結 海と太陽の帰還

 その女は、エリンシア女王の崩御から一月後、ふらりとガリアに現れた。
 最初に居合わせたのはライ。スクリミル王の忠実なる右腕は、何とはなしに王宮の庭に出ていた。
 気の遠くなるほど変わらない景色の中に立って、考え事などしていた。
 ライは類稀なる戦士である。何人も、知らぬうちに近くに寄せつけはしない。
 それなのに、その女は、容易く彼の間合いの内に入り込んだ。
「久しいな、ライ。……見違えたから誰かと思った」
 気安い声にライははっと顔を上げ、紫の目を見つめた。
 くすんだ色の外套をまとった女。腰まで伸びた髪は橙。
 青年のように凛々しい顔立ちのこの女の名を、ライは確かに知っている。
「オマエ……レテか?」
「ああ。今帰った」
 朝出て夜帰ったような口ぶりだ。
 それでもこの女がガリアに戻ってきたのは、実に数十年ぶりのことであった。
 その間にライは多くのベオクを見送った。まだ生きている者もあるが、時間の問題だと思う。それほど長い年月だった。
「どうして……いや、嬉しいが……でもどうして?」
 彼女は薄く微笑んで、ずっと右手で抱いているものを左手で撫でた。
「父の隣で眠りたいと言われたのでな。私も帰ることにした」
 ライが最後に彼を見たときはためいていた、くすんだ緋色の布だった。
 何かを大切に大切に包んである。言われなくとも中身は分かった。分かったが、当たり前の事実に落胆している自分がどこかおかしかった。
「オマエはこれから、どうするんだ」
「空きがあるなら国軍に戻るさ。なければ適当に暮らす。職なしというのも慣れた」
「オマエほどの奴なら、すぐに返り咲けるさ。戦士長にでもなれる」
「どうだかな。もう血の気の多い世界から離れて久しい」
「冗談はよせ。あいつと一緒にいて、そんな隠居暮らしが出来るものか」
「そうだな。最期まで剣は手放さなかった。全く呆れたよ」
 昔と変わらず彼女と軽口を叩けたことに安堵した。
 だが違和感がある。今にでも彼がやってきて、何やってるんだと口を挟みそうだと思うのに。
 彼はもういないし、あの頃ライが恋した少女も、もういない。
「髪、伸びたな」
「ああ。不精でな。明日にでも切る、また兵をやるなら邪魔になるから」
「そうか」
 なら一緒に埋めてやれよと言うと、それもいいかもなと彼女は苦笑した。
 何故ということもなく無言になる。沈黙が、かえって彼女の帰還を実感させる。
 風に、あの頃では考えられなかった長い橙が流れる。
 あの青年も、少女ももういないのに。
 大人になった彼女を、時が故郷に帰してくれた。
 見送るばかりの日々に、悩むこともあったけれど。長く生きてきたことを、心から感謝した。
「おとうさ……じゃない、ライ総帥! スクリミル王がお呼びで……」
 そこにいきなり、猫の少年が飛び込んでくる。少しは落ち着けといっているのに、母親に似て気忙しい。
 少年は彼女を見て、目を丸くして固まった。無理もない。少年が生まれたのは、彼女が彼と旅立った後だ。
「伯母上だ。ご挨拶しろ」
 ライが言うと、少年はぱっと顔を輝かせた。走り寄って彼女の目を見上げる。
「レテおばさまですね!? 両親からお話うかがっております、本物ですか!? 蒼炎の勇者のお相手を長らく務められてたんですよね? うわぁ、手合わせしてください!!」
「……オマエの甥だよ。母親が甘いんで少し手前勝手だが」
 たじろいでいる彼女に言うと、いや、と返ってきた。
「驚いたが。……懐かしい感じだ」
「だろうな」
 ライは肩をすくめた。
「今夜は伯母上をうちにお招きするから。お前は先に帰って母さんを手伝いなさい」
「やったぁ! お話たくさん聞かせてくださいね、それから鍛錬もっ」
 少年はぴょんぴょん飛び跳ねる。本当に、我が子でなければ親の顔が見てみたいというだろう。
 ライが痛む頭を押さえていると、彼女は甥を見下ろして微笑んだ。
「ああ、いくらでも。母には、かぼちゃのパイが食べたいと伝えてくれ」
「わかりました! とびきりおいしいやつですね!!」
 礼もしないで駆け出す少年。ライは嘆息して歩き出した。
「悪かった、今度からちゃんと躾けておく。……行こう。オマエも王にご挨拶するんだろう?」
「ああ、ご報告しなければならないことも多いしな」
 レテもライについて歩き出す。きょろきょろと辺りを見回すことはしなかった。
 昔のまま、背筋を伸ばして堂々と進んでいく。
「――変わらないだろう、ガリアは」
 ライが呟くと、レテは首を横に振った。
「お前が父親になってるとは思わなかった」
「オレも思わなかった。まさかオマエと親族になるとはな」
 ひとしきり笑い合う。
 ふと見遣った空は、それでもやはり、あの頃の色をしている。
「いろいろ聞きたいことはあるんだけどさ、レテ」
「ああ」
「でも、オレが心底知りたいことは、ひとつだけなんだ。答えてくれるか?」
「言ってみろ」
 蒼天に輝く太陽を見つめると、眩しすぎて、視界が滲んだ。
 いくつもの出逢いを終えて。持ちきれないほどの想いを抱えて。たくさんの別れを越えて。
 最後にひとつだけ残った宝石の、色を訊く。
「幸せだったか?」
 レテがゆっくりと頷く気配がした。そして壊れ物を置くようにそっと、呟く。
「――ああ。とても」
 ガリアの樹々は優しく泣いていた。
 今年も春が来て、夏が来る。
 緩やかな滅びに向けて。
 密やかに、生命の灯火は続く。

 

 

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