桜が咲いていた。風に薄紅の吹雪が舞う。
月並みではあるが、この毎年恒例の光景が、春という季節がカザハナは好きだ。
否、好きだった、という方が正しいのだろうか。今年はあまり心が躍らない。
シラサギ城からは満開の桜並木がよく見える。カザハナは目を伏せて、その景色に背を向けた。
『カザハナ』。『風の花』と文字だけ見れば一見華やかだが、その言葉の実は『晴天に吹き散らされる雪』である。カザハナは、白夜の明るい空の下でさえ凛と在れと、そう名付けられた。侍として、それが誇りでないはずがない。
しかし、『サクラ』――『桜』は違った。同じ『吹雪』という形容をされても、あのやわらかな花弁は、少しも冷たさを感じさせない。ぬくもりを持って、風と共に皆を包み込む。その名を冠する少女を、己が主と定めた少女を、カザハナは誰よりも敬愛していた。
サクラが産まれた季節。彼女が誰より輝くこの季節が、カザハナはずっと好きだったはずなのに。
今はずっと、胸が重いままだった。
「で、何であなたがここにいるの」
城門前まで呼び出されたカザハナは、不機嫌を隠しもせずに言い放った。ラズワルドはいつもの浮薄な笑みを引きつらせ、指先で頬をかいている。
「や、やだなぁカザハナ、顔こわいよ。せっかくかわいいのに台無し……」
「今そういうのいいから。質問に答えて」
腕組みだけで済ませてやっているのは慈悲である。他の相手なら、もうカザハナは鯉口を切っている。
えっと、とラズワルドは視線を彷徨わせた。桜の花びらが舞う空に。
「僕がっていうか、ルーナが。まだちゃんとツバキと話し合えてないみたいだったから……」
「それって、ときどき思わせぶりに話す『元の世界』のことで?」
「うっ」
カザハナの一撃に、彼は大袈裟に胸を押さえる。これでさえ決まり悪さをごまかす為の演技だと分かるようになってしまった今では、カザハナも追撃する気になれない。視線を外して嘆息した。
「ツバキが取り込んでるならあたしは外せない。あなたたちいつも三人で話してたんだから、どうせオーディンも来てるんでしょ。だったら案内はヒナタとかに頼んで。前に師匠とか呼んで懐いてたと思うし」
「えっ、でも僕は、カザハナと話したいなって思って訪ねてきたのに」
「ルーナがって、さっき自分で言ったんじゃない。別の女の子を口実に口説こうなんて、最低」
「違うよ! 待っ……ちょっと、カザハナ!」
ラズワルドの反論を聞くことなく、カザハナはきびすを返す。彼が勝手に入ることはかなわない、白夜王城の中へと引き返していく。
もう戦争は終わったのだ。ラズワルドの話など聞きたくはない。口唇をぐっと噛む。
聞きたくはない。この先の為の言葉――永遠の別離の挨拶など、決して。
「ルーナとの話はもう終わったの?」
シラサギ城の客間で呆けているツバキに声をかけると、あー、うん、と曖昧な返事が返ってくる。
向かいには誰も座っていない座布団と、中身のない湯呑。
カザハナは敢えて、剥き出しの畳に正座した。ツバキが、ちらと視線を寄越す。
「君は、ラズワルドと……」
「今はあたしが、ルーナとの話はどうだったか訊いてるんだけど?」
ぴしゃりと跳ねのければ、うん、そうだねとツバキは視線を落とした。
「オーディンと……ラズワルドは、旅立つ、ってさー。その話、俺にする為に白夜に来たって、言ってたなー……」
「指輪、渡せなかったの?」
我ながら抜き身すぎる言葉だと思ったが、カザハナは迂遠な物言いが苦手だった。つい最短で結果を急いてしまう。ツバキとはそのことで大分喧嘩もしたというのに。
ツバキは俯いていた。一つに結い上げた紅い髪は、彼が今想っている彼女とよく似ている。
「なんかね、この機に乗じてって感じで本当は、嫌だったんだけどさー。ルーナはあの性格だし、俺が何か言い渋ってるの勘付いたら、引かなくて……渡したんだー。求婚の作法としては、全然、完璧じゃなかったねー……」
「受け取ってくれたの?」
「うん……」
「じゃあよかったじゃない」
「……そうかなー」
カザハナとて、事態が己の口にしているほど単純でないことぐらいは承知している。ツバキも解ってくれているから、簡単に言うなと責めはしないのだろう。
だが、カザハナの顔は決して見ようとしなかった。誰もいないその席を、遠い目で見つめていた。
「ルーナは、行かないって言い張ってたけどさー。多分、無理、してると思うんだー……。だってさ、あんなに可愛がってくれたカミラ様や、ベルカのところならともかく……俺なんかが、知り合いも少ない白夜に、引き留めていいのかな、ってー……」
カザハナも下を向く。流石に、『行かないって言ってくれたならそれでいいじゃない』とは、言えなかった。
ルーナは答えを出したのだ。ツバキも悩みながら、それでも向き合おうとしている。この先は、逃げている自分が口出ししていい領分ではない。
「……ラズワルドのところ、行ってあげてー?」
ツバキはようやく顔を上げ、彼自身の為ではない笑みを、カザハナに向けた。
「どっちにするにしても、俺は、その前にルーナと話せてよかったって、思ってるからさー」
この期に及んで相棒に情けをかけられたことが、不満でなかったわけではないが。
器の違いに敬意を表し、わかったとカザハナは腰を上げた。
外に面した廊下に出ると、床板には幾片もの桜の花弁が落ちていた。カザハナはそれを踏まないように歩いていく。元々王都には桜が多いが、産まれ落ちた末姫がサクラと名付けられたとき、さらに増えたのだそうだ。
ふと中庭に視線を転じる。カゲロウとオーディンが灯篭のそばで話していた。オーディンにはあの形が珍しいらしく、顔を上気させて説明を求めている。カゲロウはゆったりとそれに応じているが、声までは聞こえない。耳に届くのはオーディンの言葉ばかりだ。
「なぁ、あれを描いてはもらえないか!? 最後の頼みだと思って!」
カザハナは眉をひそめてこめかみを押さえた。無邪気に餞をねだる調子が、ひどくこの奥に障る。
カゲロウは小さく頷いて、こちらに――建物の方に歩いてきた。カザハナに気付いて、形式的な礼をする。カザハナも礼節として頭を下げる。
「ラズワルドなら、西側の客間に通してある。サイゾウが相手をしているはずだが、別の者が来たら譲れとリョウマ様から言い含められているそうだ」
「あたし、何も訊いてないけど。一応ありがとう」
カザハナの大人げない対応にも、カゲロウはうっすら微笑んだだけで怒りはしなかった。いつもの、少し翳を含んだような表情のまま行き過ぎる。カザハナは、ぎりと奥歯を噛んだ。
オーディンは気付いているのだろうか? 今、能天気に庭を歩き回っている青年は? カゲロウが、先程日の下で見せていた華やぐ笑顔。あれを向けられた相手は、彼女が身を捧げる白夜にとて、これまで一人もいなかったことに。
「あ! なぁ、カザハ――」
自分に気付いて駆け寄ってこようとするオーディンを無視し、カザハナは言われた部屋に急いだ。置いて行こうと決めた男と話すことなど何もない。
だから、ラズワルドとの話も、すぐに終わる。
「で、なんなの」
障子を開けると、ラズワルドはうろたえた様子で、カザハナぁと情けない声を出した。
「ど、どういうことなの。サイゾウが話の途中でいきなり消えちゃって……そしたらそこのドア」
「ドアじゃない」
「なんかとにかくその、扉? 開けて君が入ってくるし、これが白夜のカラクリヤシキってやつなの? 僕ちょっとついていけない」
空の座布団の位置は、ちょうどツバキがいたのと同じ下座。あの忍は、命令を遂行するにしても、もう少し上手くやれないものなのだろうか。
カザハナは嘆息し、落ち着きのないラズワルドを再度促す。彼はまだ少し周囲を窺いながら、小声で言った。
「と、とりあえず座らない? お客の僕が言うのも何だけどさ」
深い意味はなかったろうに。その、『お客』という言い草が無性に癪だった。
カザハナは殊更粗暴に障子を閉め、まだあたたかい座布団に正座する。
「あなたもあたしを置いて行くんでしょう?」
「え?」
間抜けに聞き返されて、カザハナもそれが失態であったと気付く。
ラズワルドは、カザハナと話がしたいと言っただけだ。それなのに、これではまるで。
「忘れて。違うね、あなたはあたしにさよならの挨拶をしに来ただけ。サイゾウにそうしたのと同じように」
「カザハナ。待って、なんか今日の君、おかしいよ。どうして僕の話、ちゃんと聞いてくれないの」
ラズワルドは固い声で言いながら、また腰を浮かせかけた。
この時季はもう火の入っていない囲炉裏が、二人の間に見えない壁を築く。カザハナはその透明な隔たり越しに彼を見る。
「そんなの今に始まったことじゃないわ。いつだってあたしは、あなたの話を黙って遮ってきた」
「そんなことない! 今まで君は、断るときだってはっきりと自分の言葉を口にしてくれてた! 無視したことなんて、一度もなかったじゃないか!!」
ラズワルドの表情は激しかった。そんな顔もするのかと、カザハナは膝立ちになった彼を、やけに冷静な思いで見上げていた。
笑顔が好きな彼の。笑顔を振りまくことで、周囲を笑顔にする彼の。そのあたたかな色を今塗り潰したのは、明らかにカザハナの心無い言葉なのだ。
ならば。カザハナは息を吸う。
「あなたは、あたしに声なんかかけるべきじゃなかったんだよ」
ラズワルドが口許を強張らせる。
だってほら、とカザハナは小さく、自身の口唇の端を引き上げる。意図的に。
「『笑って終わりたい』なら、あたしじゃない子に声をかけるべきだった。あたしには斬りつけることしか出来ない。着飾ることも、綺麗に笑って見送ることも、出来ないの」
「カザハナ、何言ってるの。僕はそんなこと言いに来たんじゃ……!」
「ラズワルド」
カザハナは静かに、彼の台詞を拒んだ。
こちらにも責はあるのだ。あのとき、少し鍛錬の手を止めて彼の話に耳を傾けてしまった。その未熟の報いが今の気持ちなのだとしたら。
清算するより、他にない。
「これ、返すから。今までありがとう」
カザハナは巾着から出したものを、そっとラズワルドの方に押しやった。
桜色の口紅。彼に渡されて、一度だけの約束でつけてやったら、とても喜んでくれたもの。
「あたしはサクラ様のところへ戻るね。それじゃあ」
立ち上がり、カザハナは入ってきた障子とは別の、室内に繋がる襖を開けようとした。だが腕は半分しか上がらなかった。
理由は至極単純。ラズワルドに後ろから抱きすくめられていたから。
「……放してよ」
「少しだけ、待って」
嫌だと彼は言わなかった。震える指で、置かれたばかりの口紅を、もう一度カザハナの手に握り込ませる。
「迷惑なら、捨てていいから。僕の知らないところでどうしてくれてもいいから」
いつも強引な理屈で、カザハナを振り回してきた青年は。同じ人間とは思えないほど弱い声で呟いて、そっと、その両腕から力を抜いた。
「僕の手に、君がつけてくれたそれを持たせないで。……お願いだから」
カザハナは黙って襖を開け、部屋を出た。振り向かなかった。噛み締めた飾らない口唇から、じくりと血の味がする。
あの太陽のような笑顔が、今どんな風に陰っているのか。自分はどんな色を塗りつけてしまったのか。確かめる勇気がどうしても――出なかった。
「カザハナさん! ほら、早くしないと置いてっちゃいますよ」
「サクラ、なんでそんな元気なの……」
あの後、主の元に参ったカザハナは、何故か突然『よく遊んだ山に行きましょう』と連れ出された。幼い頃はカザハナが手を引いて歩いた場所なのに、今はサクラが先導している。
サクラは顔を上気させ、目に見えて上機嫌だった。鼻歌交じりに、山道を行く。すぐに息切れして、まってくださいと必死に訴えていた少女は、もういないのだ。カザハナは目に入る陽射しを片腕で避けながら主に付き従う。
やがて、わぁ、と歓声を上げ、サクラが足を止めた。片手を添えているのは山桜だ。王都に植えられたものより盛りが遅く、まだ四分ほどしか咲いていない。
「覚えてますか、この木。一緒に登って……落っこちましたよね」
「うん、覚えてる。当たり前だよ」
カザハナも追いついて、苦笑しながら幹に触れた。生き物のように明確に脈動を感じ取れるわけではないが、あの頃と同じように生きていると、それだけはとてもよく分かる。
春特有の青い匂いが駆け抜ける。
「カザハナさん。私、結婚するんです」
その薫りに乗せるように、サクラは静かに言った。薄紅の髪は鮮やかに風をはらんでいた。
突然の宣言に言葉を失うカザハナへ、彼女はなおも重大なことを、淡々と告げる。
「だから、あなたとツバキさんの任は、一度解かないといけません」
「待って……いえ、待ってください、サクラ様。そんな、急に」
うららかな木漏れ陽は、伏し目がちなサクラの色を半分影に見せる。
サクラは待たなかった。しっかりと、はっきりと問う。
「あなたは、私についてきてくれますか?」
「そんなの――」
カザハナは、答えようとした。
分かりきったことだ。今までずっとそうしてきた。サクラを守る為に生きてきた。だからこれからもそうして生きていく。迷うまでもない。
それならどうして、言いきれず言葉を失ってしまったのか。
サクラは影を出て、小さく笑う。
「わかってます。決まってるって、思ったでしょう? わかっていて、そういう訊き方をしたんです。カザハナさんならきっとこう言ってくれるはずだって。ずるいですよね、私」
サクラが背を向けて。足が、一歩前に出て。主の背が、ほんの少し、遠ざかる。
カザハナは追えなかった。膝から下が動かない。手を伸ばしたけれど、触れられなかった。
優しい声だけが、耳に届いていた。
「ラズワルドさんにいただいた、あの口紅。今も持っていますよね?」
カザハナは、主に伸ばしていた手を、無意識に自分の懐に戻した。そこには、ラズワルドから『捨ててくれ』と頼まれた口紅が入っている。
サクラはくるりと振り向いて、珍しくいたずらげに肩をすくめた。
「主としての命令と。お友達としてのお願いと。どちらなら、あなたはつけてくれますか?」
「……ホント、サクラはずるい」
カザハナもようやく笑い方を思い出し、サクラを見つめ返す。
よく知っている、ずっと傍にいた、守り続けてきた少女の顔を。
「そんなの、どっちだってあたしは、言うこと聞くしかないじゃない」
そうですか、とサクラはまた珍しく、小さく舌を出した。そんな風におどけることは、本来カザハナの役目だったのに。
サクラは細い指で、カザハナの口唇に紅を塗ってくれた。そのまま、出来ましたよ、と手鏡で仕上がりを見せてくる。カザハナが自分でやってみたときよりも、ずっと綺麗に整っていた。
サクラは鏡を持ったまま、カザハナをそっと抱きしめてくる。やわらかな花の匂いがした。
「やっぱり、『今のあなた』には、その方が似合いますね」
「サクラ……?」
カザハナは抱き返していいのか分からずに、ただ両手を宙で彷徨わせる。
サクラは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、ゆっくりと、言葉を紡いで。
「もう『あなた』は、私の臣下では、ないんですよね。知っていたのに、最後にいじわるを言ってしまって、ごめんなさい」
「そんな、サクラは何もいじわるなことなんて……!」
「カザハナさん、私、お嫁に行くんです」
「それはさっきも」
「だったら」
身を起こし、サクラはカザハナの目を正面から真っ直ぐに、見据えた。カザハナの好きな、凛とした主の瞳だった。
紅など引かずとも薄赤い、健康的な口唇が告げる。
「言えないじゃないですか。――私は好きなひとのところへ行くのに。あなたには、そうしてほしくないなんて」
ああ、とカザハナは目を閉じた。やはりサクラには勝てない。
全て解ってしまった。一見唐突で脈絡のないように見えた、サクラの言動。自分の本音。何もかも、清流のように沁み込んできてしまった。
サクラのやわらかな手が、カザハナの両頬に触れる。ぬくもりが肌を伝う。
「好き、なんですよね。ラズワルドさんのこと」
「……うん」
この期に及んで、意地を張る必要も、武装する必要もなかった。
もう全て取り払われてしまったから。痛みも、熱も、涙にしか出来ない。
「でも、言えないよ。あのひとはもう、『ラズワルド』じゃなくなるはずだもの」
「じゃああなたも、『カザハナ』さんを、私にください。『あなた』だけが旅立つ為に」
サクラの細い指がその雫を拭って。追いつかずに、頬を寄せる。サクラの肌は濡れていなかった。こんなとき、泣き出すのはいつもサクラの方だったのに。
今はただ優しいばかりの声で、カザハナの髪を撫でる。
「それで代わりに、もらってください。彼がくれた色と同じ、この名前を。桜を」
「それは……最後の命令?」
カザハナがなけなしの強がりで笑うと、いいえ、とサクラも笑った。何の気負いもなく。
「これはただのお願いです。命令は、今からさせてもらいますね」
サクラは腕を離し、小走りで少し高いところに立った。
傾きかけた陽は逆光に彼女を照らし、カザハナは眩しくて目を細める。
花薫る風の中で、薄紅の吹雪を負いながら、彼女は厳かに最後の命を発した。
「生きて、ください。あなたがこれまでを生きてきた意味でなく、これからを生きていく意味になる、本当に大切な人の傍で。いつまでも笑って咲いていてください」
カザハナが身命を賭した主はそう宣言し。
カザハナが一緒に歩んできた親友は、ここで初めて、目頭をわずかに光らせる。
「どこへ行っても、ずっと、大好きです。カザハナさん」
「……あたしも」
カザハナは踏み出した。跪く為でなく、同じ高さで彼女に答える為に。
両腕を伸ばし、ぎゅっとぎゅっと、今までのどんなときよりも強く抱き締める。
「大好き。どこへ行っても、ずっと、一緒だよ。サクラ」
「はい」
はい、と何度もサクラが繰り返して。
風花は舞い散ることをやめ、桜はその一枝を、親友に譲り渡した。
「あ、やっと見つけた! どこ行ってたのよ!!」
城に戻ったカザハナに向けて怒鳴ったのは、ルーナだった。目も鼻も真っ赤に腫らして詰め寄ってくる。
「行くなら早くしなさいよ、踊る方のバカが急に『出発を早めたい』とか言い出して、叫ぶ方のバカも『別にいい』とか軽々しく言うから、もう出てっちゃうとこよ!」
「え、じゃあ、ルーナは……?」
「あたしはここに残るの、だからツバキのこともサクラ王女のことも気にしなくていいし、あんたは自分のしたいようにして!」
したいように、と言う割に、ルーナが望んでいる答えは一つだけのようだった。
サクラが笑顔で促す。カザハナも、ありがとうと二人に告げて駆け出そうとする。
「……任されたから。頼んだわよ」
すれ違いざまに発せられた呟きこそが、『彼女』の本音だったのだと。
そう解ったから、もう振り向かなかった。
そうだ。ラズワルドが、カザハナに声をかけたのではない。
先に声をかけたのは自分だったのだ。ちらちらとこちらを窺っていた、軟派なくせに奥手な青年。踏み込んでしまったのは自分が先だった。だから。
今度は自分が追いかける。この足で追いかけて、この目で探し当てて、また、同じように声をかける。
「ラズワルド!」
何度でも、彼を呼んで、『見ていないふり』を、やめさせよう。
シラサギ城の門を出たばかりの彼は、カザハナの声に気付いて振り向いた。もう少し先にいたオーディンも、不思議そうに足を止めている。
「カザハナ、どうして……」
「連れて行って!」
息も言葉も整わなかった。けれどいい。もう要らないものは置いて行くから。
本当に大切なことだけ、あなたにあげたい。
「ラズワルド。あたし、あたしもう、『カザハナ』じゃなくなってもいいから。この口紅も、なくなるまでずっとつけていく。だから」
ラズワルド。あたしはこの名前でしかあなたを呼べない。なんて、なんてもどかしい。
あたしはまだ『カザハナ』だから、『ラズワルド』しか知らないんだ。それでも。
「『あなた』と、一緒にいきたい! だから――!!」
『あなた』の名前を、『あたし』に教えて。
冷たい雪から、あたたかな花になったあたしに。
どうか、この先の『あなた』を示す、本当の名前を。
「僕は――」
彼は、穏やかに微笑んで。風花も桜も受け入れる、空の色の名を口にした。
「僕を選んでくれて、ありがとう。君のこと、本当に、本当に、大好きだよ」
「うん。あたしも、あなたが大好き。この色をくれた、あなたのことが」
何度も伸ばされていたけれど、初めて触れる手。そこに彼女も、訓練しか知らなかった己の手を重ね。
「こんなときでも、『彼女』の話なんだ。……僕、ちょっと妬いちゃうな」
「それも含めて、これからも大事にしてくれるんでしょう?」
「もちろんだよ。ずっと、君が笑っていられるように、一緒に生きよう」
『漆黒の寵児』も、少し離れたところで鼻をすすりながら笑っていて。
二人は、手を繋いで歩き出す。
歴史からかき消えた花の名前は、もう彼女の親友しか知らない。