彼の名前は蒼炎の

 ――アイクはそれなりにそれなりの経験をして、テリウス大陸を旅立ったはずだった。
 女神の力で他の大陸を失い、海にぽっかりと浮かぶ最後の島々。それにさえ、知らなかった砂漠の向こうの国が存在したように、この遠い世界も傭兵砦で剣を振るうだけだった幼いアイクには想像もできなかった。
 龍脈で建てられたという不自然な建造物の傍で、宙に手を伸ばす。どんなに離れても空だけは繋がっていると思っていたのに、この星界とかいう場所は時空ごと異なるのだと聞いた。参謀なしのアイクではその理屈を充分理解することはできなかったが、彼らが当然のように利用するこの場所は――アイク自身がというより、その在り方が――ひどく寂しいと、何となく感じる。
 そんなことは、アイク一人の感傷に過ぎないのだけれど。
 彼らは今日も、何の違和感も覚えずにこの地で息をしている。
「なぁ見ろよニシキ、真っ黒な鉛と砕けた貝殻もらったぜ! いいだろ!」
「フランネルの趣味は相変わらずだね……。ボクはもっと透き通った宝石とか、割れてない美しい貝がいいよ」
 ぼさぼさ頭の耳の長い青年と、頭の上に大きな耳の張り出した青年が並んで歩いてくる。
 アイクは二人と言葉を交わしたことはない。いつも遠巻きに眺めているだけだ。ただ、こう近くて他の者がいなければ、無視をするというわけにもいかない。腕を下ろし、どうも、と当たり障りのない挨拶をする。
 フランネルとかいうベスト姿の青年が、両腕にガラクタを抱えて、おー、と意外そうに返事をした。
「お前が俺たちに声かけるなんてめずらしいな、えっと、ア、アイザック……? 違った」
「アイクだ」
「そうアイクだ。俺はフランネル、こっちはニシキ」
「知ってる」
「し、知ってる!? まさかお前、ずっと俺たちの毛皮を狙って……!!」
 ざっと身を引くフランネル(自身より腕の中の物を優先しているようにも見えた)。隣でニシキが、さっきボクら呼び合っていただろうと困ったように言った。その後で、じっとアイクを見る。かつて猫の青年が、色違いの双眸で初対面のアイクを眺めていたのに似ていた。
 普段、やぁありがとう、恩返しさせてよ、と言って回る浮薄な様子とは違う、落ち着いた態度でニシキは口を開く。
「キミはいつもそうやって、激しい目でボクらを見ているね。ただ欲や憎しみがない。毛皮が欲しいのでも、親きょうだいを殺されたのでもないようだ。ボクはそれがずっと不思議だった」
 アイクは目を逸らした。別に後ろ暗いことがあるわけではない。ただ、この世界の彼らには、こんな話をせずともよいのかもしれないのに、と言う前から少し悔やんだだけ。
 けれどそれも性分ではないので、結局正直に話してしまう。
「――俺は、あんたたちのような種族を知ってる」
 語りの上手い方ではない。意図したとおり伝わるのかも分からない。
 だから黙っていたのだが、元々隠し通せるほどアイクは器用ではないから。こうして二人が真剣に聞いてくれている限りは、きちんと言葉を紡ごうと思った。
「あんたたちと同じ獣の耳と尾を持つやつらや、鳥の翼を持つもの、竜の鱗を持つものもいた。そいつらはラグズという」
「なんだよ、お仲間を知ってるんなら尚更、俺たちを目の敵にすることねぇじゃねぇか。いやその、別に、仲良くしてぇとかじゃねぇけど! なぁニシキ?」
 自分に向けられたフランネルの視線に、ニシキは何も返さなかった。アイクの言動の一切を聞き逃さず、見逃さないつもりでいるように、集中している。そして抑揚のない声で告げた。
「キミはボクらを通して彼らを見ている、というわけだね。ということはなるほど、原因はボクらではなく彼らにあるということかな」
「半分そうだが、半分は外れだな」
 アイクは誤解を招かない程度の速度で腕を上げ、頭をかいた。
 ニシキの警戒は、アイクにしてみればむしろ甘すぎた。彼は『敵』に無情であったとしても、主義主張すらも関係ない『誰か』を心底憎んだことなどないのだろう。――優しい、恵まれた種族。
 アイクは腕を下げ、真っ直ぐにニシキとフランネルを見据える。
「改めて聞かせてもらっていいか。あんたたち妖狐と人狼は、自分たちを何と総称している?」
 アイクの問いに、ニシキもフランネルも訝しげな表情をした。ソーショーってなんだ、と首を傾げるフランネルは論外として、ニシキはふむ、と顎に手をやる。テリウスでは見ない金色の尾がふぁさと動いた。
「半獣人と、そう括るけれど。――そうだねキミは、この言葉を使うとき一際恐い顔をするよ」
「そうだ。俺は、『半獣』という呼び名が大嫌いだ」
 かつてアイクはその名を聞く度、馬鹿の一つ覚えのように激怒した。しまいには、本人たちでさえ聞き流すようなときにすら一人で怒っていた。
 アイクは、あの頃よりずっとたくましくなった拳を握り締める。
「俺も最初は、それが蔑称だと気付かず口にした。だがラグズの男に、『思い上がるな』と嘲笑われた。『お前たちから見たら、オレたちは半端者の“半獣”だというのか』と」
「違うぞ、半獣人はヒトの姿と獣の姿を両方取れる。むしろヒトより倍すごい生き物なんだぜ!」
 フランネルは、手の中の物を放り出してアイクに迫ってきた。
 あれだけ自慢していたのだから、彼にとってはとても大事なものだったろうに。アイクは地面に落ちた、刃こぼれして使い物にならない錆びたナイフを見下ろした。
「俺たちベオク――あんたたちの言う『ヒト』は、そうは考えなかった。自然に近い力を持つ彼らを畏れるあまり、迫害し隷属させた。『半獣』という言葉はそのとき生まれたものだ。だから彼らは、屈辱の記憶に刻まれたその呼び名を忌み嫌う」
 お前たちに受けた仕打ちを、我らは決して忘れない。そう宣言されたとき、アイクは初めて、憎しみとは常に個人の単位だけで受けるものではないと知ったのだ。ベオクに生まれた、それだけで既に背負っている罪もあるのだと。
 ニシキは静かに頷き、豊かな稲穂の色の瞳をアイクの蒼に合わせてくる。
「うん、キミの言う『ラグズ』が怒る理由は解った。でもキミはヒト、『ベオク』なんだよね。……こういう言い方はよくないのかもしれないけど、それって所詮は他人事じゃあないのかな?」
「そうだな」
 逸らすのは無礼だと思ったので受け止めた。
 それに、ニシキの瞳の色も、フランネルの瞳の色も、テリウスのラグズに負けず綺麗だったから。
「俺はラグズでもなければ、この世界の住人でもない。要するに他人事だ。だから口を出すのは筋違いだと思って黙っていた。それでもその響きを耳にする度、思い出すんだ。同胞の痛みに怒り、叫び、誇り高く在ろうとした仲間たちの顔を」
 その名を聞いただけで激昂し、殺意をぶつけてきた少女とその部下のことを。
 自らをそう呼んで蔑み、主を守ろうとした傷だらけの男のことを。
 『ラグズ』なんて言葉、誰も教えてはくれなかったと泣いたベオクの少女のことを。
 無知なアイクを許し、無理解の生んだ理不尽さえ受け入れてくれた親友のことを。
 故郷を焼き払われ、歌わされるために囚われ、愛玩されるために捕まった白い翼を。
 復讐を誓った王を、呪いに苦しんだ王を。
 半分と呼ばれたものの更に混血であることを恨み、悩み、あるいは世を疎み、あるいは破滅へと突き進み、あるいは認められ泣き崩れた彼らのことを。
 あの呼び名は、どうしても思い出させてしまうから。
「キミは優しいんだね」
 ニシキはぽつりと呟いた。感心というよりも、どこか呆れたような声音で。
 フランネルは忙しなく尻尾を揺らしている。
「確かに俺たち、あんまり深く考えないで使ってた……かも」
「この世界ではそれに特段侮蔑的な意味合いはないけれど、気を悪くするのなら、キミの前でその表現は控えよう。どうしても使わなければならない呼称ではないしね」
 ニシキはかがんで、フランネルのばらまいた物を拾い始める。アイクもそれに従った。
「すまん。気を遣わせたな」
「べ、別に、いいぜ。それよりその、『ラグズ』ってやつの中には、狼の仲間ももしかしていんのか? 興味あるとかそんなんじゃねぇけど……!!」
 けれど当のフランネルは、別の方に心が傾いているようだ。
 アイクは小さく笑って、世話になった懐かしい顔を思い浮かべる。
「ああ、いたぞ。俺が知ってるのは砂漠に住む隻眼の女王と、そのお付きの古代語を話す灰狼だけだが」
「なんだそれカッコいいじゃねぇか!!」
 せっかく集めた物をまた散らかすなというのに、忙しい奴だ。
 ニシキは先ほどまでの張り詰めた空気を捨て、呑気な声で問う。
「狐はいないのかい?」
「狐っていうのはあんたが初めてだな。猫と虎と獅子なら共に戦った」
「よしお前それ詳しく聞かせろ!!」
 フランネルが千切れんばかりの勢いで尻尾を振り、話をせがむ。
 ニシキは苦笑しながら、合間合間にいろいろ尋ねてきて、逆に補足もしてくれた。
「長く引き止めてしまって悪かったね。予定があったかい?」
「いや、特に」
「今度の戦闘では傍に来いよ、俺たちの戦い方を見せてやっからさ!」
 ようやく解放されて歩き出すが、取り立ててやることなどない。そもそもこの軍におけるアイクの立場は微妙であるから、あまり我がもの顔で歩き回るわけにもいかないのだ。こうして総大将が行軍を止めている日は、一番暇を持て余す。
 どうしたものかと腕組みをしていると、どこからか呼ばわる声がする。
「おーい! やーっとつかまえた、異界の大将! 手合わせしようぜー!!」
「ええと……」
 満面の笑みで駆け寄ってくる、茶髪の青年の名が出てこない。つい、傭兵仲間の女剣士の名で呼びそうになってしまった。確か白夜王国の王子の側近だったような気はするのだが。
 戸惑っているアイクの前でぴたと止まると、青年はしかつめらしい顔で名乗りを上げた。
「白夜第二王子タクミ様が臣下、ヒナタ! いざ尋常に勝負だ異界の剣士殿」
「アイクでいい。勝負は構わんが、俺のラグネルは諸刃だから、あんたらの言う峰打ちってやつはできんぞ」
 アイクは自分の携えている神剣をちらと見た。自分の軽率な判断で、一時とはいえ仲間となった者を傷つけるわけにはいかない。渋るアイクに対し、ヒナタは急に破顔する。
「そう言うかもと思ってさぁ、俺は考えたんだよ! で、これ。これ使えば手を抜かずに大怪我もしない勝負ができるぜ!」
「これは……」
 押し付けられたものは確かに剣の形をしていたが、明らかに金属でない素材でできていた。恐らく植物と、部分的に布、だろうか。
 シナイっていうんだ、とヒナタはもう一振りを正眼に構える。
「竹で出来た刀だよ。思いっきり打ち込んでも死にゃしない」
「なるほど」
 アイクは右手で持った竹刀で、自分の左腕を全力で叩いた。ヒナタが、うわっと声を上げる。
 ひどくいい音がしたし痺れたが、確かに血は出なかった。父にしこたまやられた木剣よりもよほど痛くない。
「安全だな」
「だからっていきなり自分殴るか普通? あんた面白いなー」
「まぁ、もの珍しかったからな」
 アイクもすっと上段に構える。
 この竹の刀には相応しくないのかもしれないが、尋常に勝負というなら馴染んだ型で挑むのが礼だ。
「初手は譲る。――全力で、来い」
「上ッ等! 行くぜぇえ!!」
 ヒナタの剣技はなかなかのものだった。傭兵仲間の少女や一時の師もオリエンタルな刃を使いこなしていたものだが、流石と言うべきか、白夜王国は極東の太刀筋が色濃い。暗夜の剣にはここまでの差異は感じなかった。近い国でも違えば違うものだなと――思っているうちに、ヒナタの竹刀が宙を舞う。技は流麗でも膂力が足りない。
 これもまた、雷神刀なる神器を持つ第一王子リョウマが相手なら、話は別だろうが。
「……参った。やっぱあんた強ぇわ」
 ヒナタは肩をすくめた。しかしアイクには、彼がこれしきのことで諦めるようには見えなかった。転がった竹刀を顎で指し、自分はヒナタのしたように真正面で構え直す。
「白夜のサムライってやつは潔いな? 折れてもいない剣を捨てるなよ。俺の貧乏傭兵団なら大目玉だぞ」
「へぇ、折れるまで付き合ってくれるって?」
 ヒナタは目を輝かせ、地面に落ちた竹刀を拾った。手元でくるりと器用に回し、再び柄を握る。
「言っとくけど、竹は木やなんかと違ってしなるからそうそう折れないぜ。あんた一日俺と潰すことになるけど、いいのかい?」
「構わん。どうせ暇だし力も有り余ってる」
「よし! じゃあ遠慮なしに第二戦――」
「ヒナタ!!」
 猛然と斬りかかろうとしていたヒナタは、大声で名を呼ばれて急停止した拍子に顔面からすっ転んだ。
 アイクは竹刀を放り出して駆け寄ったが、ヒナタは何事もなかったかのように起き上がる。
「あ、タクミ様ぁ。どうしたんですか」
「どうしたんですか、じゃない。あんまりお客人を振り回すなよ」
 現れたのは、灰銀のとても長い髪を結い上げている、少年と青年の狭間にあるような人物だった。顔と名前は一致しているが、言葉を交わすのは初めてだ。
「タクミ王子か。あんたも確か、俺と同じように神器を持っていたな。その弓がそうか?」
「だから何?」
 アイクが問いかけると、白夜王国第二王子タクミは、射抜くような眼光で答えた。
 涼やかだが同時にひどく気難しそうな声をしている。機嫌さえよければもっとやわらかく響くだろうに。
「僕が武器の力で戦果を挙げてるって言いたいの? お望みなら普通の弓で戦ってみせたっていいよ。……それに、剣だってあんたやヒナタに負けてるとは思ってないから」
 アイクの投げた竹刀を見下ろす。持って来いとでも言っているつもりなのだろう。
「それには及ばん」
 アイクは竹刀を拾いこそしたが、タクミの元までは向かわず、間に挟まれて呆けた顔をしているヒナタに手渡す。
 かっと顔を赤くして怒鳴ろうとしたタクミを、視線で制した。だが威圧する意図はどこにもない。ただ、必要がないからと示しただけ。
「あんたがその神弓を自在に操れるのは、あんた自身がそいつを誰より信じてるからじゃないのか。だからそいつもあんたに力を託す。それは武器への依存でもなければ、虎の威を借る行為でもない。そういう奴が手にするものなら、どんな棒切れでも凶器ぐらいにはなるだろう」
「……知った風な口利くね」
 タクミはヒナタから竹刀を奪い取った。どうやらアイクの言葉は火に油を注いだだけだったらしい。
 だがヒナタが、ダメですよとタクミから竹刀を奪い返す。
「タクミ様こそ、旅人殿とケンカになるようなことはするなって、ごきょうだい中から釘刺されてたじゃないですか」
「うるさいな! 昼食だって呼びに来てやったっていうのに」
 タクミはばっときびすを返した。勢いで長い髪がヒナタに直撃していたが、どうやら本人は気付いていないしヒナタも気にした様子がない。
 タクミは数歩歩き出してから、いきなり立ち止まり肩越しに振り向く。それはお世辞にも友好的な視線ではなかった。
「あんた、頼むから僕の目に入る場所で食べないでくれよ」
「悪ィな大将。タクミ様も本当は優しい方なんだが、ちょっと人付き合いが下手でさ……」
「ヒナタ!!」
 肩をいからせて去っていくタクミと、アイクに謝りながら主を追うヒナタ。
 揺れる赤い紐を見ながら、アイクはその高く結い上げた髪が、深紅になる幻影を見た。
 いつか、あの尖った王子の腰の辺りに、懐いて回る弟子だか子供だかが出てきそうな気がする。
 
 食堂の前まで行くと、いきなり少女に声をかけられた。
「あーっ、アイクさんだー」
 アイクの顔と名前を正確に把握している数少ない人物だ。だからアイクの方も彼女の名前は覚えている。
「エリーゼ王女」
 暗夜王国の末姫、エリーゼだ。今日はあの、見ているだけで気の毒になる不運の塊と、よく知った魔道士と同じ『おなかがすいた』が口癖の重装歩兵はいないらしい。先に中に入ったのだろうか。
「ひとりなの? じゃあ一緒に食べよう。誰かと食べた方が絶対楽しいよ」
 エリーゼは二つに結わいた豊かな金髪を揺らし、そう笑った。
 聞き覚えのある台詞に吹き出しそうになって、アイクは口元を押さえる。
「……そうだな」
「何で笑うの?」
「いや、何でもない」
 食事に同席してくれと頼んだら、金をせびってきたやつを思い出してたとアイクが言うと、えっそんなおかしな人がいるの、とエリーゼは大きな目を丸くしていた。
「アイクさん、払ったの?」
「払ってない。そんなに嫌ならと思って諦めた」
「そっか。その人、本当にお金渡されたらどうしてたんだろうね」
「さぁな。金に関しては律儀な奴だったから、無表情で黙って座ってたんじゃないか」
「それもおかしいね!」
 エリーゼはころころ笑っている。アイクは微笑ましく思う一方で、こんな無邪気な少女がと陰鬱な気にもなった。女子供の別なく戦場に立たされる。どの世界でも、権力者だけが望む争いというものは無益なものだ。
「エリーゼ」
 落ち着いた青年の声が、不意の風のように二人の会話に割り込む。決して大きくはないのに、何かを断ち切る冷えた声。
 視線を向けると、金髪の美青年が立っていた。黒い鎧は、かつてアイクの祖国を蹂躙した国の装備を思わせる。暗夜王国第二王子レオンは、アイクを見ながら、それでいて妹だけに向けた言葉を放つ。
「あまりそいつに近づくんじゃない」
「レオンおにいちゃん……」
 エリーゼは呟いて、おどおどとアイクを見上げた。アイクは肩をすくめ、エリーゼの背を押してやる。
「俺のことは気にしなくていい。兄貴のところへ行ってやれ」
「……うん、ごめんね」
 俯いて、エリーゼはレオンに駆け寄っていった。
 だがレオンはエリーゼのことも追い払ってしまった。そしてまた、その場から動かずにアイクを見据える。
「何だ?」
 アイクも気の長い方ではない。黙って睨みつけられて、待っていられるようには育っていない。
 レオンは口を開き、低く一言呟いた。
「……理由が分からない」
「何の?」
「貴様がここに居座る理由だ」
 もっともだった。もしあの頃の自軍に同じような立場がいたならば、アイクもその者の言動に注意したはずだ。
 それは信用とは別の次元の警戒である。ただ、レオンはアイクのことを信用すらしていないのだろうが。
 レオンは一度腕組みをしてから、片手を外して口許にやる。
「理由、というより利害だな。それさえはっきりしているならもう少し信頼してやってもいいんだが、無償の善意というのは気味が悪い」
「強い奴と戦えるからでは不充分か?」
 恭順の証に何もない両手を広げる。レオンは目を伏せて、首を横に振った。
「不充分というよりは不明瞭だ」
「言葉遊びだな」
 アイクは首を振り返した。なるほど、自慢の参謀に値踏みされてきた者たちの気持ちがよく分かる。
「俺は傭兵だ。あんたたちの将が俺を雇ったからここにいる、ということにしよう。報酬はこの世界での体験そのもの。それなら分かりやすいだろう。信じるかどうかはあんた次第だが」
「ふん。せいぜい背中には気をつけておくよ」
 レオンは尊大に鼻を鳴らした。アイクは気を悪くするどころか、実は内心笑いをこらえていた。
 立ち去りかけたレオンは、横顔のまま、ふとすれば聞き逃しそうな早口で言う。
「……ただ、妹を一人にしておかなかったことにだけは、礼を言っておく」
 どう考えても礼を言っている口調ではないのだが。だからアイクも、それには及ばない、と返した。
「俺も妹のことを思い出していただけだ」
「え?」
 何か聞き返される前に、食事の確保に向かう。腹も減っていたし、それに。
 ――妹のことを、今更誰かに訊かれるのも未練のようで、好かない。
 
 食べ終わってまたぶらぶらしていると、どこからか歌が聴こえてきた。
 この軍で歌う者をアイクは一人しか知らない。ふらりとそちらへ足を向ける。
 いつも将の傍で静かな顔をしている女性。名は確か。
「アクア」
 呼びかけると、女性は歌を止めて振り向いた。
 琥珀の採れる泉の前。その髪は水を映したように、瞳は宝石をはめ込んだように美しい。アイクの親友の毛並みに似た爽やかな色の髪、命を張って守り通した少女と同じ色の瞳だった。
 アクアは形のよい口唇を開き、透明な声で言う。
「あなた……蒼炎の勇者、だったかしら」
「その名前は好かん」
 蒼き炎。最後にそれに助けられたのは事実だが、あの紋章をめぐってはあまりに多くの命が喪われすぎた。
 ――アイクの両親だとて。
「じゃあ、何と呼べばいい?」
「アイクと。俺自身の名で」
 俺の両親のくれた名で。
 そう、アイク、とアクアは繰り返した。感情がないというのとも違うが、さざなみ一つ立たない湖面のようだ。アイクが横に立っても、アクアは顔色を変えなかった。
 白を基調とした衣装はまるで何かへの捧げもののようだった。
「あなた、別の世界で大きな戦を体験したそうね」
 アイクの目に、彼女はその供物であることを自覚しているように映る。
 無限に宝石の湧き出る不思議な泉に視線を転じながら、そうだな、とアイクは答える。
「あんなのはもう、二度とごめんだな」
「――そう」
 自分で訊いておきながら、アクアは気のない返事なのだった。
 だが続く問いは、同じような調子にも関わらず、アイクの心を強く打った。
「そのあなたから見て、私たちは正しいと思う?」
 真っ直ぐに前を見据えた横顔。それでも、戦場でみなを勇気づける口唇は、かすかに震えていた。
 元々この戦は、彼女とこの軍の将とが始めたことだと言う。
 彼女は、彼女だけは、この戦いが正しいのかと誰かに問うてはいけなかった。始めたからには収束までを導く責任があった。その覚悟があって選んだはずだった。だから弱音は吐けない。この世界の人間には。
 アイクは、いないはずの人間だから。この世界に何の責任もないから。
 ほんのわずかの波紋も、観測したのはアイクだけ。彼らにとっては起きなかった現象。
「さぁな。正しさなんて、結局立つ側によって変わってしまう」
 だから波立てばいい。その透き通る湖水が、彼らの前ではこれからも濁りなきよう。
 小石で水を切るなら、異界の者がその役を引き受けて構わない。
「あんたたち、古代竜だか神だかに喧嘩を売りに行くそうだな」
「……ええ。人の身で、と震える者もいる」
「俺は両方戦ったぞ。で、勝った」
「え?」
 アクアが初めて、大きく揺らいだ表情を浮かべた。だから今度こそ、アイクはその瞳を真正面から見つめる。
 狂王に挑む前、勝てるでしょうかと呟いた白い装束の少女と同じ色の瞳。
「俺たちを裁いた女神は『正しかった』。だが同時に間違っていた。俺たちも、過ちながら彼女に抗った。『正しくない』と告げられても、『選ぶ』ことと『貫く』ことだけは俺たちにも許されていたから」
「選ぶ、ことと、貫く、こと……」
「そうだ。あんたたちは選んだんだろう。だから次は」
「――貫くだけね」
 アクアが口の端を上げる。もう既視感はない、彼女自身の顔。
「往くわ、私たちの道を。信じ抜いて、貫く」
「ああ。俺もせいぜい見届けさせてもらうとする。とりあえずはな」
 アイクに頷くと、ふっとアクアは前に踏み出した。
 そのまま泉に沈んでいくのではないかと思うぐらいぎりぎりに立って、振り向く。細い水色の髪が広がる。
「ねぇ。お気に召すかは分からないけれど、お礼に歌わせてもらってもいいかしら」
「そうだな。――ただ、あんたの歌はいつも、あんまり寂しすぎるから」
 アイクは、空を仰ぎ普段使わない用途で喉を震わせた。
 いつか母が自分に微笑みかけながら、妹が無邪気に花を摘みながら口にした旋律。
 気恥ずかしくて人前で声に出すことはなかったけれど、心の中ではいつも歌っていた。
「この曲を、頼めるか。俺はあんたみたく上手くないから、伝わったか分からないが」
「ちゃんと覚えたわ。……優しい歌ね。あなたの声も、メロディーも」
 アクアはすっと胸を反らし、息を吸う。
 紡ぎ出される歌声は、肉親の素朴さとも、鷺の荘厳さとも違っていて。
 繊細で幻想的な、どこまでも透明で儚い音。
「   」
 アイクは何かを口にした気がするのだが、言葉は震えずに空気に溶けた。
 秘密をかき消すように。想い出をさらうように。
 遠くない未来、アイクは必ずこの地を去る。泡沫のようにこの世界からいなくなる。
 そしてかつて生きた世界からも、どの世界からも。
 それは悲しくとも、何もひどいことではないのだと――聴き慣れぬ声は、そう再生と解放を歌っていた。
「アイク。あなたの髪、素敵ね」
 アクアは歌い終えると、両手を後ろで組んでアイクを見上げる。癖のある蒼い髪を。
「私の水の色は、何かを消すことは出来てもあたためることは出来ないの。その蒼い炎は、激しくはないのに熱を点す力を持ってる」
 アイクはそっと自分の髪に触れた。
 ――混沌の託した蒼い炎。焼き尽くすためでなく、慈しむために秩序を砕いた。
 そして女神は、暁に目覚める。
「その歌があれば、あんたたちも大丈夫だ」
 そうだ、あの炎は無辜の者を奪いながら。それ以上のものを救っていった。
 アイクはあの頃していたように、親愛の証に右手を差し出す。
「『蒼炎の勇者』が言うんだから、疑いようがないだろ?」
「ええ、そうね」
 アクアもそっと歩み寄って、意外と力強くその手を取った。
 遠くから、彼女を呼ぶこの軍の将の声がする。
「戻るといい。あんたを待ってる奴らがいる」
「わかってる。それでも」
 アクアは踊るようにアイクを追い越しざま、微笑んだ。
「この戦いが終わるまで、今だけはあなたもこの世界の仲間よ。それだけは、覚えていて」
「そうだな。……あんたがその歌を忘れない限りは、そうすることにする」
 泉の水を編み込んだような髪がすり抜けていって。アイクはひとり、立ち尽くす。
 見も知らぬ世界の中、さまざまな魂に触れ。ただ一筋、明日へ繋がる光を見た。