冷たい指が

 思えば自分らしくはなかったのだろう。けれどサクラは、日々激化する戦いの中で、白夜のきょうだいや暗夜王家の者たちが前線で血を流し続けるのをずっと見てきた。
 だから思ってしまったのだ。勇気を出して兄たちに言い出してしまった。
「あ、あのっ。私も、前線へ連れて行ってください!」
 サクラは元々戦が嫌いだ。一番最初にアクアたちについていったのも、信じて味方になってあげたかったから。透魔なる国も知らなかったし、ハイドラなどというものを倒すためでも決してなかった。
 けれど少しずつ仲間が集い、事情が明らかになるにつれ、誰かが傷つく機会もどんどん増えていく。目を閉じて逃げてはいられないから、祓串を持った。より効率よく治療するために、軍議にも参加した。幻影の兵を追い払うために弓を覚えた。ならば、今度は。
「もっと、近くで……手遅れになる前に、皆さんを癒したいんです。お願いします」
 きょうだいたちに、深く深く頭を下げる。
 今までサクラは臣と共に後方に控えていて、運ばれてくる兵の手当てをしていたが、全ての命を救うことは出来なかった。そんなのは当然のことかもしれないけれど、それでもサクラの心には彼らの死が傷跡となって残っている。
 身内を特別に贔屓して、死なせないよう配慮するつもりは毛頭ない。だが王族であるきょうだいたちを生かすことこそが、戦況をいい方へ導き、戦後の平和へ繋がること――つまりより多くの命を助けることなのだと、サクラも王族の一人として自覚していた。安全な場所で、皆が傷ついてから動き出すことなど、もう出来ない。
「私も、責務を、果たしたい……です」
 サクラは頭を垂れたまま、自分の服の裾を強く握り締めた。手が震えてもなんとか言い切った。
 ヒノカとタクミはいい顔をしなかったが、リョウマが分かったと短く頷くと、二人も渋々了承した。
 暗夜の王族は、口を出す立場ではないからと言ったきり黙って、将の決断を待っている。
 白夜のきょうだいでもあり、暗夜のきょうだいでもある将は、本人の気持ちを尊重すると、サクラの力を入れすぎた両手をほどいてくれた。
 白夜の兄たちはもちろん、暗夜の長兄や姉妹も微笑んでくれていたようにサクラは感じたのだけれど――冷血と呼ばれた第二王子だけは、口の端をわずかも上げなかった。

 

「サクラ。離れずにちゃんと傍にいろよ」
「はっ、はい!」
 今まで白々しいほどに晴れ渡っていた透魔王国の空であったが、この深い森にあっては流石に薄暗い。
 サクラがいたのは、前線といっても最前線ではない。サクラは近接戦闘の心得がないので、弓兵のタクミと一緒に少しだけ下がった位置にいた。
「大丈夫ですよタクミ様、サクラ様にはあたしがついてますから!」
 隣でカザハナが胸を張るので、サクラは微笑んで頷く。見通しが悪いため飛行兵のツバキは先遣隊として別行動をしているが、剣士のカザハナがいてくれれば心強い。
 それに、タクミの臣のヒナタとオボロもいる。彼らは前へ前へと突進しがちなタクミの身を、常に先んじて守護し続けた猛者たちである。不意の奇襲だとて後れを取るはずがない。
「サクラ! ちょっと癒してくれないか」
 木々の隙間から、ふわりと降り立った天馬はヒノカのものだった。右の二の腕が少し切れている。
 タクミが眉をひそめて、これ見よがしに両手を腰に当てた。
「その辺の枝に引っ掛けて切っただけだろ。そんな唾つけとけば治るような傷で戻ってきてさ、いくらサクラが心配だからって過保護だよね」
「う、うるさい!」
 ヒノカは真っ赤になって怒鳴る。サクラは苦笑しながら祓串を振った。瞬きの間に傷がふさがる。
「私は大丈夫ですから。兄様も姉様も、ご自分の戦いに集中なさってください」
「そ、そうか」
 ヒノカは口唇を尖らせながら手綱を握った。タクミも肩をすくめ、両側に控えていた臣たちを順々に見る。
「そうらしいよ。さっきから兄さんたちの方は騒がしくなってるみたいだし――ここは少し先行しようか」
「合点です!」
「ええ、タクミ様がそうおっしゃるなら!」
 ヒナタもオボロも闘志は充分なようだし、ここで遊ばせておくのも気の毒だ。サクラは改めて兄たちを促した。
 ヒノカが飛び立ち、タクミは臣を連れて歩み出しかける。二歩で肩越しに振り向き、カザハナを見た。
「サクラを頼んだぞ」
「はい、もちろんです!」
 そしてようやく満足げな顔で、木々の向こうに消えていく。
 カザハナは頬を少し上気させながら、自分の胸を強く叩いた。
「大丈夫だから! サクラを危険な目には絶対遭わせないよ。安心してついてきてね」
「はい。私、カザハナさんを信じてますから」
 微笑んで返す言葉に嘘はなかった。警戒しながら前を行くカザハナについて、サクラもそろそろと進んでいく。
 それにしても――と、ふと周囲を見回す。本当に深い森だ。木々の本数はさほど多いとも思えないけれど、葉の量が多く、色が濃い。ちょうど緑の庇の切れているところは明るいものの、陰になるところは朝夕のように光が薄い。正直気味の悪い土地だった。
「あの、カザハナさん……」
 後ろを見たままカザハナの服をつまもうとして、サクラの手は空振った。
 はっとして前を向く。カザハナの姿がなかった。慌てて声を上げたけれど、返事がない。
「か、カザハナさんっ!?」
 もっと大きく呼びかけても同じだった。カザハナだけでなく誰の姿もなく、戦いの音は遠い。
 視界に入るのはただ緑ばかり。身体を反転させても鏡合わせのように変わらない景色。
「あ、あ」
 どうしよう。サクラは蒼白になって両腕を抱いた。茂みの風で揺れる度に身を固くする。今にも何かが飛び出してきそうで動けない。いつまでもここに居続ける方が危険だと分かっているのに足がすくむ。寒くもないのに歯の根が合わない。
 森は好んでよく行った。戦場だって初めてではなかった。それなのに、独り取り残されて迷子みたいに身を震わせている。恐ろしい以上に情けなくて涙が出た。
 一際大きく葉が動いて、明らかに風ではない何かが向かってくる。サクラは悲鳴すら上げられずに尻餅をつく。死を覚悟してぎゅっと目を閉じた。
「……何をしているの」
 聞き覚えのある声に、恐る恐る瞼を上げる。
 そこにいたのは、幻影の兵ではなく暗夜の第二王子レオンだった。愛馬に跨ったままサクラを見下ろしている。温度のない声で淡々と言う。
「はぐれたんだね」
「ご、ごめんなさい」
 サクラは目を伏せて呟いた。返事にはなっていないと理解していながら、つい謝ってしまう。
 レオンのあまりにも真っ直ぐな物言いが、サクラは少し苦手だった。真っ直ぐなだけならカザハナなどもそうだけれど、レオンの言葉はあまりに真実を突きすぎる。それが痛いのは図星だからだとサクラも知っている。
 悪いのは彼ではない。だからこそどう接していいのか分からないのだ。
「いつまでもそんなところに座っていたら、危ないと思うんだけど」
「は、はい」
 またしてももっともな指摘に、サクラは慌てて立ち上がった。
 裾についた土を払っていると、レオンがゆっくりと降りてきた。足を肩幅ほどに広げてサクラの前に立つ。
 模範的な立ち方。隙のない姿勢。表情は――怖くて見られない。容赦ない言葉が降ってくる前に、サクラは先んじて早口でまくしたてた。
 
「ご、ごめんなさい。迂闊でした。レオンさん、怒ってます、よね」
「別に」
 レオンは短く答える。実際、怒りや侮蔑のような響きはない。盗み見た顔は、突き放すように静かだった。
「どうせこんなことになるだろうと思ったから」
 それはサクラが、前に出たいと言い出したときからだろうか。あのときレオンだけは、歓迎しないと態度に出ていたから。
 サクラが視線を泳がせていると、闇色の籠手に包まれた腕が差し出される。
「嫌でなければ僕の馬に乗るといい。あなたの身内の傍まで送ろう」
 台詞だけは優しいのに、声にはその色がない。思い遣りならサクラも遠慮しただろうけれど、レオンの申し出はただ、ここに置いていくと面倒だからに違いなくて。だからかえって、意地を張らずに従った。
 冷たい、肌の質感も分からない手に導かれ、鞍に跨る。
「レオンさんは、どうしてこんなところに……?」
「この森は、竜脈である程度コントロールが利くようだったから。基点を探そうということになったんだ」
「そう、ですか」
 掴まってと言われたが、サクラにはレオンの身体に触れる勇気がなかった。草摺の部分に、申し訳程度に手を添える。多分大きく揺れたら落馬するだろう。
 レオンは何も言わなかった。ただ小さく息をついて、前に向き直る。あの整った鼻から吐き出された短い息の意味を、考えたくなくてサクラは下を向く。
 進軍しているとはとても言えない速度で、レオンの愛馬は二人を乗せていく。
「サクラ王女」
「は、い」
「周りを見ておいてほしい。あなたも王族なら、竜脈の気配を感じることぐらい出来るだろう」
「わかり、ました」
 ぐらい、という言い方が胸に刺さる。他には何も出来ないのだから、と言われたように感じたのだ。
 私こんなに嫌な子だっけ、とサクラはぐっと口唇を噛む。
 いちいち人の言葉の裏を疑って、深読みして勝手に傷つく。レオンの言うことは事実なのだから、素直に受け入れて行動すればいいだけなのに。どうして彼に言われることだけ、こんなに胸がつらいのだろう。ずるく逃げてしまいたくなるのだろう。快く反省が出来ないのだろう。
 鼻の奥がつんと痛む。泣くのは一層卑怯だと思ったから、サクラは懸命に胸を張って周囲を観察した。
 すると、にじむ視界にきらきらと舞い踊る光の粒を見つけた。暗い茂みの奥だが見間違いようがない。竜脈だ。
「れ、レオンさん! あそこ……!」
 法衣の端を掴んで軽く引っ張る。レオンは眉をひそめて振り返り、サクラの指差す先を見た。
「見落としていた。よく気付いたね」
「はい、私、目はいいので」
 サクラはそそくさと馬を降りる。竜脈は名の通り、竜の血を持つ者にしか干渉できない力の流れだ。
 暗夜だけでなく白夜王家も古き竜の末裔、そこに連なるサクラにも、竜脈に作用する程度の血は流れている。
「起動させれば、いいんですよね。少し待っていてもらえますか」
「あ、サクラ王女!」
 やっと役に立てると、思った。でしゃばって迷惑をかけてしまったけれど、これで少しは挽回出来る。
 駆け出そうとして、頭を押さえつけられた。何だか分からなくてレオンを見ると、目の前に散ったのは赤。
 今出たばかりの、鮮やかな血の色。
「あ……」
 ――レオンが倒れていく。呆気なく破損した鎧の破片が舞っている。
 胸から血を噴き出させ、仰け反りながらなお片腕を前に伸ばし。
「消えろ!!」
 指先から生まれた幻想の枝が、幻影の兵を貫く。
 こうまでなればいかなサクラとて気付く。自分は殺されかけたのだと。そして彼は、その軽挙の皺寄せに死にかけているのだと。
 レオンの身体がどっと地面に投げ出された。
「レオンさんっ!!」
 サクラは金切り声で叫んで、祓串を握り締める。聖句を唱えて魔力を移す。赤く染まったレオンの胸元に光は確かに灯るのに、禍々しい影に弾かれる。傷が全く塞がらない。血がだくだくと流れていく。
「う、嘘、どうして……」
 レオンの脇に膝をつき、がちがちとうるさい歯を必死に動かし呪文を繰り返す。
 けれど彼の肉は裂けたまま。再生も時間逆行も起こらない。
「あ、ああ……」
 どうしよう。どうしたらいい。自分に出来るのは串を振ることだけなのに。このままでは――最悪の結果が頭をかすめる。
「嫌っ、私、私なんてこと……!!」
 なんて愚かなことをしてしまったのだろう。今更後悔することでさえ自己欺瞞でしかないのに。
 取り返しがつかない。眼下で彼の口唇はどんどん色を失っていく。狼狽するサクラの腕を、力なくレオンが掴んだ。
「呪い傷、だ……ただの治癒魔術は、効かない」
「れ、レオンさ、わたし、わたし」
「……死なないから!」
 ぐっと、サクラの肌に鋼鉄の爪が食い込む。きっと加減さえしていられないのだ。あんなに額に汗を浮かべて。
 それでもサクラには、その痛みがありがたかった。自分を睨み上げる鋭い目に引き戻された。
「これ自体に致死性はない。失血が少ないうちに解けば、助かるんだ。あなたが進行を抑えてくれれば、僕は解呪に集中出来る。だから僕を死なせたくないなら、手を休めないでくれ。わかった?」
 もう話すこともつらいだろうに、こんなに一字一句はっきりと。
 サクラはぐちゃぐちゃの顔で頷いて、より熱を込めて聖句を唱えた。
 レオンも小声で何かを呟き続けていた。胸の上に右手をやり、指を一本、二本と動かす間に、影が少しずつ薄まっていく。ぱちん、と何かが割れるような音を最後に、レオンの肌は正常な状態に戻っていた。
「ありがとう」
 レオンがそう言って身を起こすけれど、サクラは強く目をつぶって首を左右に振った。
 ありがたいことなど何もない。サクラは自分のしでかした不始末の、最悪をぎりぎり回避したに過ぎない。
 レオンの指が、血のにじむサクラの腕に触れる。ひやりとした感触を袖越しにも感じる。
「すまない。痛むかい?」
 レオンの声は別人のようにかすれていた。サクラはやはり首を振る。レオンの痛みに比べればどうということのない傷だった。むしろ、お前のせいでと責めてくれた方が余程楽だったのに。
(贖罪まで誰かに甘えるなんて、私、なんて醜い……)
 レオンの顔を見ることが出来ず、サクラは立ち上がった。
 おぼつかない足取りで、しかし警戒はしながら光の泉に近づく。やり方は考えなくとも血が知っている。輝く粒子の中で両手を組んで祈る。大地が鳴動し、周囲の木々を残らず焼き払っていく。沸き起こる風に乾いた頬の上を、新しい雫がまた伝っていった。
「サクラ!!」
 呼びながら駆け寄ってきたのは誰だっただろう。
 もう判別さえも投げ捨てて、サクラはただ口唇の端を上げ、だいじょうぶですとそれだけを答えた。

 

 森を抜けて、一行は進軍を一旦止めた。
 アクアの調子が優れないようでもあったし、別の理由があったのかもしれない。あれから誰とも口を利かなかったサクラには分からなかった。少し一人になりたかった。血相を変えていろいろ問い詰めてくる白夜の者たちから逃げて、人気のない場所を探す。
 しばらく彷徨って、ようやく見つけた休めそうなところには、先客がいた。
 何もない平野。見通しのいいそこに立っていたのは、レオン。胸部を破損したためか武装は解いていた。当たり前のようだが、ただの身なりのいい青年になったレオンには、いつもほどの圧がない。ただでも白い陽を知らぬ肌は血色が悪く、青みを帯びてすら見える。
 サクラの瞳から、またひとつ雫がこぼれた。彼をああしてしまったのは自分なのだ。武人としての才にも恵まれ、堂々と胸を張っていた彼を、サクラが弱くさせてしまった。
「ごめん、なさい」
 無意識に呟いた言葉を、耳聡いレオンは拾ったのだろう。
 細い金色の髪を揺らしながら振り向いた。陽を知らぬならきっと月の光をより集めた髪を。
「サクラ王女。泣いているの?」
「いいえ。……いいえ」
 見え透いた嘘だと分かっていても、そういうことにしておきたかった。
 サクラはしゃくり上げる声が漏れないように、両手で口を押さえる。レオンは眉をひそめて息を吐き、サクラに歩み寄ってきた。
「何に対する謝罪なのかな、今のは。僕を哀れんでる?」
「違い、ます」
 サクラは俯いて首を振った。レオンの声がすぐ上から降ってくる。
「じゃあ、格好良くあなたを守れなかった僕に呆れてる」
「ち、違います!」
 予想外のことを言われ、思わず顔を上げて叫んでいた。
 レオンのそれこそ呆れたような目を見て、今のは自虐ではなく、サクラが心を閉ざしてしまうのを阻止するための挑発だったのだと気付いた。まんまと乗せられてしまった手前、逃げ出すことも出来なかった。
「違うのなら説明して。そうでないと、あなたが僕を可哀想な目で見ると吹聴するから」
「そんな……」
 レオンは真っ直ぐにサクラを見ている。サクラをいつも不安にさせる、あまりにも正直すぎる目。
 逸らせずに見つめ返しながら、サクラは喉を引きつらせた。
「私、何も出来ませんでした……。偉そうに頼み込んで、一人ではぐれて、そのうえレオンさんにひどい怪我をさせて」
「けど僕は、あなたが治癒してくれなければ死んでいた」
「結果論です……。私が迂闊な行動さえしなければ」
「僕はあなたを狙った刃の照り返しで、敵に気付いたんだ。一人だったら殺されていたかもしれない、それこそ結果論だろう。蒸し返して意味のある話じゃない」
 まただ。レオンの言うことはあまりにも正論で、サクラに自責すら許さない。
 涙が溢れる。言葉では敵わないサクラの身体が発した、精一杯の抵抗だった。けれどこんなことでは、泣けば済むと思っているのと追撃されるだけだ。だから両手を握り締め、声を張り上げた。
「……私は! 皆さんにご迷惑をおかけしたくありません! 足手まといになって危険を増やすぐらいなら、元の場所に戻って大人しくしていた方が、マシです……!!」
 そうしなよ、その方がいい、と言われるつもりで叫んでいた。
 いつものように冷たい正しさで、静かに斬り裂かれる覚悟だった。
「本気でそんなことを言っているのか?」
 けれど目の前のレオンは、今までサクラに見せたこともないほど、不快そうに顔を歪めていた。
 鎧を纏わない素のままのレオンの手が伸びてきて、身を引こうとするサクラの腕を掴む。
「失望させないでくれ。僕の知っているあなたはそんなに弱くない」
 ――レオンの瞳は激しく燃えていた。だが憎悪ではなかった。
 何かを待ち焦がれているような、切実な瞳。
「あなたは、最善と思って前に出ることを決めた。違うのか」
「そうです、けど」
「だったら、何で一度思い通りにならなかったぐらいでやめるんだ。そんなの子供の言い分だろう」
 レオンの理屈は至極もっともで。なのに、今はサクラの心も痛みを感じなかった。
 レオンの言葉が、視線が、熱く熱く染み込んで来る。
「いいかい、はぐれたのはあなたの不注意だ。それについて擁護するつもりはない。けれどあなたを見失ったのは、あなたを任されていたはずの臣下とタクミ王子の不手際だ。こういう事態を想定せず、軽率に許可を下ろしたのはあなたの兄君たちの失策だ。あなたを失えばどれだけの損害になるかも考えず、他人事のように扱ったのは僕ら暗夜王族の浅慮だ。リスクについて思いをめぐらせたにも関わらず、何も進言しなかったのは僕が冷血だったからだ! 一人ひとりがもっと気を配っていれば、今回のことは防げたかもしれない。だったら次は全員で防げばいい。その機会すら、あなたは一時の癇癪で捨てるのか?」
 剥き出しのレオンの指は細く、サクラの腕に深く食い込む。サクラは自分の頬を伝う涙の温度が、少しずつ変わっていくのを感じていた。
 やっと解った。自分がレオンの言葉のいちいちに、過剰なまでに反応してしまった理由。何も難しいことなどなくて、本当に簡単なことだったのだ。否定されるのがつらかったのは。批難されるのが苦しかったのは。
「わたし、レオンさんに、認めてほしかったん、です」
 だからしきりに顔色を窺った。誰よりも正しい人だから、その正しさに追いつきたかった。
「きっと私、レオンさんに、褒めてほしかった」
 その想いを口に出していたと気付いたのは、レオンが真っ赤になって手を放したからだった。サクラも赤面して両手で顔を隠す。
「あああああの、ふ、深い意味はなくて! レオンさんは頭もよくて魔術の才もあって、勇気も決断力もあって、私にはないものをたくさん持っていて……! わ、私、どんくさいし、祓串を振るぐらいしか能がなくて、だから羨ましくて……憧れていて! それだけです!」
「そ、そう」
 レオンは平素の調子で返したつもりなのだろうが、声が裏返っていた。
 ……絶対に気持ち悪い子って思われた。そう考えるとサクラは絶望で顔を上げられない。
 ひとつ咳払いが聞こえて、それからぽつぽつと続けられた彼の言葉は――いつもより、やわらかい響きを持っていた。
「とにかくさ。自分が最善だと思った手段が本当に最善の結果をもたらすなら、誰も戦争なんてしていないよ。過ちながら、他人に迷惑をかけながら、時には恨まれながらでも、最善を求めてあがき続ける……その姿は尊いんだって、僕らなんかより先にあの人についていったあなたなら、知っているはずだよね」
 だからもう、泣かないでいいんじゃないかな。
 そう呟いて、遠慮がちに目元に触れた指先は、血を失いすぎたためか冷たくて。この指を冷たくしてしまったのはサクラの愚かさで。
 だからこそ、この指がぬくもりを取り戻すまで、サクラは最初の決意を翻すわけにはいかないのだ。
「私、王族としての責務を、果たします」
 サクラはレオンの指を握って顔を上げた。まだ涙は止まらないけれど、一生懸命笑顔をつくる。
「レオンさんに認めてもらえるように、頑張りますね」
「……そうしなよ」
 レオンはぶっきらぼうにそう言って、顎をしゃくった。サクラの出てきた木陰の方を指している。
「とりあえず、そこでずっと丸まってるお友達を泣きやますことから始めたら?」
「えっ!?」
 サクラは慌ててレオンから離れ、示された方へ駆けていった。
 茂みの中で、カザハナが座り込んで泣きじゃくっていた。
「カザハナさん……どうして」
「ごめんねぇサクラっ、盗み聞き、するつもりじゃ、なかったの……」
 カザハナはいつもの気丈な姿からは想像もできないほど、弱々しい声でしゃくり上げている。
「ひ、ひとりに、なりたそうだったから……でもあたし、さっきサクラを見失ったとき、すごく、すごくこわくて……だから、サクラのこと見える場所で、ずっと隠れて、たの」
「カザハナさん。泣かないで」
 サクラは彼女の傍に膝をついた。触れようとするけれど、カザハナは激しく首を振って、サクラの手を拒む。
「タクミ様にも、ツバキにも、すごく怒られた……信じて任せたのにって、あたしもサクラを絶対守るって言ったくせに、嘘つきで、ごめんね……?」
「……嘘つきは私もですから。ちゃんとカザハナさんについていかなくて、ごめんなさい」
 サクラはなおも手を伸ばし、カザハナを抱きしめた。
 華奢な肩だ。同い年の少女。お互いにまだ、大人にはなりきれないけれど。
「今度こそ私も、あなたを守りますから。これからも傍にいてくれますか、カザハナさん」
 サクラが囁くと、カザハナは大きく鼻をすすった。サクラの身体を強く抱き返し、小さく、だがはっきりと答える。
「もちろんです。サクラ様」
 レオンが、黙って横を過ぎ去っていった。一瞥だにしない。だがもう、サクラの胸は痛まなかった。見てくれていないと感じても、きっと彼は知ってくれている。
 カザハナを支えながら立ち上がった。
「戻りましょう。ツバキさんも探しているかもしれませんし」
「はい」
 せっかくなので、カザハナと手を繋いでみた。振りほどかれなかった。真っ赤な鼻のまま笑ってくれた。
 カザハナの指は温かい。とても安心する。だから絶対に、失いたくない。
「サクラ。ここにいたのか」
 歩いていくと、タクミに会った。ひどく叱られることを覚悟していたのに、タクミはどうやら気まずそうに頭をかいている。
「後方には戻らない?」
「はい」
 サクラははっきりと即答した。タクミは目を逸らしながらも、どこかその返事を予想していたようであった。眉をひそめて嘆息する。
「僕らはもう絶対にお前を前に出さないつもりだった。でもレオン王子が、サクラ自身がそれを望まない限り、無理に下げないでやってほしいって僕らを――白夜の王族一人ひとりを、説得したからさ。そりゃ、僕らにも悪いところはいっぱいあったし。サクラ一人の責任にして、楽な方法で安全を図ろうなんて、浅はかだったかもと思ったし」
「ありがとうございます、タクミ兄様。皆さんに大切にしていただいて、サクラはとても恵まれています……」
 サクラは空いている方の手で、レオンが傷をつけた腕に触れる。まだずきずきと痛いけれど、魔力で治癒するつもりはなかった。これは贖いだから。我が身に刻まれた正しさだから。自らが治しきるまで、連れて行く。
 サクラはタクミの瞳を、正面から見つめた。
「だからこそ、恵まれた立場に甘えたくはありません。私も最後まで、私なりに精一杯の戦い方をします」
「そう」
 じゃあ、止めないよ。
 タクミも言い方の上手い方ではないけれど、サクラにはそれで充分伝わっている。
 カザハナと顔を見合わせて、二人で笑った。
 いつか、いつか自分を心から許せたら。あの指にちゃんと触れてみたいと、サクラは思う。
 決して冷たくなどない彼の、血の通う指が、本当はどんな温度なのかを知りたいと。
 もしもまだ冷えていたならば、あたためてあげたいと。
 そこまで思うのは傲慢だろうかと、少し臆病に、願っていた。