空色の少年と金色の少女の記憶

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 その日のレンスターは綺麗に晴れていた。
 トラキア半島の中でもこの地方は適度に雨が降りよく晴れるけれども、それにしたってよすぎるぐらいよく晴れていたと、フィンは後々思い返しても感じるのだった。
「フィン」
 青空の下で愛馬の毛を梳くフィンの元に、一人の少年が歩いてくる。茶髪を短く切った少年。フィンと同年の、騎士になったばかりの。
「グレイド」
 フィンは少年の名を呼び返した。少年――グレイドは、不器用に左肩だけをすくめてみせる。
「いよいよ今日だな。緊張してるかと思って顔を見に来た」
「いや、してないと言えば嘘になるけど。お前に心配をかけるほどじゃない。どこへ行っても俺は、キュアン様の御為に働くだけだ」
 フィンが真顔で答えると、グレイドは、そりゃあ頼もしいと笑った。その後で、少し顔をしかめる。
 フィンも眉をひそめて、首から布で吊られたグレイドの右腕を見た。
「やはり痛むのか」
「まぁな。折れてるから」
 グレイドは気安い調子で言うが、騎士が利き腕を折るなど冗談で済む話ではない。
 フィンは地面を睨みつけた。レンスターの肥沃な土は、今日も元気な雑草を許している。
「お前も共に行くべきだった」
「こんな大事な遠征の前に負傷するような間抜けは、ついていくべきじゃない。きっと下手を打って死んじまうさ」
「女子供を守った傷を、間抜けなどと呼ぶな」
 フィンが低く搾り出すと、グレイドは黙ってしまった。
 数日前の軍事演習だった。一頭の軍馬が急に暴走し、柵に向かって突撃していった。その向こうにはたまたま見学に来ていた、ドリアス将軍の娘もいた。グレイドは彼女を庇って、右半身にひどい怪我を負ったのだ。将軍がその馬を止めるのがあと少しでも遅かったら、グレイドか少女、どちらかが死んでいたかもしれない。
「颯爽と助けられなければ未熟な馬鹿だろう。セルフィナをあれだけ泣かせておいて、英雄面も出来たものじゃない」
 しばしして、グレイドは淡々と答えた。
 フィンはおさげの少女を思い出す。何も悪くないのに、私のせいでと落ち込んでいた。フィンの方こそ、あのとき彼女やグレイドの為に何を出来たわけでもないのに。
 俯いて口唇を噛む。その肩を、グレイドがましに動く方の手で小突いた。フィンの口が思わず開く。
「おい?」
「そんな通夜みたいな顔のままこの国を出たら、貴様許さんぞ」
 グレイドは強い目でフィンを見つめていた。左手で、フィンの右肩を掴んで告げる。
「世界を変えて来い」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃない」
 グレイド越しに青空が見えた。抜けるような晴天だった。
「貴様はトラキア半島を出て、広大なイード砂漠を越えて、かの大国グランベルに行くのだぞ。見識を広げ、自分の世界を変えて来い。共に行けなかった俺の分まで」
「……グレイド」
「いいか、決して無様に死ぬな。キュアン様とエスリン様を必ずお守りし、見聞きしたもの全て俺にきちんと語り聞かせろ。いいな?」
「分かった」
 フィンも、グレイドの無事な左肩に手を置き、微笑んだ。
「お前も行ったと錯覚するぐらい、たくさん話してやるから覚悟しろ」
「ふん、せいぜい話術を磨いておけよ。今の貴様の拙い喋りじゃ、臨場感が足りないさ」
 グレイドは笑って、左手を下ろした。フィンも苦笑して手を外す。
 風の穏やかな日だった。この日、フィンはレンスター王太子キュアンの親友であり、王太子妃エスリンの兄であるシグルドの助けとなる為、祖国レンスターを発つ。
「なぁフィン」
「うん?」
「本当はな、行くのがお前一人になってよかったと思っている」
 グレイドは天を見上げながら呟いた。フィンはただ彼の横顔を見つめている。
「だって、なぁ。どいつが俺の代わりに選ばれたとしたって、俺は奴を妬まずにいられた自信はないぞ」
 軽い口調で言っていたが、グレイドは本音ほど顔を見て言えないこともフィンは知っていた。
 だから、こちらも顔を見ないで心からの言葉を贈った。
「俺も、お前以外の騎士が隣に並ぶことがなくて、安心しているよ」
「そうか」
 グレイドは指先で鼻をかいた。フィンも何だかむずがゆくなって首筋をかく。
 結局、締める台詞は形式通り。
「武運を」
「ああ。ノヴァのご加護をこの身に」
 蒼天にレンスターの旗が揺れている。
 二人はまだ少年だった。世界を変えるということの、本当の意味も知らない、幼い子供だった。

 

★★★

「羨ましいのですか? 兄上」
 ラケシスが問うと、ノディオン王国現国王エルトシャンが振り返った。廊下の途中で立ち尽くしているのがいかにも兄らしくなくて、つい声をかけたのだ。
 エルトシャンが見つめていた先は深い森。先日、愚かにも大国グランベルに攻め込んだ、ヴェルダン王国の領土。
「俺が誰を羨む必要がある?」
 エルトシャンは琥珀の瞳を妹に向けた。色こそ同じだけれど、鏡に映った自分とは明らかに違う、鋭い光を宿したその瞳がラケシスは好きだった。
 窓から入る風に揺れる、長い金髪を押さえながら微笑む。
「キュアン様が。シグルド様の窮地に駆けつけることが出来て、羨ましいのでしょう」
「……まさか」
 エルトシャンは苦い顔で答えた。半分は本気だろうが、もう半分はきっと強がりだろう。
 兄の親友のキュアンは、義や情というものに弱かった。対してエルトシャンは、義に厚いのは似ていても、情より理を重んじる質だ。
 なまじ最終的に求めるものが同じなだけに、道筋で揉めることも多かった。
 二人の間に入り、折衷案で喧嘩を治めるのは、もう一人の親友シグルドの役目。
 義も情も理も弁えて、なおかつ柔の響きを持つシグルドの言葉は、手のつけられないような言い争いをしていた剛の二人にもすんなりと届く。
 そうして、互いが謝り――八割はエルトシャンが折れるかたちで――仲直りする、というのがお定まりだった。そんなだから二人共、シグルドのことを信頼していたのだ。
 今回も、キュアンは立場よりも情を優先して国を飛び出した。
 エルトシャンは、自身が諸公連合の一角を担う王であること、第三国が首を突っ込むことによる国際情勢の変化等々、理の方に引っ張られて身動きが取れずにいる。
 エルトシャンは自分の判断が正しいと思っているのだろうし、ラケシスもそれに異論はない。
 だが、ただ一言『羨ましい』と……頭が考えなくても、心が感じているに違いないのだ。
「俺は俺なりのやり方で、シグルドを支援する。キュアンのようにべったりと共に行動することばかりが、友誼の証だとは思わん」
「そうでしたわね」 
 兄の言葉に、ラケシスは苦笑した。妹より自分を説得する台詞に聞こえたから。
 エルトシャンの傍まで行って、外に目を向けた。はるか昔から変わらぬような大森林。そして、蒼穹。
「ああ、綺麗な空。こんな日に好んで殺し合いなどしなくともいいのに、おかしな人たちもいたものね」
 エルトシャンは何か言いたげに息を吸ったが、結局飲み込んだ。次に出たのは、言おうとしていたのとは別のことなのだろう。
「人も空も、互いの都合に合わせるにはどうやら離れすぎたのだろうさ」
「そんなものかしら」
 ラケシスは小さく笑って、兄の腕にそっと触れた。魔剣ミストルティンを操る、力強い右腕に。
 そうやって二人して天を見上げた。
 よく晴れた空だった。遠い戦乱など気配すら感じない。
 温暖湿潤で陽気のいいアグストリアだけれど、それにしたってよすぎるぐらいよく晴れていたと、ラケシスは後々思い返しても感じるのだった。