第二章 光が風に舞い遊び - 5/7

SIDE Rethe

 

 

諦めきれない

 

 一行は、船が用意されている筈の港に向かうため、ガリア王城を発った。
 密林を抜けクリミア領内に入ると、見晴らしのいい草原地帯になる。敵を見つけやすく好都合だ。
 ライがクリミアの捕虜を助けてから行こう、と言うので途中で足を止めることとなった。
 道義的な問題だけではないだろう。正規兵を手中にすれば、後に民衆を引き込むのに大きな力となる。戦力が増えればそれだけガリアの負担も減るのだし、レテも異存はなかった。
 どうせレテにとっては急ぐ旅ではないのだ。
 途中で軍師殿が、鍵開けが出来る情報屋というのを雇った。軍師殿は、知恵に優れるベオクの中でも特に頭が切れるらしいので、勝手にさせておく。
 あの分なら先の先まで読んでいるのだろう。読み切れないような事態が起きたら、そのときはレテが謎の男の首を掻き切ってやればいい――あまり自信はなかったが。レテは、あんな風に気も匂いも纏わない生き物を初めて見た。そのくせこの男、いきなり圧し潰すように重い気配を放つのが気になる。
 ライも警戒していたようだが、まぁ、劇物をどう扱うかはレテの知ったところではない。
 別件で外すというライは放っておいて、収容所に侵入した。
 獣牙族の中でも特に索敵能力に優れる猫が、先行してデイン兵の数を探る。傭兵団はそれに従い、手近な敵を同時に片付ける。そして男が鍵を開け、モゥディ達が中の兵を出口へと誘導する。
 単調な繰り返しだ。派手好みらしい団長殿が痺れを切らすのではないかとレテは踏んでいたが、意外にも根気よく頑張っている。
 騒ぎ出したのは団長殿ではなく、捕らえられていた兵の方だった。
「クリミアの方ですね? 私は、あなたがたの味方です。牢の鍵を開けましたので、この隙に逃げて下さい」
 ヨファの兄御がそう促したとき、その赤い髪の青年はいきなり兄御を指差して叫んだのだ。
「お、お前! 忘れもしないぞ、その糸目! 貴様、クリミア騎士団第12分隊にいたオスカーだろ!?」
「君は、確か…………ケビン?」
 眉間に指を当てているところを見ると、咄嗟に名前が出てこない程度の付き合いだったらしい。
 にもかかわらず、赤い方の青年は勢いよく頷いた。
「そうだ! お前の永遠の好敵手、ケビンだ!!」
「やぁ、久しぶり。元気そうでなによりだ」
 オスカーは悠長な声で言った。青年が鼻を鳴らす。
「相変わらず気の抜けるような返事だ。三年前に除隊したお前が、なんだってここにいる? まさか……貴様、デイン側に寝返ったんじゃないだろうな!?」
 と、レテはここで、青年のやかましさに辛抱し切れなくなった。後ろから飛び掛かって、両腕を絞り上げながら石の床に押し付ける。
「なんッ……!?」
「騒ぐな。二度と口が利けなくなるぞ」
 レテは青年の背に膝を載せ、耳元で低い声を出した。青年は、くっ、と喉の奥で悔しそうな音を漏らす。
「仲間まで連れていたか。オスカーめ、見下げ果てた奴だ。俺の永遠の好敵手としての誇りはどこへやったんだ」
「永遠の好敵手なのか?」
 レテは姿勢を変えぬまま尋ねた。オスカーが首を横に振るのが気配で分かる。
「私は傭兵団に入る前、騎士団に所属していたことがあります。彼は当時の同僚です。それで、ケビン。私の所属する傭兵団は今、エリンシア姫に雇われて……」
「エリンシア姫だと? 王宮騎士でもないお前が、どうして姫のことを知っている」
 青年は怒鳴り出しかねない剣幕だったが、レテが体重をかけているせいで声量はない。心なし息切れしかかった声で、涙ぐましくもオスカーを嘲笑しようとしている。
「さては貴様、手柄狙いだな? 俺より先に聖騎士になろうって、そういう魂胆なんだろう?」
「私は任務で……」
 オスカーは疲れたように呟いた。もう最後まで言えてもいない。
 レテもいい加減うんざりしていたので、青年の腕を一層強く締め上げる。青年がくぐもった悲鳴を上げる。
「くそっ、貴様、この俺がいいように扱われるなど……一体何者だ」
「私か? 私はガリアの戦士レテだ。我らとグレイル傭兵団は、クリミア復興を支援するべくエリンシア姫と行動を共にしている。だから我々の行動を妨げる者は、すなわち姫の敵という訳だ。お分かりか、クリミアの騎士殿?」
 青年の口から出る音は最早、言葉の体を成していなかった。レテは右手で青年の両手を絞ったまま、左手をその首にかける。
「念の為、噛み砕いて言っておいてやろう。騒ぐな。作戦に支障が出ると判断した時点で、私は貴様の首を折る」
 青年は毒づくような声で、承知した、と呻いた。レテはため息をついて青年を解放する。
「オスカーと言ったな。貴様も、『永遠の好敵手』なら喚き立てる前に止めてやれ」
「すみません。お手数を」
 レテが牢を出ようとしたとき、オスカーはこそりと呟いた。
「あの騒々しさがなければ、いい騎士なのですが」
「騒げてしまうこと自体、意識が足りないと思うがな?」
「手厳しい」
 レテは肩をすくめてオスカーの横をすり抜けた。アイクがどこか不安そうな顔で立っている。
「次の区画に行きたいんだが、いいか?」
「構わん」
 そう見えたのは照明の暗いせいなのだろうか。
 そしてレテの努力は、どうやらすぐに無駄になった。射手がしくじったとかで、デイン兵が騒ぎ出したのだ。
 レテは別段驚かなかったが、ケビンとかいう騎士は痛めつけられ損だったかもしれない。
「強行突破するぞ!!」
 団長殿が剣を掲げる。魁に付き合えというのでそうした。それだけだ。デイン兵の悲鳴にレテは関心がない。
 もし前向きな気持ちがあるのなら、速やかに済ませたいというだけだった。
「よく来た! 心から歓迎するぞ。お前達も俺の捕虜となり、楽しい獄中生活を送るがいい」
 最奥には、背後に獄吏たちを従えた看守長らしい男が待ち構えていた。
 脆弱な肉体を覆う、不愉快な匂いのする厚い鎧。気品の欠片も感じさせない顔つき。言動は、レテの想像していた『ベオク』そのまま。
「半獣? これはいい! 半獣の囚人は初めてだ。さあ、いい子だな。とっておきの牢を用意してやろう」
 脂ぎった下卑た笑み。まるでつまらない劇のようだ。個などない。ただ決まり事を口にするように。同じようなことを凝りもせず繰り返す。
 ――これがベオクか。レテは不意に、ライの言ったことが腑に落ちた。
 悪にすら達せぬ、弱き者。蔑むにも及ばぬ、小さき者。殺すにすら値せぬ、愚かなる者。
 彼らはかく在るだけだ。それ以上の意味も価値もない。
 諦めてしまえばいいのだ。どうしようもないということを、ただ認めるだけでいい。
 レテはひとの姿に戻る。化身を保っていることに、些か疲れた。ベオクを憎むことに倦んだ。
 立ち尽くしながら、思う。
 ライ。これがベオクなら、お前は彼らとどんな友好を築こうと言うのだ。
「……じゅう、だと?」
 そう呟きながら、アイクがふらりと踏み出した。レテは思わず少年の姿を目で追う。ラグズであれば化身するのではないかと思うほどの闘気が、少年の周りで逆巻いている。
 アイクは一言二言交わしたのみで、雄叫びを上げながら男に突進した。それを合図に傭兵団の面々が飛び出していく。レテは動けずに目の前の光景を見ている。
 乱戦の中で見え隠れする、激しく打ち合うアイクと男を見つめて、口唇を噛む。
 我らをあの名で呼び、『知らなかった』と項垂れた少年が。
 今、その言葉の痛みに反応している。激昂している。
 怒ることすら諦めた不甲斐ない私の代わりに、彼は我らの誇りを守ろうとしている。
 だから。私はまだ、諦め切れない。
 男の身体がどうと倒れた。獄吏たちは恐慌状態に陥り、背後の階段を駆け上がっていった。ご丁寧に出入り口を開け放っていってくれたので、陰気な獄舎にも陽の光が射し込む。
 放心したように立ち尽くす少年を、白色の陽が鮮やかに照らす。あどけなさの残る頬を、誰のものとも分からぬ血が一筋流れ落ちていった。
「アイク」
 名を呼ぶ。光の中で少年が振り向く。瞬きの間、あの笑顔の失敗作のようなものが幼い顔によぎった。
 レテが言葉を詰まらせていると、アイクは普段の老成した表情に戻って、仲間に先行離脱を命じた。
「あのとき何故、前へ出た?」
 レテはその場から動かずに問うた。アイクは疲れたように剣を下ろし、さぁな、と言う。
「俺にも分からん。気付いたらそうしていた。……許せなかったんだろう」
「何を」
 アイクは答えなかった。黙って難しい顔をしている。レテが歩み寄ろうとすると、彼は左手でそれを制した。
「寄らないでくれ。あんたの嫌いなにおいが染み付いてる」
 自嘲気味に言いながら目を逸らす。ベオクの血のにおいが嫌いだと言ったのを、覚えているのだろう。
 彼はレテが想像していたベオクと同じく、無知だった。しかしレテの想像とは違い、無関心ではなかった。
 知らないことが多かろうとも、知ったことを忘れることはない少年のようだった。
「先に行っててくれないか。あんただって、もう鼻が曲がりそうだろう」
「分かった」
 レテは呟き、アイクに背を向けた。モゥディに後を任せ、階段を駆け上がる。
 ベオクは確かに鈍いかもしれない。けれど自分たちの厭うにおいを、彼が感じていないとは思われない。
 ベオクは弱い。弱いが故に、弱さを見逃さない。その傷つきやすさ故に、彼らは他者の痛みに共鳴できるのだ。
 突き抜けるような空の蒼に、レテは少し目を細めた。