第五章 春風とともに - 2/3

SIDE Rethe

 

 

クリミアの空

 

 目を開けると見知らぬ天井があった。あまりに唐突なことでレテは状況が掴めない。
「あ、レテさん。気がついた?」
 ミストの声がする。ここはもう戦場ではないらしい。どうやら建物の中のようだ。
 レテは朦朧とした意識のまま、思考と視線を彷徨わせる。
 確かあれから、オルリベス大橋への進行を開始したはずだ。
 ジルとマーシャのおかげで多くの罠を避けることが出来たが、それとても完全ではない。穴に落ちた者は、底に仕込んであった粉末状の麻痺毒でしばらく無力化された。穴の深さは人一人の身長ほど。落ちてしまえば登るのには一苦労だし、騎馬の脚を折ってしまった者もあった。
 レテはライと共に、先駆け部隊で道を探る役を負っていた。先頭は交替制、化身している方が先導するようになっていた。
 そしてライが先行していたとき、彼は敵からの攻撃を避けた際、罠に片足をかけてしまった。化身が解けて落下しようとしたところに、アイクが彼を助けようとしてその腕を掴み、結局支えきれずに二次被害となった。何しろライの体重はアイクよりずっと重いのである。
 もつれ合い背中から落下した二人は、舞い上がった毒の粉末を、立って落ちた者よりも近く深く吸い込んでしまった。
 いきなり主戦力を二人分も削がれ、最前線は一瞬混乱した。
 一番最初に動いたのはレテだった。オリウイ草を噛み千切りながら強引に化身した。間髪入れずガトリーが援護してくれ、おかげでアイクたちを隙なく庇うことが出来た。
 せめて片方、アイクかライのどちらかが復帰するまでは前線から離れられない。冷静な判断以上に、レテの意地の問題であった。
 食用ではない朱色の石を奥歯で噛み潰し、レテは焼き切れそうな理性を必死で繋いでデイン兵を一人また一人と屠った。ただ一念、どうしても守りたいと――誰を?――そのただ一念のために血を浴びた。
 獣をヒトに引き留めた糸は、薄く濃く光る空と海。その色を最後に、それ以上は覚えていない。
「ムワリムさんがレテさんを後衛まで連れてきてくれたんだよ。レテさん、ぴくりとも動かないからすごく焦っちゃった」
「……そうか。手間をかけた」
 レテは気だるい喉を無理に動かして、そう答えた。
 いつかのカラス騒動のときとは訳が違う。今回こそ自分は、戦場の只中で気を失うという愚を犯したのだ。
 右腕で自らの目を隠して嘆息すると、傍に座っていたミストが小さく笑うのを感じた。レテは左目だけでミストを見上げる。
「あのね。――ありがとう、レテさん」
 少し切なそうな笑顔に、レテは片眉を上げる。
「何が?」
「ううん。わたしが色々言うと、フェアじゃないかなって思うから、言えないけど。でもね、いつもお兄ちゃんの傍にいてくれて、お兄ちゃんを守ってくれて、ありがとうって。これぐらいなら伝えても、いいよね?」
 レテが何かを問う前にミストは、お兄ちゃんに知らせてくるねと言い訳のように言い置いて部屋を出て行ってしまった。
 レテは一瞬身を起こしかけたが、少し背中を浮かせただけでまた寝そべってしまった。
 現状を考える。この石造りの建物は、恐らく対岸にあった古い砦だろう。ということはオルリベス大橋の攻略には成功したらしい。
 まだ逗留しているということは、余程の重傷者――自分はそこまでではないだろうが――がいるか。あるいは、別働隊が戻っていないのか。
 推測を片付けると、レテはついに立ち上がった。もう眩暈も頭痛もない。通常時のままならば歩き回っても平気だろう。
 ドアを開けると、そこには見覚えのある影が歩哨のように立っていた。
「ムワリム?」
 ムワリムは答えずに、レテの身体を両手で抱え上げ、勝手に寝台へ横たえた。
「おい?」
「……無茶が過ぎる」
 顔も声も、普段のものとは違っている。
 ムワリムはいつも、塞ぎ込んでいるか穏やかでいるか、どちらかだったのに。
「将軍と上官を守りたいのは解る。だがあれはやりすぎだ。オリウイ草自体に依存性はないが、大量摂取すれば危険なことぐらいお前だって知っているだろう」
「そう、だな」
「あまつさえ、反動の強い化身の石まで使って……」
 ムワリムは両手をベッドに置いて、覆い被さるようにレテを見下ろしていた。
「お前だけで戦線を維持する必要はなかった。モゥディや……私をもっと頼れ。お前が本当に、兄弟と思ってくれているのなら」
「そうか」
 レテは手を伸ばしてムワリムの頬に触れた。
「お前、叱ってくれているんだな」
 そう呟くと、ムワリムは素早くレテから離れた。目も合わせずに淡々と言う。
「レテ。お前を喪って悲しむ者は、決して少なくはない。お前を支える者も少なくはない。お前の、ひとりになっても前を見続ける姿勢は確かに尊いが――時には下がって、重荷を人に押し付けることだとて、悪くはあるまい」
「……そうだな。今度からはお前たちを振り返らせてもらうさ」
 レテが笑うと、ムワリムはようやく表情をやわらかくした。
「じきに将軍もライ殿も様子を見に来るだろう。行き違いにならないためにも、しっかりここで休んでおくんだぞ」
「ああ。ありがとう」
 神妙な顔で頷きながら、レテの心中は軽やかだった。キサみたいなことを言う、虎という連中は世話焼きばかりだなと苦笑しつつ、ムワリムが去るや否やするりと寝台から抜け出す。
 黙って待つのは性に合わない。行き違いになったとしてもそれはそれとして、別の者から得られる情報もあるだろう。壁に張り付いて外の気配を探り、誰もいないことを確信して廊下に出た。
「ここはもうクリミアなのか……」
 無骨な建築様式はデインのものと大差なく、ただ防衛するという建物としては十全の機能を果たしうるだろうと感じる。
 冷え切った廊下を独り進む。と、曲がり角で突然右腕を強く引かれ、何事かと認識すら出来ぬ間に動きを封じられていた。
「いけないな連隊長。隙だらけだぞ」
 余所行きの低めの声で囁いたのは、確かにレテの上官であった。
「ライ……何の真似だ?」
 レテが批難がましい声で言うと、ライはレテを後ろから抱きすくめたまま、上官の顔を捨てて小さく笑った。
「少しからかいたくなった」
「身勝手が過ぎます。師団長殿」
「それは済まない」
 と言いながら、ライはまるでレテを放す気配はないのであった。レテは身じろぎをするが、ライの手は緩まない。
「いい加減にしろ!」
「んー、ちょっと待って?」
 甘えた口調で言うと、ライはレテの髪に顔をうずめた。
「……ごめんな」
「何が?」
「守ってやれなかった」
 途端に真剣味を帯びた言いように、ライの手を外そうとしていたレテの手が止まる。
「見当違いな謝罪はやめろ。私はお前に守ってほしいなどとは一度も頼んでいない」
「だとしてもだよ。上官が部下を守るのは当然のことだし、オマエに何かあったら、個人的にだってオレはリィレやキサたちに合わせる顔がない」
 オレの不注意でオマエを危険に晒してしまったと、ライは抱きしめる腕に力を込める。細くしなやかな腕は、それでも充分に男のものだった。
「もうあんな無茶するなよ。頼むから」
「それは上官命令か?」
「オマエがそれで気をつけてくれるなら、もう何でもいいよ」
 レテは黙ってライの皮膚に爪を立てた。
 かつてあれだけ望んだ抱擁に、気安い安堵はあれど感動はない。それどころか、正体の分からない焦燥感すら胸にくすぶる。
「……申し訳ございません、師団長殿。今後は軽挙に走らず、仲間と連携して御身をお守りいたします」
 どうして今、だったのだろう。どうして、心が彼を求めなくなってからだったのだろう。
 ずっとこの腕にこんな風に包まれたいと、思っていたはずだったのに。
 ライは静かに両手を下ろした。
「なぁ、オレたちはさ」
 解放されたレテは、身体を反転させてライを見る。彼は俯いて、独り言のように呟いた。
「オレたちはいつからこんな、間に川一本挟んだような言葉しか交わせなくなったんだ?」
 レテは、だらしなく下げられた左腕に右手を伸ばす。だがその手も、何を掴むでもなく力なく落ちていった。
「――お前が、本当の心で話さないから」
 ライが弾かれたように顔を上げる。だがすぐに紫の右目を手の平で隠し、下を向いてしまう。
「そりゃ痛いトコ、突かれた、なぁ……」
 自嘲する。残された碧い左目は、まるで雫のように光っていた。
「ごめんな。行っていいよ。引き止めて悪かった」
 その言葉にレテは立ち去りかけたが、思い直して足を止め、ライと短く彼の名を呼んだ。
「お前が元に戻ろうと言うのなら、それが不可能なほど我々の間隙は深くはないと思う。いずれ時間を設け改善を試みよう」
 ライは一瞬呆けた顔をした後、敵わないなと笑み崩れた。
「都合が合えばよろしくお願いするよ。とりあえずアイクを頼む、あいつ今回の件でだいぶ参ってるみたいだからさ」
「ああ。まったく手のかかる将軍だ」
 ひらりと手を振って、レテは足を速める。いつの間にか駆け出していた。
 早くアイクに会いたい。鼻を利かせて居場所を探す。
「ん」
「あ」
 廊下で互いを視認したのはほぼ同時だった。直進していたところを、アイクが角から現れたのだ。
 アイクはどこか途方に暮れたような顔をしていた。いつもならば、ここで『鍛錬』と称して時間稼ぎをするところなのだが、力の使いすぎで倒れた手前それは切り出せない。レテは決まりの悪さから肩をすくめた。
「礼も説教も謝罪も全部もらった。何かあるならそれ以外で頼む」
 アイクは顎に手をやって黙ってしまった。案の定、反省の意を伝えるためにやってきたものらしい。
 どうするつもりかレテも黙っていると、アイクは二人の間にあった一歩半の距離を詰めてきた。それから突然にレテを抱きしめる。
 今度は動揺しなかった。少年の、拗ねたような顔が直前に見えたから。
「ムワリムといいライといい、お前といい。簡単に抱きしめてくれるものだ。まったく、私は枕か何かか?」
 レテはそう言って、妹によくしてやったように、背中を何度も軽く叩く。
 子ども扱いが癪に障ったのか、アイクは一層力を込めてくる。
「痛い」
 流石に気恥ずかしくなって嘘をつくと、アイクは真に受けて放してくれた。のはいいものの、離れた勢いそのままに、アイクの左手はレテの右手を掴む。
「おい?」
 走り出したアイクの行き先を判じかね、レテは大人しくその足を任せる。
 目的地はそう遠くではなかった。階段を上がり着いた先には、眩しい青が広がっていた。
「――クリミアの空だ」
 蒼穹を背負うように、アイクは両手をいっぱいに広げた。
「前に来たときはちゃんと見せられなかった。これが本当のクリミアの空だ」
「そうか」
 レテは短く言って、天を仰ぐ。
 捕虜収容所やトハの港を訪れたときも空は晴れていたはずだが、あの頃は景色に気を割く余裕など微塵もなかった。それがいいことなのか悪いことなのか――レテは小さく鼻をひくつかせた。
「雨が近いな」
「そうなのか?」
 アイクが意外そうに問いかけてくるので、浅く頷く。抜けるような青空はどこにも雲を孕んでいるようには見えず、風も穏やかだったが、遠くにかすかな雨の匂いを感じた。
 アイクは隣に並んでぽつりと呟く。
「あんたと初めて逢った日にも、雨が降ってたな」
「ああ。あれはガリアだったがな」
 レテはちょうど一年ほど前の記憶に想いを馳せた。
 誰もが怯えや訝かしみの目でレテたちを見上げる中、アイクだけは違った。眩しいものを、それと知ってなお見つめるような躊躇いのない目を、どこまでも深い純粋な瞳をしていた。合わせた視線を外しもせずに、真っ直ぐにレテを見つめていた。
「せめてクリミア遺臣団の到着と、セネリオたちの合流まで持てばいいんだが……」
 アイクがこぼすので、レテは現在に焦点を合わせ直して答えた。
「なに、この分では降るのは明け方だろう。心配なら迎えでもやればいい」
 レテの首元から、リィレがくれた深緑のリボンが流れる。
 ――ライに言われたからではないが、今度の戦争が終わったら、リィレと話をしてみようと思った。
 誰かの傍にいたい。誰かを守りたい。
 そんな単純で我侭な理屈にも、今ならきっと頷いてやれるだろうから。
 アイクはリボンの一筋を指先で絡め取り、厳かな儀式のようにそっと口付けていた。
 レテは口元を綻ばせる。近いうち、アイクは必ずその手を離すことになるだろうけれど。
「私はまだ一人でお前を守れるほど強く在れない。それでもこの戦いが終わるまで、私を傍に置いてくれ」
 アイクには聞こえていなかったのかもしれない。それでいい。
 嗅ぎ慣れない、だが敵意のないベオクの匂いを察知して、レテは振り返ろうとする。
「遺臣団が到着したようだ。顔を出してやれ」
 その動作に合わせるようにアイクはリボンを手放した。
 視線だけ、言葉を乗せない眼差しだけをその背に受けながら、レテは歩み去っていった。
 深く祈る懐かしい者たちとの再会が、強く願うこの日々を続きを、容赦なく断ち切るものだということを、噛み締めるように実感しながら。