでなくとも彼女は不機嫌なことが多いのに。
「私は知らないぞ、こんな奴」
「俺もさっき会った。ガリアのことが知りたいと言って、モゥディについてきたそうだ」
「またそうやってお前らは、ほいほい味方を増やして……」
 レテは嘆息して、立てるか? と手を差し伸べてくれた。ありがとう、とその右手を握ってアイクは立ち上がる。レテは、ぱっと手を離しながら口唇を尖らせた。
「怪我はないのか?」
「ああ、特に。レテと鍛錬するときの方が生傷が多いくらいだ」
「悪かったな」
「いや。それだけあんたが真剣にやってくれてるってことだから、気にはしてない」
 レテはやはり納得しかねるようであった。
 アイクは肩をすくめ、抜き身を提げたままのソーンバルケに向き直り声をかける。
「もうしまってくれて構わない、すまなかった。今度また改めて頼みたいんだが、いいか?」
「ああ」
 ソーンバルケは答えて納刀したが、どこか上の空だった。濁った目でレテを見つめている。レテはそんな視線を受け流せるほど器用ではない。突っかかっていく。
「私はモゥディの上官で、レテという。ガリアのことを知りたいそうだな。何か聞きたいことでも?」
「今はない」
 ソーンバルケは短く言い、最早誰への興味も失ったように歩き出した。
「ソーン! ガリアの話をスるのダろう? モゥディが話す」
 モゥディが彼を追っていったが、アイクとレテは呆然と彼を見送るだけだった。
「本当に何なんだ? あいつは」
 レテが舌打ちする。アイクは飛んでいった剣を拾いに行く。
「分からん。自分のことを訊かれるのは嫌いなようだったからな。あまり話してもらえなかった」
「よくそんな奴を仲間に引き入れるな」
「拾ってきたのは俺じゃないが。それに、そういうのは俺たちの中では珍しいことじゃない」
 家族と呼び、そう信じる傭兵団員の過去でさえ、アイクは正確に把握しているわけではない。無理に知りたいという気持ちもない。今更、赤の他人の過去が分からないぐらいで、疑わしいと感じることもなかった。
 ただ今回に限っては、レテの懸念ももっともだとは思う。剣を鞘に納めて振り返る。
「とりあえず、モゥディに任せよう。自分からついていくと言ったんだから、モゥディになら少しは興味を持っているんだろう」
「だがあいつは、ガリアを知りたいと言いながら私を無視したぞ」
 こちらを睨むレテの尻尾はぴんと逆立っている。アイクは歩み寄っていき、その尻尾をむぎゅと掴んだ。レテが悲鳴を上げて殴りかかってくる。彼女は気安く尻尾に触れられるのが嫌いなのだ。解っていて気を逸らすのに使ったのは、まぁ悪いとは思うが。
「待とう、レテ。『今はない』と言ったんだから、あんたに聞きたいことだって、いずれあるんだろう」
 アイクがレテの拳を手の平で受け止めると、橙の耳がしゅんと下がった。つくづく彼女は、言葉を聞くより見ている方が気持ちが解る。
「私はお前ほど聞き分けがよくない」
 レテは口早に言い捨てた。紫の両目は、ソーンバルケの消えた方を見つめている。
「知ってる。俺も然程いい方じゃないからな」
 アイクも同じ方を見つめ、すぐに逸らした。
 小腹が空いたがあんたも何か食うか、と問うと、レテは黙って首を横に振った。じゃあ、と立ち去る。
 本当にラグズとベオクの問題は根深いものだと思った。

 

 アイクがいなくなった後も、レテは中庭に立ち尽くしていた。
 天を仰ぐ。ガリアを出て、クリミア、海、ゴルドア、また海を通ってベグニオンへとやってきたが、違わないのは空の青さだけだ。太陽の光に目が眩む。
 ――あのソーンバルケという男も、ラグズが嫌いなのだろうか。
 そんなベオクは腐るほど見てきた。心痛むことなど今更何もないけれど。ならば何故、モゥディの前に出てきたのだろう。ガリアを知りたいと言ったのだろう。
 それに、あの目は一体何なのか。濁った昏い瞳。傭兵団の参謀の少年が、レテたちに向けるのに似ている。
 自らの『正義』によって相手を『悪』と断ずるのではない。そんな薄っぺらな否定ではなく、魂の芯から人を咎めるような黒い鎖。他の者たちから向けられる負の気とは全く異質だ。
 この頃はレテも随分知りたがりになった。いつまでも、ガリアにこもっていたときのまま排他的で、無関心ではいられない。世界はあまりにも多様な価値観に溢れている。全てを理解することは出来なくとも、承知してやるだけで和らぐ棘だとてあるだろう。
 頷いて、太陽の下から屋根の元へ戻る。待とうと言ったアイクの言葉を信じようと思った。その為に、その前に、言葉を交わさねばならない者はいくらでもいる。
 そしてソーンバルケは、レテが見積もったよりも早く彼女の前に姿を現した。
 タナス公の悪事を摘発し、セリノスの森が色を取り戻した直後のことである。
 ベグニオン兵を借り受けることになったアイクたちが、軍の再編成に追われている頃、一般兵とは扱いも違ううえに装備を見直す必要のないレテは、手持ち無沙汰でベグニオン王宮を歩き回っていた。
 この華美な回廊もやっと見納めかと嘆息しているとき、風が連れてきたかのように本当に突然、行く先にソーンバルケが立っていた。懐手で、口を真一文字に結んでいる。
「誰かを待っているのか。それとも私に用か?」
 無視をするのも具合が悪いので、距離を置いて立ち止まりそう問う。ソーンバルケもそれ以上近づいて来ず、訊きたいことがある、と低い声で言った。
「私も余所者なりに多少は事情を理解した。ガリアは表立った援助の代わりに獣牙の民を二人クリミア王女に預けた、相違ないな?」
「そうだ。我らが王はクリミア王と親交が深かった。我々はその遺児であるエリンシア姫をお守りするよう仰せつかった」
「自らの意思ではないのか」
 その言い方に、レテは片眉をぴくりと上げた。ソーンバルケは毫とも顔を変えない。感情が全く読めない。それが侮蔑なのか憐憫なのかどうかさえ。レテの声は自然強くなる。
「命じられたのは王だが、それを承知したのは我らだ。無理強いされたわけではない」
「何故数多くの獣牙族の中から、お前とモゥディが選ばれた。いや、モゥディは志願したのかもしれんが……お前自身は」
 ソーンバルケの口調にも苦いものが混じり始めた。ということは、ようやく迂遠な物言いをやめて核心に迫ろうとしているのだろう。無駄に言い争わぬ為に、レテは逆に気持ちを一歩引かせた。
「上官の細工した貧乏くじを引かされただけだ。それでも仕事と思って、真剣に協力しているつもりだが」
「仕事?」
 ソーンバルケは両手を軽く広げて、肩をすくめて見せる。
「誤解でベオクの少年を甘やかしその手に触れることが?」
「……アイクはこの軍の旗印だ。危険にさらされている可能性があるならば、それが誤解か否かを確かめる前に、まず安全を確保するのは道理ではないのか」
 レテの方も、こんな言い方をされると配慮するのが馬鹿馬鹿しくなってくる。一歩前に踏み出し、嘲弄に歪む若竹色の瞳を睨み上げた。
「それに、アイクは誰にでもああして手を差し伸べる。ラグズにもそうだ。あのように心を開かれては、我々も拒みきれない」
「我々、我々とかしましいな。全てのラグズの代表にでもなったつもりか、娘」
 ソーンバルケは広げていた腕を組んだが、足はその場から動かない。レテはもう一歩彼に詰め寄る。
「少なくとも、今私は、ガリアの獣牙族の代表としてここにいる」
「そうか。では、モゥディへは詫びねばな。……筋違いの恨み言を述べたと」
「恨み言?」
 レテが訊き返すのに合わせたように陽が翳る。ソーンバルケの長い前髪が影をつくる。
 それでなお、彼の眼光は鋭くレテの紫を貫いた。はっきりと口唇を動かして、言い切る。
「私は。お前をこそ、嫌悪する。思い上がった、ヒトのカタチをした獣を」
「どういう……ッ!!」
 意味だ、と言い終える暇もなかった。ソーンバルケは一息に間合いを詰め、吐息がかかるほどの距離でレテの顔を見下ろす。唖然として息を止めるレテを数秒見つめ、吐き捨てるように言う。
「鼻も利かぬか。猫の娘」
「――私はレテだ」
 レテはどうにかそう言い返した。圧力に負けぬように、両足を踏ん張って目を逸らさずに。
「私は先に名乗った。ならば覚えるのが筋というものではないのか、『ソーンバルケ』」
「そうか。では改めて、『レテ』」
 ソーンバルケは上体を引いた。顔と顔の距離が離れる。そして声と心の距離も。
「私は、お前のような者を、心の底から嫌悪する」
 雲が切れ、光が戻る。それを倦むように、ソーンバルケは姿を消した。
 美しい木漏れ陽の落ちる大理石の廊下。レテは追うことも憤慨することも出来ずに、揺れる葉の影を眺めていた。