誰の背を見て

 その話は、寝耳に水どころか寝所に火矢を放たれたようだった。
 そろそろ休もうと思っていたタクミを、ヒノカが沈んだ顔で訪ねてきて。ちょっと来て欲しいと言ったきり黙って歩いていくので、タクミは訳も分からずついていった。
 夜の食堂に店員役の兵の気配はなく、両国の王族たちが皆浮かない顔で、俯いたり、天井を見たり――とにかく誰一人視線を合わせずに座っていた。異様な光景だった。
 中でも奇妙だと思ったのは、妹のサクラと、暗夜第一王子マークスだけが立っていたことだ。マークスはわずかだが口唇を噛んでおり、サクラは直接触れてこそいないものの、寄り添うように彼の方に身体を傾けている。
 近頃二人がよく話しているようなのは知っていた。タクミも暗夜第二王子レオンといろいろ言葉を交わすようになっていたし、暗夜第一王女カミラもヒノカを気に入ったらしいと聞いていたし、末姫エリーゼにいたっては白夜王族をまるで新しい家族のように扱う。この軍の中で暗夜の民と白夜の民が関わりを持つことは、最早珍しいことでもなかった。
 それでもあの二人の距離はあまりにも近すぎる。タクミがそれを問おうとすると、見透かしたようにリョウマが『ヒノカもタクミも座れ』と促した。マークスとサクラの名が呼ばれなかったことに疑問を抱きつつも、有無を言わさぬ強さで腕を引く姉に負けて、タクミも白夜王族が座っている方の卓についた。
 それでも何も起こらない。ただ通夜のように全員黙っているだけ。
 俯いていたマークスは何か言いたげに口を開いたが、声が聞こえてこない。見かねた様子でリョウマが切り出す。
「サクラ、マークス王子。タクミとエリーゼ王女は何も知らない。我々にそうしたように、二人にも自分たちで説明をしてやれ」
「は、い。……リョウマ兄様」
「ああ。解っている」
 二人はそれぞれ小さな声で答え、何故か――このときのタクミにとっては何故か、切実な表情で互いの手を握った。意を決したように頷くと、マークスははっきりと事実を述べた。タクミはその発言を冷静に受け止めようと努めた。努めたつもりだった。
 
「サクラが、身籠っ、た……?」
 しかし繰り返す声は無様に震えていた。サクラはマークスに触れていない方の手で、いつもと変わらないように見える腹部に触れ、かすかに首を縦に振る。
「何でだよ!!」
 タクミは卓を叩いて立ち上がる。リョウマの話どおりならきっとエリーゼ以外みんな知っていたのだろう、端の方に座っているアクアたち――血の繋がらないきょうだいたちも。自分だけがこんなに熱くなっていることが余計に腹立たしくて、タクミは更に声を荒げる。
「サクラがいくつだと思ってんだよ!? こんな未発達の身体で……出産なんか耐え切れるはずないだろ!?」
「タクミ、よせ」
 ヒノカが腕を引いて無理やりタクミを座らせる。まだ自由な口で、タクミはなおマークスを詰る。
「外道かよ、あんた……!!」
「タクミ!」
 ヒノカの鋭い叱責が飛ぶ。臆した訳ではなかったが、ここで感情的になるばかりでは何の益にもならない。タクミは舌打ちして、彼らの言い分を聞く為にいったん黙った。
 しかし彼らが何かを言う前に、エリーゼが不安げな声を上げる。タクミにというより、傍にいる姉に尋ねているようだった。
「ねぇ、愛し合ってる二人のところに赤ちゃんが来るのは、自然なことじゃないの? 嬉しくておめでたいことなんだよね? どうしてみんな、こんなに暗い顔してるの? タクミさんだって、あんなに怒って……」
「エリーゼ。後でちゃんと説明してあげるから」
 カミラは早口に言い、妹の肩を抱いた。タクミに申し訳なさそうな視線を送ってくる。暗夜の末姫はこちらの末姫と違って、何も知らないようだった。
 否、もしかしてこちらの末姫も何も知らなかったのかもしれない。その行為の行き着く先のことなど。
 リョウマが難しい顔をして、タクミの方を向く。
「タクミ。サクラが一人の女として決めて招いたことだ。俺たちが口を出す筋ではない」
「妹のことを『一人の女』だって? 気持ち悪い。そんな目で見たことないよ」
 タクミは兄に吐き捨てた。そんな顔で解ったようなことを言ったって、何の説得力もないのに。いっそ正直に罵ればいいのに。
 タクミは奥歯をぎりと噛んで、椅子を後ろに蹴飛ばした。もうこんなところで、同じ空気を吸っていたくなかった。
「……獣と同じだね、暗夜の連中ってのは。反吐が出る」
 止めようとするヒノカの腕を振り払って、タクミは扉へ歩き出す。走り出るのはいかにも駄々っ子のようで嫌だった。大股だが早足を超えない速度でずんずん進む。
 涼しげな顔をしたアクアが、問題の二人に目を向けているのが視界の端に見て取れた。
「責任の追及は後でもいいでしょう。赤ちゃんは待ってくれないのだし、サクラの身体のことを考えないと」
「確かに、身重の女性を連れて行軍する訳には……」
 隣のきょうだいも心配そうに続けた。あの二人のああいう現実的なところも、人道的なところも、確かに長所ではあるのだが――同時に、タクミはそれらがとてつもなく忌々しくもあるのだった。
 扉を開け放つ。
「マークス王子。貴殿がサクラを愛したことについて、くどいが俺は『兄として』咎める筋ではない。筋ではないが……」
 去り際、滅多に聞かないほど大袈裟な兄のため息が聞こえた。いつも『お前』呼ばわりしていた相手を『貴殿』などと呼ぶのは、兄らしくない嫌味だと思った。
「『白夜の第一王子』として言わせてもらうなら。行軍中の王族の行いとしては、恐ろしく軽率であったな」
 扉が閉まる。変に明るい月が、より神経を昂ぶらせる。
 部屋に戻る気もしなくて、タクミはきょうだいに与えられた領域内を、行く当てなくふらふらと彷徨っていた。

 

「あの……タクミ兄様」
 後ろから声をかけられたのは、タクミが歩き飽いて泉の傍に腰を下ろしたときだった。水辺が好きだろうと張って、サクラはずっとそこで待っていたのかもしれない。真相がどうであろうとタクミは訊くつもりがなかったし、振り向かなかった。
 息を呑む気配がする。
「ごめんなさい、こんなことになってしまって……とても申し訳ないと思っています。でも、私」
 タクミは妹の顔を見ず、黙って適当な石を手に取った。何も考えずに腕を振ると、石は暗い水面を切って泉の途中までいき、力尽きて沈んだ。
 サクラがタクミの傍に膝をつき、珍しく必死な声を出して腕を掴んでくる。
「兄様! お願いです、話を――」
「乙女を捨てた手で、哀れな童貞の兄貴に触れるの?」
 しかしタクミが平淡に問うと、その指はすぐに離れていった。震えていたのには気付いていた。黙って、立てた両膝に口許を押し付ける。
 タクミにも、想う女性はあった。劣情を抱くこともあった。そんな自分を醜いと憎むからこそ、それが現実として妹に向けられ、その身を穢されたことが許せないのだ。
 あんな、『実直を絵に描いたような』『真面目しか取柄がないような』、澄ました顔の『無欲な王子』と噂されていた男に。
「汚いよ。……お前ら、みんな」
「タクミ兄様……」
 吐き捨てた言葉に、傷ついたとサクラは言わなかった。自分の感情を相手に押し付けることのない子だった。優しい思いやりのある子、だった。
 サクラはしばらくじっとタクミを見つめていたが、やがて立ち上がる。
「兄様。今はどんなことを言っても言い訳にしか、聞こえないでしょうけれど」
 やめろよ、と声を出さずに思った。いつもおどおどと自分たちの後についてきた子供が、そんなものわかりのいい大人みたいな口調で話さないでほしい。
「私、あの方と何もかもを共にする覚悟で、この指輪を受け取りました。今回のことは、私の意思でもあるって……それだけ、知っていて、ください」
 失礼します、と身内にするには固すぎる挨拶をして、サクラは去っていく。あるいは身内であることを忘れたいと思ったタクミの心情を察してくれたのかもしれない。
 どうでもよかった。タクミがもう一度投げた石は、一度も水面を跳ねずすぐに見えなくなった。

 

 軍の上層部――それにはタクミも含まれるはずなのだが――は、サクラをどうするか未だ決めかねているようであった。彼女の臣下の他には誰にもこの話は口外されていない。 
 タクミは話し合いの場に顔を出さなかった。とにかく、彼女だけでも星界に置いたままにした方がいいのではないかと、そういう方向で話が進んでいるらしいのを、兄や姉がお節介にも伝えてくる言葉から、何となく察するのみだった。
 マークスの臣下に声をかけられたのは、ある夜だった。サクラの話を聞いてやってほしいと、代わる代わる頼み込まれてうんざりしていた夜。昼、透魔での戦闘で疲れたのだから、平和な星界でぐらい静かにしておいてほしいのに。
 彼らはその絶え間ない攻勢の最後にタクミのもとにやってきて、青年の方が『マークス様とお話をしていただけませんか』と頭を下げ、少女の方が『言うこと聞いてくれないとえいってしちゃうのよ!』と笑った。その、えいっというのがどういうことか大体想像はついたので、こんなの脅しじゃないかとぼやきながら、タクミは一応自身の臣下を連れてマークスの寝所を訪れた。
「呼び立てて申し訳ない、タクミ王子」
 マークスは顔を見るなり、本気ですまなそうにそう言った。本当だよと嫌味を言う気力もなかった。
 マークスが自身の臣下に部屋の外で待つよう指示したので、タクミも同じようにせざるを得ない。正直ヒナタとオボロを手元に置いておけないのは心許なかったけれど、一緒じゃないと嫌だとごねるのも子供じみている。何かあったら大声で呼ばわろうと思いながら、タクミは示された席に腰を下ろす。
 小さなテーブルには食べ物が並んでいた。食事の時間はとうに終わったためか、手でつまめるような軽いものだ。暗い色の瓶と透明な瓶が、氷の入った金属の器の中で冷えている。向かいに座ったマークスは、その瓶を取り上げると白い布で水滴を拭った。 
「タクミ王子は、酒は嗜まれるのか?」
 世間話のようなトーンで問われる。タクミはマークスからなるべく遠ざかるように、背もたれに肩甲骨を押し付け胸を反らす。
「酒なんて、判断力も身体能力も低下させるじゃないですか。そんなもの飲む人間は、余程腕に自信があるか、馬鹿です」
「成程。では愚か者代表として、私は飲ませていただこう。タクミ王子はこちらの果汁でいいだろうか?」
 マークスは瓶を自分の脇に置いて、もう一本の透き通った瓶を手にした。こちらは薄桃色の優しい色の液体が入っていた。毒見のつもりか、タクミに注ぐ前に自分の杯で一口飲んでみせる。これ見よがしにそんなことをしなくとも、こんな稚拙な殺人を犯さない程度の知恵はあると思っているのに、とかえって気分が悪くなった。
 だからタクミも、マークスが自分の酒を注いでいる間に、ぐっと杯の中身を飲み干す。馬鹿な腹の探り合いはやめて本題に入れという合図だった。
 マークスは肩をすくめて、乾杯と形式的に声を発した。その手の中の赤黒い液体が、見た目からしてタクミの気に入らなかった。
「貴殿は私が許せないか」
 果たしてタクミの希望通り、マークスは社交辞令抜きに切り込んでくる。タクミも尊大な姿勢のまま相手を睨みつけた。
「許してもらえるとでも思ってるんですか。分かりきったことを訊くのはいよいよ酔っ払いの所業ですよ」
「そうか」
 マークスは短く答えたきりで言い訳も謝罪もしなかった。黙って杯から、自らの喉に酒を流し込んでいる。
 酒の力で場を円満な雰囲気にするのはどの国でも常套手段だが、だからこそタクミは軽率にそれに乗りたくはない。オボロほどの暗夜嫌いではないけれど、供された料理にも手をつける気にはなれなかった。
 マークスは一杯目を飲み終えると、では、と言って何かを取り出した。卓の上に置かれた重量感のあるものに、はっとタクミは目を見開く。短剣だった。鞘や柄に装飾が施してあることから見て、実戦用ではない。儀礼用か、もしくは。
 タクミの推測を裏付けるように、マークスはゆっくりと頷いた。瞳を真っ直ぐに見据えて、言う。
「その剣で、私を好きにするがいい」
「なっ……!!」
 何かがうるさいと思ったら自分が動かした椅子の音だった。タクミは短剣の鞘ごと卓を叩く。装飾の宝石が手の平に刺さって痛かった。
「ふざけてるのか! あんたは暗夜の第一王子だろ!?」
「ああ、そうだ。だからこそ浅慮の招いた結果に対しては責を負う。暗夜にはまだレオンがいる。あれは私よりも余程賢い。暗夜を任せるのに不足はあるまい。……それに、貴殿とも相性がよかろう」
 大真面目だということは、声音からも表情からも明らかだった。
 気に食わなかった。態度も発言も何もかも。本気で言っているということこそが許せなかった。
「ふざけるな……お前ら暗夜人は、いつも他人を脅して思い通りにしようとする」
 タクミの中に眠っていた、暗夜という国そのものへの恨みが蘇ってくる。
 そうだ、母上が死んだのもあの人のせいじゃない。あの人にあんな武器を持たせて送り出した暗夜のせい。父上を殺してあの人を連れ去った暗夜のせい。アクア姉さんが白夜に連れて来られたのも、あの人が白夜を選びきれず一度は両方を見限ったのも、元はといえば全て暗夜のせい。
 理性では、王子たちの世代にほとんど責任がないことも解っていた。だからこそタクミはレオンと対等な友人になることを望んだのだし、カミラやエリーゼの白夜の民とは違う好意の示し方も、何とか理解しようと努めている。
 感情だけが止められなくて。我が身に起こった不都合を、全て目の前の男のせいにしたくてたまらない。
「サクラが自分の意思であんたを選んだのかどうかだって怪しいもんだ。どうせそうやって、言葉巧みに手篭めにしたんだろう!!」
 言ってはいけないことだと、知っていた。勢いでも言っていいことと悪いことがあると。
 なのに、それなのに、王子マークスは、否定しないから。思わず立ち上がってしまったタクミを、静かに見上げるから。あまりにもはっきりと答えるから。
「そうだ。嫌がるサクラ王女を、私が無理やり汚した」
 タクミは短剣を引っ掴んだ。鞘から抜き放つ。躊躇なく全力で降り下ろす。確かな手応えがあった。床に赤い液体が派手に広がっていく。タクミの服にも染みこんでいく。
「ふざ、けるのも、大概に、しろ」
 乾いた声で凄んでも、マークスは動じていなかった。タクミは柄を握る手に力を込める。最早彼の顔を見ていられなかった。深く深く食い込ませながら、自分でも何を言っているのかわからないまま怒鳴る。
「……サクラが! あのサクラが、あんたみたいな人間を拒むはず、ないだろ!! あいつはあんたの弱さも、ずるさも、全部受け入れてやったはずだ。嫌がらずにあんたを愛したはずだ。そういう奴だからあんたはサクラを欲しがったはずだ。それを……サクラの優しさを、ぽっと出のあんたごときの偽善で侮辱するな!!」
 めちゃくちゃを言っていることだけは理解していた。我ながら面倒な奴だとは思うけれど、これがタクミの偽らざる本音なのだ。仕方ない。
 木製の卓に突き刺さった短剣から手を離す。結局、タクミが力任せに振り下ろした刃は、マークスの身体のどこも傷つけはしなかったのだ。酒瓶は卓に倒れたまま、中身を情けなく床に流し続けている。
 タクミはそれを引っ掴み、いくらも残っていない葡萄酒を自らの杯に注いだ。ぐっとあおると、喉が焼けるように熱かった。口許を拳で拭って毒づく。
「クソみたいに不味いよ」
「そうか、それは失礼した」
 マークスは苦笑して、短剣を引き抜き、鞘に納めた。
 部屋の外が騒がしい。大声と物音を聞いて、中に入るかどうかで臣下同士が争っているようだった。
「……何も問題ないって、言いに行ってくださいよ」
 タクミはどかりと座り直し、不機嫌に頬杖をつく。
「あと新しい酒。僕も付き合って構いませんから」
「ああ、ありがとう。次はもっと口に合いそうなものを用意させよう」
 マークスはやわらかく言い、扉まで歩いていった。
 その後どんな話をしていたのかは、あまりよく覚えていない。拗ねて自分から話を振らなかったのもあるのだけれど、慣れない酒をどんどん胃に流し込んだおかげでタクミはそう、有体に言えば――酔い潰れたのだった。

 

 タクミがマークスの部屋で眠ってしまったと、慌てた様子のオボロに聞かされて、当然サクラはひどく驚いた。だが傍にいたヒナタが笑顔だったので、すぐに胸を撫で下ろす。彼の主君に対する気持ちは本物だ。何か不幸なことがあったのではないのだろう。
 マークスの臣下の青年が、サクラ王女に迎えに来てほしいってマークス様おっしゃってるんですよ、と口を挟む。少女の方は、タクミ王子酔っ払って顔まっかっかなのよ、とにこにこしている。
 タクミは普段、酒を嗜まない。勧められると舐めるように飲みはするものの、すぐに首を傾げて杯を膳に戻してしまう。ヒナタたちと飲みにいくときも、お茶で薄めたものや果実酒などを一杯二杯飲むぐらいで、正体をなくしたことは一度もないと言う。
 サクラは不思議に思いながらも、四人の要望どおりマークスの部屋に急いだ。
 タクミは本当に、卓に突っ伏して寝息を立てていた。肩に毛布がかかっているのは誰かの心遣いなのだろう。向かいに座ったマークスの手元には濡れたグラスがあり、二人で飲み交わしていたのは明らかだった。
 タクミを起こさぬよう小声で、どうしてこんなになるまでと呟くと、止める暇がなかったとマークスは頭をかいた。
 確かにマークスは酒を強要するような性質ではないし、タクミも言われて止めるような性格ではない。気付いたときには飲みすぎていた、という光景は、サクラにも容易に想像がついた。
 ん、とタクミが声を漏らす。サクラがそっと近づくと、タクミは座ったまま両腕を伸ばしてきた。胴に絡みつく腕。目を丸くして立ち尽くすサクラの腹部に、タクミが頬を押し付ける。
「母上……」
 小さく呟かれた名前に、サクラははっと身を震わせた。
 自身は決して認めないだろうけれど、ミコトに一番懐いていたきょうだいは、タクミに違いなかったのだ。悲しみの深さは皆一緒でも、爆発するような怒りを見せたのはタクミだけ。甘え下手なタクミが、唯一意地を張らずに済む相手は母だけだったのだと、言わずともサクラには解っている。いつも以上に他人を遠ざけがちになっているタクミが、何故今、母を求めるのかも。
 だから振り払うことも、違いますと告げることも出来なかった。
「サクラがさ……サクラが、いきなり大人になっていくんだ。僕を置いて……」
 サクラは泣きたいような気持ちになる。けれど、『母』はこんなとき泣いたりしないはずだ。
 微笑んで、タクミの灰銀の髪を撫でる。母がいつも気高い色だと褒めていた髪を。
「サクラは、あなたを置いてなどいきませんよ」
 偽りのない気持ちだった。母のふりをしていなくともそう答える。
 本当? と兄は子供のように幼い声で問う。
「……ねぇ、僕はいつまで、サクラの兄さんでいられるのかな?」
「あなたがサクラを妹と思う限り、ずっとです」
 新しい命が宿る場所に、タクミの温もりを感じながら、サクラは言った。
 今は『ミコト』だから言えないけれど。サクラは、兄たちを心から愛している。
 リョウマやヒノカにとっては弟で、歳も近くて、本当は甘えたがりのタクミも、サクラにとっては頼もしい兄だった。包み込むような愛情とは違うけれど、いつも外敵からサクラを守ろうと前に出てくれた、そんなタクミの優しさに、サクラはいつも感謝していた。
 声が震えないように、一生懸命母を真似る。その嘘に、限りない真実を込める。
「大丈夫。これからもサクラはずっと、いつまでも、あなたの妹だと思い続けて生きていくんですから」
「そっか……」
 タクミが満足そうに笑うのが、吐息で分かった。
「じゃあ僕は、一生サクラの兄さんだ……」
「――にい、さま」
 言葉と涙がこぼれたけれど、幸いタクミは再び、深い眠りに落ちていたようだった。
 泣きじゃくるサクラの肩をマークスが抱く。ヒナタたちが歩み寄ってきて、タクミを部屋まで運んでいくと言ってくれたので、そっと兄の手を外して後を任せた。サクラは立ったまま、マークスの胸に頭を預ける。
「マークス、さん」
「ああ」
 マークスが短く答える。赤子のことを相談して以来、謝罪の言葉ばかり何度も聞いてきた。サクラはそれを受け取ることが決して出来なかったから、今夜は謝らずにいてくれることが何よりの救いだった。
「私、タクミ兄様の妹で……よかったです」
「ああ」
 マークスはいつもどおり、べらべらと余計なことは言わない。ただ、私もカミラたちにとってタクミ王子のような兄で在りたいと、その一言がサクラの心をよりあたためていく。
「あなたを愛して……あなたを信じて、よかったです」
「ああ。ありがとう」
 サクラはそっと腹部に触れる。この子は望まれていないのではと疑い続けた気持ちが、もうどこにもなくなっていた。
 大切な人たちが自分を愛してくれる。案じてくれる。
 ならばこの子にとっても、自分たちはそういう存在でいよう。
 キズナを繋いだ酒の香りの漂う部屋で、二人は触れるだけの優しい口付けを交わした。

 

 目が覚めたとき、タクミの頭はひどい痛みを訴えていた。精神的なものではないのは、昨晩のことを思い出せばすぐに解る。
 確かマークスの部屋でしこたま呑んで、その後――その後は、どうしただろうか? いつ自分の部屋に戻って、布団に入ったのだろう?
「……頭いた」
 頭痛に思考を中断され、タクミは眉をひそめて額を押さえた。だが今どれくらいの時間なのか、もう皆は出陣してしまったのか確かめたくて、無理やりに上体を起こす。
 単調に扉を鳴らされたのはそのときだった。タクミは返事をするべきか迷った。合わせたくない顔はいくつもある。
「レオンだ。ちょっと両手が塞がってるから開けてほしいんだけど」
 声の主は予期せぬ相手だった。しかも開けろとはどういうことだろうか。悩んでいると、早くしてくれない、と苛立ちも露わな声が響いてくる。タクミは渋々布団から這い出て、扉を開けにいった。
 レオンは顔を合わせるなり、挨拶もなしに陶器を突き出してくる。
「ハニージンジャーを持ってきた。飲むかい?」
「はに……?」
「ハチミツショウガ湯、と言えば通じるかな。二日酔いに効くと言われてる」
 さらりと説明され、タクミはしかめ面で受け取った。もうばれているのなら取り繕う労力が惜しいし、何よりこの頭痛が何とかなる手段があるのなら、可能性の話でしかなくてもすがってみたい。しんどいから座ってもいいかと断って、タクミは布団に腰を下ろして未知の飲み物を口にした。冷やし飴のような味がする。即効性はないようで、依然頭痛は続いていた。
 レオンも遠慮なくその辺に腰を下ろし、もう片方の手に持っていた湯呑みでやはり何かを飲んでいる。
「随分深酒したみたいじゃないか。一体どんな話を?」
「気になるなら自分でマークス王子に聞けば?」
「聞けなかったから君のとこ来たんだろ?」
 まるっきり開き直った様子で言われ、タクミは呆れてものが言えなかった。黙って頭をかく。レオンも無理にせがんではこなかった。
 もう一口ハニージンジャーを飲み込んで、タクミは天井を見上げる。染み一つなくて気味が悪いほどだった。
「マークス王子は……サクラのどこが気に入ったのかな」
 レオンが息を止めたのが分かった。だがすぐに普段の調子で彼は返す。
「さぁ。あの人は自分のことについてあまり話さないから、僕も詳細を知っている訳じゃないけど」
 けど、と繰り返したときには、どこか慎重になっていたように感じた。タクミが視線を下ろすと、レオンは片手に湯呑みを持って、もう片方の手を口許に当てていた。
「――変わろうとする強さを尊敬する、みたいなことを言っていたと思う」
「変わろうとする、強さ?」
 タクミは間抜けに鸚鵡返しする。そうだったはず、とレオンは記憶を探るように眉間にしわを寄せた。
「自分の弱さをそのままにせず、克服しようとする強さは尊いものだと、確かそう言ってた。僕に似ているかもと笑っていたけど、僕はそう思わなかった。むしろ」
 と、急に視線を向けられて、タクミは手を滑らせそうになった。何とか茶器を保持して安堵のため息をつく。
 レオンはその一部始終を見ても、表情一つ変えず話を続けた。
「そう。むしろその姿勢は、タクミ王子に似ているんじゃないかと僕は思った」
「僕に……?」
 タクミは唾を飲む代わりに、まだ熱を帯びたハニージンジャーで、やけに乾いた喉を潤した。
 頭痛はいつの間にか消えていた。レオンは真っ直ぐにタクミを見ていた。
「君は現状に甘んじず、理想的な自分に少しでも近づけるよう、ずっと努力しているだろう。見せないようにしていたって分かる。僕にだって確かにそういうところはあるからね。でも因果関係から考えれば、サクラ王女のそれは明らかに君たち白夜王家のきょうだいからの影響じゃないか」
 タクミは黙っている。否定はしたかったけれど言葉が出なかった。それが即ち肯定になると解っていても。
 レオンもまたタクミの言葉を待たなかった。
「あくまで僕の推論でしかないけど。兄さんがサクラ王女のそういう姿勢に好意を持ったのなら、タクミ王子のことだって気に入っているんじゃないのかな」
「……別に、嬉しくないよ。そんなの」
 タクミは下を向き、いつも口にしているような言葉を吐く。だがいつもの強がりでも、増してや照れ隠しでもない。マークスが自分をどう思っていようと、この不始末の言い訳にはならない。むしろこちらを尊重してくれる気持ちがあるのなら、こんな事態を招くべきではなかった。
 レオンが嘆息するのが聞こえた。
「君の怒りはもっともだと思う。僕だって、もしリョウマ王子がエリーゼを孕ませたりしたら絶対許さないし。ただ――」
 言いよどんだのを不審に思って、タクミは再び彼の表情を盗み見る。レオンはぽつりと、だが重く、その一言を口にする。
「『生まれくる命に罪はない』」
 口調から、それがレオン自身の意見ではなく、どこかからの引用だと解った。
 元が誰の言葉だったのかも。
「マークス兄さんが僕らに言った言葉さ。君たちと違って僕らは腹違いだ。正妻の子は兄さんだけで、姉さんも僕もエリーゼも妾の子。策謀で死んだきょうだいもいるし、認知すらされてない者だっているかもね」
 暗夜きょうだいの母が違うこと自体は、何となくだが知っていた。驚きはしなかったが、本人に真顔で言われて、タクミは何と答えていいか分からない。
 レオンも、マークスも、カミラも、エリーゼも、暗夜のきょうだいたちは白夜のきょうだいと比べても、遜色ないほど仲がよい。白夜王族の血を引く四人は、確かに両親を同じくしていた。半分しか共通する血肉を持たぬ者と、そこまでの関係を築ける自信が、タクミにはない。どんな顔をしてレオンの話を聞けばいいのか。
 レオンも似た思いを抱いているのか、決してタクミの顔を見ない。
「正室の産んだ最年長の直系男児、誰がどう見たって第一王位継承者はあの人しかいない。マークス兄さんは僕らを見下したとしても、他の誰にも責められない立場にいるんだ。その絶対強者が、持ちうる権力の全てをもってしたことは……妾腹の子供たちにも王族としての立場を与えることだった」
 レオンの飲み物を握る手を、タクミは力なく見つめていた。湯呑みが割れそうなほどに強く、その爪先が白くなるほどきつく、レオンは両手に力を込めている。
「カミラ姉さんがあんなに悠然としていられるのも、僕が傲岸不遜でいられるのも、エリーゼが無邪気なままでいられるのも、全部マークス王子が僕らの兄で在ってくれたからだ。他の人間が――たとえば僕が長子だったなら、きっと他の王位継承者など蹴落として誇っていたろうに」
 絞り出すような声に、そんなことないよと通り一遍な慰めをかけたくはなかった。
 タクミに今見えているレオンは、充分にきょうだい想いだと思うけれど。それがマークスという兄の影響であるのなら、本当に第一王子として生まれたとき同様に育ったか、判断することがタクミにはできないから。
「そんなに、立派かな。……あの人は」
 嫌味でもなく、単純な疑問を口にすることしか出来なかった。レオンの返事は早かったが、さぁねというのでは手放しの賞賛ではないだろう。ようやくふっと力を抜き、タクミの方を見て、それこそ兄が弟に話すような口調で続ける。
「兄さんの過ちを正当化するつもりはないよ。身内から見たって、同じ男として最低のことをしてるとは思うからね。許してやれとか代わりに僕が乞う立場じゃない。でも、産まれてくる子供のことだけは、どうか恨まないでやってくれないか」
 だって僕と君は、互いにその子の『おじさん』だろ、と。レオンはやわらかく微笑んだ。
 あ、とタクミは呟いて、レオンを指差す。マークスが父ならレオンは叔父で。サクラが母なら、タクミは伯父で。似て非なる関係を、白夜でも暗夜でも同じ響きで表すのだと。
 当たり前のことにふと気がついて、笑ってしまった。
「ところでさっきから何飲んでんだレオン王子。あんたもハニージンジャー?」
「いや、ウメボシユというやつ。そっちを作っているとき、君の臣下から『暗夜のものは飲まないかもしれないから』と渡されたんだけど、杞憂だったようだし。興味があったからいただいた。酸っぱいね?」
「あんたな……」
 大袈裟に呆れて見せたが、本音は別にある。
 オボロたちが自分を気遣ってくれたことも。レオンがタクミのために骨を折ってくれたことも、白夜の酔い覚ましに興味を持ってくれたことも。全てがありがたくて情けない。
 こんなところで腐って、皆に心配をかけて、そんなのは『兄貴』の仕事ではないのだから。
 タクミは手の中のハニージンジャーを一気飲みし、口許を拭った。
「行こう。アクア姉さんの言ったとおり、マークス王子に文句を言うのはいつでも出来る。それよりもっと現実的に、サクラと僕らの甥だか姪だかを守る話をしないと」
「そうだね。……うん、そうだ。現実的な話をしよう。建設的にね」
 先に立ち上がったのはレオンだった。湯呑みを左手に持ち、まだ布団の上に座っているタクミに右手を差し伸べてくる。タクミは躊躇いなくその手を取った。立ち上がると手を放し、並んで部屋から出て行く。
 求めることは一つだ。ならばやることも一つしかない。

 

 結局サクラは、リリスが知っているという『秘境』なる場所で出産までを過ごすこととなった。
 タクミたちは毎日顔を出しているのだが、サクラの腹は目視で確認できるほど、会うごとに大きくなっている。いつもいる城ともまた時の流れが違うのだそうだ。サクラにとっては、タクミたちは月に一度ぐらい来ている感覚らしい。ずっとサクラに付き添っているカザハナが、このままじゃあたしたちタクミ様よりお姉さんになっちゃう、とぼやいていた。
 そしていろいろな意味で喜ばしいことに、『タクミたちにとっては一週間で』無事臨月を迎えた。
 秘境にある、サクラの仮に暮らす小屋。
 縁側でタクミは、もう何度目になるか分からないが、畳んでいる脚を直した。マークスは普段椅子で生活しているのだし慣れないだろうに、背筋のぶれもなく真っ直ぐに正座している。二人の真ん中に、腕組みをして長兄リョウマが鎮座ましましていた。
 サクラが陣痛でうめく声が背後から聞こえる。男子禁制、と中に入ることを許されなかった面々は、こうして障子の向こうで起こっている戦――行き交う声はまさしく――に、想いを馳せることしか出来なかった。
 青空を見上げる。天馬が二頭飛んでいる。ゆったりと飛んでいる一頭はツバキだが、落ち着きをなくしているのはヒノカの天馬だった。
 ヒノカは女性で親族なので、最初はサクラの部屋にいたのだが。
『サクラ、痛いのか!?』
『だ、大丈夫、です』
『つらいのか!?』
『大丈夫……です』
『代わろうか!?』
『む、無理ですよ……』
『やはり私が産もうか!?』
『ダメです!』
 という動転ぶりだったので、邪魔だからと他の女性たちに追い出されたのだ。それでツバキに慰められながらぐるぐる旋回している。
 今サクラについているのは、産婆とカザハナとアクア。暗夜育ちで秘境にいるのは、当事者のマークスだけ。
「いい加減解り合う気はないのか、二人共」
 リョウマの厳しい声に、タクミもマークスも渋面をした。
 マークスはぜひ解り合おうとしているはずだった。避けていたのはタクミの方だ。レオンと話したことでマークスを責めるのはやめたのだが、今更何かしら話をするのは気が進まなかった。
 リョウマはそのことに気付いているのだと思う。二人共、というかたちで暗にタクミを咎めているのだろう。捕まえきれなかったマークスのことも責めているのかもしれないが。
 タクミは気まずさから、マークスは恐らく思案から沈黙を保ち続けていると、リョウマが聞こえよがしに嘆息してそれを破った。
「確かに俺も、初めて報告を受けたときはマークス王子を殴ろうと思った。世間知らずのサクラを狙うとは何と卑劣なと……ヒノカが先に挑みかかっていったので逆にこちらの頭は冷えたが」
 リョウマ越しに顔を覗き見ると、マークスは前を見たまま口唇を噛み締めている。タクミを呼びにきたときには落ち着いて見えたヒノカも、その前に感情を爆発させていたのか。
 リョウマもまたマークスと視線は交わそうとしない。どこでもない空を見上げ、ぽつぽつと言葉を継ぐ。
「――だがそれらは全て、俺たちの勝手な感情だ。サクラを想ってする言動ではない。愛おしそうに腹を撫でるサクラを見ていて、そう思った。俺もかつてそういう表情を三度見たことがあるはずだ。覚えているのはうち二回だけだが、幼心にもとても尊く見えた。それを何に代えても守らんとする父上が誇らしく、自分もそう在ろうと固く誓った」
 タクミも空に目を向けた。リョウマがどこを見ていたのか分かってしまった。
 自分もきっとそれを見ている。記憶にはないけれど、現実には。ミコトではない実の母の、胎児に語りかける優しい微笑み。
「サクラにとっての『父上』は俺ではない。サクラがあの顔をしてくれている限り、無事産まれてなお同じ慈しみを我が子に注げる限り、俺はお前を許そう。俺の父も。俺の母たちも。サクラの両親は皆全て、お前を赦すことだろう。俺からは以上だ」
 何か申し開くことはあるかと、淡く溶けるような声でリョウマは締めた。
 マークスは中空を睨むことをやめ、身体ごと白夜兄弟に向き直る。
「何を言おうと、私の過ちを帳消しにすることにはならないことは、自覚している。謝罪でさえ自己満足に過ぎないことも。酌量はしてもらわずとも構わない。刑の決まった咎人の身の上話と思って聞いてほしい」
 相変わらずしゃちほこばった奴だとタクミは思った。ただ鹿爪らしさなら負けていない自分の兄がそうしていたから、タクミも膝をずらしてマークスの方を向く。宣言どおり、その瞳には言い訳がましい光がまるでない。
「知っているかもしれないが、我々暗夜のきょうだいは貴殿らのように母を同じくしていない。正妻でないものが王城でどんな扱いを受けるのか……私は幼い頃から嫌になるほど見てきた。私は父のように妾を囲う気はないが、第二継承権がレオンに在り続ける限り、貴族たちが国母の座をめぐって争うであろうことは予想がつく。私はサクラ王女に、そのような思いをしてほしくなかった」
「ちょっと待て。じゃああんた、サクラに正妻の座を用意するために――!」
 立ち上がりかけたタクミを、リョウマが片手で制した。足場が狭いのでそうされると詰め寄れない。
 弟に背を向けたリョウマが口にしたのは、思いもがけない言葉だった。
「真に夫婦めおととなるならば、見当違いの庇い立てはするな。罪をも正しく等しく分かて。――その思いをこぼしたのがマークス王子だったとしても、進んで身を差し出したのはサクラの方なのだろう。違うか?」
 マークスがはっと息を呑むのが聞こえる。
 そうだとは、彼は死んでも言うまい。けれど白を切り通すには正直すぎる。
 ではサクラは、そうまでして正妻の座が欲しかったのだろうか。
 他の女に愛する男を奪われぬために、純潔を散らしてまで?
 サクラの苦しげな声がずっと聞こえている。
「タクミ」
 兄に名を呼ばれてはっと我に返る。リョウマは首だけで振り返り、やわらかく苦笑していた。
「お前も少しは妹を信じてやれ。サクラはそんなに弱い娘ではないはずだ」
「兄、さん?」
 リョウマはゆっくりと視線をマークスに戻した。
 その容貌は、姿勢は、こんなにも父に似ているというのに。まるで母のように穏やかな口調で、告げる。
「サクラは、お前の嘆きを断ち切りたいと。そのために誰からどう蔑まれようと、どんな痛みが待ち受けようと、構わないと決めて全てを託した。きっとそうだと俺は信じている。だからこそ、そのひどい顔をさっさとやめろと言っているんだ」
「……リョウマ王子」
 マークスが何かを言いかけたとき、聞き覚えのない音が響いた。音、ではない。正確には声。産まれたばかりの赤子の、泣き声。男の子ですと産婆が何度も叫んでいた。
 タクミは呆然として、障子越しの影しか見えない少女を見ていた。
「さて、と」
 リョウマが立ち上がる。片腕を引かれて、タクミの身体もだらしなく持ち上がる。
「子供の無事は確認出来た。もう行くぞタクミ」
「あ、ちょっと……」
 タクミは兄の手を振り払い、自力で立ち上がった。このまま兄の一人勝ちのまま、去ることなど出来ない。
 そう思うのだけれど、言葉はなかなか出てこなくて。
「マークス。もう入ってもいいわよ」
 アクアが顔を覗かせて言うので、余計に焦って。だからもう考えずに感じたままを口にした。
「あんたも、あんたの父親も、ろくでなしだよ」
 マークスは、解っているというような顔でタクミを見上げていた。
 違うだろ、解ってないんだよと胸中で返しながら、タクミは声を荒げる。
「――だから! その子だけは、ちゃんと育てろ!! どこに出しても恥ずかしくない、サクラの自慢の息子に育てろ!! その子は、僕らの甥でもあるんだから!!」
「ああ」
 マークスは正座したまま、深く深く頭を下げた。それでいてなおよく通る声で、宣言する。
「必ず。誇らしき二人の義兄殿に恥じぬよう、立派な男に」
 タクミもリョウマも苦笑して、小屋を後にした。
 一足先に星界の城に戻る道すがら。見渡す野原や咲いた花はまるで白夜の春のようで、雲ひとつない空は高く。リョウマの黒鳶の髪と、タクミの灰銀の髪が風に流れる。
「俺たちも、大口を叩いたからにはしっかり生きねばな」
「そうだね。僕も、もっとちゃんと生きるよ」
 サクラが痛みに耐える声を聞き、その先の希望を信じる力を知ったから。
 全てを懸けて誰かを愛する、一人の女性の勇気を認めたから。
 ――兄として、慕う女性に想いを告げるくらいの意地は、見せなければ。
 何気なく摘み取った、蒲公英に似た綿毛を吹く。運ばれた種はどこで芽吹くだろう。
 願わくば、あの子の目に届くところであれ。たった今姿を現したばかりの、小さな命の。
 そしていつか、自分のもとにも。
「僕も守りたいものを守って、最後まで生きるよ」
 明るい光を浴びて、目を覚ますものがあらんことを。