雪の日の掌

「ええと……あなた、グレイル傭兵団の射手よね?」
 ミカヤの声に少年は振り向いた。揺れる若草色の髪。顔立ちは間近で見ると、思った以上に幼い。
「君は……」
 呟く声もまだ大人になりきらない感じがした。ミカヤは微笑みながら少年に近づいた。
「急に呼び止めてごめんなさい。わたしはミカヤ。暁の――」
「巫女、でしょ? 知ってるよ。デイン軍には散々お世話になったからね」
 少年は振り返った姿勢のまま、横目でミカヤを見ていた。深緑の瞳だけが他の部位にそぐわず老練に見える。ミカヤは口許に笑みを残したまま、眉尻を下げた。
「……暁の団に所属してる、と言おうとしただけなんだけど」
「そう。それならごめん」
 少年はようやくミカヤの正面を向いた。表情が和らいで、歳相応の顔に見える。ミカヤは小さく肩をすくめた。
「同じことだとは言わないのね」
 少年は苦笑して頷いた。何故か先程の刺々しさがもうない。
「解るよ。うちの団長も『将軍』って名乗るの、嫌がるんだ」
 親密さに満ちた口調。ミカヤは乾いた笑いを返した。
 つい先頃まで自分の前に立ちはだかっていた巨おおきな身体を思い出す。彼は『皇帝軍の将』ではなく『傭兵団の団長』を名乗っていた。そしてサザも、彼をずっと『団長』と呼んでいた。
 それはきっと、ミカヤが聞いたところで、心から理解することは出来ないこだわりなのだろう。
「ところで、何か用?」
 少年は小首を傾げた。どこか可愛げのある仕種だ。ミカヤの顔も自然、綻ぶ。
「ううん、大した用じゃないの。クリミア戦役のときに一緒に戦ったんでしょう? だからまた、サザのことよろしくねって……」
「そういうの」
 少年は顔の角度を変えなかった。だが瞳の色が一秒前と違う。凍てつかせるような鋭い目。
 サザと似ている――そう思って、戦場で見てからずっと気になっていた。
「嫌いだな。歳が近いから仲がいいとか、そういう勘違いってしてほしくない」
 この距離で見て初めて気付く。一見似ているが、真逆だ。サザの目を冷たい炎と呼ぶなら、少年の目は燃え立つ氷だった。ミカヤは息を呑んで、一歩後ずさる。
「……気に障ったのなら謝るわ。あなたはサザが嫌いなのね?」
「そうだろうね」
 少年は答えた。他人事のように気のない口調だった。
 ミカヤは頬にかかってきた銀色の髪を指で払い、耳にかける。
「解るけれど。あの子、ひとと馴染みにくい性格だから」
「君の他には何も要らないって態度だからね」
 少年は退屈そうに首の後ろをかいた。目を伏せかけていたミカヤは、その言葉に再び顔を上げ、少年を睨みつける。
「サザがわたしに依存してるって言ってるみたいね」
「そう聞こえたんだ?」
 少年に動じた様子はなかった。淡々と言う。
「みたいじゃなくて、現にそう言ったつもりだったんだけど」
 ミカヤは胸の辺りを握り締め、ついに俯いた。少年が見下ろしてくる気配がした。
「用がそれだけなら、僕はもう行くから」
 雪を踏む音。迷いのない足取りで歩み去ろうとする。
 このまま逃げてしまうことは簡単だったのだろう。きっと少年もミカヤを責めない。それでも。
 ミカヤは決然と顔を上げ、唐突に少年の服を掴んだ。少年が目を剥いて振り返る。その深緑の瞳を見据えながら、ミカヤは叫んだ。
「確かにわたしもサザも、お互いがいなくなるのをすごく恐がってる。けど、それはいけないこと? 大切な人を喪いたくないって思うことの、一体何がいけないの!」
 少年は黙っていた。ミカヤは手を離さない。
 数秒の後、少年は大きなため息をついた。首を左右に振り、呟く。
「何か誤解してない?」
「え?」
 少年が身体ごとミカヤを向いたので、ミカヤの手は自然少年の服から離れた。少年は、大袈裟に片手を腰に当ててみせる。
「僕だって大切な人を死なせたくないよ。だからこうして戦ってるんだ。かけがえのない人がいなくなっても平気な顔してろとか、そういうことを言ってるんじゃないんだよ?」
 ミカヤは相当に情けない顔をしていたようで、少年に笑われてしまった。けれどその微苦笑に邪気はなかった。
「人ってさ。いなくなっちゃ嫌だって泣いてくれる誰かがいないと、きっと生きられない。そんな気がするんだ。だから僕は一秒でも長く息をするし、大切な誰かにもしてもらう」
 何故だかとても泣きたくなった。
「……ごめんなさい」
「謝ることなんてないのに」
 少年は肩をすくめ、ミカヤに背を向けた。やはり行ってしまうのかと思ったが、その気配はなかった。
 ミカヤの顔を見ない為だったのか、自分の顔を見せたくなかったのかは、分からない。
「僕がもし死んでしまったとき、兄さん達が悲しんでくれたらそれはとても嬉しいけど。でも、僕のために立ち止まってほしくはないよ。重なるときはたくさんあるけど、僕の人生と兄さん達の人生は絶対に違うものだ。だから僕の人生が終わっても、兄さん達には自分の人生をちゃんと歩み続けてほしい。もしも逆の立場なら……二人は僕にそう望む筈だから」
 少年の声は震えていた。しかし背筋は伸びていた。
 力強く、空を見上げていた。
「僕は誰かの人生に頼らない。僕は僕の人生を生きて、僕の脚でこの大地に立つ。僕が大切な人達に、そう願うのと同じように」
 雪が降り出した。する筈のないしんしんという音が耳を突くようだった。
 ミカヤは前に踏み出した。少年の隣に立つ。驚いたようにこちらを見る少年に、白い息で笑いかけた。
「わたしはサザを死なせたくないわ。でもそれは、わたしの人生にあの子が必要だからじゃなくて。あの子自身に、生きていてほしいから。そうじゃないといけないわよね」
 少年は笑い返してくれた。頬が赤いのは寒いからかもしれなかった。
「僕、君となら友達になれそうな気がする」
「本当? 嬉しい。わたし、あなたと友達になりたいわ」
 ミカヤは右手を差し出しかけて、やめた。首を傾げる少年に苦笑する。
「ごめんなさい。あなたの名前、訊いてもいい?」
「あ、そうだね。まだ言ってなかったんだ、ごめん」
 少年は右手を真っ直ぐ前に伸ばした。にっこりと、天使のように――微笑む。
「グレイル傭兵団のヨファ。神の射手の弟子だよ」
 握り合う掌は少しだけ冷たくて、けれどとてもあたたかかった。