最終話 Near Evergreen - 4/6

決戦は金曜日

 朔夜は息を切らせて階段を駆け上る。
 地上へ向かう段差の先に、曇り空とキラキラしたよく分からない建築物の壁面。呼び出した相手はもうそこで待っている。
「遅いんですけど」
 辻本(つじもと)柚葉(ゆずは)はマフラーを指で引き下げ開口一番のたまった。あのベージュのチェックは朔夜でも知っている。バーバリーのマフラー。
 待ち合わせ時間の五分前なのに、ごめんと呟いて朔夜は汗を拭った。
 富島も『僕はその手のことに疎いので』と言うぐらいなら断ればよかったのに、『適任者に一般論として訊いておきます』と朔夜が止める間もなく電話を切った。
 五分後、朔夜の電話に知らない番号からの着信。
『どうせあなただろうから、まどろっこしいことしないで直通の番号教えてって言いました』
 堂々と言い放つ口調に、これは富島と侑志が好きそうな子だとうなった。
 辻本柚葉は『立場はともかくセンスを買われたからには断りたくない』と、金曜日の午前十一時に明治神宮前駅に来るよう指定してきた。
『私、学校あるんだけど』
『あたしもですけど? 三連休はママと旅行なので』
 勢いに押されて授業をサボり、こうして明治神宮前――原宿にやってきてしまった。『もう着きました』のメールに急かされて初手から朔夜はボロボロだ。
「で、なに? その服」
 辻本は無遠慮に朔夜姿を眺める。上から下まで行って、下から上に戻る。
「あたし、『一番かわいいと思うファッションで来て』って言いましたよね。チェックのネルシャツってなに? 男子中学生じゃないんだから」
 ぶっきらぼうな言い方。一緒に選んでくれた親友まで馬鹿にされた気分になり、こちらもつい語気が荒くなった。
「なんで? 赤チェックって女子って感じじゃん」
「肩幅気にしてメンズのオーバーサイズにしたくせに? デニムも脚のライン気にして大きいの選びすぎ。色も明るすぎるし、アメコミヒーローの少年時代みたい」
 辻本はメイクバッチリの目で睨み返してきた。内容も相まって朔夜は反論する気力を失くした。
 朔夜は左肘をさすって黙り込む。辻本もPコートの袖ごと腕組みする。
「まぁ服って組み合わせですし。ボトムスがスカートならもうちょっと女子らしさ出ると思うんですけど」
「スカート、制服しか持ってない」
「重症……」
 嘲りを通り越して同情の視線を浴びてしまった。消えたい。顔を覆って俯いた朔夜に、とりなすような声がかかる。
「でもそのモスグリーンのモッズはかわいいじゃないですか。ファーもいい感じだし。これ基準にコーデ考えていきましょ」
「これ弟のなんだけど」
「あー、皓汰君かわいい服好きそうですもんね」
 雑なフォローが胸に刺さる。
 弟にかわいさのセンスで負けた。『これと同じカラーリングならシャオとパオのが絶対かわいいでしょ』と言われてケンカになったが、あれも皓汰が正しかったのか。
「とにかく!」
 手を打ち鳴らす音で我に返る。辻本は制服らしき緑のプリーツスカートを揺らして方向を変える。
「初デートまでにかわいくなりたいんですよね? 行きましょう」
 辻本は意気揚々と歩き出す。
 平日の昼間とは思えない人混みの中、朔夜は必死に後をついていく。
「普段どこで服買ってます?」
「どこの店ってのはない。池袋とかの、服屋のいっぱい入ったビルで」
「じゃあ古着屋は初めてなんですね」
 少し駅から離れると人の量が随分減った。地面がうねっていて立っているだけで気持ち悪い。どういう精神状態でデザインしたのか分からない、遊園地じみた独特のセンスの建物がひしめき合っている。
「まず確保したいのは白ニットですね。男はみんな白コーデ好きだもの」
 乱暴な説を振りかざし、辻本は傾いた道を軽々と行く。両脇に並んでいるのはほとんど服屋のようだ。
 朔夜は外に陳列されているシャツの値札を、何気なくひっくり返す。
 九〇〇〇円。見るなりすぐに手を離した。予算は一万円しかないのに、シャツ一枚でこんなにするなんて。
「それは新品ですよ。この辺りいろんなお店があるから」
 辻本が慣れた様子で言ってくる。朔夜は何度も頷いて、大人しくこの子についていこうと決めた。
 年季の入った看板の店に入る。ノリノリの辻本に渡されたのは白いセーター。朔夜でも袖で手の甲が隠れるサイズ、多分メンズだろう。試着したら襟のV字が深すぎて、年中着ているスポーツ用のインナーが丸見えだった。
 ダサすぎ! と叱られて、次の店で新品の長袖を購入。襟がレースの黒いTシャツ。大人っぽくて、本当に自分が着ていいのかドキドキする。
 今度は落ち着いた雰囲気の古着屋へ。あまり服を買わないなら流行より定番がいいと、千鳥格子のスカートを勧められた。膝がまるっと見えるぐらい短い。渋る朔夜に辻本は、裾が広がっているデザインなら足まわりに余裕があるから太く見えないと主張。ここまで来たら先生を信じて、清水の舞台から飛び降りるつもりで採用。せっかくのミニスカだしその長い脚を見せないと、と言われ、かわいいデザインのショートソックスも買った。
 白のメンズニット(古着一九〇〇円)、レース襟のシャツ(新品二〇〇〇円)、千鳥格子のミニスカート(古着三九〇〇円)、靴下(新品四〇〇円)、しめて八二〇〇円。全身できっちり予算内だ。
「助かった。ありがとう」
「ホントですよ。元カレの今カノにデートのアドバイスするなんて、普通ありえないんですからね」
「ごめん」
 ちょうど昼時。腹も減ったので、辻本が入りたがったカフェに腰を落ち着ける。
 雪枝と行った店とはまた違う雰囲気だ。白い壁に木製のテーブルの色が映えて、おしゃれな家のリビングにお邪魔している気分になる。神宮球場には何度も足を運んだのに、近くにこんなところがあるなんて知らなかった。
 案内された窓辺の席は少し暑い。朔夜はコートを脱いだ後、赤いシャツの袖をまくった。
「君とちゃんと話してみたいって好奇心もあったからさ。確かに無神経だったね」
「別にあなたに何か言われる筋合いありません。あたしは彩人が初めて頼み事なんてしてきたから、手伝ってあげようと思っただけ」
 辻本はテーブルに置かれたメニュー表に目を落としていた。指先はさっきから『一〇〇%オレンジジュース』と『ホットチョコレート』の文字を交互に叩いている。
「両方頼んでもいいよ。おごるから」
 朔夜が言った途端に辻本はメニューを閉じ、朔夜に突き出した。朔夜は苦笑してランチ一覧に目を通す。
 しばらくすると店員が注文を取りに来た。
「ランチセットのハンバーグプレート」
「あたしも同じ。以上で」
「あ、ちょっと待って。あとオレンジジュースとホットチョコレート、一つずつ」
 勝手に付け足したら睨まれた。
 なかなか雪枝のようにスマートにはいかない。
「侑志とはしてません。キスしか。でもあのときはまだあたしのカレシだったから謝りません」
 店員が去るなり辻本が口火を切った。周りにメイクを施した目許は燃えるように激しい。
 朔夜がずっと知りたかったはずの情報。聞いて初めて、本当に知りたかったのはそんなことではないと気付いた。
「辻本さんは、私のことが邪魔?」
 問いは重みの割にするりと滑り出た。
 朔夜さえいなければ、彼女はあのまま新田侑志の恋人でいられた。服屋をはしごするにしても、朔夜相手よりずっと有意義な時間にできたはずだ。
「バカじゃないの」
 辻本がテーブルを強く叩く。続く声は低く据わっている。
「あなたのしたことはもちろん許せない。でもそのおかげであたしは一瞬でも好きな人のカノジョになれたんだから、邪魔とか言って恨めるわけないでしょ」
 思いがけない台詞に、朔夜の喉から笑い声が漏れた。
 なに、と口を尖らせる辻本に、いや、と鼻をかく。
「カッコいいなと思って」
 少なくとも朔夜よりずっと潔い。
 辻本が何か言い募ろうとしたとき、店員が飲み物を持ってきた。朔夜はホットチョコレートの香りに眉を寄せる。ひどく甘そうだ。
「チョコ、あたしで」
 すかさず辻本が片手を挙げた。陶器のカップが辻本の前に、残ったグラスが朔夜の前に置かれる。
「ありがとう」
 朔夜が笑いかけると、辻本はばつが悪そうに目を逸らした。
「袖まくってるし、暑そうだなって思っただけですから。あたしは寒いので。それだけです」
 憎まれ口を叩く割に、辻本は朔夜が勧めるまでカップに触れなかったし、律義に『いただきます』と頭を下げてくれた。
 朔夜は頬杖をついて、ホットチョコをちびちび飲む辻本を見守る。
 侑志が好きになるはずだ。朔夜だってこの子とのデートは楽しい。
「文化祭の二日目、一日目よりウケがよかったでしょう?」
 料理を食べて一息ついた頃、辻本が髪をいじりながらぽつりと呟いた。一瞬目が合っただけなのに、あのときの執事が朔夜だと気付いていたらしい。
 朔夜が頷くと、辻本は触れたら崩れてしまいそうな笑みを浮かべた。
「侑志が怒ってたから。あんな着こなしじゃあなたに似合ってないって。嫌ですよね彼、美映子おばさまの子供だから、意識して勉強なんてしなくても、直したいとこパッて思いついちゃうの」
「あいつズルいんだよ。何でも持ってるくせに自覚ないし、『欲しかったらあげましょうか?』って顔、平気でするんだから」
 朔夜も力なく笑って背もたれに身を預けた。
 わかるわかると同意した辻本の笑顔はさっきよりずっと頑丈で、ひとしきり侑志の悪口を言い合った。
 贅沢者で、気の遣い方が嫌味で、泣き虫で、短気で、意気地なしで。
 勘違いさせるほど優しくて、放っておけないほど危うくて、触れたくなるほど眩しい。
 辻本は、カップにわずか残ったチョコレートを飲むふりで、しきりに目許をこすって笑っていた。朔夜もほとんど溶けた氷に別の雫を足さないよう相槌を打つ。
 やっとわかったよ。
 私が君に会ってしたかったこと。
「また侑志と連絡取ってやって。おばさんも寂しそうだ」
 朔夜が切り出すと、辻本は動きを止めた。
 彼女の感情を一片も逃したくなくて、朔夜は姿勢を正しまっすぐに視線を向ける。
「侑志から君を奪えない。あの子は私の友達を一人も減らさないでくれたのに、君が侑志の友達でいられなくなるのは嫌だ」
 坂野も、琉千花も、友人として仲間として朔夜や侑志の近くに留まってくれている。彼女自身が去ることを望むのでない限り、朔夜は辻本をこの輪から弾き出したくない。
「君は侑志のこと、今でも大事なんだろ。侑志もだよ。私には言わないけど、君を失って傷ついてる」
「だからっ、ちょっとバカなんじゃないですか?」
 辻本の手が震えている。白いカップの中はきっともう空だ。嘲笑だってちっとも上手くない。
「こういうの、嫌とか、そういう、問題じゃ」
「バカでいい。あの子が悲しむよりはいいよ」
 朔夜はメニューを手に取ってドリンク欄を見た。『一〇〇%オレンジジュース』。侑志の父の好物。新田家に常備されている飲み物だ。
 別の文字列を指でなぞる。
「辻本さん。ルイボスティーって好き?」
「え、嫌いじゃ……ないです」
「じゃあ一緒に飲もうよ。私もちょっと冷えちゃったからさ」
 これで相子にしてしまおう。侑志の母の顔なら、お互い潰したくはないはずだから。
 おかわりを待つテーブルにやわらかな陽が射す。今日は一日曇りかと思ったが、少し陽が出てきたらしい。窓に目を向けると、ガラスの向こうに男女二人組がいた。近頃話題のコーヒー店のプラスチックカップをお揃いで持ち、余った腕を組んでゆっくり歩いている。
 辻本は両手を組み、窓の外を行き過ぎるカップルを見送っていた。侑志の茶髪とは違う人工的な色の髪が、目を細めた横顔に揺れる。
「あたし、ちゃんとしたデートってしたことないんですよ。彩人とはいつもあたしの家で会ってて。侑志はずっと熱があったでしょ? 治ったら行こうって話してたのに、そのままだったから」
 朔夜は黙って頷いた。恨み言はいくらでも聞くつもりだ。
 辻本柚葉は、朔夜の目を見つめて右手を宙に浮かせた。
「成功させてくださいね。このあたしが手伝ったんですよ」
 笑顔にはもう翳も雫もない。朔夜は左手で彼女の手の甲を包んだ。本当に大切なものには利き手で触れたい。
 ルイボスティーの香り。ガラスのカップ。綺麗だねと言い合って身をあたためる。
 このお茶が終わったら、君の新しい恋のための服を探しに行こう。