第四章 侵攻 - 1/4

SIDE:Ike

 

手打ち

 

 これよりクリミア解放軍は、デイン領を通過する。
 団から軍となって初めての実戦だ。各々気合が入るのも解る――のだが。
「ヨファ、本当にその弓で行くんだな?」
「それ、ボーレとオスカーおにいちゃんにも言われたよ」
 アイクの問いに、うんざりした様子でヨファは答えた。というのもヨファは、いつもの小ぶりな弓ではなく、一般兵と同じ大きさの弓を携えていたからだ。確かに、この半年で背も伸びているのだが……。
「訓練でも使ってみせたことないから、不安?」
 ヨファは指の弦をいじりながら呟く。アイクは、まぁなと頭をかいた。
「かいつまんで言えば、そうだ。強さを求めるのはいいが、使いこなせない武器を持っていくのは――」
「これでも?」
 ヨファが矢筒に手を伸ばす。次の瞬間、膨大なエネルギーがアイクの頬をかすめていった。背後を振り返る。木の幹に、深々と矢が刺さっていた。
 ヨファは矢を抜き、手の中で一回転させて、それから番えて弦を引き、アイクの横に放ったのだ。速すぎて反応できなかった。
「これでもダメ?」
 ヨファが上目遣いに訊いてくる。アイクは眉をひそめ、こめかみを伝った冷や汗を拭いた。
「少なくとも味方に向けるのはダメだ」
「じゃあ敵は?」
「場合によっては許可する」
 と、しか言えないだろう。この実力を見せつけられては。自称天才の名は、伊達ではないということか。
「じゃあ、団長の許可が下りたから、ぼくはこの弓つかうね!」
 無邪気に笑って駆け去っていく。付き合いは長いが、アイクには未だにヨファの性格を把握しきれないでいる。
 ――否。それは戦が始まってからだろう。ヨファは人が変わったように、強くなった。
「成長期か……」
「何をじじむさいことを言っているんだい、君もそうだろう」
 いつの間にか、オスカーが傍に立っていた。疲れたように首の後ろをかいている。
「ヨファにあの弓の使用許可を?」
「ああ。問題があるなら取り消してもいい。大分機嫌が悪くなるとは思うが」
「団長がいいと言ったものを、私の一存でどうこうする気はないよ」
 そうは言いながら、彼はどうも沈んだ顔をしているのだった。オスカーと、加えて言うならボーレが弟を心配するのは今に始まったことではないが、今日はまた顕著に感じる。
「しかし、何でヨファは急に武器を変えようと? いつものだって壊れた訳じゃないだろう」
「アイクは……気付かなかったのかい?」
 オスカーは静かに――禁忌に触れるように、緊張をはらんだ静けさで――告げた。
「あれは、シノンが置いていった弓だよ」
「シノンが?」
 長らく会っていない旧団員の名に、アイクは戸惑った。確かに先程、シノンを見たとヨファが騒いではいたが。
「何でシノンが置いていった武器を、シノンがいるかもしれない戦場に持っていくんだ?」
「返すためだろう」
 オスカーは短く答えた。目的語がない。弓を、なのか、借りを、なのか。それとも他のものを、なのか。
 深いため息をついて、オスカーは改めてアイクを向く。
「戦いの最中でそんな余裕はないかもしれないけれど、気をつけていてくれないか? 今日のヨファは私たちに断りなく、何かを引き起こすかもしれない」
「……分かった」
 納得はしていなかったが、承知はした。レテお得意の論理で、アイクはオスカーの頼みを請ける。
 そして間もなく、戦端は開かれる。

 

 クリミア解放軍が動き出したことは、デインには知られていないはずだ。まずは国境線の長城を急襲する。
 言うは易し、行うは難し。今までの疲弊しかけた追っ手とは違う。万全の状態で自陣に留まっている正規兵に、アイクたちは手を焼いた。
「くっそ、この狭い中にごちゃごちゃごちゃごちゃと……!」
 ボーレが敵を屠りながら毒づいた。
「確かに常駐兵にしちゃ多すぎる――ね!」
 ワユは戦場の狭さを感じさせない軽さで壁を蹴り、落下の勢いに任せてデイン兵を両断した。
「制服着てないの多いし、動きがおれたち寄りかも、なぁっと!」
 ガトリーが道を塞いでいるおかげで、防衛線は保たれている。背後から魔法や弓の援護があるのもありがたい。最初はヨファのことが心配だったが、隙間を縫って放たれる矢は絶妙なアシストだった。
 これなら押せる。アイクがそう確信したとき、ヨファが突然援護班から離脱した。しかし、後方に下がっただけだ。危険な行為に及ぶことはあるまい。
 そう思っていたのに、戻ってきたヨファは、何故か化身したレテの背に乗っていた。
 レテの跳躍。アイク達の頭上を越え、デイン兵さえも飛び越して、境界線の外に舞い降りる。
「馬鹿ッ――!!」
 どちらにでもなく、アイクは怒鳴った。
 ヨファは振り向き様に兵の一人の足を射抜き、レテの背から着地した姿勢のまま同じ兵の心臓を穿った。後方――アイクにとっては前方の敵をレテに任せ、ヨファは前進していく。
「どういうことだ! 説明しろ!!」
 叫んだところでヨファの姿はもう見えないし、レテも化身している以上説明は求められない。くそ、と毒づいて、アイクは『最前線』の仲間たちに告げた。
「先に行く! あんたらは援護班を守りながら前進してくれ!!」
 襲い掛かる斧を沈んでかわし、すれ違い様に相手の胴を斬っていく。致命傷にはならないが時間稼ぎにはなる。
 ヨファはどこだろう。レテもヨファを追うように姿を消してしまった。あの二人に何かあったら――。焦燥と共に敵兵を切り払いながら、アイクは走る。
「やめた。先に邪魔な獣野郎を殺す」
 不意に、聞き覚えのある声が聞こえた。シノンに間違いない。角の向こうなので様子が見えない。先に、ということはまだヨファは無事なのか。
 風を切る音が幾度も聞こえる。シノンが時折使う手だった。文字通り継ぎ早に射た矢で足止めし、必殺の一撃を眉間に叩き込む。このままではレテが危ない。早く駆けつけなければ。
 どうしてこの脚はもっと速く動かない? 速く、もっと、速く次の角を――!
 アイクは自分の剣を思い切り振った。弾いた矢が高い音を立てて、床に刺さる。
「アイク……」
 レテもヨファも、怪我をしている様子はない。誰より先にその名を呼んだのは、シノンだった。
「やっぱりな……てめえとはいつかこうなる気がしてたぜ」
 嗜虐的な笑み。アイクは答えない。答えられない。シノンにどれだけ嫌われようと、ついにアイクはシノンを嫌うことが出来なかったから。
 それに、情に訴えてどうにかなる相手ではなかった。その手段が使えたとしたら、ただ一人、死んだグレイルだけ。今生きているグレイルの息子には、出来ない。
 彼の矢筒にはもう、最後の一本しか残っていなかった。レテに撃った分を含めても、その本数はあまりに少なすぎる。
 いつかガトリーが哀しそうに笑いながら、アイクにこう言っていた。
 団長が死んでからあの人は、いつだって死に急いでるみたいで――。
「行くぜ!」
 シノンが叫ぶ。アイクが走り出す。矢は真っ直ぐにアイクの眉間を狙っていた。
 このまま行くと死ぬだろうなと、アイクは冷静に思った。
 今、死にたいか? 死にたくない。俺は死にたくない。だから。
 だから、進む。
 シノンの矢は脇から放たれたヨファの矢に弾かれ、アイクには当たらなかった。
 もしも矢の残量が充分で、しかもアイクが矢を気にして足を鈍らせていたら、ヨファの援護があってもシノンは第二射でアイクを仕留めていただろう。
 しかしアイクは進んだ。シノンの懐に肉迫。振りかぶって弓を破壊。すぐさま抜き放たれたナイフも跳ね飛ばす。シノンはもう完全な丸腰だ。武器がないとはいえ、一対一で手練のシノンを捕縛できるだろうか? 今ならレテがいるが、部外者の彼女にそんなことを頼むのも――。
 その一瞬の逡巡の間に。
「ふん縛れ!!」
 ボーレが叫びながら躍り出てきた。ガトリーが泣き笑いで、オスカーは真面目な顔で後に続く。
「何だお前ら! くそっ、離――いっそ殺せ!!」
「ごめんだね!」
「おれもイヤっす!」
「まぁお互い頭を冷やして語るには、この場は相応しくないですからね」
 シノンはあっという間に簀巻きにされ、後方に送ってきまーすとガトリーが運んでいった。
 アイクは呆然とそれを見送ることしか出来なかった。
「ヨファが飛び出していったと、キルロイに聞いてね」
 オスカーは微笑みながら、首を傾げた。
「シノンを見つけたのなら、生け捕りにするしかないと思ったものだから……独断で実行してしまった。すまない」
「不満か? アイク将軍」
 ボーレが邪気のない笑みを浮かべる。本当にこの三兄弟は、と思いながら、アイクは嘆息した。
「不満はない。……将軍と呼ばれたこと以外はな」
「どーも。じゃあなチビ、説教は後だ」
 ボーレはヨファの頭に拳骨をくれてやった後、ひらひらと手を振って歩き出した。傍観していたワユがひょいと顔を出す。
「いいね、仲間愛、兄弟愛。絆だね!」
「あんた、ときどき意味不明なこと言うよな……」
 とはいえ、気がかりはひとつ片付いた。
 後はこの城を落としてしまうだけだ。隣に並ぶレテの気配を感じながら、アイクはバンダナを結び直した。

 

 長城の精圧までにそう時間はかからなかった。捕虜もすぐ解放した――シノン以外は。
「あーあ……負け戦か。成り上がる好機だったってのにな」
 シノンが灰色の天井を仰ぐ。捕えたときより縄の量は大幅に減り、今は手首を残すのみとなっている。
 アイクに視線を戻すと、シノンはいつものように鼻で笑った。
「アイク坊やごときにやられちまうとはなぁ? オレもヤキがまわったもんだ。覚悟はできてるぜ、きっちりケジメつけてくれよ」
「なら傭兵団に戻って来い」
「やだね」
 皆まで言わせず即答された。どうやら、これではシノンの言う『ケジメ』にはならないらしい。
 ではどう攻める。ここで報いてやらねば、ヨファの行為はただの蛮勇になる。
「あんたは昔から、俺を気に入らないって態度だったな」
「あぁ、気に入らないねぇ」
「俺が実力もないガキで、親父の威光だけの役立たずだった……だから気に入らない。あんたは、いつもそう言ってた」
「かもな」
 興味がなさそうにシノンは言った。
 否定しなかった。これだ。ここが落としどころだと、アイクは一際はっきり声を張る。
「俺は、あんたに勝った。もう、その理由は通用しないんじゃないのか?」
 シノンは見る間に態度を変え、斜め下を睨みながら舌打ちした。
「妙な知恵、つけやがった」
 そうだ。シノンは傲岸で皮肉屋だが、白を切るのは嫌いなのだ。
「もう一度、言う。傭兵団に戻って来い。俺はあんたの腕を認めてる。団長として、あんたを仲間にしたい」
 シノンは目を閉じて黙考していた。あまりに長い時間。もしかしたら寝ているのではとアイクが見当違いの心配をし始めた頃、シノンはやっと口を開いた。
「次に勝負して、オレが勝ったら団長の座はもらうぜ? それでもいいってんなら……」
「構わん」
 アイクはすぐに答えた。
 『グレイル傭兵団』の名を汚したくないという願いなら、アイクも同意見だ。迷う必要はない。
「じゃあ、手打ちだな」
 シノンの突き出した両手の縄を、アイクは丁寧に切ってやった。

 

 吹雪になびいていたデインの国旗が、クリミアの国旗に変わった。
 そんなものは形式的なことだ。アイクにはそれを眺めて悦に入る趣味はない。
 それよりレテだ。今さっき届いた朗報を、誰より彼女に伝えたかった。
「アイク様?」
 歩き回るアイクに声をかけてきたのは、エリンシアだった。足を止めて答える。彼女を無下にするほど急いでいるのでもない。
「どうした? 何か用か」
「いえ、用というほどでも……」
 エリンシアは俯いて、蚊の鳴くような声で言った。
「ただ、ベグニオンを出てから、ほとんどお目にかかる機会がありませんでしたから」
「そういや、そうだな。俺も将軍とやらに祭り上げられて、色々忙しかったからな」
 エリンシアに近づいていく。寒いのか、エリンシアは自分の両手を揉んでいた。
「大丈夫か? 無理はしてないか」
「は……はい。大丈夫です。ベグニオンの天馬騎士団の方々に段取りを教わっていますし、戦はアイク様方にお願いしているので、私は何も……」
「そういうことじゃなくて」
 アイクはエリンシアの顔を両手で挟み、くいと上を向かせた。
「心に、無理をさせてないか」
 エリンシアは泣きそうな顔をしただけで、答えなかった。
 アイクは手を離す。またエリンシアは下を向いてしまった。
「明朝にはもう、この城を発つのですよね」
「ああ。長居すると危険だからな」
「私、ご武運をお祈りするしかなくて――とても」
「無力で歯痒い?」
 エリンシアは一瞬驚いたように顔を上げたが、すぐにまた足元を見つめた。
 アイクは後頭部をかきながら、上手く言えんが、と前置きして言った。
「気持ちは解らなくもない。俺も留守番のときはそうだった。ただ俺たちが望んでいるのは、姫が思っているような力じゃないんだ。存在して、祈ってくれること――それ自体が、クリミアの希望だからな」
 柄にもないことを口にした気がする。
 ほら、エリンシアも泣き出して……いや、泣き出すほどひどかったか?
「すまん。見当違いのことを言ったか?」
「いいえ、アイク様。私、嬉しくて。私の祈りを、希望だと……レテ様と同じ……」
「レテと?」
 はい、とエリンシアはしっかりとした声で答えた。
「あの方は、私を失われてはならない希望だと。その姿を胸に抱けばこそ戦えると、言ってくださいました」
「そうか。俺も同意見だ」
「はい。私はその言葉に相応しい者になります。そのためなら何も、つらくない」
 決意に満ちた王女の頭を、アイクはくしゃりと撫でた。見開かれた琥珀の瞳を覗き込む。
「つらいときはつらい、でいい。周りを見渡せ。周りに頼れ。その為の俺たちだ。抱え込む前に、上手く使え」
 言葉を失くしたような沈黙の後、はい、とエリンシアは花のように笑った。

 

「あぁ? 今度はなんだよ、アイク」
 シノンはいつも、潔いほど嫌そうな顔でアイクを迎えてくれる。毎度のことなので気にしない。
「別にあんたを捜しに来た訳じゃない」
「だろうな。そうだったらブチ殺してやれたんだがね」
 シノンはどこまで本気か分からない冗談――というかあれは冗談でもなく完全な本気なのかもしれない――を交えて答えた。
「ヨファのことだろ。さっき飛び出してったぜ」
「ヨファが?」
「ああ、猫の半獣と一緒にな」
「ラグズ、だ」
 ほとんど条件反射で訂正すると、シノンは獲物を見定めるときのように目を眇めた。
「言うじゃねぇか。樹海でオレに半獣のことを聞いてきたのは誰だったかね?」
「俺だ。だが今は、その呼び名を使いたくない」
 アイクは真顔で答える。シノンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「あの猫、お前の女か?」
「レテは女だが、俺のじゃない」
「じゃあ誰の?」
「誰のでもない。レテはレテのものだ」
 へぇ、とシノンが笑った。アイクの神経がぴりと尖る。
 こんな問答をして何になる? シノンは一体、何が言いたい?
「あの猫、お前を捜してたぜ。――アイク将軍?」
 だがそれを聞いたら、最後の嫌味も気にならなかった。
 レテが自分を捜してくれている。向こうも捜してくれているのなら、じきに会えるだろう。
「嬉しそうな顔しやがって。色気づいてんじゃねぇよ、ガキが」
 罵られて、アイクは自分の口許に触れる。指先の感覚では、特に笑っている風でもない。
「てめぇが鼻水たらしたガキの頃から、オレはその面ァ見てんだよ。何考えてんだか大方わかっちまう。クソ、要らねぇ特技にもほどがあるぜ」
 シノンは毒づいた。アイクは逆に救済を得た気がした。
 自らの感情にさえ鈍感な自分にも、解ってくれる者があるとは。
「今度から何かあったらシノンに相談するかもしれない」
「ブチ殺すぞ」
 今度こそ掛け値なしに本気の宣言に、アイクは彼を頼ることを断念した。

 

 アイクはもう少し長城の中を捜してみることにした。会う者会う者に話を聞いていくと、レテはこの先の通路にいるらしい。
 声が聞こえる。彼女のものだ。ヨファと話しているのだろうか。ヨファといるときのレテはどこか毒気を抜かれた感じがするので、アイクはあの二人が並ぶ光景を好ましく思っている。
 しかし、返す声はヨファのものではなかった。低い、落ち着いた男の声だ。
 つい最近聞いた気がする。だが思い出せない。思い出したくない、のかもしれない。
 気配を殺して、角から様子を窺った。レテがいる。相手は――ムワリムだ。
 レテは快活に笑っていた。話を受けるムワリムの方も、いつになく気を許しているように見えた。
 レテが、ガリア人ではない同胞の心を開こうと努めていたことは、アイクも知っている。彼女はそれに成功したのだ。ムワリムが安らげる相手を見つけたことも、とても喜ばしい。
 それなのに――アイクは身体を引っ込め、胸の真ん中を強く握り締めた。
 こんなに痛いのは、何故だ? 他の誰がレテと話していても、こんな風にはならないのに。
 本当に? と頭の中で何かがアイクに問いかける。
 ――嘘だ。これと同じ痛みを俺は知っている。知っていたのに、気付かない振りをしていた。ずっと――。
「失礼します」
 いつの間にかムワリムが角を曲がってきていて、アイクに礼をして去っていった。
 ムワリムが気付いたということは、彼女も気付いたのだろう。
「邪魔したみたいだな」
 我ながら嫌味ったらしい、と思いながらアイクはレテの前に姿を現した。
 ああ本当にお前はとんだ邪魔者だ、と言われるかもしれないと思った。そう言われた方かいくらかマシだったかもしれない。
 レテは不意をつかれて動揺している風だった。アイクがいたことを本気で知らなかったらしい。
「いや。そうか――鈍ったな。私も」
 もしかして気付かなかったのだろうか? それほどムワリムとの対話は楽しかったのか?
 アイクは胸中で、やめてくれ、と己へ叫ぶ。自分がこんなにも卑屈で狭量な人間だとは思わなかった。いっそこの場で断罪して欲しい。出会ってまだ、間もない頃のように。
 レテは頭をかきながら、ぽつりと呟いた。 
「困ったものだ。近くにお前の気配がするのが当たり前すぎて、逆に感じなくなってしまっていたようだ」
 アイクは目を見開いて、硬直した。どういう意味だ? と、疑問符が渦を巻く。
 近くに俺の気配があるのが、当たり前。違和感を覚えないほど、自然?
「今後気をつける! それでいいだろう。文句があるなら口で言え!」
 怒鳴られてアイクは我に返ったが、そうしたら今度は気恥ずかしさがこみ上げてきてしまった。
「いや、その――文句は、ない」
 口許を見られないよう、右手で覆った。文句なんてある訳もない。
 確かに、アイクはいつも化身したレテに背中を任せている。アイクの知る限り、対人訓練の相手を務めているのもアイク一人だ。会話だって――これはあまり自信がないけれど――最も多く交わしているのは、きっとアイクだ。
 レテと一番長くいるのは、自分。そう認められただけで、現金なことに痛みは消えてなくなってしまった。
「今日の独断先行についてはヨファの分まで謝罪する」
 レテはベオクの慣例にならって頭を下げた。どうやら、その件でアイクを捜していたらしい。
「そうだ。ヨファは?」
 アイクは顔から手を離した。レテは腕組みをする。
「弓の練習の時間だそうだ。『ごめんなさい、もうしません。でもシノンさんを仲間にできたんだからいいよね?』と言伝を頼まれた」
「まったくあいつは……」
 アイクは一度だけため息をついた。確かにそうなのだが、最後に念押しをしてくる辺りが……頼もしくなった。良くも悪くも。
 レテは腕を解き、直立の姿勢を取る。
「これは総指揮官への背反行為にあたる。いかなる処罰も受ける覚悟だ」
「そんな覚悟は要らん。シノンを仲間に出来たんだから、いい」
 アイクはヨファの言い分で、レテの罪状を打ち消した。
「それより、俺もあんたを捜してたんだ」
「私を?」
 レテは小首を傾げた。驚きで丸くなった目と合わせて、この動作はレテをとても幼く見せるのだった。戦士ではなく、少女の顔になる。
 アイクは、あー、と発声練習をしてから、ひとつひとつ確かめるように言葉を並べた。
「ベグニオンが正式にクリミアの支援をしてくれることになって、今まで日和っていたガリア上層部が、ついに重い腰を上げたらしい。今後の俺達の活躍次第では、ガリア参戦も夢じゃない、そうだ」
 言いこぼしはなかったはずだ。
 レテを見ると、耳と尾がぴんと張り、毛も逆立っていた。興奮しているときのサインだ。
「嬉しそうだな」
 アイクはそれを微笑ましく思いながら、一方で自らの心臓に杭を打ち込んでしまった。
「――ライに会えるからか?」
 残してきたライのことを、今でも彼女は気にしているはずだ。そうでなければ、髪飾りを外しては眺めたりもするまい。
 この問題には触れたくない。だが触れなければ公正でない、という気がする。誰が、何に、なのかは分からない。しかしライを抜きにしてガリア軍のことを語るのは、卑怯で姑息だと感じてしまう。
「ライ?」
 アイクの葛藤に反し、レテはいかにも不思議そうに言った。
「個人は関係ない。ガリアの名を背負って戦えるかもしれないことが、嬉しいのだ。まぁ、強いて言えば」
 ライにも会いたいが――そう続くのかと思った。しかし実際彼女は何も言わなかった。
 眉根を寄せ、赤らんでいた頬は一気に冷め、小さく身体を震わせる。その豹変は、端から見ていて気の毒なほどだった。
「強いて言えば。私情を挟むことを、許されるのなら」
 レテはかき消えそうな細い声で、呟いた。
「……妹には、来て欲しくない」
 レテはリボンの先を握り締めた。妹に贈られたという緑のリボンを。
 アイクも表情を曇らせ、そうだな、と俯いた。
「俺も本当なら、ミストにはいつまでも陽だまりみたいな場所で生きて欲しかった」
 アイクは目を閉じた。
 父の生きていた頃。母の歌っていた子守歌を口ずさみながら、花を摘んでいたミスト。
 あの頃にはもう戻れない。戻せない。せめて自分が進む道の果てに、妹を包む優しい光があるなら――。
 ひやりとした感触に、アイクはそっと目を開けた。彼女の右手が自分の頬に添えられている。
「鍛錬をしないか?」
 甘やかなその誘いに、ああ、と虚ろな声を出しながら、アイクは首肯した。
 この迷いに答えなどない。血の流れない道などもうない。
 それでも、否、だからこそ。少しでも強く在りたいと、少年は願うのだ。