Sweet Sweets

 透魔王国に、安心できる場所などどこにもない。
 だからこの軍の将は、リリスの繋いでくれた星界に拠点を置き、兵の疲れはここで取ると宣言した。
 永続的に借り受けていい土地ではないので、持ち込めるものも限られているが、それでも皆各々に仮住まいを整え、それなりに町のようなものを形成している。そして元の世界では得られない、一時的ではあるが確かな平穏を享受していた。
「……ここ、だったはずだな」
 レオンは呟きながら、皆が食堂として使用している建物を見上げる。
 太陽は真上。昼食時だけあって人の出入りが激しい。懐から懐中時計を取り出してみたけれど、星界では針の進みに意味はない。気休めだ。
 オーディンから、回りくどい言葉で『サクラ王女の臣下の少女に、レオンを食堂に呼ぶよう頼まれた』と告げられて、やって来たはいいが呼び出しの理由に心当たりがない。まぁ相手が相手で、場所が場所であるし、物騒なことにはならないはずだが……息を吸って腹を括り、レオンは食堂に踏み込んだ。
「あっ、こんにち……いらっしゃいませ!」
 入るなり、白夜王国の第二王女であるところのサクラが頭を下げてきた。テーブルでは幾人かが食事をしている。彼女に特段気を払っている様子がないので、恐らく出入りの度にああして礼をしているのだろう。
 今日の食事当番は彼女だったようだ。白いエプロンのような服(割烹着、という名を後で知った)を身に着けている。レオンは嘆息して腕組みした。
「あのお気楽将軍が食事係を当番制にしたところまでは、僕も口出しする気はないよ。ただ王女であるあなたが、そんな風に給仕の真似事をしているのは感心しない」
「ご、ごめんなさい……おもてなししなくちゃって思って、私」
 サクラは右手で左腕を抱いて、俯いた。内気で可憐で儚げ……かつてのレオンはサクラのこんな仕種を内心苦々しく思ったものだが、今ではかえって見ていると気の毒にすら思える。顔を背けて、手近な椅子を引いた。
「それで、用件は? まさか僕に厨房を手伝えって?」
「と、とんでもないです。私もう、次の方に交代していただくところですし」
「そう? なら手短に済ませてくれると助かる」
 そうすれば、あなたをランチに誘えるんだけど――言いかけたところに、サクラが急に大きな声を被せてくる。
「分かりました! じゃあ今すぐご用意しますから、少しだけ待っていてくださいね」
「あ、ああ」
 弾む足取りで奥に消えるサクラ。ここでようやくレオンは、単に『私お当番なので、よかったら食べに寄ってください』、と言われただけのようだと悟った。臣下の少女かオーディンか、それともサクラの伝言の頼み方が悪かったのかは分からないが、無駄に構えて損をした。
 背もたれに寄りかかって、思わず持ってきてしまった読みかけの本を広げる。
「食前のお茶をどうぞー」
 そこに脇から、すっと湯呑みを差し出された。見上げると、長い赤毛を高く結い上げた青年が、にこにこと立っている。
「君は確か、サクラ王女の臣下の……」
「上から失礼いたします、ツバキと申しますー。以後お見知りおきを、レオン王子」
 カミラの部下が一方的にライバル視しているとかいう、あの『完璧天馬』か。
 それはさておき、レオンはサクラにプロポーズをした身だ。腹の内はどうあれ、彼のことも懐柔しておいた方が何かと有利だろう。レオンは笑顔を作って右手を差し出した。
「こちらこそ座ったままですまないね。サクラ王女にはいつもよくしていただいている。よろしく」
「はいー。サクラ様も、レオン王子のお話をなさるときは、いつも嬉しそうでいらっしゃいますよー」
 女みたいに綺麗な手が、レオンの手を握り返す。力の入れ方からして、とりあえずレオンに対する敵意はないらしい。ツバキは茶を載せていた盆を抱えて肩をすくめる。
「サクラ様のお呼び出しの意図が、今ひとつ伝わっておられないようですねー。カザハナが何か不手際をいたしましたか?」
「カザハナ……ああ、もう一人の女の子の方だね。僕は彼女と直接会った訳ではないんだ。僕の部下越しに聞いたんだよ。あいつも何というかその……独特な奴だから。状況は分からないけど、行き違いが生じたとしても、必ずしもそちらの不手際とは言えない。気にしなくていい」
 レオンは湯呑みに手を伸ばした。熱々だが、触れないほどでもない。中の茶も飲み頃の温度で、濃さもちょうどよかった。
「そう言っていただけると助かりますー。でもですね」
 首筋をざわつかせる気配に、レオンは再びはっと顔を上げる。
 ツバキは笑っていた。確かに口は笑っていたが、細めた目は冷えて。
「どんな手違いがあろうとも、サクラ様を悲しませることだけは、絶対にしないで、くださいね。」
 先程までだらしなく伸ばしていた語尾が、はっきりとした言い切りに変わる。肌が粟立った。
 呪術に秀で、あの世を身近に感じるレオンだからこそ思うことがある。月並みだが、本当に怖いのは死者でも怪物でもない。生きている、人間だ。
「レオンさん、お待たせしました!」
「あっ、サクラ様ー。じゃあ俺、厨房代わりますねー」
「はい、ありがとうございますツバキさん!」
 ツバキは楽しそうに奥へ引っ込んでいく。にこやかに盆を持ってきたサクラに、あなたの忠臣は随分だねと嫌味を言ってみたが、はい私にはもったいない臣下ですと微笑まれるだけで通じなかった。
「すみません、お忙しいのにお待たせしてしまって……」
「別に忙しくはないけど」
 サクラはレオンの前に、慎重に器を置いた。椅子を勧めないと座ってくれないのだから参る。サクラの着席を確認して、レオンは改めて口を開く。
「それで? 僕はこれをいただいてもいいのかな」
 肩をすくめて、漆器を示す。サクラは、盆で顔を隠すように、はいと頷いた。
「あの、タクミ兄様から、レオンさんは汁物がお好きだって聞いて……」
「なるほど。それで振舞ってくれるんだね」
「は、はい。お口に合えばいいんですけど……」
 レオンはまず、色を見た。
 乳白色のスープ。具は緑も鮮やかな葉菜に、赤と白の根菜、それから赤身の魚だろうか。
「ミルクベースかな」
「いえ、豆乳でまろやかにしているんです」
「トウニュウ?」
「あの、大豆から作った飲み物です。お豆腐のもとになるんですよ」
「白夜人は本当に大豆が好きだね……」
「は、はい。栄養、ありますし」
 次に一匙すすってみる。タクミたちの食事風景(レオンはまだサクラたち王女と食卓を共にしたことがなかった)を思い出してみるに、器を持ち上げて直接すするべきなのだろうが、レオンはどうもそれに抵抗がある。
 当然のようにスプーンが用意してあったのは、サクラも解ってくれているからだろう。
「とても美味しいな。少し癖があるけど、ミルクほど脂っこくなくて、飲みやすい」
「そうですか? よかったぁ」
 レオンが素直に喜ぶと、サクラはようやく笑顔を見せてくれた。やっと盆を脇に置いて、熱心に解説してくれる。
「タクミ兄様直伝のお味噌汁がお気に召したそうなので、そこからあまり外れないようにしたつもりなんです。お味噌と、魚介だしと、お肉は用意できませんでしたけど、お野菜もいっぱい摂った方がいいかなって」
「タクミ王子と相談したのかい?」
 レオンはよく味の染みた具材を口に放り込みながら尋ねる。
 なるほど、豆乳味噌スープ。道理で、タクミに教わった味噌汁と似た味だと思った。
 サクラは自分の顔の前で両手を振る。
「あ、いえ、一応自分でも考えたんですけど……タクミ兄様には、何回もレオンさんの好みを聞きにいって、またかいって呆れられちゃって。でも兄様、根気よく手伝ってくださったから、おかげでいろいろ思いついて」
「あなたはお兄さんのことになると、途端に饒舌になるんだね」
 僕とはひどく慎重に話すのに。言ってから、サクラの顔を見て、余計なことだったとレオンも自覚する。
 けれどすぐに、ごめんちょっと嫉妬しただけさとおどけて見せればよかったのに。その判断さえ誤って、眉を下げたサクラの前で黙ってスープをすする。困った顔が兄君タクミにそっくりだった。
「……きょうだい、ですから。特にタクミ兄様は、一番歳も近いですし」
 サクラは両手を机の上で組んで、訥々と話す。
 視線は下を向いていたが、以前の怯えた様子とは違う。何かを慈しむように、言葉を紡ぐ。
「それに兄様、楽しそう、でした。今まで、対等なお立場のご友人が、あまりいらっしゃらなかったから……レオンさんのこと、嬉しそうに話すんです。私も、嬉しくなっちゃって。子供の頃みたいにたくさんお話できたの、きっと、レオンさんの話題だったからです」
 ――ありがとう、ございます。
 目を閉じて微笑む頬に、窓からの陽射しが淡く照る。
 レオンの匙が止まる。こんな優しい女性を困らせて、自分はなんて愚かで幼いと、痛いほど思った。
 椀を両手で抱え、タクミたちのしていたようにぐっと飲み干す。
「れ、レオンさん?」
「……サクラ王女」
 目を丸くするサクラの前に、どんと空の器を置く。真正面から瞳を見据える。
「僕はね、トマトが好きなんだ。料理としてはシチューやスープが好きだけど、食材としてはトマトが一番好きなんだ」
「は、はい。そうなん、ですか」
「トマト、食べたことあるかい」
 至近距離での問いかけに、サクラはそれこそトマトのように真っ赤になって首を横に振った。
 レオンは大きく頷いて、席を立つ。
「ごちそうさま。次は僕があなたに、最高のトマト料理を食べてもらうから。今夜、空けておいてくれるかな」
「は、はいっ」
 サクラはうわずった声で答えた。恐らく意味など考える前に、頼まれたから返事をしてしまっただけだろう。
 去り際ちらと奥を見る。目が合うと、ツバキは愛想笑いで包丁を背後に隠した。
「……なんだよ。失策の分ぐらい、ちゃんと立て直すさ」
 独りごちて、レオンは食堂を後にした。
 まだ空は充分に明るいが、夕食を振舞うなら早めに準備をしなくては。
 まずは食糧庫に行って、トマトの在庫確認からだ。
「はぁ、トマト、ですか」
 ジョーカーは怪訝そうな顔で言った。
 特段レオンが嫌われているというのでもない。彼は給金の出所以前より、己が主人と決めた者以外には割と素っ気ない。割と、で済んでいるレオンはまだ敬われている方である。
 ジョーカーは大きな木片をまとめたような物を抱えて、ふむと呟く。
「フェリシアが箱一個持ったまま転び、勢いでその上にダイブいたしましたので数は減ってしまいましたが……レオン様に融通して差し上げる分ぐらいならあると思います」
「そ、それ大丈夫だったのか」
「いえ大丈夫ではありません。箱一個おじゃんですので大打撃です」
「トマトじゃなくてフェリシアの方だが」
「さぁ、何しろトマト汁塗れですので生きてるのだか死んでるのだか分かりませんが。駆けつけたフローラが泣き叫んでいないことから察するに、大したことはないのではないかと」
 さらりと言い放った。もしかして腕の中の赤い板切れは、件の木箱の成れの果てだろうか。
 ということはジョーカーは今、特別機嫌が悪いのではないのか。
「分かった、ありがとう。少し様子を見てくる」
 レオンは口早に言って、立ち去った。
 怒ったジョーカーが恐いというほどレオンも小心ではないが、ご機嫌斜めの彼はいつも以上に扱いが面倒なのだ。
「うえぇえ~、私トマトくさくないですか姉さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ、ちゃんとお風呂に入ったのだし、においもじきに取れるわ。……二・三日すれば」
 温泉の方から、フローラに手を引かれて、半べそのフェリシアがやってきた。どうやら怪我はないようで、内心安堵する。特別目をかけている使用人ではないが、それでもやはり顔見知りに不幸があるのはいい気分ではないからだ。
 レオンは二人に歩み寄り、通り一遍の心配の言葉をかけた後、ジョーカーに訊いたのと同じことを問うた。即ちトマトの在庫確認である。
 フェリシアは、えっとえっと、と右の人差し指を自分の頬に当て、小首を傾げた。そこはかとなく甘酸っぱい匂いがする。
「ジョーカーさんが運んでいた箱は無事だと思いますよぉ。今日はご主人様が食堂で夕食をとられるそうなので、これから野菜を全部自分の目で検品するって言ってましたから、分けてくれるかわかりませんけど」
「……回されるのは弾かれたやつかもしれない、ってことか」
 レオンは眉をひそめた。自分で食べる分には多少の傷ぐらい構わないが、サクラが人生で初めて食べるトマトなのだから、どうせなら最高かそれに近い状態のものであってほしい。他の流通経路を探してみるか。
 レオンが腕組みをすると、フローラが左の人差し指を頬に当て、小首を傾げた。
「……入手元を伏せてくださるとお約束いただけるのなら、暗夜最高品質のトマトを極少数ご用意できないこともありませんが」
「本当かい?」
「えっえっ、そんなの私も知らないです!」
 むくれるフェリシアを押しのけ、レオンはフローラに詰め寄る。
「口外はしない。僕はどうしても、今夜までに国賓を饗するに相応しいトマトを手に入れなくちゃいけないんだ。わずかでいい、どうかそれを譲ってもらえないか」
「わかりました」
 フローラは苦笑して肩をすくめた。
 目的を深く問わないのは、使用人としての遠慮なのか、別の思惑があるのか。
「こちらへ。共用の食糧庫とは別のところに保管してあります」
 連れて行かれたのは、城の角の一室。心なし他の部屋より涼しい気がするのは、彼女たち氷の部族の力だろうか。
 フローラは小さな箱を持ち上げて、レオンに見せた。横長の、美しい化粧箱だ。
「お渡しできますのは、氷の部族の育てました、特別品種のトマトになります。水量・温度・土壌を徹底的に管理し、栄養を集中させるため、実の数をかなり絞っております。一粒は小さいですが、大変手間がかかり大量生産できない貴重品です。名を――紅玉髄カーネリアンと。安産のお守り石ですわね」
 フローラの言葉に動揺して、レオンは無意味に手の甲で鼻をこすった。
 フェリシアが、ああと叫びながらぽんと手を打った。ろくなことを言いそうな気がしない。
「だからマークス様のプロポーズディナーに、そのトマト取り寄せたんですね!」
「フェリシア!!」
 フローラが真っ赤になってフェリシアを制した。フェリシアはきょとんとしている。
 多分フローラは直近今日の夜更けのことを想像して、フェリシアは長いスパンで婚後の世継ぎの話をしたのだろう。だからフローラは妹をはしたないと叱ったし、フェリシアは何で姉が赤面しているのか解っていない。
 どっちを責める気にもなれず、とりあえずレオンはその部分だけ聞かなかったことにした。
「分かった、そのディナーはきっとサプライズなんだろうから誰にも言わないでおくよ。でも、そんな貴重なものを僕がいただいたら困るだろう」
 フローラは妹の相手を諦めて、レオンに向き直る。もうすっかりいつもの有能なメイドの顔だ。
「いいえ、大丈夫ですわ。レオン様にお二つご都合するくらいでしたら、問題ございません」
「一つで構わない」
「いけませんわ。三つは難しいですが、二つは受け取っていただきます」
 フローラは箱を掲げ、にっこりと笑った。
「レオン様ともあろうお方が、お味見もせずご婦人へものを贈られてはなりませんわ。そんな事態を招くのは、使用人として手落ちですもの」
「……お見通しってわけだね」
「ふふ。ごきょうだいですわね、と思っただけですわ」
 そっと開かれた箱の中には、六粒の小さなトマトが宝石のように整然と並んでいた。勧められてレオンは一粒を手にする。この部屋の乏しい光にかざすと、色だけでも今まで見たどんなトマトより艶やかだった。
 少し緊張しながら口に含む。よく張った皮を歯で弾き切ると、果物のように甘く、しかし確かにトマトらしい酸味を持った汁が舌を濡らす。肉は充分に柔らかいが、それでいて熟しすぎた実のようなぐずぐすとした水っぽさがない。
「いかがです?」
「素晴らしいね。これが初めてのトマトじゃ、この先他のトマトなんて食べられないんじゃないかってぐらいだ」
「あら、ではお持ちになりませんか?」
「まさか。喜んで一粒頂戴していこう」
 フェリシアに促されて、レオンは手の中に残ったトマトのへたを彼女に渡した。
 そしてフローラから、一番いいのは未来の義姉に譲るとして――二番目に見目のいいのを受け取った。
「剥き出しはあんまりですわね。どうぞこちらの別の小箱に入れてらしてください、一粒なら入るはずですわ」
「ありがとう。ああ、フェリシア。お礼にこれを渡しておくから、後で二人で分けてくれ」
 レオンは懐から小さな袋を出し、トマトのへたが載ったままのフェリシアの手の平に置く。
「はわわ、姉さんはともかく私は何もしてないですよ!」
「レオン様、私たちは使用人として当然のことをしただけで……」
 固辞しようとする双子を振り切って、きびすを返す。
「お前たちは使用人としての職務を果たした。だったらそれに報いるのは、こちらの義務だ。僕たちはそういう契約に基づいて雇っているんだからさ。――それ、要らなかったら換金してくれ。どうせ二束三文だろうけど」
「「あ、ありがとうございます!!」」
 レオンは片手を上げて部屋を出た。
 歩き始めてしばらくしてから、フェリシアの悲鳴が聞こえた。大方好奇心に負けて袋を開けたのだろう。
 この城は紫水晶を多く産出するが、多くの場合原石ではいくらにもならない。練成でくべられるだけの鉱石を見て、何か経済活動に使えないかとレオンは考えた。そこで試しに、細工師に回してみた。アクセサリーとして流通できないかと思ったのだ。装飾の原料価格と人件費を引いても、鉱石を採るのにコストがかかっていないから、差分を回収できるかもしれない。
 しかし、この城の鉱石は、美術品としては平々凡々だということが分かった。わざわざ細工を施すまでもない質だということだ。なのでレオンも手間をかけることを諦めた。先程二人に下げ渡したのは、その際に出来た試作品のブローチとネックレス。
 だが価値が低いというのは、あくまでも一国の王子であるレオンの基準。一般市民の胸元を彩るには充分な代物だ。売れば多少の小遣いにはなるだろう。
 紫水晶は二人の誕生石なので、本音を言えば使ってくれたらいいとは思うが。
「さて。一杯ご馳走になっておいて、一粒はさすがに格好がつかないな」
 レオンは再び外で腕組みをした。
 またジョーカーのところに行って、普通のトマトを分けてもらおうか。スープかパスタなら潰してしまうから、多少傷ついているぐらいでも大丈夫だろう。
 レオンが頷いて歩き出したとき、誰かが大声を出しながらこちらにやって来た。
「だって、あんな人サクラには似合わないよ!!」
 顔を真っ赤にして怒鳴っているのは、サクラの臣下の少女だった。傍にはツバキと、サクラ自身もいる。
 レオンは思わず、近くの武器屋の陰に身を隠した。三人はレオンに気付いた様子もなく、立ち止まって話を続けた。
「カザハナ、またサクラ様を呼び捨てにしてー」
「今あたしは、臣下としてじゃなくて親友として話してるのっ!!」
 少女――カザハナは、噛み付かんばかりの勢いだ。ツバキは、途方にくれた顔で傍に立ち尽くしている。
 サクラは両手を身体の前で重ねて、静かな顔でカザハナの言葉を聞いていた。
「だってレオン王子は冷血だって、みんな言ってるよ。平気な顔して人だって殺すって」
「そんなの、俺たち兵士だってー……」
「そういうことじゃないよ! 部下のこと……仲間のこと、『無様だ』『恥さらしだ』って笑いながら殺したんでしょ? あたし、そんな人のところにサクラを行かせたくない!!」
 レオンもそれを否定する言葉を持たない。カザハナの言うことは事実だった。
 暗夜に害を及ぼす者を殺すことが間違っていると、レオンは思わない。
 これまでもそうだったし、暗夜王国自身から手ひどい裏切りでも受けない限り、これからもそうだろう。
 残酷な道も歩む。非道な手段も取る。見せしめだってさらし上げる。
 それは陽の道を往くマークスを支えるための、レオンなりの『正義』であった。
 殺したことを後悔はしない。それは奪った命への冒涜だから。
 無意味にはさせない。それが死なせた者としての責任だから。
 綺麗な生き方でないことは解っている。故に汚名も不名誉も、甘んじて受ける。
 カザハナのような眩しい者に罵られることを、黙って受け入れる。投げられた石を投げ返さない。
 それが、暗夜王国第一王子マークスを兄に持ち。第二王子として生きていく、レオン自身が決めた覚悟。
 ――けれど、そんな男のちっぽけな自己陶酔が。
 陽だまりの中に咲いてきた花を手折る、何の言い訳になるのか。
 レオンは小箱を握り締める。手の中の赤い宝石が、急に重たく思えてきた。冷たく自身を刺してくる棘のように感じた。
「ねぇ、サクラだって迷ってるんでしょ? だから受け取った指輪、一度もつけてないんでしょう?」
 カザハナの言葉で、レオンははっと身体を跳ねさせる。
 サクラの衣装は手元に意識がいきにくいので、あまり気にしていなかったが……そういえば、彼女は以前渡した指輪を、ありがとうございますと、箱ごとしまったきりではなかったのか。
 カザハナに両肩を揺すられたサクラはやはり何も言わない。
「サクラ、何か言ってよ! こわくて断れなかったならそう言って。あたしが話つけてくるから。お願いだから黙らないでよ。自分が暗夜に行けばよかったのかもなんて、もしかしてまだ思ってるの? それとも国の平和のために犠牲になるつもりなの? そんな人質みたいな真似、あたし絶対許せない……!!」
「カザハナ、いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるよ!!」
 ツバキが叫んで、サクラからカザハナを引き剥がした。あの男もあんな風に怒ることがあるのだな、とレオンは他人事のように思った。カザハナはツバキを振りほどこうと暴れたが、やはり男の力には勝てず、座り込んで泣き出してしまった。
 サクラはようやく動いた。静かに、ただ静かにすっと歩き出して、カザハナに手を差し伸べる。
「――カザハナさん。小さい頃、一緒に育てようとした苗のこと、覚えてますか」
 レオンには勿論何のことだか分からない。カザハナも、呆然とした顔をしているだけだ。サクラは腰を曲げて、カザハナと目線を合わせた。
「枯らしてしまって、二人で残念がって泣きましたよね。でも本当は私、ユキムラさんにちゃんとした育て方、教わっていたんです。でもできなくて、それをカザハナさんに伝えるのもこわくって、ずっと黙っていたんです」
 遠目から見てもサクラは泣きそうに見えるのに。その声は全く、揺れない。
「ユキムラさんは、『葉っぱが多すぎると栄養を全部取られてしまうから、新芽やつぼみのためにいくらか剪定しましょうね』とおっしゃったんですよ。……でも私には、どの葉が『必要』で、どの葉が『不必要』かを決めることができなくて。私なんかが、いる・いらないなんて命を捨てること、こわすぎて。そうしたらあの苗は、実も結ぶこともなく……死んでしまいました。あのとき私が、ちゃんと葉を切ってあげていれば、自身も生き続けて、次の世代へ種を残せたかもしれないのに……」
 サクラはそのままカザハナを抱きしめた。幼子をあやすように背を撫でる。
 ただの少女が発するには、あまりにも優しすぎる、声色。
「……レオンさんは、『暗夜王国』という大樹を生かすために、きっとたくさんの枝葉を切ってきたのだろうと思います。私たち養われる側にとっては、とても痛くて残酷に思えるけれど……新芽の萌えるために、種子を残すために、その役目は絶対に必要なんです。とても頭のいいひとだから、きっと他の人よりもそれがはっきり見えすぎてしまって……だから、冷たく見えてしまうんですね……」
 レオンは声を出さないように右手を噛みながら、背中を壁に預けてずるずると座り込んだ。
 頭を抱える。それでもサクラの言葉は、清澄な雨が荒地に降るように染み入ってくる。
「いつか、カザハナさん言ってましたよね。自分たちは傷を負っても、痛いって顔はしないんだ、それが伝わってしまったら、自分たちを前に立たせている主の心が苦しくなるから、って……。レオンさんも、きっとそうなんです。私みたいに、ごめんなさいって繰り返したら、楽になるのに……憎まれるのが自分だけなら、兄君も傷つかないし、民も少しは気が紛れるって……思ってるんですね。本当に、悲しいぐらい優しい人なんです」
 レオンはこみ上げそうなものを必死でこらえた。
 僕はあなたが思ってるほど立派な人間じゃない。綺麗に生きられるほど強くなれなかったから、せめて汚いことでもいいから役に立ちたかっただけ。高潔でいられる自信がなかったから、冷血で傲岸不遜なふりをしていただけ。
 ただ憎まれることの方が、赦しを乞うより、解ってもらうよりずっと楽だったから。ごめんなさいなんて、あなたみたいにちゃんと非を認めることがこわかったんだ。
「私は弱いから、そんな風には生きられないから……せめて、あのひとの痛みに寄り添いたいんです。これから『暗夜王国』だけでなく、『平和』そのもののために、傷つく道を歩き続けるあのひとの傍で……」
 ねぇ、だけどさ。あなたがそう望むなら、僕は今からだってそう生きるよ。
 あなたと共に在るために邪魔な僕は、今ここで切り捨てていこう。あなたという花を守るために。
 やっぱり僕には、あなたしかいない。あたたかな、やわらかな色をした花。
 ――誰より大切な、慈悲深いサクラ。
「サクラ、ごめんね、あたし、いっぱいひどいこと」
 カザハナはサクラの背にぎゅっと腕を回して号泣していた。サクラは激しく首を横に振っている。
「私こそ、ごめんなさい。この頃カザハナさん、あんまりお話してくれなくて、寂しくて……。でも私の方こそ、ちゃんと気持ちを伝えていれば、ここまでカザハナさんを追い詰めなかったのに……ごめんなさい」
「……あーあ。また『親友』泣かせて。しょうがないなー、カザハナはー」
 苦笑するツバキも鼻声だった。
 レオンは改めて、考える。
 暗夜王朝は敵だらけだった。父と対面するのはいつだって命がけ。きょうだいは味方でも、その母は自分を殺そうとするかもしれない。きょうだいは身内でも、きょうだいの臣下は敵でないだけで他人だった。
 レオンという青年は、ただ王族の血を引くというだけで、ほとんど最小単位にしか属さずに生きてきた。とても身軽で、リスクの少ない生き方だった。寂しいとさえ思わなかった。
 けれどサクラはそうではない。サクラは両親に慈しまれ、きょうだいと共に、臣下を友に生きてきた。
 彼女はその重みを苦とも思わず、瑞々しく育ってきた。レオンのように鉢植えで管理されるのではなく、大地に根を張ってしなやかに伸びてきた。
 自分だけよければいいというものではない。サクラを愛することは、『サクラ』という樹の枝葉まで愛すること。
 『サクラ』の剪定は、レオンですらできない。だからこそ、支えなければ。彼女が自重で倒れてしまわぬように。
 レオンは法衣で顔を拭き、立ち上がった。
「あのね、サクラ。レオン王子が大局を見据えてる人だっていうのは、よくわかった。未来に種を残さなきゃいけないってことも、わかるよ。でもね、あたし、今咲き誇ってる『サクラ』って花のこと、蔑ろにしたらやっぱり絶対に許さないから!!」
「――君に許されなきゃならない義理もないけど。まぁ、そんな不手際はないから安心してよ」
 後ろから声をかけると、カザハナは言葉になっていない叫びを上げて飛び上がった。レオンはなるべく不遜に見えるように、両手を腰に当てて立っている。
 聞かれていたと気付いたのだろう、サクラは真っ赤になってツバキの後ろに隠れようとした。だがツバキが自分の鼻を指差して笑うと、ひょこっと顔を出してはにかんだ。どうせあの男が、レオンの鼻や目元が赤いのに気付いて、サクラに告げ口したのだろう。嫌な奴だ、と思いながらレオンは自分の顔の下半分を隠した。
「サクラ王女。夕食とは別に、高級なトマトを入手したから持ってきた。一粒しかないけど新鮮なうちに召し上がってほしい」
「え、も、もうですか?」
 サクラが臣下に視線で意見を求めるのがもどかしくて、レオンは右手で彼女の腕を取った。
 目を見開いてレオンを見上げるサクラに、はっきりと問う。
「ただし、僕の渡した指輪をしてくれない理由を明言することが条件だ。改善点があるならきちんと口にすること」
「え、えと……」
「僕の目を見て。嘘もつかずに」
「は、はい……」
 サクラは泣き出しそうな顔で、それでも下を向かずに答えた。
「あ、あの、私、一度指にはめてみたんですけど、そうしたら見る度に幸せすぎて、ぽーっとしちゃって、何にも手につかなくなっちゃって……だ、だから、戦いが終わるまではしないでおこうって……」
「……それで、しまい込んだまま?」
「ご、ごめんなさい! レオンさんがご不快なら、慣れるように、頑張ってみます……!!」
 サクラはきっと眉を吊り上げた。全然迫力はないのだが、彼女は本当の本当に本気なのだった。
「――僕の負けだ」
 レオンは座り込んで、小箱を持った左手だけを上げる。顔が熱すぎてもうサクラを直視できない。
「好きに食べてよ。気に入ってくれるか分からないけど」
「え、い、いいんですか?」
 左手の重みがなくなる。てっきりサクラが取ったのだと思ってちらと視線だけ上げたら、箱を手にして開けていたのは臣下たちだった。
「何だろこれ。ホオズキに似てるわね」
「酸漿はあんまり女性が食べていい植物じゃないはずだよねー、サクラ様のお口に入れても平気かなー」
「ウィンター・チェリーとは別の植物だ、害はない!」
 奪い返して、蓋が開いたままのトマトの箱を突き出す。
「この一粒を甘くするためだけに、他の多くの実が取り除かれた! これを処分するということはその犠牲を無駄にするということ、そしてあなた以外の口にこれが入るということはマークス兄さんの縁談が破棄されることにも等しい、早く!!」
「は、はい!!」
 レオンの自棄っぱちの説得(?)が功を奏したのか、サクラはぱっとトマトを口に入れた。へたごと食べた。それ食べなくていいとこだよと言う間もなく飲んだ。黙って両手で口を押さえ、両目をぎゅっと閉じて身をよじっている。やはりへたが喉に詰まったのだろうか? レオンは慌てて声をかける。
「すまない、口に合わなかったなら吐き出してもらっても……!!」
「いやー、あれは相当感激してますねー」
「サクラはお菓子とか果物とか、甘いものに目がないのよ。いつも一瞬でなくなる」
「あ、ああ、そうなのか……」
 臣下は冷静だった。やはり対サクラ経験値が大幅に劣っていることを認めざるを得ない。
 サクラが、息継ぎをするように勢いよく口を開ける。
「すごいですレオンさん! これ、すっごくすっごく美味しいです!!」
「……よかったよ」
 トマト一個食べてもらうだけでどっと疲れた。
 うっかりマークスの個人情報を漏らしてしまったが、なかったことにしよう。
「じゃあ、僕夕食の手配しないといけないから。また後で……」
 立ち去ろうとしたところで、くいと法衣の裾を引かれた。サクラが何か言いたそうにもじもじしている。
「ごめん、あれは希少種だからおかわりはないんだ」
「ち、違います! なんでそんな風に、ひとを食いしんぼうみたいに言うんですか?」
 カザハナに視線で訴えたら目を逸らされた。サクラが再び裾を引いてくる。
「そうじゃなくて、トマトのお料理作るんですよね……?」
「ああ、そうだけど。あれだけじゃ食べた気がしないだろ?」
「だ、だったら……作るところ、見たいです」
 レオンは断るつもりだった。料理はそんなに得意ではない。やるからには完璧なものを出すつもりだが、試行錯誤しているところを見られるのは恥ずかしかった。
 だが言葉を発しようと息を吸ったとき、サクラが消え入りそうな声で言う。
「レオンさんのお好きなもの、だったら……私、いつでも作って差し上げられるように、お勉強、したいです……」
 ぎゅっと裾を握られた。カザハナはもらい赤面をしているし、ツバキはにやついているし、レオンはもう限界だった。ばっとサクラの手を払う。
「生地っ、伸びるから!」
「ご、ごめんなさ……」
 泣きそうな顔のサクラの手を、ぎゅっと掴んだ。びくっと開いた細い指は、すぐにやわらかくレオンの手の甲を包んでくる。 表情を確かめることすらできずに歩き出すと、サクラが後ろでくすくす笑った。
「何?」
 ぶっきらぼうに問うけれど、もしかしたらそんな照れ隠しはタクミでとっくに慣れているのかもしれない。サクラは歌うような声で答える。
「いえ、こんな風に、二人して真っ赤になって繋がっていたら、まるでさくらんぼですね」
「サクランボ?」
「はい、えっと、そちらの言葉では確か……チェリーといったと思います。桜は一つの芽から、二つ以上の花が咲くことが多くて、だから双子みたいに繋がった実がなるんだって……前に教わりました」
「ふぅん」
 小さい手だな、と話を聞きながら思った。レオンも男の中では手が大きい方ではないけれど、すっぽり納まってしまう。それでも、無力ではないと体温は言う。
「カザハナさんは、ああ言ってくれましたけど……花の盛りを過ぎても、どうかお傍に置いてくださいね。私、レオンさんがずっと私を必要としてくださるように、頑張りますから……」
「……言われなくても」
 食糧庫はもうすぐだ。機嫌の悪いジョーカーと交渉して、少しでもいいトマトを分けてもらわなくてはならない。
 だけど、だけどその前に、手を繋いでいるうちにこれだけは。
「あなたが嫌になるまで、僕はあなたを離さない。あなたという樹が枯れるまで、僕はあなたを愛し続ける」
「……はい」
 サクラが足を止めたので、レオンも歩みを止め振り返る。見上げる瞳は涙に濡れていたけれど、果実のように小さな口唇は微笑みの形になっていた。
 ――食べ頃は、まだなのかもしれない。けれどなくならない魔法の果実を、熟して甘くなって、いつか白く枯れてしまうまで。何度だって、味わってみたい。
「サクラ王女。目を閉じて」
 レオンは、空いている方の手で、彼女の頬にかかる薄紅の髪をよける。
 サクラもその意図を察したらしく、少し背伸びをして、黙って瞼を下ろした。
 誓いのキスにはまだ早いけれど。初めて、僕はあなたの味を知る――。
「いや、イい肉付きの、濡れそぼるようなトマトが手に入ったな。これならサクラ王女も甘くとろけて骨抜きだぜ……」
「誘惑の狂宴を彩る、黄昏に相応しき紅蓮の果実……レオン様喜んでくださるといいなー!!」
 レオンの部下たちが気の触れたことを言いながら食糧庫から出てきたのは、見計らったかのような、というかゼロが見計らったに違いないような、今まさにレオンの口唇がサクラの口唇と重なろうというタイミングだった。
 ゼロはひゅうと口笛を吹き、オーディンは真っ赤になったり真っ青になったりしながら叫びまくる。
「わ、わー!! 違うんです、お邪魔しようとしたんじゃないんですー!! まさかレオン様がこんなところで太陽の微睡の隙に甘美なる果実を盗んでもとい白昼堂々いちゃついてるなんて思わなくてー!!」
「これがお探しのトマトですよ、レオン様。こいつをレオン様の手で、ぐちゃぐちゃにして、汁塗れの指でお好みに仕立て上げて、お二人で貪るように召し上がるんでしょう? そうしてご自分のモノにする……いいご趣味だと思いますよ」
 ゼロがにこやかに、トマトの入った紙袋を渡してくる。レオンはこめかみがひきつるのを感じながら受け取り、とにかくトマトに罪はないのでサクラに預け、どこで聞きつけたのかは知らないがレオンを手伝おうとしてくれたことに対しての礼を言った。
 しかしそれはそれ、これはこれである。レオンは青筋と共に笑みを浮かべながら、ブリュンヒルデを取り出した。
「とりあえずそこに座れ、二人とも」
「「本当にすみませんでした」」
 魔法の枝に突き刺され何故か満足げなゼロ、大騒ぎで逃げ惑うオーディン。お世辞にも自慢できる臣下ではないが、彼らもきっと、『レオン』という樹を構成する一部なのだろう。いつか彼らがこの身から離れるときも、彼女が傍にいてくれたら――。
 泣きつかれて困惑するサクラを見ながら、レオンは苦笑した。
「わ、わかりました、でしたらみなさんで作りましょう! 私の臣下の二人もお呼びしますし、それでいいでしょうか、レオンさん?」
「好きにしなよ。僕は、あなたが嬉しいかたちが一番だからさ」
 レオンは大きく伸びをした。空が青い。
 急ぐことは何もない。いつか、僕とあなたが甘くなるまで。
 もうちょっと、この青臭さを味わっておこう。