鏡の温度

『今宵、私の部屋に来てほしい』
 ヒノカが、マークスの臣下であるラズワルドからその伝言を受け取ったのは、その日の昼の頃であった。ちょうど、またやらかしたセツナとアサマを正座させて、説教をくれているところだった。
 ラズワルドにその真意を問うと、さぁと首を傾げながらも、彼は軽薄にウインクなど飛ばして見せる。
『でも、ストレートで情熱的なお誘いですよね』
 ラズワルドが踊るように去って、説教はその場で中止になった。
 ヒノカは真っ赤になって顔を押さえる。この白夜王国第一王女は、色事の類に全く弱いのであった。
『ペガサスとやらと違って天馬は非処女を拒みませんから、行ってこられたらよろしいでしょう』
 にやついたアサマを怒鳴りつけたはいいものの、他に相談できるような話でもなく、結局三人で頭をつき合わせるしかなかった。
 そしてヒノカは今、きょうだいの用意した星界の城の廊下を一人で歩いている。誰にも会いませんように、と願いながら。 急なことで選択肢がなく、納得がいっていない柄の色内掛で、足早にマークスにあてがわれた部屋に急ぐ。
 ラズワルドの事前の案内に従っていくと、目的地と思しき場所が見えてきた。扉には、流麗な文字で彼の名が記された札が下がっている。彼自身が書いたらしいと聞いた。マークス兄さんはとても字が綺麗だからと、きょうだいも言っていた気がする。
 それはさておき。ヒノカは扉に、震える拳を三回ぶつけた。そっと叩くつもりだったのに、思いのほか強く殴りつけてしまった。
「どうした、敵襲か!?」
 おかげでマークスが血相変えて出てきた。ヒノカは真っ青になって首を横に振る。
 マークスは眼下に呼んだ者の姿を認めると、ようやく表情を緩めた。
「ようこそ、ヒノカ王女。お待ちしていた」
「あ、ああ」
 自分でも返事かどうか疑わしい声で、ヒノカは同じ音を繰り返す。
 マークスはそっとヒノカを招き入れ、扉を後ろ手に閉じた。ヒノカは襟をかき合わせ部屋の中を見回す。
 白夜組に用意された畳と布団の部屋と違い、ここには寝台がある。足の高い台に設置された綺麗な寝具……。はっと顔を強張らせ、ヒノカは色内掛を床に落とした。
「ヒノカ王女?」
「……よろしく、お願いいたします」
 白い長襦袢一枚で三つ指をつく。初夜装束までは用意できなくて、こんな格好になってしまった。いつかは来る日と思ってはいたが、突然のことで頭がぐちゃぐちゃだ。
 王女の自分が婚前交渉など……だがしかし、それが暗夜のやり方ならば従わねば。相手国の第一王子の求愛を受け入れた以上、自分にはその義務がある。
 そうは考えながらも、ヒノカの額からは冷や汗が止まらなかった。
「あの、何か誤解があるようだが。私はなにも、そのようなつもりであなたを呼び出したのではない」
 マークスが目の前に片膝をつくが、ヒノカは顔を上げられない。『私は』という主語がこわくて仕方なかったのだ。
 アサマとセツナの言葉が蘇る。
『暗夜白夜に限らず、この世界にはあらゆる地域で、処女は神聖なものであり神に捧げるべきという習慣が残っておりましてねぇ。まぁ神に、などと建前を申しても、実際は聖職者がお味見をするという話ですが』
『ヒノカ様、知らないおじさんに食べられちゃう……?』
 それだけは絶対に嫌だ。愛した男の腕で純潔を散らすのであればまだしも、見知らぬ男に触れられることなど考えるだけでもおぞましいだが、それを拒めば彼の立場は悪くなるのだろうか? この身は既に両国の友好に捧げたものとして、諦めるべきなのだろうか。
 ヒノカはぎゅっと目を閉じて、口唇をかみ締めている。やがて、マークスの嘆息が聞こえた。
「……震えているぞ。夜は冷えるのだから、ちゃんと着ていなさい」
 ふわと、両肩を温もりが包む。ヒノカの捨てた色打掛を、マークスが拾ってかけてくれたのだ。
 思わず顔を上げると、マークスは苦笑していた。
「私はただ、今宵は月が綺麗だから、共に眺めたいと思っただけなのだ。窓辺からとてもよく見えるのでな。どうか警戒しないでほしい」
「えっ……」
 ヒノカは赤面して固まった。
 マークスの用件は、ただの月見だった。それなのに、勘違いも甚だしい。こちらの方が余程はしたないではないか。どうやって弁明しようか再び混乱するヒノカに、マークスは脚の長いグラスを見せた。
「一杯どうだろうか?」
「い、一杯?」
 またまた臣下の会話が頭の中で再生される。
『泥酔したところを致されるかもしれませんねぇ。王女たる者が正体を失くすまで飲んだこと自体醜聞ですから、体面を考えれば泣き寝入りでしょうか』
『ヒノカ様、やっぱり食べられちゃう……?』
 ヒノカの緊張を見て取ったか、マークスはすっとグラスを引いた。自分で瓶から液体を注ぎ、一気に呷る。
 そしてヒノカの鼻先に、空のグラスをもう一度差し出した。
「ご覧の通り、有害なものもアルコールも入っていない。あなたのグラスでも毒見を?」
 鼻腔をくすぐるのは、爽やかな果実の香りのみ。ヒノカは小さくかぶりを振った。
 マークスはゆっくりと頷き、窓辺に置いた小さなテーブルに戻って、二つのグラスに果汁を注ぎ直す。ヒノカはようやく気を取り戻し、すっと立ち上がった。
「……本当に申し訳ない、マークス王子。根拠のない言葉に惑わされて、貴殿の邪気のない申し出を変に勘ぐってしまった。すまない」
「いや、私も言伝を頼む相手が悪かったと反省しているところだ。きっとラズワルドが、あなたの疑いを煽るようなことを言ったのだろう。――隣に来てもらっても?」
 月光に照らされた暗き夜の王子は、その冠する国の名に似合わず眩しい。ヒノカはそっと、彼の傍まで歩いていった。
「私はいつも、勘違いで貴殿を振り回してばかりいるな。お恥ずかしい」
「なに、振り回されるのには慣れている。そうだな、手がかからないのは少々寂しいぐらいだ」
 きょうだいのことだろう、そう語るマークスの表情はやわらかい。
 白夜の――ヒノカのきょうだいたちは、ヒノカも含め、なるべく誰にも迷惑をかけずに、自分でできることは自分でする、という性分だった。だが個性的で奔放なきょうだいたちを、長兄としてまとめてきたマークスからすれば、自己解決ができずに空回っているヒノカに手を添えることなど、造作もないのかもしれない。
 乾杯、と硝子が鳴った。
「暗夜の騎士というのは、本当に我ら白夜の武士とは違うのだな。侍は、奥ゆかしく、三歩下がって夫を立て、家をしっかり守る、例えば――サクラのような女を好むものだ。私のような男勝りなど、嫁の貰い手がないとよくバカにされた」
 ヒノカは肩をすくめた。あの子がさらわれるまでは私も模範的な女の一人ではあったのだが、という、笑えない冗談だけは避けた。マークスも、普段に似合わぬおどけた口調で返す。
「こんなに魅力的な女性をつかまえて、よくもそんな暴言が吐けたものだ。私があなたの心を射止める栄誉に預かったのは、白夜の男の目が節穴だったおかげかな」
「ありがとう。……そうやって、女を尊重してくれる。それは騎士道という考えの一部なのだろう?」
 ヒノカはそこで喉を潤した。柑橘系の酸味が広がる。暗夜の特産品である、葡萄の果汁ではなかった。エリーゼさんに飲ませてもらったらとってもおいしかったんです、とサクラははしゃいでいたが、マークスはワインと疑われないためにわざと葡萄を避けたのかもしれない。
 マークスは難しい顔でグラスを揺らした。持ち方すらも危ういヒノカと比べて、その手つきは優美なほどに慣れていた。
「ヒノカ王女はその、『レディファースト』という概念の起源を知っているだろうか?」
「え? さぁ。意中の貴婦人を手にするために、努めて親切に振る舞っていた……とか?」
「それもある。が、一説はもっとひどい」
 果汁の瓶を冷やしていた缶の中で、氷がひび割れて鳴いた。
 ヒノカは黙って、マークスの説明を聞くことにする。マークスの表情が、ヒノカと二人でいるときには見せなかった厳しさだったから。まるで戦場で、神器を握り敵を見据えるときのように。
「リョウマ王子に聞いたが、サムライが先を行くのは後の女子供を守るためだそうだな。騎士が女性を先に行かせるのは、襲われた際に盾とするためだったらしい」
 扉を開けるときが、一番暗殺の可能性が高いから。先に女性を入れて、危なくないか確かめてからやっと自分が入ったのだと、マークスは吐き捨てるように言った。陰鬱な目が解けゆく氷を見下ろす。
「勇猛な戦士に替えはないが、飾りである女はいくらでも見繕える。我らの先人は、そんな風に考えていたようだ。――あなたの思うほど、騎士道の起こりは高潔ではない」
「だが、貴殿はそれをよしとしないのだろう」
 ヒノカは言い、マークスに一歩近づいた。
 マークスが顔を上げる。その瞳に走ったかすかな動揺を、振り払うようにヒノカは見つめる。
「マークス王子は立派な武人であり、その心意気や潔しと私は感じた。起源はどうあれ、今ここに生きている私が、貴殿の気遣いを嬉しいと思った。そこに贖罪は必要ない。かつての騎士道を恥じるのであれば、これからを担う騎士こそが、己が正しいと信じる道へ進み直せばいいのだ」
「……ヒノカ王女」
「貴殿は次代の王だぞ。暗夜王国全ての騎士の、模範とならずして何とする」
 強引に、彼の杯に果汁を注いだ。ああやはり酒を用意してもらえばよかった、と悔やんだ。自分は飲まなくても、そうすれば少しは彼の慰めになったかもしれないのに。
 マークスはグラスに軽く口をつけ、ありがとう、と一言呟いた。
 月が翳る。光源のない部屋の中で、星明りだけでは輪郭しか見えない。ただ、彼の声はひどく頼りなかった。
「あなたの臣の、セツナという女性に聞いたのだが。ヒノカ王女はいつも自分を助けてくれる、欲しいと思った言葉をくれると……本当だな」
「セツナがそんなことを?」
 すっと何かが伸びてくる。マークスの右腕だと気付くまで時間はかからなかった。
 だがヒノカの肌はおろか、服にすらかすらない。
「あなたが私を信じてくれる。私を頼ってくれる。それは素直に嬉しい。白夜にも、新しい妹ができたような気持ちでいた。そしていつしかあなたを愛していて、できる限り助けてやりたい、これからもずっと支えていきたいと思った。その気持ちに偽りは一片もない。だが」
 届かない距離ではないのに。伸ばし切られず、宙に浮いた手。
「……本当の私は臆病で、それを知られることすら恐れているのだ。あなたの強さを知る度に、今度は私があなたの優しさに溺れて、息もできなくなるのではないかと怯えている。今だって」
 あなたの言葉で思い知らされた弱さにすくんで。こんなにも近くにいるあなたに、触れることさえできずに。
「哀れな男で、すまない」
 自嘲するような響きに、ヒノカは息を呑んだ。
 ――こんな、こんな男に襲われる被害妄想など、こちらの方こそなんて愚かだったのだろう。
 ヒノカはグラスを置き、空を掴むマークスの手の脇を、すっとすり抜けた。そのまま懐に入り込む。両腕を回して、ぎゅっと強く抱きついた。
「……馬鹿だな。深く考えすぎだ。貴殿が触れられないのなら、私が触れてやればいいだけなのに」
「ヒノカ、王女」
 マークスの手は、待てどもヒノカの背にやってこなかった。耳をつけた胸板の奥で、どくんどくんと生命が脈打っている。
「私こそ、貴殿を兄のように思い、寄りかかりすぎた。未来の王妃になるならば、もてなされて気をよくした賓客で居続けてはいけない。夫を支え、国を支える自立した女にならなければ」
 月明かりが戻り始めた。困惑しているマークスの顔がはっきりと見える。
 ヒノカは、目の前の愛する男に微笑みかけた。
「私たち、まるで鏡だな。映し合って、互いに自分の悪いところがよく見える」
「ああ――そうか」
 マークスは小さく笑い返して、ようやくヒノカの身体を両腕で包んだ。
「随分と、あたたかい鏡もあったものだな」
 この熱も、鼓動も、鏡合わせ。考えすぎる悪い癖は、互いを見ながら直していこう。
 もう勝手な思い込みで混乱したり、独りで思いつめてしまわないように。
 そうして二人が放つ光を、跳ね返して何倍にもして皆を照らそう。暗い夜をなぎ払い、笑顔で満たそう。
「あ、あの、マークス王子」
「うん? どうした。きつく抱きしめすぎたか」
「そうではなくて……その」
 ヒノカは口ごもり、マークスの外套を指先でいじる。
「暗夜の結婚式というのは、あの、人前で……接吻を、するのだろう?」
「そうだな。誓いのキスを交わすな」
 マークスも、ヒノカの紅い髪を指で梳いた。くすぐったさに身をよじりながら、ヒノカは続ける。
「わ、私はその、口付けをしたことが、ないから……練習を、しておきたいんだ。他の者には、絶対に頼めないし……」
「ああ。絶対に頼ませない。その役目は私だけのものだ」
 マークスの無骨な指が、ヒノカの細い顎にかかる。自分で言い出しておきながら、逃げ出したいほど緊張した。けれど、マークスも表情が硬かったので笑ってしまった。マークスがむっと口を尖らせる。
「私は真剣だぞ。ふざけているとお仕置きになるが?」
「すまなかった。この通り、真面目にするから優しく頼む」
 目を閉じると、マークスの口唇はヒノカの口唇に辿り着く前に、耳許に寄り道をした。
 神より先にこの美しい月に誓おう。
 強いられなくとも誰かの前に立つあなただから、せめて私ぐらいあなたを護る者で在りたい。
 ――愛している。勇ましき緋の華のひとよ。
「私も……」
 その続きは、喉の奥に直接告げた。
 武人が盾を持ったとて、誰が卑怯、怯懦と罵ろうか。
 貴殿が国民全てを守る鎧なら、私はその傍らで御身一つを守り通そう。果敢なる軍神の申し子よ。
 短く浅い、一度きりの口付けが終わると、マークスはやはり妹にするようにヒノカの髪を撫でた。
「さぁ、今夜はもう遅い。あなたの部屋まで送ろう」
「ああ。ありがとう」
 ヒノカもそっとマークスから離れた。
 月は申し分ないけれど、騎士に純潔を捧げるなら、もっと人の知らない夜がいい。
 肩を抱かれて部屋を出る。次の月見の話をしながら廊下を歩き、角を曲がる前になってマークスが急に腕を下ろしたので、どうしたのかと問おうとして、すぐに原因に気がついた。
「……リョウマ兄様」
 リョウマが腕組みをしながら、壁に寄りかかって立っていた。マークスが険しい顔で言う。
「盗み聞きを?」
「まさか。怪物でもあるまいし、この距離で普通の会話が聞こえるものか。ヒノカの悲鳴を耳にしたら、いつでも駆けつけられる位置にいただけだ」
 リョウマはさらりと言い放ってから、ヒノカを向く。
「誰の見立てだ。似合わん着物を……」
「何を言う。ヒノカ王女は可憐な方だ、実の兄とはいえそんな暴言は看過できんぞ」
 マークスがヒノカをかばうように前に出た。リョウマはそれを睨めつける。
「何を逸っている。ヒノカが可愛いことぐらい、お前なぞより俺の方がよっぽど知っている。そんな地味な柄では、鮮やかな髪が全く映えん。目鼻立ちだって端整なのだからもっと華やかな……」
「何を言っているんだ二人とも! こんなことで争うのはやめてくれ!!」
 ヒノカは真っ赤になって二人の間に入った。こんなところで褒め殺される身にもなってほしい。
 他ならぬヒノカの言葉であったから、『こんなこと』などではないがと言いながらも双方引いた。
 マークスは、わざとだろう、リョウマに背を向けるようにヒノカを見る。
「ここからは兄君に送っていただくといい。これからの行軍も厳しくなるだろうから、ゆっくり休息を取りなさい。では、明朝会おう」
「あ、ああ。おやすみなさい……」
「おやすみ」
 マークスは踵を返し、自室へと引き返していった。
 リョウマが、先程までマークスがしていたようにヒノカの肩を抱きながら、眉を寄せた。
「こんな廊下に許婚を放り出していくとは、本当にお前を大切にする意志があるのか?」
「兄様がそんなだからだろう」
 ヒノカは肩を揺らして笑った。
「いずれ自分がさらってしまうことに、引け目を感じているんだ。だから今ぐらい、兄様に譲って差し上げようと思ったに違いない」
「……要らん気を遣う」
 リョウマはやはりマークスと同じに、ヒノカから手を離した。ヒノカの顔を見ず、じっと前を見ながら言う。
「今からでも、戻って『共に夜を明かしたい』と言ってきてもいいんだぞ」
 その横顔を見上げながら、ヒノカはいつか聞いた俗説を思い出す。
 娘は、父に似た者を好きになるという。父スメラギは、ヒノカが恋を知る前に死んでしまったが、リョウマはずっと傍にいてくれた。年々父に似てくる兄の、眉間にしわを寄せた顔。その兄と、慕う男はどことなく似て。
 こんなところでも、きっとヒノカは、父や兄の鏡を見ていた。
「リョウマ兄様」
 普段ならそんな甘え方は絶対しないはずなのに、ヒノカは兄の腕にぶらさがる。鍛え抜かれた二の腕に、額を押し付ける。
「ヒノカは兄様の妹です。――いずれ嫁ぐときにも、晴れ姿を見守っていてください」
「ああ」
 リョウマも振りほどかなかった。ゆっくりと、ヒノカを導き歩き出す。
「他家の色に染まっても、お前は俺の妹だ。その緋の髪が誰にも塗り変えられぬように、それは誰にも揺るがせぬ事実だ。だから、安心して愛した者の腕を取れ」
 夫となる者の腕ではない、似て非なる兄の腕の温度。忘れないように噛み締めながら、ヒノカは歩を進めていく。
「私は白夜の王女であったことを、兄様の妹であることを誇りに思う。どこへ行っても、ずっと、リョウマ兄様は私の自慢の家族だ」
「そうだ、ヒノカ。お前も俺の自慢の、愛らしい妹だ。そうして胸を張って笑っているのが、一番似合いだぞ」
「また兄様は、そうやって……」
 月夜の帰り道、白夜でも暗夜でもない場所を歩く。
 リョウマの声は、いつも以上にやわらかい。
「なぁ、ヒノカ。国に帰ったら、何か欲しいものはあるか」
「鏡、かな」
 ヒノカが答えると、リョウマは不思議そうな顔をした。また眉間にしわが戻ってしまう。
「割れるものは縁起が悪いだろう」
「それなら結婚祝いじゃなく、戦勝祝いでもいいから」
「構わないが……何故鏡にこだわるんだ」
「魔よけというか、お守りというか、そんなものだ」
 ますます訳が分からないという風だ。ヒノカは苦笑して、腕を掴む指に力を込めた。
 いつだって、忘れたくない。真正面から見つめていたい。
 自分が白夜王女として生きてきたこと。リョウマの妹であること、マークスの妻であることを。
 何より、ヒノカという一個の人間であることを。
「なるべく曇りのない、あたたかいのが欲しい」
「鏡は冷たいものだろう」
「いや、ちゃんとあたたかいんだ」
 ヒノカはそれを知っているから。鏡を見る度必ず、思い出す。
「変わった奴だな……」
「リョウマ兄様の妹だからな」
 違いないかと笑われて、廊下を行く。白夜の者のもとへ帰っていく。
 それはいつか行く、暗夜への旅路と鏡合わせの、あたたかい道であった。