秘密
まぁ、とエリンシアが間の抜けた声で言った。
国境線を離れ、王都ネヴァサの陥落を目標に進軍を始めたクリミア軍。今し方潰した拠点の倉庫には、目に痛いほどの黄金が輝いていた。
半ば呆れたような声でティアマトが言う。
「すごいでしょ? 全部本物のゴールドよ」
「デインは金持ちだな」
完全に呆れ返ってアイクは答えた。正直、ここまで来ると金だという気がしない。
「で、これ、どうするんだ?」
「戦利品ですから、当然我々のものとなります」
セネリオが言った。浮ついた様子も驚いた様子もない。この場において完全に冷静なのは、セネリオだけだ。
想像だにしなかった大金を前にアイクが思ったのは、フォルカについてだった。あの男は今もついて来ている。戦場では顔を見せないが、アイクの定期的な呼びかけには応じてくる。
そもそも、フォルカは五万ゴールドの金を得るために、従軍しているはずだ。今までも気にしてはいたが、軍用費には個人的なことで使う金などこれっぱかしもなかったし、そのうちにと思って自分の取り分を切り詰め切り詰めやっと一万ばかり貯めただけだった。
その資金が目の前にあるとなると――。
「……だったら、五万ゴールドだけ俺に貸してもらえないか?」
父の遺した情報。今すぐにでも聞きたかった。漆黒の騎士が何故グレイルを襲ったのか、知りたかった。
記憶力のいいセネリオのことだ、金額だけでアイクの心情を察したようだった。
「問うべきは、僕ではないと思いますよ。アイク」
セネリオはエリンシアに目配せをし、エリンシアはしっかりと頷いた。
「アイク様、このお金は傭兵団のみなさんで使ってください。これまで、みなさんのお給料を満足にお支払いできませんでした。ですから……」
「いや、俺は五万……いや、四万でも借りられればそれで……」
アイクが狼狽していると、ティアマトに軽く頭をはたかれた。
「あなたは、ありがたく頂きなさい。残りは……軍の維持費としてセネリオに任せましょう。それでいいかしら、エリンシア姫?」
「はい。お願いします!」
エリンシアは安堵したように笑った。
国を憂うべき王女に、傭兵団の生活面での心配までさせていたと思うと、アイクは情けないような気になってくる。
「一万の束が五つ。これで五万です、アイク」
いつの間に整えたのか、セネリオが麻袋を差し出してきた。受け取る。ずしりと重い。
セネリオはいつもの口調で言う。
「それは我々から将軍への出世祝いです。よって傭兵団への返済義務はありません。……どうか気にせず使ってください」
最後だけ少し、優しかった。
「ありがとう」
アイクは頷くや否や、倉庫を飛び出した。皆が天幕を張っている。その間を抜けて、一番先に張ってもらった自分用の天幕に急ぐ。
五万用意できたと言うと、フォルカはすぐに姿を現した。相変わらず気配のない男だ。
「やっとか。ありがたく頂戴しよう」
フォルカは麻袋を受け取り、無造作に自分の足元に置いた。何をするにも金を要求するフォルカにしては、随分ぞんざいな扱いだと思った。
「中を確かめないのか?」
アイクが問うと、フォルカはあっさりと答える。
「必要ない。あんたを信用する」
「……そうか」
ここで金額の押し問答をしても仕方ない。アイクは本題に入った。
「じゃあ、渡してもらおうか。親父宛の報告書とかいうものを」
「ない」
フォルカは躊躇する間さえ置かず、即答した。
「報告書など、最初からない」
「俺をだましたのか?」
アイクは剣の柄に手をかける。それをフォルカが制した。人差し指と中指を並べて出しただけで、アイクの殺気を削いだのだ。
まぁ落ち着け――と紫煙を燻らせながら、フォルカは言った。
「あんたに伝えることはある。ただ、書に残すことはできない。これは重大な秘密だからな。……あんたが、この話を聞くに値するほど成長した時、俺の口から直接聞かせるよう指示を受けている」
「五万ゴールドを用意することが成長?」
「大金を用意させたのは、俺の趣味だ。判断方法について指定がなかったんでね」
色々と腑に落ちない部分はあったが、いい。とにかくその秘密とやらを、早く聞きたかった。
その気配を感じてか、フォルカはようやく語り始めた。
「俺は長い間、グレイル殿の影として雇われていた。2つの件でね。ひとつは」
フォルカは先程アイクに突きつけた人差し指を立てた。
「グレイル殿が暴走した場合、それを止める。すなわち、命を奪うことで」
もうひとつ、と同じく中指を立てる。
「グレイル殿が追っ手によって殺害された場合、息子であるあんたの成長を見守り、しかるべき時にグレイル殿の秘密を伝えること……それが、俺の仕事だ」
アイクには意味が分からなかった。
自分の知りたいことと、フォルカの語ったことが結びつかないのが、ひどく腹立たしかった。
「暴走……って、一体何のことだ? 親父はどうして殺されなければならなかったんだ!?」
落ち着けと言っている、と言い置いて、フォルカは変わらぬ口調で告げる。
「全ては、エルランのメダリオンのせいだ」
「メダリオン?」
「お前さんの妹が隠し持っているもののことだ」
心当たりがあった。
今はミストが持っている、古びた青銅のメダリオン。誰にも見せるなと言われていた、母の唯一の形見。
「あれが、なんだというんだ?」
「グレイル殿は危険な物だということ以外、教えてくれなかったんでね。自分で調べてみたんだが……その正体には、さすがの俺もかなり驚いたな」
ここに至り、フォルカの舌は鈍った。アイクは視線で先を急かす。
フォルカは元々愛想がよいとは言えない顔を、更にしかめた。この男にしては珍しいことだった。
「……そのメダリオンには、昔、英雄たちに倒された邪神が封じられている」
「冗談だろう?」
しかも、性質の悪い冗談だ。妹が肌身離さず持っている母親の形見、唯一の母子の絆に、よりにもよって邪神?
「生憎、真実だ」
フォルカに嘘をつく理由はない。だが、しかし。
「とてもじゃないが、信じられない。さっき、メダリオンが危険なものだと言ったな? じゃあどうして、親父がミストに持たせたりする。理屈に合わないだろう!?」
怒鳴っても仕方ない。けれど、声を荒げてしまった。フォルカはそれすらもお見通しの様子だったが、わずかに声が緊張していた。それは恐らく、アイクの剣幕に圧されたからではない。
「あの子は大丈夫だからな。いや、あの子じゃないと駄目なんだ。その証拠に、お前さんは一度もあれに触れたことがないだろう?」
「確かに……ない」
アイクは顎に手を当てて、記憶の糸を辿る。
幼い頃、ミストの手にあったのを何気なく触ろうとして、グレイルにひどく殴られた。理由は分からなかった。だがそれからは、何となく、自分が触れてはいけないものなのだと思っていた。
「お前さんの妹は、他の者に比べ、極端に正の力が強いんだよ。お袋さんもそうだったらしい。だからメダリオンを身に着けていても平気なんだ。あれは……身の内に持つ負の気を増幅させる。恐ろしい毒みたいなもんだ。そして」
「まさか」
そう、そのまさか――フォルカは淡々と告げた。
「グレイル殿は、たった一度だけメダリオンを手にしてしまった。そして……最大の過ちを犯した。暴走したんだ」
桁違いの実力を持つ剣士だったグレイルは、20人はいたというデインの追っ手を――どの者も大した手練だったろう―― 一瞬のうちに葬り去り、果てには、自分達を匿ってくれた村の住人を次々と手にかけていったのだという。それを止めるために、グレイルの妻――アイクの母エルナは危険を顧みず、我を失った夫に駆け寄った。
「そして……奥方はグレイル殿の手からメダリオンを奪った。自分の身体を、夫の剣に貫かれながら……」
アイクはものも言えず立ち尽くしていた。
カイネギス王の『追っ手に殺された』という言葉。フォルカの『夫に殺された』という言葉。
ガリア。集落。デイン。刺客。殺害。逃亡。子守歌。笑顔。メダリオン。
記憶はかき回してもかき回してもひとつに溶け合わない。
そんなアイクを見かねてか、フォルカが口を開いた。
「どんな奴も、メダリオンを手にすれば負の力に飲み込まれてしまう。俺だって、あんただって、きっと暴走しておかしくなるだろうさ」
「それで……親父は?」
かすれた、他人のような声だった。それでもフォルカは聞き取ってくれたらしい。
「正気に戻った親父さんは、どこからか、俺の噂を聞きつけて訪ねてきた」
フォルカは口が堅く、腕もあり、何よりどんな仕事でもすると、その筋では有名だったそうだ。グレイルもその噂を聞いて、フォルカを雇おうとした。
だが、フォルカは断ったという。グレイルが、かつての名将……デインの神騎将ガウェインだということにすぐ気付いたから。俺の頭がおかしくなったら止めてくれ、と言われても、それを止めることなど出来る訳がないと。
しかし。
『これでいいか?』
グレイルはフォルカの目の前で、利き腕の筋を切った。もう、そちらの腕はまともに使えない。
冷静に戦力差を分析し、フォルカはようやく首肯した。
「これが、俺の知るグレイル殿の秘密だ」
語り終え、フォルカは煙を吸い込むと、薄い幕を張るように吐き出した。アイクは俯いて拳を握り締める。
「……親父の遺志は、メダリオンを守ることなんだな? 俺はそれを実行すればいいんだな?」
為すべきを為せ。アイクがグレイルに教わってきた言葉だ。
「そうだ。優先されるべきは、その一つだけだ。妹に持たせたまま、メダリオンを守り抜け」
「分かった」
頭の中は整理できていない。ただ、優先事項がひとつだけだというのはありがたい。今まで通り、ミストを守ればいいだけなのだから。
それだけ、なのだから――。
「あんたも、俺と契約するか?」
「頼む」
「いい判断だ」
自分の貧困な想像力が、どうして今日は必要以上の働きをするのだろう。
人々を無差別に殺し回る父と、その刃に貫かれる母。やがて父の姿は自分へと変わり、貫かれる身体はミストへと変わり、最後にレテになった。
フォルカの気配が消え、アイクは座り込む。
涙は出なかった。父が死んだ日と同じように。いっそ泣き喚いてしまいたかった。
どうして自分は、ミストのように素直に泣くことが出来ないのだろう?
「あ――あ」
慟哭しているような呻き声を上げるのが精一杯だった。
自分は『将軍』なのだ。大声で叫ぶことすら許されない。
「く、ぅ――」
地面を殴った。何故だかは分からないけれど、無性に殴りたくなった。
それでも実戦時への影響を配慮して力をセーブしている。そんななけなしの理性がかえって苛立たしい。
アイクは頭をかきむしり、やがて抱え込んで、横様に倒れた。
もう何も考えたくない。
もう何も。
セネリオがやって来たときには、もう日が沈んでいた。
「アイク。夕食ですが……食べられそうですか?」
「ああ。食べる……」
食え。それから考えろ、と、父に言われたことがある。空腹はろくな答えを導き出さないと。
しかし立ち上がろうとしたアイクを、セネリオが止めた。
「僕が持ってきます」
「いや、それくらい自分で」
「アイク」
セネリオは下に目を落としながら、歯切れ悪く切り出した。
「……今の貴方を人前に出す訳にはいきません。将が憔悴していては、全体の士気に関わります」
セネリオはいつも正直だ。要するに、今の自分は相当ひどい状態に見えるらしい。
意地を張っても彼を困らせるだけなので、素直に頼むと言っておいた。わかりましたと、セネリオは目を伏せる。
「他の者には、『忙しくて手が離せないから』と伝えておきます」
ありがとうと呟いても、いえ、としかセネリオは返してくれなかった。
セネリオが去って、戻ってきてまた去って、アイクの天幕には食事だけが残された。
いつもなら待ち遠しいはずなのに、今は食べたいとは思わなかった。
パンをかじる。味がしない。スープを飲む。味がしない。何を食べても味がしない。元々、味を感じていたのかも思い出せない。
とにかく、戦時中だ。食べ物は手に入るときに食べておかねばなるまい。一口ずつ。一口ずつ。味のしないものを喉の奥に押し込む。
俺は、飯を食っている場合だったか――?
「……アイク!」
呼ばれて、初めて自分の前に誰かが立っていることに気がついた。
レテだった。夕食のトレーを持って、不機嫌そうに立っていた。何か用かと問う前に、アイクの隣にどかりと腰を下ろす。
「おい?」
「食事は皆でとるものなのだろう? ならば私がここで食べたところで、何の問題もあるまい」
自分――というかグレイルの決めた傭兵団のルールだったが――の口癖を引き合いに出されると、どうも返しようがない。まぁそうか、と答えて、アイクは匙を動かした。これだけの動作がひどく億劫だ。
レテがアイクの盆を覗き込んでくる。
「食欲がないのか?」
「腹は減ってる。味が分からん」
そう返すと、レテは確かめるように自分のスープを口に含んだ。
「味、するか?」
アイクは問うた。問うてから、どんな答えでも大した意味はないように思えた。レテはスープを飲み下し、する、と言った。
「塩胡椒と野菜の味だ」
レテはもう一度スープをすくう。それが妙に心をざわつかせて、アイクは思わずレテの手を掴み、レテの匙に口をつけた。
傾けず、吸う力だけでスープを口内に移す。嚥下。すっと身体を引きながら、アイクは呟く。
「少し甘い」
口許を片手の親指で拭う。
何故あの一口をそう感じたのかは分からない。けれど今のは、一度きりの奇跡であることは解っていた。
「……私のを、食べるか?」
レテは遠慮がちに訊いてきたが、アイクは首を横に振った。
「いや。あと少しだから、流し込む」
アイクは皿を両手で持って口許まで持ち上げた。そのままぐいと飲み干す。水だと思えば何ということはなかった。
レテの不安げな顔から逃げ、トレーを脇に除ける。
「そういえば、レテ、上手くなったな。匙を使うの」
「そうだな」
レテも今では、ナイフはもとより、スプーンもフォークも自在に扱える。
それを是とし、彼女がそう努力してきたからだ。ベオクの文化に合わせようと、してくれたからなのだ。
「当然の評価を捻じ曲げてまで、否定論に固執するのは愚か者のやること――か」
アイクは、いつかレテの言った台詞を、噛み締めるように呟いた。
違う文脈でこの言葉を持ち出すことも出来る。
邪神なんていない。親父は暴走なんてしてない。母さんは親父のせいで死んだんじゃない。
フォルカの話を信じず、全てを否定してしまうのは一番簡単だった。
だが、違う。フォルカに嘘を言う理由はない。現に父の腕には傷があった。メダリオンには触るなと怒り、母の死に際の話も決してしなかった。
となれば、『当然の評価』は――。
レテに問いたかった。
もしあんたの親父が、この間のラグズみたいになって、母親を殺したら恨むかと。しかもその呪いはまだ、あんたの妹の手にあるとしたら、どうすると。
訊きたかった。訊けるはずがなかった。黙って彼女が夕飯を食すのを見つめている。
やがてレテは匙を置いた。
「私はもう行く。お前の分も片付けてくるから」
考えるより先に手が伸びていた。立ち上がろうとしていた彼女の腕を、アイクは掴んでいた。
どうしてそんなことをしたのかは分からない。
「その――」
驚いているレテの顔を正視できなくて、アイクは視線を泳がせた。
「あと少しだけ。ここにいてくれないか」
今夜は、と願いたいところだったが、流石にそんなことは頼めない。少しと願うだけで精一杯だった。
レテは頷いてくれた。アイクは彼女の身体を引き寄せ、自分の腕の中に納めた。
あ、とレテが吐息を漏らす。鼓動を感じる。ぬくもりを感じる。自分は今、猛烈に彼女に焦がれている。
「あと少しだけ」
そう言って腕に力を入れる。
あたたかかった。華奢な肢体は、これ以上力を込めたら折れてしまいそうだった。こんなに細い身体に、自分は何を求めてすがりついているのだろう。
レテの手が、ためらいがちにアイクの背に触れた。冷たい手。目を閉じる。
泣いてもいいかと問うことが出来たら、いくらか気が楽だったろうに。