夢見草

「最近サクラ様があんまり笑わない」
 夜中に叩き起こされて天幕の外に引きずり出されたと思ったら、これである。
 真剣な顔のカザハナを見ながら、明日の行軍のために計算し尽くされた完璧な眠りを妨げられたツバキは言う。
「戦は日々激化しているんだよー? そんな状況で能天気に笑っている方がどうかしてる……」
「そういうことじゃないでしょ!?」
 甲高い大声が耳に響く。周囲は寝ているのだから少しは配慮してほしい。ツバキは耳を押さえるが、そんな控えめな主張では伝わらなかった。
「そういう意味ならサクラ様は、前よりずっと笑ってるんだよ。いつ終わるんだろう、無事に帰れるかなって不安がってる兵に、大丈夫ですよ、きっと一緒に戻りましょうねって一生懸命声をかけて回ってるの。安心させるために微笑みながら……だけどサクラ自身の笑顔が減ってるの、ずっと傍にいるあなたならわかるでしょ!?」
「カザハナ、またサクラ様を呼び捨てにしてー……」
「そういうとこだってば!!」
 声だけではなく物理的に迫られる。小柄なカザハナだが、日々鍛えているだけあって力は存外に強い。襟を掴まれて息が詰まり、反論の言葉も容易には出ない。
 カザハナは顔を近づけ、底冷えするような声でツバキに告げた。
「ツバキはあたしと同じ、サクラ様の第一の臣下であり、なおかつ唯一絶対の恋人でしょう。もしもこのまま悲しい想いをさせ続けるなら……あたしが、サクラをさらう」
 カザハナの表情も眼光も、とてもとても冗談には見えないのだった。
 おやすみ、と突き飛ばすようにツバキを放すと、カザハナは結局彼の言い分を全く聞かずに戻っていってしまった。
「……そこまで、言われちゃうとねー」
 ツバキは嘆息し、汚れた尻を払って立ち上がる。襟を正し、目を伏せた。
 ――気付いていないはずがない。サクラが最近、特に無理をしていること。
 カザハナが気を遣って二人きりにしてくれる時間ですらサクラはとろんと眠そうで、ツバキは結局休むように勧めることしかできなくて、けれど決まって大丈夫ですと微笑まれ、それでもサクラはやはり寝息を立て始める。そうするとツバキにできることは、カザハナに後を任せて毛布を用意することぐらいなのだった。
 臣としても男としても、これではあまりに不甲斐ない。主君を、愛する人を、もっともっと喜ばせたい。
 カザハナだってきっとそう思って、ツバキに親友を託したのだろうから。
「よし。そうと決まれば、だよねー」
 寝ている暇などない。行動開始だ。ツバキは天幕に戻り、欲しいものを書き出した。自分で用立てることのできるものはその晩のうちに、他人の手が必要なものは夜明けと共に手配を始める。
 元々こうした下準備はツバキの得意分野だ。戦時中にもかかわらず、手元にはすぐに目当てのものが揃った。
 さてこれをいつどのように……と好機をうかがっていると、折りよく、と言うと不謹慎だがツバキに都合のよいことに、白夜軍の将が過労で体調を崩した。リョウマが、ひとまず星界にこもって休ませると宣言をしたので、ツバキも計画を実行段階に移した。
 さぁ、今日は一日、サクラに本来の姫気分を取り戻してもらおう。
「え、と……これ、は?」
 ツバキの部屋に呼び出されたサクラは、戸惑いがちに呟いた。
 卓の上には色とりどりの干菓子。砂糖の塊であるからして、どれも戦時では入手困難だ。
 いつ時間が取れるかわからなかったので生菓子は無理だったが、それでもできる限りの種類を揃えた。
「さぁさぁ、お座りになってくださいー。今お茶をお淹れしますからねー」
 サクラを上座の座布団に案内する。もちろんこれも新品。桜模様の織物に、綿をサクラの座り方から計算して最も座りやすい量詰めてある。
 これから出す茶も、もちろんこの時季一番旨い茶葉を取り寄せた。
「寒かったらこれを御脚にどうぞー」
 天鵞絨の膝掛け。最近特に眠がりのサクラのために、紫檀の脇息も準備してある。
 サクラは、ありがとうございますとお愛想のように言って、座布団の上に正座した。
「カザハナさんに何か言われたんですね?」
 苦笑しているところを見るに、カザハナはツバキを叩き起こす前にサクラ自身を問い詰めたのだろう。
 ツバキは、せめて順番を逆にしてくれればいいのにと思いながら苦笑し返した。
「いえいえー、俺が普段からサクラ様にしてさしあげたいと思っていたことを、これ幸いとさせていただいているだけですよー」
「そうですか。すみません、お気を遣わせてしまって」
 サクラは確かに笑顔だったが、少しも嬉しそうな気配がしないのだった。その言葉と声音が伝えるのは、ただただ申し訳なさそうな響きだけ。
 ツバキの見立てでは、どの菓子も甲乙つけがたいぐらいサクラの好みのはずで、今焚いている香だって、オロチに協力してもらって調合した特別製で、いつものサクラなら素敵な香りだとはしゃいでくれるに違いなかったのに。
 けれどツバキには、努力の結晶に対して、自ら感想を乞う無邪気な真似はできなかった。
「……お身体の調子でも、優れませんかー?」
 遠回しな探りも、いいえ私元気です、と流されてしまう。よく考えたら、彼女のきょうだいが不調でできた隙間に、心ゆくまで楽しめと要求する自分の方が浅はかなのかもしれない。
 ツバキは神妙な顔で茶を淹れ、すっとサクラの前に出す。ありがとうございますと一礼し、サクラは湯呑みにそっと手を伸ばす。それだって彼女の好きそうな絵付けのものを、割れないように慎重に運んできたのだったが、そんなことはツバキの都合でしかない。
 小さな口唇が湯呑みに触れる。一口飲んで、おいしいですねと社交辞令ともつかない言葉が出て。それはよかったですと、ツバキはそれきりしか言えない。
 サクラがわずかに満足そうな顔をしたのはただ菓子を眺めたときだけで、一つとして彼女の舌の上で溶けた砂糖はありはしなかった。
 サクラは座布団に正座をし、ツバキはその傍らに片膝をついている。そのまま静かな茶会の時間は過ぎる。
 ツバキは情けないので言葉が出ないのだったが、サクラはこのところ見せていた眠そうな気配は見せていない。
 何かを考え込むように、伏目がちに湯呑みを傾ける。その光景がとても寂しいのに、ツバキの目にはそれすら尊く映るのだった。
 長い睫毛と、白くきめ細やかな肌と、美しいだけでない生気を示すほの赤い頬。
 落ちかかる薄紅の髪。木の実のように小さく艶やかな口唇。
 桜の名を冠するのに誰より相応しい少女。ツバキが誰より信じ、尽くし、慕う女性。
 淡い恋の言葉を囁いても、彼女の表面を撫でるだけなのだろうか。
 勢い任せに抱きしめてしまった夜も、許し受け入れてくれたと思っていたのは自分だけだったのか。
 こんな小手先の愛など通じはしないのだろうか。
 触れてもらえない、卓の上の小さな干菓子を片っ端から砕いてしまいたかったけれど、それは完璧な振る舞いではない。それにツバキの気がいくらか晴れたとして、サクラの心を一層曇らせるなら意味がない。
「ツバキさん」
「えっ」
 急に名を呼ばれ、ツバキは間の抜けた声を上げた。
 幾度となく呼ばれた名だ。時に気遣いがちに、時に叱るように、時にやわらかく、時に熱く呼ばれた名。けれど、こんなに決然と呼ばれたことは、一度もなかった。
 サクラは傍に控えたツバキを、じっと見下ろしている。
「お茶が済んだら、少しこの世界を出ましょうか」
「それは……」
 サクラらしからぬ申し出に、ツバキはたじろいだ。
 何人たりとも、勝手に星界と現の世界を出入りすることは禁止されている。軍の規律はもちろんのこと、それは人の世の理というものを狂わせてしまいかねない行為だからだ。大人しいが聡明な彼女に解らぬはずがない。
 それでも彼女は、行きたいのですとはっきり言った。
「兄様方にはもう許可を取ってあります。どうしてもあなたと二人で、行きたい場所があるんです。今日という日が過ぎてしまわないうちに」
「……わかりました」
 ツバキは頷き、立ち上がった。
 完璧であるならば全ての事情を把握してあらゆる危険性を排除すべきだが、彼女は常にそうでなくてもいいと言ってくれた。だから今日は、主の願いを無条件に叶える盲臣にも、姫を甘やかす愚かな男にもなろう。当然、その身を必ずここへ無事に戻すという条件を踏まえたうえで、だが。
「じゃあ、遅くならないうちに参りましょうかー? 俺の天馬は夜でも目が利きますけれど、サクラ様がお身体を冷やされてはいけませんからねー」
 微笑んで手を差し出す。ありがとうございます、とサクラはようやく、この日初めての本当の笑顔を見せてくれた。

 

「こっちの世界は夜なんですね……」
「そうですねー、灯り一式持ってきてよかったですー。あ、御足元お気をつけて!」
「はっ、はい!」
 サクラが行きたがったのは山だった。なんでも神聖なる霊峰だとかで、社付近は獣の侵入を禁じているそうなので、山頂までは歩いていくことになった。
 最初は野生動物に警戒していたツバキだったが、魔力のためか本当に獣一匹の気配もない。今は周囲三割、残りの七割の注意力でサクラを気遣っている。
「でも、この御山に御住まいなのは何の神様なんですー?」
「ふふ、勉強家のツバキさんにも、知らないことってあるんですね」
 サクラは右手をツバキに預けたまま、左手で口元を押さえて笑った。ツバキは左手でサクラを導き、右手で辺りを照らしているので顔が隠せない。
「ふ、不勉強で申し訳ないですー……」
「いいえ、私だってたまにはツバキさんよりできるところをちゃんと見せなくっちゃ、呆れられてしまっては悲しいですし。――それに、殿方は疎くても仕方のない神様だと思いますよ」
「それって……?」
「あっ、そろそろ山頂ですね。陽ももうすぐ昇りそう」
 あからさまに話題を逸らされたのは分かるが、夜明けが近いのなら急がなくてはならない。できれば、山頂からの朝陽を拝ませてやりたいから。
「少し足を速めても……」
「はい、もうちょっとですから頑張りましょう!」
 サクラのやる気も満々だ。ツバキは苦笑して空を仰ぎ、前に踏み出す。
「だったら行きますよー……ってうわっ!」
 だが早速何かに蹴つまづいてしまった。木の根のようだ。恥ずかしいのでそそくさと立ち去ろうとすると、サクラは逆に足を止め、これ、と呟いた。
「桜の木ですね」
「あ、そうですねー。春でしたらさぞかし綺麗だったろうに、残念ですね」
 そんなことより東雲は待ってくれない。転ばないように気をつけつつ、木々を抜けた先にサクラを導いた頃には、空はもう橙に染まっていた。
「わぁ……」
 うっとりと、サクラは両手を胸の前で重ねる。
 この分ならじきに太陽も顔を出すだろう。間に合ったことに安堵して、ツバキは少し離れた場所からサクラを見守る。サクラが何の祈願でここに来たのかは分からないが、神様もきっと、日の出を待ってくれぬほど狭量ではないだろう。
 サクラはそのまま空を見ているものとばかり思っていたので、振り向かれたときどきりとした。
 旭光を背に立つ彼女は、巫女の名の示すとおりに神々しかった。
「ツバキさん」
 けれど彼女は、どんな姿でも全く驕らない。胸の前にあった手を、少しずつ下げていく。
「ここで、あなたに伝えたかったんです。とてもとても、大切なことだから」
「――はい」
 朝陽が彼女越しに昇っていく。二人の好きな赤色の空を負い、サクラは腹の前でその小さく柔らかな両手を重ねる。そして、太陽よりも眩しく微笑んだ。
「ここは安産祈願のお社です。赤さまが、できました」
 ――サクラの言っていることは、理解できた。
 けれどツバキは、どうしたらいいのか分からない。とりあえず歩み寄って、馬鹿な問いを発した。
「俺の、ややですか」
「他にどなたもいませんよ」
 サクラは笑う。それだけで解った。
 表情が優れなかったこと。やたらと眠がったこと。甘いものに手を伸ばさなかったこと。
 カザハナは知っていたのだろうか。知っていて、口止めされて、それで気付きもしないツバキに怒ったのだろうか。リョウマたちも、知っていてこの世界に戻ってくることを許したのだろうか。
 兆候はいくらでも見えていたのに、ツバキだけが見過ごして。
 ずっと、いたのに。
 誰より傍にいたつもりだったのに。
 誰より大事にしてきたつもりだったのに。
 誰より愛しているつもりだったのに。
 全部全部、『つもり』だったのか。俺のやってきたことは。
「……すみ、ません」
 どうせなら、視界が滲むのも逆光のせいにしてしまいたかった。けれどサクラが、泣かないでと頬に触れてくるから、泣いていないことにすらしてしまえない。
 サクラの指はあたたかい。生きている。そしてその身の内に、生命を育んでいる。
「私は隠していたんですから、あなたが気付かなくてほっとしたんですよ」
「けどっ、ちゃんと知ってれば……!! 俺はもっともっと、ちゃんとサクラ様がおつらくないように、何でもして差し上げられたのに……!!」
 こんな風に感情をぶつけるのは子供じみた、完璧な父にも夫にも相応しくない振る舞いだと解っていた。
 だがサクラが、ダメですよとやんわりたしなめたのは、ツバキの不注意でも無作法でもなかった。
 細い指が、女のように滑らかなツバキの肌を撫ぜる。
「あなたはそうやって、すぐに私のために何もかもを調えてくれようとするから……。私たちの柱になっていくのはあなたなんですよ、ツバキさん。いつまでも私を中心に据えていては、子供のためにもよくありません」
 サクラはいつも正論でツバキに向かってくるのだった。けれど、決して正しさで相手を折ろうとはしなかった。
 そこにはいつだって、相手に対する情があった。だから『完璧』の鎧を纏い続けたツバキにも、その声が届いたのだ。
「……解りました。サクラ様が、そうおっしゃるなら」
 ツバキは涙が引いていくのを感じながら、細い手首に触れる。サクラは、しょうがないと言うように微苦笑を浮かべて頭を振った。
「全然解ってないですよ」
「いえ、ちゃんと……!」
「桜の木」
 短く呟くと、サクラはツバキの胴に両腕を回してきた。硬直するツバキを、ぎゅっと抱きしめる。
「桜の木、春じゃないから残念だ、って言いましたよね。だけど桜は、満開のときだけ生きているんじゃありません。花が咲いていない間も、息をしています。葉を茂らせ、色を変え、落として眠る間も、ずっとずっと生きているんです。残念なときなんて一瞬だってないんです」
 桜は。サクラは。笑っていないときも、静かなときも、悲しいときも、生きている。
 その表情に好き嫌いはあるかもしれない。だがその感情に、貴賎はない。
 笑わせることばかり考えて忘れていた。喜びは彼女のほんの一部。そして他の部分に支えられてこそ、それは輝く。花が根や幹や枝なくして咲けはしないように。
 それは椿もツバキも同じこと。
「あなたが完璧じゃなくてもいいって言ったの、覚えてますか。……私は咲いてないあなたも好きです。大好きです。その花を誰より誇らしくしようと生きる懸命なあなたを、愛しています」
 ツバキは息を呑んで、覚悟を決めた。
 両腕をサクラの背に回し、つい付けてしまいそうになる最後の二音を、意識して止める。
「サクラ」
 サクラが腕の中で身を跳ねさせる。
 初めて、彼女を呼び捨てにした。本来ならば決して許されないこと。
 けれど、他人に見せる花盛りのツバキでないときだけ、許してほしい。
「サクラ様をお守りする誓いは、もうしたから。――今度は、君に誓わせて。俺は、絶対に君とその子を幸せにするよ。完璧でないときがあっても、それだけは絶対に間違えないから。……俺と一緒に、生きてくれる? サクラ」
「はい!」
 泣き笑いのサクラの頬に、今度はツバキが手を添えた。小さな顔。小さな花。細い身体。細い枝。
 いつか散るときも。いつか落ちるときも。いつか枯れるときも。君の全てを、覚えていたい。
 冷えたサクラの口唇に、ツバキの口唇が温もりを分ける。じきにこの子へ子守唄を歌うとき、震えてしまわぬように。
 すっと顔を引く。目の前にサクラがいる。ふと我に返り、お互い気恥ずかしくなって少し離れた。
「じゃ、じゃあ、参拝したら帰りましょうかー」
「そ、そうですね、皆様にご心配おかけしたら悪いですものね」
 現実時間でどれほど経っていても、あの星界は彼女のきょうだいを軸に創られているので、ツバキたちの時間はどうせ『戻される』。ここに来たことすら事実としては残らないのかもしれない。
 けれど交わした言葉、繋いだ手の感触。誰が何をどう歪めても、これだけは失くさない。
 下山するとき、ツバキは行きでつまづいた桜の木を見上げた。
 立派な木だった。町に整然と植えられているものとは違う、山にしかない種類の桜だ。
「……この子が無事に産まれたら、お礼にもう一度来ましょうね」
 サクラは、空いている方の手で腹部をそっと撫でた。ツバキも微笑んで頷く。
 きっとどんな季節でも、この木は最高に輝いて三人を迎えてくれるだろう。
 ツバキはサクラの手を放し、目の前でしゃがんでみせる。
「さ、この先も長いですからねー。こんな乗り心地の悪い背でよければ、どうぞー」
「え、お、おんぶですか!? それは流石に、照れくさいです……」
「えー。そんなこと言ってもなー。君の足に合わせてたら、さっき昇ったばかりの日も暮れちゃうしなー」
「もうっ、ツバキさんったら急にいじわるになって……!」
 サクラはやけっぱちのようにツバキの首にしがみついてきた。そんな歳相応の少女らしいところも今は愛しい。
「しっかりつかまってねー」
「……はい!」
 けれど生来怒りを長く持てないサクラだから、ツバキが脚を抱えて立ち上がる頃には機嫌が直っていた。
 小さい頃はよくリョウマやヒノカの背に負われて野山を駆けたこと、タクミはあまり歳が離れておらず成長も遅かったため、サクラを負ってやれずに癇癪を起こしたことなど話していたが、疲れていたのかすぐに眠ってしまった。
「……サクラ」
 こう呼べるのは、二人きりのときだけ。
 愛馬にすら聞かせられない呼び方だから、君の寝ている間にもう一度だけ。
「サクラ。大好きだよ」
 さぁみんなの元に戻りましょう、大切なお姫様。誰も知らない君を連れたまま。
 まだ誰にも見えない、この先を生きる命を、宿したまま。