甘くて苦い手

 星界の城の中を、グレイは足取り軽く進む。忍たるもの重々しく歩くなど論外だが、今は少し意味が違う。
 目的の人物を見つけ、息を弾ませて速度を上げる。食堂前の紅の傘の下、彼女は椅子に座って何やら書き物をしていた。
「母さん!」
 彼女が顔を上げる。その、薄紅の髪の少女――サクラは、紛れもなくグレイの母親なのだった。
「グレイ。どうしたんですか、そんなに慌てて」
「やっと、あげられるような綺麗なのができたぜ。ほら」
 グレイは向かいの椅子に腰を下ろすと、小箱を取り出した。そっと蓋を開け、懐紙をどける。サクラはその中身を見て、ぱっと顔を華やがせた。
「わぁ、すごいです! とっても可愛い!」
 桜色の小さな飴玉。色はつけたまま、透明感を残すのに随分苦労したのだ。
 うっとりと眺めているサクラ。グレイはテーブルに片肘をつく。
「この時季、さすがにサクランボは手に入らなくてさ。食堂で相談したら柘榴ならあるって。それで着色したんだ」
「グレイは器用ですね……」
 感心しながら、サクラの目は『早く味を知りたい』と急いていた。
 どうぞと苦笑すると、サクラは頬を赤らめて一粒口に放り込む。
「おいしい! いつもの飴より酸味があって、でもそれでいっそう甘みが引き立って……」
「そうそう、やっぱり母さんは話が分かるよな」
 グレイはうんうんと頷いた。
 父サイゾウは、甘いものが苦手だ。同世代の女は甘味を与えると勘違いし始めるし――自覚がないから質の悪いことに、これにはどちらもグレイの端正な容姿が大きく影響しているのだが――男に渡すとそれはそれで妙な噂が立つ。かといって親世代の人間に贈るのも、子供が気を遣わなくていいと言われてしまう。
 サクラは何の気兼ねもなく受け取って、無邪気に喜んで、しかも仔細な感想まで述べてくれる。時には、たとえ親離れができないと笑われようが知ったことではない、連れ立って店まで買い物に行くこともある。そして急ぎ足で戻って、茶を淹れてあれこれ語り合いながら食す……。
 サクラはグレイにとって、最高の甘味仲間だった。
「それで、母さん。何してたんだ」
「あ、これはですね」
 よかった、今日はきちんと喋ることができている。先日は張り切って大きな飴を作りすぎて、口の小さなサクラは、飴が溶けて小さくなるまでまともに聞き取れる言葉を話せなかった。
「オロチさんからの課題です。お札百枚、きちんと書けるようになるまで練習中なんですよ」
「……それ、また体よく手伝わされてないか?」
 グレイは半眼でサクラを見た。あの王城お抱え呪い師は、もっともらしいことを言って自分の都合のいい展開に持っていく癖があるのだ。それで許されるのはひとえに人徳と、実力あってのことだろうが。
 いいんですよ、とサクラは笑う。
「お札を作る特訓をさせてもらって、それでオロチさんの役に立つかもしれないなら、とてもいいことじゃないですか」
「母さんがいいなら、いいけど」
 けど、とは言いながらやはりグレイは釈然としないのだった。
 サクラは書き終えた札を、一枚一枚小さな文鎮で乾かしている。壁に貼りながら部屋でやればいいのに、ともグレイは思ったが、それはそれで気が滅入りそうだ。
「そもそもさ、何で母さんは陰陽師なんか目指してるんだ? 弓を扱う練習もしてたんだろ?」
 札を汚さないよう注意して頬杖をつく。えっと、とサクラは目を伏せた。
「確かにタクミ兄様に教わってはいたんですけど、私……弓は下手っぴで」
「まぁ、そっか。母さん非力だもんな。祓串と同じように、魔力を活かす職の方が向いてるか」
 人には向き不向きがある。グレイに、あれほど嫌っていた忍としての才があったように、好きでも芽吹かない才もあるのだろう。
「じゃあ、俺は退散するかな。話す片手間じゃ札にも呪力が宿らないだろ」
 立ち上がる。サクラは再び筆を取り、グレイ、とやわらかく呼びかけた。
「ありがとう。おいしい飴をいただきましたから、また集中して頑張れます」
「だろ? 疲れたときには甘いもの。また新作が出来たら渡すからさ。札百枚とどっちが早いかな」
「が、がんばります」
 細い眉をきゅっと持ち上げる母に苦笑して、グレイは食堂の前から立ち去った。
 しかし用事はこれで済んでしまった。特殊任務につくことも多いグレイだが、今は仕事も特にない。
 手持ちの材料で他に何か作れないか考えながら歩いていると、後ろからいきなり声をかけられた。
「グレイ」
「うわ!?」
 思わず飛びずさる。白夜軍の中で、グレイに全く気配を悟らせない人間はサイゾウを入れても片手に届かないが、彼は中でも特別忍び足が上手いのだった。
「脅かすなよ、スズカゼ叔父さん」
「すみません。驚かすつもりはなかったんですが、私は忍であることを差し引いても影が薄いもので」
「つまんない謙遜だな」
 グレイが茶化すと、スズカゼは苦笑して小さく肩をすくめた。肩をすくめるぐらいが、今の彼には精一杯なのである。
「……また、えらくもらってきたな」
「はい……一応お断りしたのですが」
 スズカゼは、見ると大体腕いっぱいに何かを抱えていて、それが全てもらいものだというから驚く。
 顔と人徳もあるのだろうが、名の示すとおり涼しげな風のような雰囲気が、何かためになることをしてやりたいと思わせるのかもしれない。打算などなくとも、そうしてすっと他人の信用を得てしまうのも、サイゾウやグレイとはまた違う、忍としての才能だろう。
「あの、確かこの……真ん中の方が菓子らしいので、よかったらもらってくれませんか」
「どこだよ」
 なにせ両手がふさがっているので、ここと指せないスズカゼである。一度下ろせばいいのに、いただきものを地面になどとても置けないのだろう。
 グレイは嘆息して、小さく畳んだ風呂敷を懐から出した。任務中、急に持ち帰る物が増えたときに備えて持ち歩いているだけで、洒落っ気でも気遣いでもない。
「ほら、ここに」
「すみません」
 広げた風呂敷に、スズカゼがいただきものを一つずつ置いていく。
 野菜、文、果物、野菜、文、果物、菓子、菓子、菓子、文、野菜、鉱石、野菜、髪。
「最後のは何だ……」
「いえ、なんでも覚悟の証として私に受け取ってもらわねば死ぬ、と言われて断れず」
「出家でもするのかその女」
 髪とスズカゼへの想いを断ち切りて――ぞっとしない。叔父本人がその意味をほとんど理解できていないのが尚更恐ろしい。
 グレイは嘆息して話を終わらせ、気を取り直して菓子の検分を始める。
「お、クッキーか、定番。こっちはパウンドケーキ……こ、これフロランタンか!? 金持ちかよ……」
「詳しいんですね、暗夜の菓子に」
 スズカゼがグレイの向かいに膝をついて、微笑んだ。まぁな、とグレイは指先で鼻をかく。
「敵情視察の一環だよ。それにほら、こういうのが大好物の捕虜の目の前で、うまそうに食ってやったら情報を吐くかもしれないだろ?」
 と、空をつまんで食べる真似をした。そうですね、とスズカゼはやはり笑っている。
「全部あげますから、サクラ様と食べてください」
「いや、そういうわけにはいかない」
 グレイは大真面目に断った。勿論、本当は喉から手が出るほど欲しい。いや、喉からなど食べられるものか、まずは舌で味わってからでなければ飲み込めない……ではなく。
「これは、あんたにって思って贈ってくれた人がいるもんだろ。何もしてない俺が、横からかっさらっていいもんじゃない」
 その女共の情念がこもっていそうで怖いのでは決してない。
 そうですか、とスズカゼは少し宙を見て考えた後、また笑顔をグレイに向ける。
「その方々の気持ちは、私がしっかり頂戴します。ですから、ただの物になった菓子は、私からあなたに贈らせてください。まだ独り身で、子供もいない叔父を喜ばせると思って」
「……それなら、もらう」
「ありがとうございます」
 にこにこ顔の叔父に、グレイは苦笑するしかない。
「俺、父さんよりよっぽど叔父さんによくしてもらってる気がするな」
「甥姪と孫は無責任に甘やかせるらしいので。兄さんは実の親ですし、『サイゾウ』を継ぐ者ですから、重責が違うでしょう」
 スズカゼは世間話のような調子で言った。
 ――叔父は優しい。忍には向いていないくらい甘い。それでも、グレイにはずっと疑問だったことがある。
「なぁ、スズカゼ叔父さんは……どうして父さんの方が『サイゾウ』だったのかって、考えたこと、ないのか?」
「え?」
 スズカゼの顔から笑みが消えた。いつもゆったりと構えている温厚な叔父から。
 何か言わなければはぐらかされると思い、グレイは畳み掛けるように問う。
「双子なんだろ? 同じ日の、ほとんど同じ時間に産まれたんだろ? たったそれだけの差で兄貴面されて、『サイゾウの誇りを継ぐ』とか言われて……不公平だとか、思ったこと、ないのかよ?」
 最後の質問だけは、勢いがなくなってしまった。
 そうですね、とスズカゼは、いつもの前置きをいつもより暗い響きで口にする。
「ないと言ったら嘘ですね」
 グレイの中では、ありませんよと返されて、本当か、無理してないかと問い詰める予定だった。
 こんなにあっさりと言われて、尋ねたくせにどうしていいか分からない。
 スズカゼはまた口唇の端を上げる。だが目元はわずかに震えていた。
「どうして同じ日に産まれ血を分けた二人なのに、兄だけが責め苦を負わねばならないのか……何故『サイゾウ』としての重さも痛みも全て兄に押し付けて、自分だけ『スズカゼ』と呼ばれて呑気に生きているのか、悩んだこともあります。だって、『サイゾウ』から逃げたいと思ったことがあるでしょう? あなたにも」
 スズカゼの声はやわらかいのに、金棒より激しくグレイの頭を打った。
 そうだ、スズカゼは『サイゾウ』にならなかったのではない、なれなかった。なってやりたくても何もかもがそれを許さなかった。ほんの少しずれた時間に産まれただけの赤子が、何もかもを引き受けてしまったから。
「母さん、も?」
「サクラ様が?」
 ふらりと立ち上がるグレイを、スズカゼが不安げに見上げた。自分の嫌な話を持ち出されたときより、他人の名前が出た方が表情が動くなんて皮肉だと思った。
 グレイはまだ痛む頭を押さえて、必死に推論を立てる。
「母さんが弓を持たないのは、タクミ伯父さんと――代わってやることが、出来ないから?」
 グレイも、本当は何度も暗器を捨てたいと願った。使えなければ、向いてないからと『サイゾウ』から逃げられると安易に思った。
 でもできなかった。運命も、意志も、そこへ収束する。グレイがいずれ六代目を継ぎ、七代目に繋ぐ未来へ。
 風神弓の継承者はタクミだ。それは既に決まっている。覆らない。
 だからこそ、いくら弓が上達していっても。サクラは兄の重荷を引き受けてやることが出来ない。
 母は、それがつらかったのではないのか。どうせ役に立てないのなら、別のことをした方がいいと思ったから、これまで触れたこともなかった陰陽道にまで手を出し始めたのでは。
 そうだ、望まずとも持たされる者であったグレイは。望んでも持たせてはもらえない者の苦悩を、今まで一度も考えたことがなかった。
「グレイ」
 スズカゼが、硬い声で言いながら立ち上がる。だが彼が何かを言おうと息を吸った瞬間、別の声が割り込んできた。
「何やってるんだ? こんなところで店を広げて」
「タクミ、伯父さん」
 グレイはかすれた声で呟く。タクミは歩み寄ってきて、風呂敷の上の雑多なものたちを見て眉をひそめた。
「また断れなくて持ってきたのか、スズカゼ。現地人の信用を得るのは結構だが、何が仕込まれてるか分からないから燃やして帰れと前にも言っただろ」
「は。申し訳ございません」
「特に食べ物は毒入りかもしれない。全部捨てろ」
「……は」
 スズカゼは頭を垂れたが、すぐにそうしますとは一言も言わない。
 タクミも承知なのか、聞こえよがしに嘆息するのみでそれ以上は責めなかった。
「で、グレイは? 顔色が悪いけど」
 タクミの視線がグレイに向く。
 他人につらく当たりがちなタクミだが、内側に認めた者には案外と甘く、グレイのことも『サイゾウの息子』というより『サクラの息子』として何かと気にかけてくれるのだった。グレイも、それなりに伯父のことは信用している。だが今は、何を言ったらいいのか分からなかった。
「タクミ様。お手を拝借してもよろしいでしょうか」
 普段よりやや強い口調で、スズカゼが言う。タクミは訝しげに、手? と呟いて両手を開いた。
 スズカゼが、だらりと下がったグレイの手を引く。
「お手を触らせていただきなさい。そうすれば、少しは答えに近づきます」
「手を……」
 グレイは半ば無意識に言った。タクミは不審げな顔をしているものの、特に抵抗はしない。
「よく分からないけど。触るならそれでもいいから早くしなよ」
「あ、ああ」
 言われるがまま、伯父の両手を触った。その皮膚は、幾度も擦り切れて腫れ上がった形跡があった。とても硬い。母の、小さくて柔らかい手とは、全然違う。
 はは、とグレイは乾いた笑みをこぼした。確かに、悩むまでもないことだった。ただの考えすぎだ。
「……そりゃあ、母さんには無理だ」
「何が?」
「弓。こんな手でなきゃ扱えないなら、母さんが上手く使えるはずがない」
「何の話だか知らないけどさ」
 タクミはグレイに両手を差し出したまま、淡々と告げる。
「ただ的に当てるだけなら、サクラは信じられないほど上手いよ。兄の僕が言うのもなんだけど、実戦を考慮しない純粋な武芸だけで見るなら、あの子は間違いなく名手だ」
「え?」
 一度解決しかけた疑問が、まだ終わっていないぞと鎌首をもたげる。
 サクラは弓の天才だった。持てないから弓を置いたのではなかった。
「生き物を狙うことを嫌うから、祓串しか持たないんだと思っていたのにね。どうして、人を呪い殺す方になんて進んでいったんだろう。遠方から味方を援護するのなら、使い慣れた弓の方がまだ楽だったろうに」
 タクミの言葉を聞きながら、グレイの手はどんどん力を失っていった。それに合わせて、タクミも手を下ろす。
「もうすぐ出陣だそうだ。二人とも早く支度をしろ」
 タクミの声の冷たさが、今はありがたかった。グレイという個人から、任務を遂行するための忍へと思考が切り替わっていく。
「外での戦い、か……何だか随分久しぶりな気がする」
 そう独りごちたのを、タクミが耳聡く拾って訂正した。
「グレイ。『外』はここだ。あちらが、お前の本来生きる世界だ。――秘境を出てきた以上、履き違えるな」
「そう、だな」
 今まで生きてきた環境の方が異常だった。グレイが好奇心や冒険心で度々『訪れた』世界――あちらが、『本物』だったのだ。
 狭い覗き窓から見えたものは、ただの断片で。よく知っているつもりだった両親の影さえ、追うほどに遠ざかる気がする。
「スズカゼも。あまり深入りして教えすぎるんじゃない」
「申し訳ございません。出すぎた真似を」
 立ち去っていくタクミ。
 外へ、否、本来の世界で、本来の仕事をする支度をしなくてはならない。
「……菓子、いりますか?」
 スズカゼの控えめな問いに、グレイは黙って首を横に振った。そうですね、とスズカゼは答え、風呂敷の上のもらいものをかき集めると、いずこかへ消えていった。
 星界の陽はやがて暮れる。向こうはどんな天気だろうか。
 暗夜の路地裏で、グレイは右足を引きずりながら歩いていた。

 

 空を仰ぐ。蒼々とした満月が冷酷に光る夜だった。
 王都に人気はなく、踏み入った白夜軍を襲ってきたのは賊たち。
 グレイは将に、待ち伏せを撃破し道を拓くと、大見得を切って先行した。
 しかし敵が闇雲に撃った弓砲台の流れ矢で被弾。右の大腿に深々と刺さった。軽率に抜けば、味方に発見される前に失血死するだろう。だが痛みと異物感は、最早歩行をも困難にしていた。
 信号煙は上げられない。味方よりも先に賊が気付いて殺しに来る。せっかく確保した安全路を、危険地帯に変えるわけにはいかない。
 いや、それとも――最悪の選択肢もグレイの頭に浮かぶ。
 俺がここで賊の目を引けば、せめて本隊は被害なく王都を制圧できるだろうか?
 ついに右足に力が入らなくなった。倒れた拍子に、非常食を入れていた巾着が零れ落ちた。
「あ……」
 桜のちりめん。こんな女みたいの使えるかよ、と突っぱねたら、そうですね、ごめんなさいと母が震えた声で笑うから、やっぱり使うとついもらってしまった巾着。忍の携帯食の他に、必ず飴を入れていた。
 今は、母に渡した桜色の飴の試作品が、たくさん詰まっている。
「かえ、らな、きゃ」
 母さんが、ないちまうから。彩造が、とだえちまう、から。
 グレイはかすむ視界の中に桜を探し、巾着に精一杯左手を伸ばす。あと少し。あと、指の関節一つ分で。
 届く。
 ――飴玉の、砕ける音がした。
 視線を上げる。もう顔も判別できないけれど、巾着を踏みつけた男が、邪悪に口唇を歪めたことだけは分かった。
 振りかぶられる斧。グレイの脳天に刃先が届くまでどのくらいだろう。
 グレイの右手は懐刀を握り締めていた。致死毒を塗った金属。自決のための刃。
 どうせ死んでしまうなら、自ら死んでなどやるものか。
 その斧が俺の頭を割るなら、俺は足先から貴様を殺してやる。
 最期だからと、ありったけの空気を集めて叫んだ。
「死ね――!!」
「グレイ!!」
 ――背後から、幻影の羊が駆け抜ける。
 斧がグレイの頭の横に不自然に落ちる。グレイの懐刀が空振る。目の前の男は、のけぞって苦しみ、仰向けにどうと倒れた。
「グレイ、大丈夫ですか!?」
 誰かが駆け寄ってくる。この声。死にたくないと願った本音が、一番聞きたかった声。
「かあ、さん……」
「待っててください、今治しますから」
 サクラは普段からは想像もつかないきびきびとした口調で、グレイの脇に両膝をついた。
 グレイの脚を見て顔をしかめた後、刺さった矢をぐっと握り締める。
「抜きます。痛みますが、いいですね?」
「誰に、言ってん、だよ」
 グレイは精一杯の虚勢で笑った。声が割れているのが我ながら情けないけれど。
「俺は、六代目、サイゾウになる、男だぜ」
「……ええ。そうでしたね。すみません」
 サクラが一瞬だけやわらかく微笑んだのが分かった。だがすぐ、いきますよという厳しい声で上塗りされる。
 鏃が凶暴に太腿の肉を食い荒らしていく。グレイは歯を食いしばり悲鳴を殺す。脂汗が浮く。
「抜けました!」
 からんと矢を捨てる音がして、サクラが祓串を持つ。その背後に金属のきらめきを察知したグレイは、肺を震わせて叫んだ。
「母さん、後ろ!!」
 その声でサクラは気付いたはずだった。だが振り返らない。祓串の詠唱をやめない。
 中断して応戦すれば、その間にグレイが失血死してしまうかもしれないから。
「かあさ……!!」
 懐刀では投げても届かないだろう。こんなところで母を喪いたくない。なのにサクラは、目を閉じて串を放さない。やめてくれ、とグレイが母の手を払いのけようとしたときだった。
「そこまでだッ!!」
 激しい声に、サクラが安堵するようにまぶたを上げる。
 同時に、グレイの脚からも痛みがふっと消えていった。感覚が戻るまでにはまだかかる。
 立ち上がれないグレイは、背中合わせにサクラを守る影を呆然と見上げていた。
「……父、さん?」
 それは確かに、父の五代目サイゾウだった。夜であっても見間違えるはずがない。
 けれど、それでは何故、彼は暗器ではなく――刀で、賊に応戦しているのだろうか。
「グレイ、立てますか」
 サクラがグレイの脇の下に手を回してきた。片腕を母、もう片腕を民家の壁に預けて、グレイは何とか身を起こす。
「何で、父さんが、刀なんか……」
「あなたのためです」
 サクラはグレイを引きずって歩き出した。
 人の気配がする。本隊が合流しつつあるのだろう。サクラは、真っ直ぐに前を見ながら、仲間たちの元へ息子を運んでいく。
「あなたを身ごもったとき、私たちはまだ秘境の存在を知りませんでした。子供を連れた行軍がどれだけ危険か、何度話し合ったか分かりません。そしてその子を守り通すのなら、闇討ちではなく、真っ向きって戦わなければいけない場面が必ずある……そう結論づけて、あのひとは死ぬ気でリョウマ兄様に剣を習っていたんです」
 グレイは首だけをめぐらせて、賊と刃を交える父を見た。
 なっちゃいない、と思った。腰だってまるで入っていないし、小手先だけ真似ても、伯父リョウマとは似ても似つかぬ不恰好な太刀筋。五代目サイゾウ、忍には必要のない余分な技だ。
 それでも父は、一歩も譲らなかった。
「私が陰陽道に転向したのも、同じです……。弓矢は両手を使わなければ放てません。それに懐に入られたら終わりです。けれど呪書を携えるならば、あなたを片手に抱いたままでも、どれだけ近くに敵が迫っても、文言を発する喉だけで守ることができる」
「なんだよ、それ……」
 グレイは呻いた。二人はそんな甘やかしで、苦手を克服するために努めたのか。
 押し付けられたからでもない。逃げ出したかったからでもない。
 守りたいと、ただその一念を共にして、自ら困難な道を選んだ。
「グレイ?」
 サクラが不安げに問う。グレイは、石畳に足を突っ張って立ち止まった。振り返る。不器用な刃で抗う父を見る。
「……本当に馬鹿だよ」
 手裏剣を、取り出した。忍のための、本来の武器。
 もう身体の痺れはない。右足も痛くない。だから、守られる時間は終わりだ。
 もう甘酸っぱい飴玉は砕けたから。たとえ苦くても、つらくとも。
 ――俺は、二人と同じ道を往こう。
「爆ぜ散れッ!!」
 手裏剣はこの距離からでも、思った軌道で敵の喉を刺し貫いた。
 父が振り返る。潰れていない方の目でグレイを見つめている。
 グレイは黙って苦笑した。父が何も言わないのだから、自分も何も言わずにおこう。
 本隊の突撃命令が聞こえた。制圧はすぐだろう。グレイの不始末についての沙汰もそのときでいい。
 グレイはサクラの背を押した。
「母さん、父さんのところへ行ってやってくれ。多分怪我してる」
「でも、グレイが……」
「俺は大丈夫だから」
 駆けつけたお節介な仲間たちの中に身を隠すことなど、グレイには造作もないことだ。
 空を見上げる。あんなに冷たく見えた満月が、馬鹿でかい大福みたいに思えて笑えた。

 

「グレイ、これ大成功です! きっと上手くいきますよ!」
「だろ? 結構苦労したんだぜ」
「はい、早速渡しにいきましょう!」
 あれから暗夜との戦争が終わって、グレイはもうすっかり白夜王都に馴染んでいた。
 混乱していた物流も立ち直りつつあり、おかげでグレイの菓子作りも大いに進歩している。
 今日も今日とて新しい飴の製作。今回はサクラとの共同研究だ。
「サイゾウさん!」
「父さん!」
 同時に襖を開け放つ。刀の手入れをしていたサイゾウが、ぎょっとした顔で振り返る。気配に鋭い父が気付かなかったとは考えづらいので、異常なまでの上機嫌を訝かしんでいるのだろう。
 サクラがにこにこと頭を下げる。
「サイゾウさん、お誕生日おめでとうございます」
「あ、ああ。どうも」
 正式に降嫁してきたサクラに、もう敬語は使わないことにしたはずのサイゾウなのだが、気安い言葉は未だにぎこちない。今日はまたこれが顕著だ。
 グレイは父に近づきながら、後ろ手に隠していたものを取り出す。
「父さん、プレゼントにこれ、母さんと二人で作ったから」
「ふふ、自信作なんですよ」
 サクラも部屋に入ってきて、グレイの後ろにちょんと控えた。サイゾウは目の前に突き出されたものを、睨むように見ている。
「なんだ、この……緑色の欠片は」
「飴だよ。いつか父さん、一つぐらいなら食べてもいいって言っただろ。その一つがこれ」
「二人で一緒に作りました!」
 がんばりました、とサクラがむっと力を入れて言うので、サイゾウも突っぱねにくいのだろう。渋々、といった風に受け取る。
「言っておくが、気分が悪くなったら吐くぞ」
「ああ、できるもんならな」
 グレイは不敵に笑う。では、とサイゾウはひとつ息を吸ってから、目を閉じて飴玉を口に入れた。声には出さないが、嫌いな野菜を食わされる子供みたいだとグレイは思った。
 サイゾウの眉間にはものすごく深いしわ。だが舌の上で飴が転がる気配がするたび、それが少しずつ解けていく。
「どうですか?」
 サクラが目を輝かせて問うと、サイゾウは搾り出すように答えた。
「……まぁ、これなら食えんこともない、な」
 強がっても事実上敗北宣言である。サクラとグレイは声を上げて喜び合った。
 ううむ、とサイゾウは腕組みをする。
「しかし、これには一体何が入っている? 食ったことのない味だが」
「あ、私の煎じたお薬が入ってます。喉にいいんですよ」
「なるほど、それで苦味が……」
「苦いのは薬だけじゃないぜ」
 グレイは人差し指を立てて、サクラの補足をした。説教ばかり寄越す父に、こちらから講釈を垂れてやるのは気分がいい。
「茶は父さんも飲むから、抹茶を混ぜたんだ。それに父さんは、甘いのがダメと言っても煮物とかは食うだろ? だから餡や蜜の匂いが嫌いなだけで、砂糖は案外平気なんじゃないかと思ってさ。それと塩を少し。味に深みが増すからな」
「そうか」
 呟き、サイゾウはグレイたちに背を向けた。飴を吐き出す気配はない。刀身についた打ち粉を、懐紙ですっと拭う。
「……喉が痛いときぐらいなら、舐めてやってもいい」
「そうかよ」
 グレイはにやにやと、憎まれ口で返した。
 同じ打っ切り飴を、サクラと一緒に口にする。グレイのいつも食べている飴とは、比べ物にならないぐらい苦い。けれども確かに、甘かった。
「もう一つ寄越せ」
「なんだ、気に入ったんじゃないか」
「やかましい。傷まないうちに消費してやると言っている」
 サクラがくすくすと笑っている傍で、サイゾウは決まり悪そうだ。
 そうだ、この飴の作り方をきちんと書き記そうと――グレイは笑いながら考えた。
 いつか『グレイ』が消え、『サイゾウ』たちだけが連綿と続くときも。
 その手の上に、この味がずっとずっと残るように。
 苦くて甘い、忍たちの飴が。