運命に訊け

「皮肉な巡り合わせだな」
 レテは、く、と喉を鳴らした。どうも人は追い詰められると笑い出したくなるらしい。
 ラグズ連合軍はベグニオンからの撤退を決意した。渡河作戦の途中、思いがけず立ち塞がったのは……見知った顔。
「初めて逢ったとき、私とお前は敵同士だった」
 レテは呟いた。目の前の、記憶の中より大人びた彼女が目を伏せる。
「ええ。それから私たちは仲間になった。けれど……」
 全く、悪い癖だ。変わっていない。甘すぎる。レテは笑みを消し、左脚を引いた。
「――感傷は邪魔だな。今は戦だ、戦うとしよう」
 ここまで言っても彼女の口から洩れるのは嘆きの言葉なのだから……本当に、仕様がない。
 逃れえぬ運命ならば、いっそ迷わずにいて欲しかった。
 息を吸う。
 私はこの道を進もう。それを拒むならお前とて押し退けて、私は進むことを選ぼう。
 だからさあ、武器を取れ。私も身体のかたちを変えよう。レテの輪郭が光にぼやけ出す。
 未だ柄に添えられたままの彼女の手が、妙に鮮やかに目の奥に焼きついた。
「待ってくれ!」
 今にも姿を変えようとした瞬間、彼女とは違う、青年のものらしき声が突如響いた。
 レテは化身をやめ、割り込んできた影を見る。
「サザか。お前も久しいな」
「サザ……!? 駄目、下がっていて! あなたはデインに必要な……」
 ジルが叫んだ。サザは首を横に振った。当然だろう。どう考えても下がっていた方がいいのはジルだ。
 サザは三年前から、仲間に対してどこか冷めていた。レテと交流があった訳でもなく、この戦いに迷う理由はない。覚悟の重さで量るなら、向かい合うべきなのはサザだ。
「降伏してくれ、レテ。あんたには戦況が見えてる筈だ」
 だがサザの口から出た言葉は意外なものだった。その言い様は彼に似ていた。
「降伏はしない。我らには命よりも大切なものがある」
 けれどサザは彼ではない。彼になら預けられるものも、サザには荷が勝ちすぎる。その手に触れさせるぐらいなら、自分で抱えて放すまい。
 だからそんな狼狽だって必要ないのに。
「何を言ってる……死んだらそれで終わりなんだぞ!?」
「黙れ! 終わりが何だ? 無為な生を繰るのなら、我らは自ら幕を引く。二度とベオクには服従しない!!」
 レテは激しい声で言い放った。サザは一瞬言葉に詰まったが、やはりジルよりは物分かりがいい。一つ息を吐くと、鋭い目で短剣を構えた。
「分かった。ならば他の奴に殺らせるより、せめて俺が」
「大層な口を利くなよ小僧」
 レテは目を細めた。暗闇の為に、瞳孔は開いている。
「その細腕で、よもや私を止められるとでも思っているのではあるまいな」
「この先に進むつもりなら……刺し違えてでも、止めるさ」
「身の程を知れ。貴様如き、私の前に壁はおろか盾にすらなりはせん」
 サザの柄を握る手が強くなる。爪が喰い込むのではないかと思う程、強く。
「この三年、俺だって遊んでいた訳じゃない……!」
「そんなことは見れば分かる。敵ながら良い戦士に育ったものだ」
 心よりの賞賛。レテは表情を一瞬だけ和らげた。だが直後の顔は今までのサザとのやり取りの中で、見せたことのない温度。
「だからその上で言っている。一人前になった以上――私に慈悲を期待するな」
 サザは短く息を吐いてぬかるんだ地を蹴った。呼吸が乱れている。この程度で動揺するとは、前言を撤回せねばならないか。レテは骨格を変えて姿勢を低くする。
(……速いな)
 次々に描き出される弧を見て素直にそう思う。だが、それだけだ。
 サザの動きは他のベオクに比べ変則的ではあるが、全く予想の出来ない範囲ではない。対異種族戦闘の経験に関しても、二度の戦争で最前線に居続けたレテとは比べるべくもない。
 自信、驕り。そうではない。厳然たる事実として。サザの勝利は、有り得ない。
 戦いの最中だというのに、レテはまた笑い出したい気分になっていた。
 そう。運命のなんと薄情なことか。『仲間』? 昨日まではそう思わせていたくせに。
 ただ一日を跨いだだけで、運命は嘲笑うように彼女らを『敵』と呼ばせるではないか。
 運命は容易く我らを裏切る。そんな運命を人々は呪う。
 だがその歪んだ運命に――我々は生きるしかないのだ。
 サザが短刀を投げつけてきた。取り出し構え投げる、その一連の動きを完全に捉えていたレテには当たらない。二度後ろに跳び距離を取る。
 長引かせても互いの益にならない。終わらせてしまおう。レテは吼えた。言葉の通じないサザにもその意味は通じたようだった。口唇を固く引き結ぶ。
 ではな。一撃で逝け。……その程度の慈悲は、かけてやる。
 レテが駆け出そうとした、瞬間。
「危ない、レテッ!!」
 ジルの叫びが鼓膜を震わせる。レテは後方に大きく跳躍した。河に身体が沈み激しい水飛沫が上がる。そのヴェール越しに見えたのは眩しすぎる光。
(ちッ――魔道士か!!)
 サザの後方に少女が立っていた。この暗闇の中、その銀色の髪は月影のようにも見える。
「……どうして撤退しないのですか?」
 容姿に釣り合わぬ落ち着いた態度。並みの魔道士でないことはすぐに分かった。
「このように卑劣な手を使う貴様らには解るまいて」
 レテは化身を解き、額に張り付く髪を後ろにかき上げた。どういう感情の発露なのか、少女の顔が歪む。
「何を言われても言い訳は出来ない」
「ああそうか。私とてそんなもの虫唾が走る。ただ我らはこの道を阻む者を排除する、それだけだ」
 少女は笑った――ように見えた。
「……退けないのは、わたしたちだって同じだわ」
 悲壮な、笑顔に似たものを顔に貼り付かせていた。表情の脆さとは比べようもない程、瞳だけがやけに強い意志を宿していた。
 レテは右手を真っ直ぐ前に伸ばし、指先を自分の方に、くっと曲げた。
「来るがいい。――相応の覚悟があるのなら」
 少女は動かなかった。武器を構えるサザを手で制し、目を閉じる。
 やがて力強く顔を上げ、叫んだ。
「全軍、攻撃停止ッ!!」

 

 その少女は【暁の巫女】と呼ばれるデインの将だった。実際に相対したレテには納得のいく正体だ。
 攻撃を中止させた彼女からはガリア軍への降伏勧告があった。ガリア軍はそれを呑まなかった。
 講和は、成らず。牽制し合ったまま、一時停戦という形でひとまずの決着がついた。
「ジル!」
 双方が撤退していく中、レテは飛び立ちかけた竜騎士に声をかけた。
「お前、敵に危険を教えてどうする。一歩間違えばお前自身が敵と見なされ得るんだぞ」
 嘆息する。ジルは一瞬何のことだか分からなかったようだが、すぐに合点がいったらしい。赤面して俯いた。
「あ! つ、つい……。ごめんなさい」
「……まぁいい」
 レテは苦笑して、肩をすくめた。
「助かった。ありがとう」
 ジルは顔を上げて微笑を返しかける。だがすぐに笑みを消して、いつかはあれほど澄んでいた深紅の瞳を曇らせた。絞り出すような声で、問う。
「レテ……。ねぇ、私たちは解り合えた筈じゃなかったの? どうしてなの。どうして、私たちは敵同士なの……?」
 レテの表情も色を失くした。
 どうして。どうして。何故。わたし、たちは。
 そうか。お前はそれを、私に尋ねるか。
 レテはふいと踵を返す。まだ濡れている身体が、冷めた声を発した。
「――運命に訊け」

 

「おっと」
 ぐらつきかけた身体を、ライの右腕が支えた。
 寒い。少しだけ全身を震わせて、すまん、とレテは呟いた。
「……情けない。覚悟は出来ていたつもりだったんだがな」
「いいんじゃないの?」
 ライの言葉はどこか軽かった。少しだけ首をもたげると、微笑する横顔が見えた。
「覚悟してることと平気でいることって、きっと同じじゃないよ」
 きっと重い覚悟のその上を、漂っている言葉なのだと感じた。
「そう、か」
 レテは瞳を伏せた。
「非力だな。我々は」
「だが無力じゃあないだろう」
 ライは彼女の顔を見ずに答えた。やはり軽い言葉、けれど、今度はただの薄っぺらい言葉。
「ふん。いっそ無力なら、抗えぬことを嘆いたりはしなかったろうにな」
 レテの嘲笑にライは最早何も言わなかった。
 辺りは暗い。喧騒はもう止んだのに。ああ、夜明けはまだ――遠い。