第五章 祖国へ - 3/3

 

SIDE:Ike

 

軋み

 

「エリンシア様、すごく、楽しそうだね。ずっと笑ってる」
 ミストの呟きに、アイクは頷きで返した。
 大橋攻略の後アイクたちは、合流したクリミア遺臣団と共に、雨の中彼らが拠点としている城を目指している。
 その道でエリンシアは、白い傘を隣の女性に持ってもらいながら、嬉しそうに彼女に語りかけていた。聞けばそのルキノという女性は、存在しないはずの王女に寄り添っていた数少ない人物であるらしい。乳兄弟だというから、他の者よりなおさら絆が深いのだろう。
「俺たちといる時も、明るくふるまっていたが……やはり、無理してたんだな」
 アイクがこぼすと、そうね、とどこか沈んだ様子でティアマトが微笑した。
「ああやっていると、年相応の少女に見えるわね。あれがデインの襲撃を受ける以前の……エリンシア姫、本来の姿なんでしょうね」
「戻ってきてよかっただろ?」
 ライが水に濡れた耳をぴょこと動かし、仰々しく両手を広げる。
「ルキノさんの弟のジョフレも、おカタイがいい奴だし、フェール伯も胡散くさいが悪い奴じゃない。きっとお前らも気に入るさ。戦いはこれからだが、今夜ぐらいはあいつらに甘えて、みんなでパーッと羽根を伸ばすといい。張り詰めっぱなしじゃ続かないぜ?」
「……そうだな」
 アイクは素直にそう答えた。その辺りの平衡感覚は、ライの方がずっとよく弁えている。ずっと神経をすり減らしているアイクにとっても、自国の城でゆっくり休めるというのは魅力的な提案だった。
「あの川を渡れば我が家の領地、デルブレーですわ、姫」
 ルキノが手で指し示したまだ遠い大河は、この雨で少し増水しているようだった。だが渡れないというほどでもないだろう。
 エリンシアの顔がぱっと華やぐ。
「ジョフレたちもあそこにいるのね?」
「ええ。姫のことは、先に戻ったユリシーズ伯が知らせてあるはずです。きっと弟も皆も、首を長くして待って――」
 しかし、ルキノの上機嫌の説明は最後まで続かず。
「敵襲ですっ! デルブレー城は、敵の部隊によって包囲されました!!」
 こちらに駆けてきた派手な男が、長い金髪を振り乱しながら叫ぶ。
 ルキノは存外冷静に、その報告を聞いていた。
「あなたがここへ辿り着ける程度にはまだ距離はあるということね、ユリシーズ伯」
「ジョフレが、囮となっている……!」
「――そう。あの子が役に立ったなら何よりだわ」
「え……? ふたり、とも、なにを……いって」
 エリンシアは笑顔を消すことさえ出来ず、ただ胸元で両手を握り締めていた。ルキノは片手で長い髪を後ろに流すと、ユリシーズと呼ばれた男を呼び寄せ傘を持つ役を替わらせる。
「敵に気取られてしまったようです。仕方ありません……進路を変更しましょう。姫、別の隠れ家へご案内します」
 使っていた道具が壊れたと、そう告げるような淡白さで、彼女は微苦笑さえ浮かべて己の主に説明した。雨粒にその身をさらしながら。
 エリンシアは、ユリシーズとルキノの顔を交互に見ている。望んだ表情を浮かべてくれていない事実を、何度も疑うように。
「い、いや、どういうことなの……ルキノ、ユリシーズ! ダメです、ジョフレたちを助けないと!!」
「……運がなかったのです」
 ルキノは感情を排した明確な響きで返した。『ものわかりの悪い姫』の手をそっと掴む。
「城の仲間は諦めましょう」
「出来ないわ!」
 エリンシアが喚く。ルキノの手を振り払おうともがく。
「ジョフレたちを、生き残ったみんなを見捨てるなんて……。やっと逢えると思ったのに、そんなこと!!」
「姫、ご理解ください。姫の危険を回避出来るなら……私たちは、喜んで命を差し出します」
「いやです……お願い、城へ連れて行って!!」
 エリンシアはユリシーズを突き飛ばし、ルキノの手からも逃れて自ら雨空の下に立った。
「私のクリミアは、そこにあるの……ルキノがいて、ジョフレがいて、ユリシーズが訪ねて来てくれて……。お父様もお母様も、叔父様もいなくなってしまった。もう私のクリミアには、あなたたちしかいない……」
 美しいドレスの布地を引っつるほど強く握り締めて、エリンシアは濡れて頬に張り付く髪を構わず足元を汚す泥を睨みつける。雨よりも熱い雫を琥珀色の瞳からとめどなく流す。
「私は、箱庭みたいに狭いクリミアしか知らない。そこが私のクリミアです。あの場所すら守れなくて、広大なクリミア王国を治めることなんて出来るはずがない。私は私の帰る場所を、私の故郷を失いたくない……これ以上家族を喪って、その屍の上で笑うことなんて出来ない! もう二度と、クリミアの民を見捨てて逃げたりなんて、したくない……!!」
 叫んだ後、エリンシアは顔を上げた。涙は止まっていなかったが、その瞳は確かに二人の臣下を捉えていた。
「私はクリミアを愛しています。離宮も、森も、悲しいことがあった港町でさえ、私は愛おしく受け入れる覚悟をしました。そこに暮らす人々を、丸ごと愛すると決めました。だからお願い。私の心が帰る場所を壊さないで。私から、これ以上愛する人を奪わないで……」
 臣下たちは俯いて答えない。
 アイクは、頃合かと前に出て、エリンシアを背に臣下たちを見た。
「俺たちは予定通り城に向かう。デイン兵に囲まれているなら、そいつらを倒して騎士たちと合流する。姫が心配だというなら、ここに置いて行くからお前たちがしっかり守れ。それで問題はないだろう」
「問題しかありません」
 ルキノも一歩前に出て、アイクを睨みつける。
「彼らのことは、もう諦めると言ったはずです。……あなたは、仮にもクリミア軍を率いる将軍でしょう? もっと自覚をもった行動をとっていただきたい」
「俺は将軍である前に傭兵だ。依頼主のエリンシアが望むことは、たとえどんなに困難でも遂行する」
 アイクは静かに、だが威圧を込めてこう問うた。
「それとも『忠臣』ってやつは、主の願いを踏み潰しても平気な連中のことを言うのか?」
「言うわね。それではお聞きするけれど、『傭兵』というのは依頼主をいたずらに危険にさらす方々のことをいうのかしら?」
 苛立ちを隠しもせずにルキノは答える。ライが慌てた様子で二人の間に割って入った。
「そうカッカしなさんなってお二方。こうしてる間にもあの実直なジョフレ君は散る心構えをしちまってるんだぜ。武勲を求めて単騎特攻なんかしちまった日には、助けられもしないし囮にもならない。どう動くにしろ、犬死にだけはさせてやるなよ」
「でしたら単純に生かしてやればいいでしょう」
 言い放ったのはセネリオだった。アイクがエリンシアの意思を尊重しようとしているように、セネリオはいつもと同じく、アイクの決意を具体的な策に変えようとしてくれている。
「ルキノ殿。この先にある橋の強度と広さは? 流されている可能性は?」
「え? この程度の雨なら問題はなく……幅は馬一騎ほどですけれど」
「獣牙族は泳げますか?」
 こちらはルキノに向けられた質問ではなかったが、ライは即座に察してくれ、頷いた。
「あまりに川幅があったり、激流じゃなければな。仮に泳げないほどだったとして、橋を駆け抜けるのも騎馬よりオレたちのが速いだろう」
「……分かりました」
 セネリオは沈思の時間も短く、顔を上げてアイクの目を見る。
「ラグズを全員集めてください。それと――」
 何人かのベオクの名がそこへ続く。アイクとしては彼らを集めるのは構わなかったが、現時点でセネリオの真意が測りかねた。
 それすらも理解の範疇であるよう、にセネリオは作戦の趣旨を告げる。
「騎兵と歩兵はこのまま全力前進させますが、到着までには時間がかかります。そのため僕が今挙げた、ラグズと飛行兵を先行させます。その際遠距離系の兵を同行させておけば、デイン兵を背後から急襲する距離も稼げる。この面子なら、不意打ちで浮き足立っている敵兵に壊滅的ダメージを与えることも出来るはずです」
 そんな場合ではないのに、アイクは少しだけ笑ってしまった。
「セネリオ。お前ってやつは、本当に最高の軍師だな」
 セネリオは目礼だけで返すと、組み合わせを淡々と提案してきた。
 レテはアイク。モゥディはイレース。ムワリムはトパック。ウルキは、光魔法を覚えたキルロイ。マーシャにヨファ。ハールにシノン。ジルに、遠距離回復の杖を持たせたミスト。ラグズの中でも小柄なヤナフは、機動力を落とさないために単騎で『目』を使ってもらう。
 隙のない人選だった。他人にあまり興味を示さないセネリオだが、軍内の交友関係もしっかり把握しているようだ。しかしアイクは、最後まで重要な名を聞かなかったことを訝かしむ。
「お前とライは?」
 セネリオは苦虫を噛み潰したような顔でライを向いた。ライは苦笑しながら肩をすくめる。
「乗っていくかい?」
「……不本意ながら」
 本気で嫌そうな顔で呟く。だが、ラグズを半獣と憎み、軍内でもいないように扱ってきたセネリオが、会話どころか作戦行動を共にするなどということは、一年前なら想像も出来なかったことだ。
 皆アイクのことを変わった変わったと言うが、セネリオも負けず劣らずだろう。
「よし。じゃあ決まりだ。俺たちはこの作戦であんたの家族を救う。それでいいな、エリンシア姫?」
「はい!」
 お願いします、とエリンシアが叫ぶのが合図だった。
 各々作戦通りに、ある者は誰かを乗せ、ある者は手綱を握る。
「俺の命、あんたに預ける。頼んだぞ、レテ」
「何を今更」
 傍らに呼んでいたレテは、不敵に笑って輪郭を淡くした。アイクは、しなやかでたくましいその背に身を委ねる。
「全力前進!!」
 雨の中を、獣が人が、駆ける。
 クリミアの『希望』の願いを叶える、それだけの――まだ未来に与える影響すら思い至らぬままの、ただ目の前の光に向けて。
 

 

 セネリオの作戦は、これもまたいつもどおりに上首尾であった。
 最小限の被害で救われたクリミア遺臣たちは、一度捨てられた命を拾い上げた王女エリンシアの慈悲と、絶望的な数のデイン兵を見る間に蹴散らしていった解放軍の勇猛さを讃え、戦時中ながらもささやかな宴を催してくれた。エリンシアはひっきりなしにクリミア兵から声をかけられて、困惑の様子を見せながらも楽しそうだった。
 アイクもそこそこに挨拶しながら、隙なく視線を走らせる。
 ここには全員が揃っている訳ではない。というより、アイクの見知った中ではいない者の方が多い。
 傭兵団は全員出席だが、ベグニオンやデインの出身者、ラグズなどは、『自分の国の祝いではないから』と遠慮だか無関心だか分からない理由で欠席しているし、例外はルキノたちと密に連絡を取っていたライぐらいのものだ。アイクの捜し人も何も言わず、当然のようにこの場を捨てたらしい。
「アイク? 気分が優れませんか」
 ずっと眉間にしわを寄せているアイクを見かねたのか、セネリオが声をかけてきた。
 アイクが何とも答えかねて更に眉間のしわを深くすると、傭兵団の誇る名軍師はため息をつき、そっとアイクに耳打ちをする。
「目立たないようにそっと退室してください。後は適当にごまかしておきます」
「あ、ああ。すまん」
 セネリオの厚意に甘えて、アイクは宴を抜け出した。
 目指したい者はあったが、今日ばかりは場所を聞いて回るのも気が引けた。彼女のように匂いで辿り着けたらよかったのに、と胸中で意味のない苛立ちが募る。こうなったら徹底的に捜す気で歩を進めたとき、ちょうど彼女と鉢合わせした。
「レテ」
 アイクはそう一言彼女の名を呼んだきり、眉を寄せて黙っていた。愚かなことに、会いたいと思うばかりで会ってからどうするかまで考えが及んでいなかったのだ。
 レテが訝しそうにアイクの方に一歩踏み込んでくる。それを決して逃がしたくなくて、手首を掴んで強引に引き寄せた。
「ちょっ……」
「――鍛錬を」
 狼狽するレテの耳元で、アイクは緊張しきった声で呟く。
「鍛錬を、しないか」
「はぁ!?」
 レテがきつい語調でアイクを問い詰める。アイクも同じ語調で返さざるをえなくなる。
「どこで!」
「ここで!」
「どうやって!」
「篭城戦の訓練!」
「二人で!?」
「そう!」
「馬鹿か!!」
「だろうな!!」
 ……二人共、何もしていないのに息が上がってしまった。
 すまん、と言いながらアイクはレテを放した。強く掴みすぎていたのか、レテは手首をしきりに擦っていた。彼女を痛がらせるつもりは毛頭なかったのだが、怒らせてしまったようだ。
「『アイク将軍』は、今夜の主賓も同然だろう? よく解放されたな」
 責めるような口調に、アイクは少し罪悪感を刺激された。
 頭痛がしてきた。酒の匂いを嗅ぎすぎたのかもしれない、と額を押さえる。
「勝手に抜けてきた。宴の雰囲気は嫌いじゃないが今はそんな気分じゃない」
 どこまで言っていいものやらと思ったが、自分は瑣末な隠し事を出来るほど器用ではないし、小手先の嘘なら彼女はたちまち看破してしまう。正直に話すことにした。
「あんたの声が無性に聞きたくて……でも何も話題が浮かばなかったから、引き留めたくて馬鹿なことを言った」
 口にしたときは馬鹿言ってるつもりはなかったんだが、と最後に付け加え、アイクは口を閉ざした。
 もっと怒るだろうと思っていたのが、レテは幼子に語りかけるように優しくアイクの手を取る。
「本当に馬鹿だな。それなら『話したい』と一言でも告げてくれれば、私だって一緒に話題を探すことぐらい出来たろうに」
 アイクは眉を寄せて、レテの手を握り返した。レテの手はいつにも増してあたたかかった。少女の薔薇色の頬に自分の手が触れると、肌が溶け出しそうなほど心地よかった。
 確かめなくとも心臓は、いつもより強く脈打っている。口にすることを憚り、ないことにしてきた想いがこみ上げてたまらない。
「なぁ、レテ。俺は――」
 思わず口唇を開いた刹那、能天気な大声がアイクの台詞を遮った。振り返るとライが上機嫌の様子で手を振りながら近づいてきていた。
「いたいた! 全く急にいなくなるなよ将軍、みんな困ってたぜ?」
 ライはアイクの肩に手を回そうとする。アイクはその気安さが今は煩わしくて、つい手を振り払う。
「今レテと話をしてるんだ。後にしてくれ」
「だったらレテも一緒に来ればいいじゃーん。なぁレテ?」
「私は……遠慮しておく」
「そう? 残念」
 レテが離れていってしまう。追いすがろうにも、ライが右腕で首を固めてきて動けない。
「さぁさぁ行こうぜ、エリンシア姫が心配してる。じゃあなレテ、ゆっくり休めよ」
 アイクはその呼吸の中に、表には出ていない感情を嗅ぎ取った。
 ライはどうやら、少し苛立っているらしい。
「待てライ、行くとは言ってない!」
 抵抗するも、ライに本気を出されたらアイクには抗うだけの力がない。
 引きずられながら何度も振り返る。レテは途方に暮れたような顔で、別れる前に挨拶でもしておこうと思ったのか、中途半端に手を上げたままだった。
 身の入らない宴会を終えると、もう随分遅くなっていた。レテはもう寝てしまっただろうか。部屋が分からない以上確かめる術はない。
 アイクは無駄に広い部屋に、外套を、上着を、ひとつひとつ落としていく。シャツと下衣だけの姿になってから、いつもしているバンダナを寝台の脇に置いた。
 天蓋つきの寝台に倒れ込むと、アイクには素材の分からないほど滑らかなシーツが迎えてくれる。枕も包み込むように優しく頭を支えてくれた。これなら眠れそうかとも思ったが、睡魔が襲う度に、悪夢がそれを打ち崩す。
 浅い眠りと覚醒を繰り返すうち、何かの音が聞こえた気がした。
 もう一度。気のせいではない。アイクは次の間に続くドアを開け、廊下へ続くドアをもう一枚開けた。
「……レテ」
「起こしてしまったか? 寝ていたのなら今夜でなくともいいが」
 レテが気遣いがちに言うので、首を振って中に招き入れる。
 アイクの脱ぎ散らかした服を一枚一枚拾い上げながら、レテは歩いて来た。机の上に着衣を置くと、寝台に腰かけたアイクの向かいになる位置の椅子に座る。
「……さっき、話が途中だっただろう。何か私に言おうとしていなかったか?」
 言うべきか少し悩んだが、やめておくべきだと思った。
 勢い任せで言おうとしたことを今更蒸し返すことはない。黙って胸にしまい直せばいいだけだ。
「虫のことか?」
 アイクは再び否定する。脱走したナーシルのことは無論気がかりだが、その問題について彼女と語り合うつもりはない。
 沈黙。その重みに耐えかねて、アイクはもう何度使ったか分からない、手垢のついた手段でレテを引き留めようとした。
「寝つきが――」
 顔を伏せて、床を睨みつけながら呟く。鏡のように磨かれた石に情けない顔が映り込んで、アイクは一層自分の無様を噛み締める。
「寝つきが悪いんだ。せっかく寝ついても眠りが浅くて、すぐ目が覚める。朝がひどく遠くて、このまま夜は明けないんじゃないかと毎日怯えて……」
 何を言っているのだろうと自身を疑った。これは極めて個人的な、妹のミストにさえ話していない問題だ。誰かを巻き込んでいいことではない。
 レテの前では情けないところを見せたくないと思っているくせに、どうしてレテには弱っている姿ばかり見せてしまうのだろう。自分を振り払うように頭を揺らす。
「いや違う、俺はそんなことを相談したいんじゃない」
「別のことならそれはそれで聞く。しかし、満足に休めないことは『そんなこと』で片付けていい問題ではないだろう」
 レテは怒り出す前兆のような、ぴりとした声で言った。矢継ぎ早に問う。
「傭兵団の皆は知っているのか? ミストやティアマトや――」
「セネリオは知ってる。原因までは誰にも言ってないが、俺が不眠気味なのはバレていた」
「『言っていない』ということは、お前自身は原因を『自覚している』んだな?」
 ああとも違うとも言えなかった。
 心当たりはあるが、それを『原因』と呼んでしまったら、いよいよ自分が崩れてしまう気がした。
 母の声を、ミストの歌を思い出す。
 どうしても思い出せないガリアでの日々。父の利き腕の傷。貫かれるたおやかな身体。
 メダリオン。蒼い炎。邪心。暴走。殺戮。
 急に息が出来なくなった。胸が詰まって何も出来ない。
 今日、皆に黙って漆黒の騎士と戦った感触がまざまざと蘇る。
 雨。土。届かない刃。震える四肢。父を殺した冷徹な光。
 血と、血と、血と、血と、血と――
 月と
 闇
「くる、し……」
 か細い声を漏らしたことを、アイクは自覚していなかった。ただとにかく寒くて、心臓を氷の手で掴まれたように冷たくて、頭は同じシーンを幾度も幾度も繰り返す。嫌だ、嫌だとそれを拒むアイクの心はその度に軋んでいく。
 それでも悪夢のような光景は消えない。やめろ、と絶叫したつもりが息にすらならなかった。
 自分が、  を そうとしているところなんて見たくない。
   を してしまうかもしれないことなんて、知りたくない。
「――!!」
 肺が引きつった。苦しくてもう何も考えられない。数え切れない死線を傲岸不遜にかいくぐってきたくせに、自分の頭一つで死んでしまいそうなことがただただ恐かった。

 それはこの命が喪われること自体が恐ろしいのではなく、
 
 急に息が出来なくなった。何かがアイクの口を塞いでいる。もがいたが外れそうになく、それでもやはりアイクは抵抗した。
 しかし次第に、それがとても安心するものであることが分かり始め、身体から力が抜けていく。
 温もりの正体も知らぬまま、アイクは意識を手放した。

 

 ふと目を開けると、橙の耳がすぐそばにあった。
「レテ……?」
 呟く。張り出した耳が小さく揺れ、声の出どころを探すようにくるりと回ったが、結局伏せられて寝息と共にかすかに上下する。
 レテは足を床に向けて下げたままで、上体だけ寝転がってアイクの左手を握っていた。何が何だか分からなくなっていたアイクを見かねて、ずっと傍にいてくれたのかもしれない。
 アイクは起き上がって、右手でレテの髪を撫でる。耳の付け根を指でなぞると、こそばゆそうにぴくぴく動いた。知らず微笑が漏れていた。
 彼の中に積み上がった問題は何一つ解決してはいないが、レテがこうして健やかに眠っているのを見るだけで、随分心が落ち着く。
「なぁ。いつまでもこうやって俺の傍に、あんたがいてくれたらと思うのはやっぱり我が侭だよな」
 レテは起きなかった。寝たふりではない、彼女がそんなに器用でないことはアイクがよく分かっている。
 アイクは苦笑して、橙の尾を手に取ると、意外なほど質量のあるそれに軽く歯を立てた。レテが耳をつんざくような悲鳴を上げて目を覚ました。真っ赤な顔で、殴る蹴る引っかくとあらゆる手段でアイクを攻撃する。枕で何とか防ぎながら、アイクは笑う。
「それだけ元気なら大丈夫だな」
「何がッ!」
「――みんなが起きる前に鍛錬に付き合ってほしい。ダメか?」
 アイクが見上げると、レテは赤面したまま、べつにだめじゃない、と震える声で答えた。
 寝台の上で座り込むレテを見てアイクは、起こす前に好きだの一言ぐらい言っておけばよかった、と思ったのだった。

 

To SIDE Rethe

NEXT Episode

『太陽と手を携えて』インデックスへ