リンドウの花が枯れる前には

「ねぇ少しは下心もあったのよ、あなたのもとに来ればあの子とも離れずに済むんじゃないかって。まさか透魔王国を再建させて、王様になるだなんて……ヒノカ王女もお嫁に行ってしまうし、ああつまらないわ」
 白夜王妃カミラは、寝室の窓辺で聞こえよがしに嘆息した。
 湯上がりに上気したうなじを浴衣の襟から覗かせて、豊かな藤色の髪は後頭部にまとめてある。正座に慣れぬ身にはつらかろうとリョウマが用意した籐の椅子で脚を組み――和服でそれをやると裾がはだけるからやめろと、再三言っているのだが――どこで手に入れたのだかリンドウの柄の美しい扇子で、ほてった身を冷ましている。
 畳にあぐらをかいていたリョウマは眉をひそめ、妻を見上げる。確かに、即位以後、寝所にまで公務の書類を持ち込んでいるのは悪いと思う。それにタクミを除くきょうだいがごっそりシラサギ城から消えることも、暗夜と白夜の空が入れ替わったあの日、全ての変化を受け入れるつもりで渓谷から飛び降りたリョウマだとて想像だにしなかった。カミラの誤算は、少なからずリョウマの誤算でもある。
 度々口にされるこの愚痴を叱らないのは、他にも理由がある。
 カミラが本気で不満をたれているわけではないと……そうならいっそ楽かもしれないのに、解っているからだ。カミラはリョウマの反応を見て楽しんでいる。無理難題をふっかけて、右往左往するのを期待している。そうでなければ、あんなにこちらを見つめてにやついているはずがない。
「でも、あまり我が侭を言っても仕方ないわよね。ごめんなさいね旦那様?」
 遊ばれている。試されている。なればこそ、このままにしておくわけにはいかない。何らかの対策を講じなければ――。背を向け眠る妻と同衾しながら、リョウマは一睡もせず考えをめぐらせたが、妙案は出ない。
 そして夜が明けるや否や、信頼を寄せる男たちを城の片隅の小さな部屋に呼び寄せた。
「内々のお話とは、一体どうなさったのです?」
「何でもご命じください。必ずや完遂してご覧に入れましょう」
 ユキムラとサイゾウだった。
 朝でも薄暗い一室。真昼にならないと光の当たらない埃くさい場所で、男三人頭を突き合わせている。自分で招いた状況とはいえむさ苦しいものだ。
「実は、カミラがどうにもつれないので困っている」
 情けない自覚はありつつ、もはや独力ではどうにもならない。搾り出すようなリョウマの声に、やはり二人ははぁと肩透かしを食らったような声で答えた。
「王妃様は暗夜王家の出とは思えぬほど、白夜の民にもお優しく接してくださいますが……確かに、王には心なし素っ気なくしておられますね」
 ユキムラがずり落ちた眼鏡を直すと、サイゾウが身を乗り出す。
「心なしだと? 貴様の目は硝子越しでも節穴か。あの女は完全にリョウマ様を小馬鹿にしているぞ」
「いけませんよ、王妃様を『あの女』などと……仮にもリョウマ様がお選びになった方なのですから」
 諌めるユキムラもユキムラで微妙に失礼である。しかしリョウマの女を見る目で揉めている場合ではない。
 リョウマは腕組みをして、痛む頭に耐える。
「妹ほど歳の離れた女性(にょしょう)ではないのでな。ヒノカやサクラにやっていたような方法では通用せんのだ」
「と、おっしゃいますと、小物の類を贈られるようなことですか。見慣れませんでしょうからお喜びになるのでは?」
 ユキムラは至極真っ当なことを言っていた。だがリョウマはゆっくりと首を横に振る。
「あれは侍女を懐柔しているらしく、大抵のものは自分で手配してしまう。昨日も俺は贈った覚えがないのに扇子を使っていたし、簪はサクラとヒノカとアクアがそれぞれ嫁入り前に渡していった三本を順繰りにつけて、着物はオボロと渡りをつけたようで気付くと増えている有様だ。どうやら公費ではなく、婚礼に際して兄殿に渡された自分の金子でやりくりしているようだから、俺の方も止める筋合いがなくてな」
「暗夜王は身内に甘すぎますな! あれだけ白夜に迷惑をかけておいてしゃあしゃあと……」
「サイゾウ」
 リョウマは名を呼ぶだけで臣下を止めた。彼は熱心な男だが、忍としては感情が前に出すぎる。
「マークス王はそのことを自覚している。カミラの自由になる金を持たせたのは、なにも妹かわいやだけではない。白夜国民の税を楽しみで使い尽くすなという、戒めでもあるのだ。カミラも兄殿に示された範囲を超える遊びはしていない。だから俺が止めるのも道理ではないと言っている」
「……は。出過ぎたことを」
 サイゾウは深々と低頭した。本当に、悪い臣ではないのだが。リョウマは二重の意味で嘆息した。
 ユキムラが愛想笑いで場をとりなそうとしてくる。
「で、では手作りのものなどいかがです? リョウマ様御自ら作られたものならば、いくら銭を積んでも他では得られませんし。簡単な絡繰でしたら、私でもご指南できますが……」
「おい貴様なんてことを言うのだユキムラ、弁えろ!!」
 サイゾウが血相変えて怒鳴った。自分で断った方がまだしもだなと思いつつ、リョウマを想って言ってくれたことなので怒るに怒れない。やがて、察したユキムラが平謝りしてきた。それはそれで少し傷つく。
 リョウマは細かい作業が苦手である。初めて紙で鶴を折った日、幼いサクラが、いやぁおばけと言って泣き出したこと……今でこそ笑い話だが、当時のリョウマは表にこそ出さなかったものの随分落ち込んだ。
 あの頃より器用になってはいるだろうが、ものを作ることへの苦手意識はどうも抜けない。
「――面目次第もございません、リョウマ様。やはり我々では、発想に限界があるようで」
 ユキムラが、そのまま腹でも切り出しそうな面持ちで俯いた。
「三人寄ればと申しましても、やはり我ら二人には細君がおりませんもので……!!」
 サイゾウも渋い顔で下を向いて、まるで通夜だ。
 そう。ユキムラもサイゾウも、妻はおろか、いいひともいない独り者なのであった。そんなことはリョウマも重々承知だが、他にこんな情けない相談ができるような者もない。と、サイゾウがぱっと顔を上げた。
「タクミ様は? タクミ様には奥方がおられますし、もっと実のある助言をいただけるのでは?」
「あー……その」
 今度はユキムラが言いよどみながらサイゾウを止める番だった。ただし、彼の口からずばり理由は言えないし、サイゾウははっきり言われないと引き下がらないだろう。リョウマは、言いたくはないのだが億劫な口を開く。
「……カミラは、タクミのこともかなり気に入っているのだ」
「はぁ。王家円満でよろしいのでは」
「つまり、タクミに意見を仰ぐと、実行者ではなく立案者のタクミをべた褒めする方向にいくであろうということで、それはそれで評価としては正当なのだが本末転倒というか」
「よろしくないですな」
 サイゾウもようやく解ってくれたようだった。返す返すもみっともない話である。
 ひとまずこれで詰みだった。黙り込む臣下二人を前に、リョウマは覚悟を決め立ち上がる。
「すまんな、二人とも。そもそも人に頼ろうとか、物で釣ろうとかいう考えが浅はかだった。俺には行動で示す方が性に合っている」
「と……」
「……おっしゃいますと?」
 リョウマを見上げる二人の視線は、いかにも心配そうだ。安心しろと口にはせずに頷く。
 だが二人の顔は全く不安げなままなのだった。

 

 翌日は、見事な秋晴れであった。
 シラサギ城の離れの茶室も、風情を増そうというもの。
「おや」
 カゲロウは入ってきて、リョウマの顔を見るなり目を丸くした。
「今日はまた珍しい御仁がおられるな」
「まぁな」
 リョウマは短く答える。カゲロウが隣の末席に腰を下ろしてから、説明を再開した。
「今日、ここでカミラも交えた茶会が開かれると聞いた。どんなものかと気になったのだ」
「はぁ、それでお召し替えまでなさって」
 リョウマは普段の衣装ではなく、淡い青磁色の着流しを身にまとっている。格式高い茶会なら袴を合わせるところだが、今日は正客でなし、あまりカミラたちを萎縮させても悪いと軽い服装にした。
「ご公務は?」
「その分手早く飯を食った。まぁ終わらなんだから、寝るのもいつもより遅くなろうが」
「奥方想いであられるのか、はたまたその逆なのか、よく分からぬな」
 カゲロウはくすくすと笑った。こんなに努力しているのに、何故逆と疑われなくてはならないのかリョウマには解らない。
 やがてオボロが入ってきて、カゲロウより大袈裟に声を上げた。
「りょ、リョウマ様!? どうなさったんです?」
「今日の次客はオボロか、頼もしいな」
「まことその通りで」
「そ、それはどうも……じゃない! ああもうリョウマ様、いらっしゃるならもっと奥の方にお座りになってください、カゲロウもなんで何も言わないの!」
 オボロが慌てて上座を勧めてくるが、無用とリョウマは首を振る。
「今日の主客はカミラなのだろう? 俺は端で見学させてもらえればいい。一番末にいるほど気が利かんから、この位置がちょうどいいのだ」
「左様。雑務はこのカゲロウが引き受けるゆえ、リョウマ様はお寛ぎ召されよ」
「そういう問題じゃないでしょ!!」
 オボロは顔を真っ赤にして怒鳴った。そう怒っては綺麗なあつらえが台無しだぞとリョウマが指摘すると一瞬真顔になり、襟や袖や裾を確認してから、またがっと口を開く。
「リョウマ様は、この白夜王国の王陛下でいらっしゃるんですよ!? こんな――」
「――ええ、こんなところで遊んでいていいはずないわよね」
 足元からぞわりと這い上がるような冷たい声。背後で囁かれたオボロが悲劇か、その慈悲の消えた瞳を見てしまったリョウマとカゲロウが悲劇か。
 カミラは茶室の入り口に立ち、リョウマたち……というかリョウマを見下ろしている。葡萄鼠の色無地と、乳白色に藍や紫紺で花模様を織った帯を合わせ、結い上げた髪には、アクアが贈ったという簪。青から水色にうっすらと変わる濃淡の房が、藤色の波間に美しく揺れているのに。
「象みたいな図体のひとがいて随分邪魔ね。オボロ、カゲロウ、どかしてくれる?」
 カミラの声はどう聞いても、可憐ではないのだった。リョウマは腰を浮かせてカミラに反論を試みる。
「古くから偉大な茶人には男も多くいるものだぞ、俺がここにいたとて別段不思議でもなかろう」
「でも私は女の子とお茶をする気で来たの。あなたがいるなら部屋に戻るわ」
 カミラは淡々と返した。台詞は感情的なのに、心は閉じてしまっているから、この状態のカミラは正直手がつけられない。待て、とリョウマはとりあえずそれだけ言って引き止める。
「気にせず茶を楽しんでくれ。俺はいないものとして扱ってくれていい」
「そう」
 カミラは殊更緩慢に口唇の端を持ち上げた。だが、許してくれたとリョウマが勘違いした、その刹那。
「いないことにしていいぐらいなら、本当にいないで頂戴」
 ――襟首掴んで茶室から放り出された。
 カゲロウがひょいと顔を出す。
「またこれは勢いよく。ご無事か、リョウマ様」
「ああ、一応はな……」
 身体はこれしきでどうということはないが……。カミラは顔を見せず、声だけで追加分を浴びせてくる。
「お華の席にも来ないでね。とげとげしているのは剣山だけで充分だわ」
 癖の強いリョウマの剛毛のことを言っているのだろうが、刺々しいのはむしろカミラの態度である。リョウマはため息をついて立ち上がった。
「……わかった」
 カミラが女だけの空間を好むのは、今に始まったことではない。同じ世界にいれば少しは心も通じるかと思っていたが、無粋だったようだ。
 痛む側頭部を押さえながら、リョウマは下駄を鳴らして茶室から離れていった。この時間分も公務は滞った。茶会に頭から終わりまで同席するよりは短く済んだが、その方が余程疲れなかっただろう。
 シノノメがキサラギたちと大騒ぎして、タクミにまとめて叱られているのが聞こえる。
 ふと転じた視線の先に、鮮やかな芙蓉の花。
「花、か……」
 諦めの悪さでは右に出る者はいないと、親きょうだいにも揶揄されたリョウマである。このまま引き下がれない。カミラは息子のことは可愛がっているようだが、両親がこの様ではシノノメの教育にもよくないだろう。
 妻のために出来ること、思いつくことは全てやる。やり尽くしたと思っても、きっとリョウマは次手を探し続ける。だから、こんなところで立ち止まってはいられないのだ。
 大きく頷き、早足で執務室に戻った。今夜こそ、カミラを待たせないように引き上げねば。
 そう思ったが、短縮できた時間はわずか小半時ほどであった。
「なぁカミラ。明日の朝、騎竜で共に出かけないか」
 寝所で髪を梳るカミラに、リョウマは問う。笑いながら怒る彼女にしては珍しく、カミラは不機嫌を表に出して振り返った。昼の茶会の件が尾を引いているのだろう。
「露骨なご機嫌取りね。芸のないこと」
「何と言われても構わん。芸達者が好みなら俺と結婚などしなかったはずだ、違うか?」
 リョウマが強気に出ると、ふいとカミラは鏡台に向き直る。けれど夜灯りに照る平面に、カミラの表情はすっかり映っているし、目を逸らしたように見えても、背後で腕組みをして立つリョウマの顔も本当は認識しているのだろう。
 ミコトの遺した一面鏡。どうするべきかとユキムラに相談したとき、心中では――独り身で仕事にかまけて髪もはね無精ひげの彼に、真実必要であるかは別にして――リョウマはそのまま彼にくれてやろうと思っていたのだが、王妃様にお譲りなさいませとやんわり線を引かれて、両親の使っていた寝所に置いたままにした。
 カミラはどう思っているのか聞いたことがないが、黙ってそれを使っている。欅の立派な化粧台に、これだけは暗夜のものでないと駄目、私は量が多くて癖毛だからと、嫁ぐときにも持ってきた、獣毛の黒いブラシがことんと置かれた。
「行ってもいいわ」
 カミラの引いたちりめんがばさりと二人の姿を隠す。
 ミコトの縫った、鏡を覆う布。埃除けだと教わったが、もしかしたら姿の映るものに透魔を感じてつらかったのかもしれない。今となってはミコトの気持ちは分からないし、もう背中しか見えないカミラの気持ちも、分からない。
「ただ、長くかかるなら出る前にお弁当を作る時間ぐらい頂戴。その分早起きはするから」
「分かった」
 カミラはリョウマの返事を聞いたのかどうか、するりと布団に潜り込んだ。ということはカミラの手料理が食べられるのか、それは楽しみだとリョウマは考えたが、今更口にするのも間が抜けているのでやめた。
 シノノメが生まれて以後、一度も深く触れたことのない肢体を見ないように、背中合わせに同じ布団に入る。
 寝息は互いに、狐か狸だった。

 

「それで、ここから先はどっちへ行けばいいの?」
「巽だ」
「分かるように言って」
「……南東」
 早朝の上空は、空気が冷たくて心地がよい。よく晴れて、高い山の向こうに霞や雲がうっすら見えるような陽気だった。
 自分では飛行動物を操れないリョウマは、カミラの騎竜に乗せてもらって、ある場所までの案内をしていた。
「ああ、そこだ。その岩壁を越えたところだ」
「こんな荒れた岩山に、一体何の用があって――」
 愚痴りながら手綱を引いたカミラが、言葉を失う。そこの景色が見えたのだろう。
 カミラの後ろに座っていたリョウマは、彼女の肩につかまる指に少しだけ力を込めて笑う。
「――お前たち風に言うのなら、『秘密の花園』というところだな」
 岩山の一区画、ほぼ円形にくぼんだ場所がある。
 風が種を運んだのか、空中庭園のようにそこだけ花畑が広がっているのだった。
「すごいわ、一面の青紫……!」
「確かタクミが調べて、竜胆(りんどう)の仲間ではないかと言っていた気がするが」
エンツィアン(りんどう)って、普通は群生しないものよ。ああ、綺麗ね」
「別に近づいても噛み付きはしない。そんなに気に入ったなら、もっと傍で見よう」
「ええ、ええそうね。そうする」
 カミラは上ずった声で言い、暗夜の貴婦人がスカートを持ち上げて礼するように、ふわりとリンドウ畑に降り立った。
「本当に素敵。こんな場所、どうやって知ったの?」
 カミラは陶然としている。リョウマは腕組みをして見回しながら、さてリンドウの花はこんなに背が低かったろうかと考えていた。
「ヒノカが天馬の特訓中に迷って、偶然見つけてな」
 ヒノカは大急ぎで城に戻って、リョウマを連れてきたのだ。その後ユウギリに頼んでタクミもサクラも運んでもらい、みんなで遊んだ。
 カミラは少し口を尖らせて、両手でぺちとリョウマの顔を挟む。
「何か叩かれるようなことを?」
 困惑して問うと、そうねとカミラはぶっきらぼうに答えた。
「私だったらそんな思い出の場所に他の女を連れ込まれたら腹が立つから、ヒノカ王女の代わりに怒っただけよ」
「そうか。それは無粋なことをした」
 リョウマが神妙に謝ると、カミラは眉を下げて小さく笑った。両腕を開き、一歩下がりながらくるりと回る。
「ねぇ少し歩いてきていいかしら。トコノマに活けるお花を見繕いたいわ」
「ああ。足場の悪い場所もあるから、気をつけろよ」
「大丈夫よ、暗夜の方が余程足場が悪かったから」
 踊るように遠ざかるカミラ。リョウマは嘆息し、岩陰に腰を下ろした。
 ぷつり、と手近なリンドウを折る。
 ――リンドウの花は縮んでいない。ただ単に、自分の目線が変わっただけだ。かつてはこんな高さで、この青紫の中を駆けていた。リョウマとヒノカは追いかけっこをして、タクミはそれに巻き込まれつつもこの場所自体の神秘に興味津々、サクラは交ざろうとして、途中でユウギリの膝を借りてうとうとと眠ってしまうのが常だった。
 ここで隠れて遊ぶことをやめたのは、ユウギリの金鵄に末二人を乗せることがいい加減苦しくなったのが先だったか、それぞれが複雑な時期に差し掛かるのが先だったか。
 とにかく、ここのことは誰からともなく、口にするのをやめてしまった。
 ぷつり、ぷつり。
 そうして、いくつのリンドウを折ったことだろう。
 カミラが穏やかな微笑を浮かべて戻ってきた。久しく見なかった、まるで目の前のリンドウのように可憐な笑み。
「何をしていたの?」
「何でもない」
 リョウマはさりげなく、摘み取ったリンドウを後ろ手に回した。
「収穫はどうだ?」
「ええ、上々。――これなんてどう?」
 カミラは一輪のリンドウを差し出してきたが、向きがおかしい。茎をリョウマに向けている。受け取れということかと思って手を伸ばすと、カミラの手はそれをすり抜けて、リョウマの耳元にリンドウを差した。
 絶句するリョウマの前で、カミラはしゃがんで頬杖をつく。
「ふふ、かわいい」
「……からかうな」
 リョウマが花を取ろうとすると、しなやかな手がそれを拒んだ。カミラは、息がかかるほど身を寄せて、取らないで、と囁いた。
「その花、暗夜ではどんな花言葉を持っているか知っていて?」
「さぁ」
「『悲しみに暮れている貴方を愛する』」
 震える声で告げられた一文。それが本当に暗夜でこの花がまとう意味なのか、カミラの気まぐれな嘘なのかすらリョウマには分からない。
 ただ、少なくともカミラの瞳は、何かを訴えようとしていた。だから花を外すのはやめておいた。代わりに、後ろから取り出したものをカミラの髪に載せる。
「俺は白夜の者にこう教わった。この花が持つ言葉は、『誠実』だと」
「これ……」
 カミラは己が目で確かめるために、身を引いてすぐにそれを取ってしまった。
 すなわち、リョウマが編んだ不恰好なリンドウの冠を。
「どうして、あなた、こんなのどこで覚えたの?」
「また別の女の名前を出す、と引っ叩かれそうだが……実は戦時中エリーゼ王女に習ったのだ。一度教わったきりで、反復練習もせずにいたから、随分と手こずった」
 嫌なら捨ててもらっても、と言う前に、カミラがくすくすと笑い出した。右手で花冠を持ったまま、左の指先で口許を軽く押さえている。
「エリーゼに教えたのは私よ。孫弟子に嫉妬したって仕方ないじゃない」
「そうか」
「そうよ。ふふ、ああおかしい」
 カミラは笑い転げている。そんなにおかしいことだろうか? リョウマが首を傾げていると、ふと、カミラの頬を何かが伝った。笑ったままこぼした、透明な雫。
「カミラ?」
「――ごめんなさい、少しだけ何も言わないで」
 身を乗り出そうとするリョウマを、カミラはそう制した。リョウマは仕方がなしに黙り込む。
 空を仰ぎ、あのね、とカミラはぽつぽつ話し始めた。
「どこから話したらいいのかしら。そうね、そう……まだ戦いをしていた頃、シノノメに、心配されたことがあってね。あなたは戦のことばかり考えて、私に苦労をかけてるんじゃないかって」
 リョウマは、今の約束とは別に口を閉ざすしかない。シノノメの指摘は実に耳が痛い。戦が終わっても公務、公務、公務でカミラのことは後回しになってしまっているのだから。
 それで、と続けるカミラの鼻声は、いつもの艶めいた声よりずっと幼く聞こえた。
「あなたにいただいた、お手紙を見せたの。こんなにたくさんって誇らしげに見せびらかして、シノノメを感心させたのよ」
 本人のいないところでそんなことが……リョウマは口唇を噛み、まだ口を挟むのを我慢した。願わくば本文までは息子に見せていないことを。
 カミラがリョウマに視線を戻し、肩をすくめる。
「そんな顔しなくてもいいわ。頼まれたって、私が中身なんて見せられるわけないじゃない。――その理由は、他ならぬあなたが一番分かっているでしょう?」
 ふわりと、唐突に、細い両腕がリョウマの首に絡まった。リンドウの香りがした。
 否、リンドウに香りなどほとんどない。これは、カミラの愛用している香水の匂い。
 それでも、リンドウの香りだと錯覚した。
「私、筆まめなのよ。遠征に行ったお兄様や、要塞にいた頃のあの子にも、たくさんお手紙書いたのよ」
「ああ、知っている」
 もう、黙っていろと言われた『少しだけ』は終わっただろう。リョウマは妻の身体に腕を回した。発達した胸のせいで誤解されがちだが、本当はとても華奢な身体。
「なのに私、あなたにただの一度もお返事しなかった。毎回結びに『返事は気にしなくていい』って書かれているからって、そんな社交辞令を真に受けるお間抜けさんがいる? シノノメに私、本当のことを言えなかったの。見栄っ張りのひどい母親。それが後ろめたいから意地悪をしてあなたを遠ざけるなんて、本当に最低な女よね。ねぇ嗤って?」
「いいんだ、カミラ。俺は一文字も返ってこなくてもよかったんだ」
 こんな小さな背に何もかも負うことはないと、リョウマは薄紫の髪を撫でる。
「きょうだいへ何通手紙を書いていたとしても、お前は恋文の返事だけは一度も書いたことがなかった。……違うか?」
 腕の中のカミラがびくりと跳ねた。リョウマは苦笑しながら、ぽんぽんとカミラの頭を軽く叩いた。
 まるで妹を相手にするような心境。けれど妹に抱くのとは、絶対に違う熱い気持ちが混ざってくる。
「初めてお前に文を送ったとき、お前の臣下だった、ルーナという少女に言われてな。自分の検閲を通ってカミラの元まで届いた恋文は、俺のものが一通目だと。それ以外は、お前の手に渡る前に、自分の相棒の少女が処分していると。だから責任を取れと言われて、俺はいっそう熱心に筆をとった」
「ルーナが、そんなことを……」
「ああ。お前に愛されて幸福だった、ルーナとベルカがだ」
 一人はいずこかへ消え、一人は嫁いでいったが、二人とも最後までカミラを案じていた。
 悲しませたら容赦しない、殺す、と言い残して彼女たちは去っていった。
 リョウマはずっと、その言葉を肝に銘じて生きている。
「目に見える文字で返って来なくても、お前は俺の腕の中に来てくれた。それだけで、想いが伝わっただけで、俺は心から報われた」
 最近は、文さえも書けなくてすまない。共にいる時間が増えた分、報告すべきこともあまりなくて。
 だからせめて、空気を震わす言葉で告げよう。
「カミラ、俺はお前を――誰よりも愛している」
 王としてどれだけの熱を国と民に捧げようと。俺という一人の男の心は、お前だけのものだ。
「リョウマ」
 カミラは、両腕に強く強く力を入れながら、一度だけ短く答えてくれた。
「私もよ」
「ああ。ありがとう」
 リョウマもただ、一言だけに全てを込めた。
 カミラはすっと上体を起こし、リョウマと向かい合う。赤い目をして、少女のように微笑みながらリンドウの花冠を両手で差し出す。
「かぶせて頂戴。あなたの手で、私をもう一度お姫様にして」
「こんな不細工な髪飾りでいいのなら。姫」
 リョウマは苦笑して、花冠を受け取った。カミラは目を閉じ、リョウマを待っている。その髪をリンドウで彩り、リョウマはそっと――カミラに口付けた。
 マークス王の結婚式では、確か誓いの後にこうしていたから。白夜の式ではできなかったけれど、本当はカミラだって少しは憧れていただろう。
「……ずるいひと」
 カミラは消え入りそうな声でそう言ったが、怒りはしなかった。
 花冠が潰れぬように、そっと両手をリョウマの胸に当てながら、寄りかかってくる。紫色の髪が緩く落ちかかる。
「ねぇ私、あなたにお返事を書くわ」
「返事?」
「たくさんいただいたお手紙のお返事。もう少し生活が落ち着いたら、舞いが上手くなったら、お琴が綺麗に弾けたらって、ずるずる先延ばしにしていたけれど……今度こそ言い訳はやめて、あなたに文をしたためるわ。このリンドウの花が枯れる前には」
「そうか」
 カミラはきっと、冠の花のことを言ったのだろう。分かっているけれどリョウマは、勝手に解釈を曲げた。
 この花畑が滅んでしまう前に、どんなに短くともカミラが手紙をくれたら嬉しいと思う。
 たとえそのとき、リョウマが既に文を読める身体ではなくとも。
「待っているぞ」
 優しい香りがした。しないはずのリンドウの香りだった。

 

 カミラが上機嫌でリョウマの執務室に飛び込んできたのは、そのまた翌日のことである。
「ねぇあなた、シノノメが日記帳を買ってくれたわ。これで交換日記でもしたらいいって、それなら私たちにもできそうでしょう? 私の分書いておいたから置いておくわね、じゃあお仕事頑張って。二人もお疲れ様」
 高い声でまくし立て、カミラは嵐のように部屋から去っていった。残されたのは薄い冊子と、口を挟めなかったリョウマとユキムラとカゲロウ。
「その……念願叶ったようで何よりでございますね」
 ユキムラが何とも言えない顔で呟いた。無理もない。カミラのあの変化はリョウマでも面食らう。
 ため息一つ。文を書くと宣言はしてくれたが、あれで臆病なところがあるから、今は交換日記とやらが妥協点なのだろう。仕方ない、公務が一段落してから目を通すことにするとして。
 リョウマは冊子を持ち上げ、カゲロウに預けようとした。その拍子に、何かがすっと下に落ちる。
「リョウマ様、何やら挟んであったものが抜けたご様子だが……」
 カゲロウが言いながら屈む間に、リョウマは冊子の一頁目を見た。その何かについて記述はないかと思ったのだ。初めて見る彼女の字で、流麗に三文節だけ書いてあった。
『読んでね、旦那様。愛してる』
 目を丸くしているリョウマの横で。カゲロウが拾い上げたものを、しげしげと眺めている。
「これは……文だろうか? 青紫の、美しい千代紙で折った袋に入っている」
「ええ、まるで――」
 ユキムラに指摘されるまでもなく解っていた。
 カミラが寄越したのは、長く持つリンドウだ。色褪せる前に、リョウマが返事をしたためるための。
 それならリョウマも、そのうち季節外れになるリンドウでも彼女に贈れば、またカミラの文を得られるのだろうか。そう考えてから、笑ってしまった。一文字も要らないと言っておきながら、強欲なものだ。
 リョウマは日記帳を閉じ、やはりカゲロウに手渡した。カゲロウは不思議そうな顔をしている。
「お読みにならないのか?」
「私ども、席を外しましょうか?」
 ユキムラも気遣わしげに言う。リョウマは、いやと首を横に振った。
「目の前で開けて読む」
「意趣返しとはまた女々しい」
 カゲロウが肩をすくめる。ユキムラも苦笑している。
 そう言うな、とリョウマは息子に日記帳をねだったカミラを想像して目を閉じた。
「リンドウの香りを感じながら、読みたいだけだ」
 リンドウに香りはない、ユキムラたちはきっとそう思っている。
 リョウマだけが、あのリンドウの香りを知っているのだ。
 ほのかに甘くて、ほろ苦いような切ない花の匂い。
「さぁ、書類仕事はさっさと仕舞いにしよう。無性に身体を動かしたくなってな。久々に誰ぞの稽古に付き合おうと思う」
「心得た。ではこれらは私が責任を持って保管を」
「ええ、私も微力ながら、紙仕事のお手伝いをいたしましょう」
 秋の日の一通目の返事。今度はどんな恋文をお前に贈ろうか。
 きちんと考えておくとしよう。そう、リンドウの花が枯れる前には。